新ひぼろぎ逍遥1128 松浦党の起源を探る ⓲ 「有明海」はなかった 20110701(復刻版)
20250813
太宰府地名研究会 古川清久
「有明海」はなかった
古川 清久(武雄市)20090815
本文は民俗学の延長にある小さな論稿に過ぎませんが、今日、古のものとして誰もが信じて疑わぬ「有明海」という呼称が、実はほんの百年足らずのものでしかないのではないかという仮想から若干の知的探求を行なうものです。
“「有明海」はなかった”などと書くと驚かれる方も多いと思います。しかし、なお、オカシイと思われる方は地図を広げて見て下さい。ここでも、また、びっくりされるはずです。
地図によっても異なりますが、一般に考えられている有明海の認識と、市販されている地図上の有明海の表記が全く異なるのです。
恐らく、皆さんが手にする大半の地図では長崎県島原市(島原半島)と熊本市の間の海は有明海ではなく島原湾となっていると思います。
つまり熊本県宇土市から西に伸びる宇土半島や天草諸島の北に広がる海は島原湾でしかなく、天草(三角)へと向かう国道五七号線から右手に見える海は有明海ではないのです。
実際、地図の成立時期によっても、また、官庁によっても記載がまちまちで、混乱が行政によって持ち込まれているという印象は拭えません。実はこの問題についてふれた本があります。『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)東海大学出版会 です。
多分、有明海沿岸の図書館であればどこにでも置いてあると思いますので、ムツゴロウを表紙にしたこの本をご覧になった方も多いと思います。一九八一年初版で、有明海の珍しい生物を取上げたものです。まずはこの事についてどのように書かれているかをご紹介しましょう。

『有明海』自然・生物・観察ガイド 東海大学出版会
国土地理院は、こう主張する。
有明海というのは、この海の北半分で、南半分は島原湾というべきだ。しかし、その境界については、当院は関知しない。
海上保安庁はこうだ。
この湾は島原湾と呼ばれるべきだ。有明海などというものは、当庁の採らないところである。
辞典類の執筆者は、こういう。有明海と島原湾の境界は、長洲と多比良を結ぶ線である。
そして、生物学者、地質学者も含めた一般国民は、有明海といえば、この大きな湾の入口にある、早崎瀬戸という海峡の内側の水域全部だと思っている。

国土地理院は、一九七九年に「日本国勢地図帳」というものを出している。・・・中略・・・「有明海」と「島原湾」の境界が、どこにあるのか、一行の説明も見出せないのである。
いまみてきたように、国土地理院のこの水域に対する態度は、ひどく及び腰にみえる。その点を、電話で問い合わせたが、
「境界は知らぬ」
という返事であった。電話のことだから、これを同院の公式見解とはみなせないにしても、妙な話である。
海図にも当たってみた。海図は、運輸省海上保安庁水路部がだしている。航海用の精密な図である。一九八一年発行の第一六九号「島原湾」を見てみよう。海図の隅に「有明海」の名は記入されているものの、その示す範囲はどうみても、おおよそ福岡県柳川と佐賀県藤津郡多良を結ぶ線以北としか考えられない。・・・中略・・・
そこで水路部に電話してたずねたところ、
「この水域の名としては、島原湾だけを用いている」
という答えだった。念のために、水路部発行の潮汐表を見て、驚いた。・・・中略・・・ついに有明海のアの字もでてこなかったのである。「海上保安庁に、有明海の字はない」のである。
お分かりになったと思います。意識的か無意識的かは分かりませんが、有明海は消され
つつあるのです。
菅野 徹氏も「ようやく、有明海を見た−と、このときは信じて疑わなかった」とされ
ているのですが、熊本の南、宇土半島の長浜というところで初めて見たものが有明海ではなかったのです。
この一般の意識とのギャップはどこからくるのでしょうか?
私は、生物、社会、理科といった小学校以来の意識やイメージを支えているのが教科書であり、それの元となっている学者、研究者の認識には「島原湾」はなかったからではないかと考えています。現在の教育現場についてまでは調べていませんが、もしも、この世界にまで国土地理院や海上保安庁水路部といった一行政機関の意志が浸透するようになれば、有明海は遠からず掻き消されていくのではないかと考えています。
有明町は消された
もう一つ、皆の記憶から完全に消えようとしているものがあります。言うまでもなく有明町です。
平成の大合併が進められる中、三つの有明町が消えることになりました。
北から、佐賀県杵島郡有明町(現白石町)、長崎県南高来郡有明町(現島原市)、熊本県天草郡有明町(本渡市などと三月に合併)です。佐賀県の旧有明町はもとより、この島原市と合併した旧有明町と天草上島の有明町の存在は、一般的認識としての有明海が正しい事を示すものです。このことについても菅野 徹 氏は書いておられます。
この有明町という町名が地図から消失し、有明海という名さえも抹殺される時が来るのかも知れません。有明海を破壊した農水省の諫早湾干拓事業という犯罪行為や沿岸の針葉樹林化、旧建設省の不必要なダムの乱発も忘れ去られる事になるのでしょうか?
実に慧眼です。残念ながら、私には菅野徹氏の恐るべき予言が現実のものとなったと考えています。


『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (3つの有明町)
有明海と帝国陸海軍
ここで、私が考えている仮説をご紹介致しましょう。既に、HP「有明海・諫早湾干拓リポートT」で書い
ている文書を原文のまま二本再掲載することで換えたいと思います。判断は読者にお任せします(これ
についてもネット上に公開しています)。
2 | 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部 | 20040128 |
7 | 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足) | 20040311 |
2. 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部
さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。このため環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。
簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、「この江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなく、良くは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。
野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)
有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(「杉野は何処・・・」)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったという話を考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。
長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チヂワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。
明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では帝国海軍の水路部でした(陸では陸軍参謀本部陸地測量部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し、艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。
当然ながら、海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうか?)、海軍の大演習は当然といえば当然の話なのです。
山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。
さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題でもあったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は最重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。
「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級将官あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ!」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。
先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は唯物論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定でしたが未だに頂いておりません)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお残っている理由のようなのです。
野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。
興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。
「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p
(20040128)
7. 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)
帝国陸軍の軍神とされた橘周太中佐についてインター・ネットで検索していたのですが、出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に辿りつき、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」を見出しました。これによると銅像建立と橘神社「大正8年2月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。このことによって、2.「有明海という呼称と帝国海軍水路部」の部分的な裏取りができたことになるようです。
なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。
さて、思考の冒険はさらに広がるのですが、九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
しかし、今のところは想像の域を出ません。「不知火海」(しらぬい・かい)も一般的には読めない呼称であることは言うまでもないため、なんでも水路部のしわざと考えるくせがついてしまいました。
(20040311)
ただし、2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部において、
「現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手 な想像をしています」
と、していましたが、最近、これは違うと考えるようになってきました。今は、明治政府のなんらかのセクションが始めに「有明海」を採用し、その後、海の呼称ですから、旧海軍水路部が「島原湾」を持ち込み、戦後、海上保安庁水路部が消し去ろうとしている(消し去った)と考えています。恐らく、国土地理院(旧陸軍測地部)は水路部の顔を立てているだけでしょう。
なお、7.千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)で書いた
「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
については、ほぼ、間違いないのではないかとの思いを深めています。
水路部沿革
・・・明治四年七月二十八日、兵部省に海軍部が置かれ、同年九月八日、同部に水路局が設けられた(兵部省海軍部内条令)。・・・
・・・終戦で海軍は解体し、水路部は昭和二十年十一月二十九日、運輸省に移管され、運輸省水路部となった。・・・昭和二十三年五月一日、海上保安庁が創設されて水路部は同庁の水路局となり、二十四年六月一日には同庁機構改正で海上保安庁水路部と現在の名称になった。
『日本海軍史』第六巻 部門小史下(財団法人海軍歴史保存会)より
有明海という呼称の起源
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです。(…中略…)ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。(再掲)
これは、有明海・諫早湾干拓リポートを書き始めた時の冒頭の論文 1.はじめに(20040126)の一節です。「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」という呼称は「有明海」に付けられていたということについて拙著「有明海異変」でもふれていますが、菅野 徹氏もこのことについて書かれています。
なお、有明海の名は一九一二(明治四十五)年の『帝国地名辞典』(太田為三郎編、三省堂刊)に、筑紫潟の別名としてでているが、・・・ただし、「有明」の名そのものは、天保年間(だいたい一八三〇年代)の地図には、有明の沖としてあらわれている。しかし、わが国最初の百科事典である『和漢三才図絵』(正徳ニ(一七一二)年)にはこの水域に関してなにひとつ記述がない。・・・
東京湾とか有明海とかいう名称は、その概念とともに、かなり新しいものではなかろうか。一八九五(明治二十八)年の地図を見ても、福岡県の地先を筑紫潟、佐賀県・長崎県の地先を有明ノ沖、としていて、まだ、有明海、島原湾、などの名は見えない。
『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)
さて、九州には有明という海がもう一つあります。鹿児島県の志布志湾が別名有明湾と呼ばれているのです(沿岸に有明町があります)。氏は、このことから、
有明海を「ザ・ベイ・オブ・アリアケ」とやれば、前述のように志布志湾と混同されるおそれがある。海上保安庁では、このあたりを勘案して有明海の名を嫌っているのかも知れない。
と、されています。
鉄道唱歌は証言する
“有明海”という呼称を考えていて気付いた事がありました。鉄道唱歌です。明治に作られましたが、鉄道の普及と沿線の風物が歌い込まれ大変に流行った物でしたから、いまだに耳に残っている方も数多くおられることと思います。
言うまでもなく「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」ですが、この第二集山陽・九州編を聴くと、三角線や鹿児島本線では“有明海”という名は出てこないものの、“不知火海”という名ははっきりと歌い込まれているのです(「・・・国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く・・・」)。少なくとも、唱歌が作られた明治三十三年当時の作詞家や鉄道省、地元の認識は八代湾ではなく“不知火海”であったことがこれからも分かります。
ただ、八代海(湾)ではなく“不知火の海”という名称が流通していた事までは分かるのですが、依然として疑問は残ります。「わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里・・・」を聴くと、ここまではまだ宇土半島の北側であり、現在の有明海(島原湾)側の海しか見えないはずなのです(当時は干拓が進んでいなかったために鉄路からの海は現在よりも間近に見えたはずです)。「国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く」となると、当時まで宇土半島の北側の海も不知火の海と呼ばれていた可能性があるのですが、この問題については、まだ作業中ですので、いずれ別稿として書きたいと思います。ただし、今の段階で考えている事を少しお話しておきます。
有明の不知火、不知火の有明
まず、多くの方が“不知火は不知火海に出るもの”と、考えておられると思います。確かに、現在、有明海に不知火が出るという話は聞きません。一般的にも不知火が見えるのは、熊本県宇土半島の不知火海(八代湾)側にある旧不知火町(現宇城市)付近(から)とされています(永尾神社)。
しかし、最近になってどうもそうではなかったということにようやく気付きました。
元々、“有明海”も“不知火海”と呼ばれていたと言う話をどこかで聞いた事があったためですが、ただ、今はそれがどのような意味だったのかは出典も含めて辿れません。
しかし、有明海沿岸を走り回る日々が続くと、幾つかの地名にその痕跡がある事に気付きます。
一つは福岡県大牟田市のJR大牟田駅に近い不知火町です。ここに熊本県不知火町からの組織的移住があったという話は聞きませんから、少なくとも百年、二百年は遡れる地名ではないかと思われます。
地名としては、熊本県旧不知火町の外にも、旧小川町などに“不知火”という字名が見られます。
もう一つは、“長崎県諌早市からも不知火が見えたという話があるのです。一例をご紹介しましょう。「あとで話していただく木下良先生(元国学院大学教授:古川註)は、諫早の御出身ですが、不知火は諫早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あったと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生まれかえる火だったと思うのです。」
これは熊本地名研究会が一九九五年に行った第10回熊本地名シンポジウムの資料集「火の国の原像」に掲載されている民俗学者谷川健一(日本地名研究所所長、近畿大学教授=当時)氏による基調講演「火の國の原像」の一節です。
これを読むと、諫早湾干拓に流れ込む本名川に掛かる橋が不知火橋と命名されているの
も不思議ではなくなります(諫早の市街地から諫早湾に注ぐ本明川に掛かる県道124号大里森山肥前長田停車場線の大型橋が不知火橋と呼ばれているのです)。
さらに、一つは、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれている事です。
ついでに言えば、旧制福岡高校(現九大教養部)で歌われていたものにも「不知火の筑紫の浜に・・・」とあったようですし、私の地元にある佐賀大学の学生寮が“不知火寮”でもあったのです。このように有明海沿岸にも不知火に関する地名などの痕跡がある事を考えると、有明海も、かつては“不知火の海”と呼ばれたか、少なくとも“不知火の見える海”であったのではないかと思うのです。
そもそも、景光天皇の火邑伝承は現在の不知火海(八代海、湾)としても、考えてみれば、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです。
万葉集の白縫
「万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです」としました。しかし、誤解がないように断っておきますが、「不知火」という漢字表記が記紀や風土記にあるわけではないのです。筑紫にかかる枕言葉の表記は「之良奴日」「剘羅農比」「白縫」などですが、この“ヒ”音はいずれも甲類であり、“ヒ”音でも乙類の「火」「肥」ではないのです。この法則性を絶対化すべきかどうかの問題はあるのですが、単純に“シラヌヒ”“シラヌイ”を不知火とするには無理があるようです。ただ、甲類、乙類の使い分けは後には消え、混用されていったのではないかとする事は許されるはずです。従って、「白日別」とされた筑紫が、宇土半島北側でも見えていた不知火と重なり、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったかのように様々な痕跡を残したのではないかと思うものです。
立石巌氏の「不知火新考」によると、江戸時代の僧侶が「不知火」という表記をしたことが始まりとされています。
55. 熊本〜宇土 大和田建樹(作詞)
わたる白川緑川
川尻ゆけば宇土の里
国の名に負う不知火の
見ゆるはここの海と聞く
さて、長々と脱線しましたが、どう考えても鉄道唱歌に有明海が歌い込まれていないはずはないと考えました。一つは、現在の長崎本線は昭和十年頃新たに建設されたものであり、鉄道唱歌の時代には、佐世保線(肥前山口〜佐世保)と大村線(早岐〜諫早⇒長崎)が長崎本線だったのです。このため、車窓に出てこない有明海が鉄道唱歌に歌われないのは理解できそうなのですが、どうもそうではないようなのです。理由は極めて簡単でした。鉄道唱歌が作られたのは一九〇〇年(明治三十三年)なのです。そうです。前述したように、この時点でも「有明海」は、まだ、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」・・・など呼ばれているのです。実は、それも鉄道唱歌が証明してくれていました。
68.
あしたは花の嵐山
ゆうべは月の筑紫潟
かしこも楽しここもよし
いざ見てめぐれ汽車の友
速さを誇る旧鉄道省は京都から長崎に半日余りで到着すると唄いたいのですが、ここで分かるように、有明海は“月の筑紫潟”と歌われているのです。つまり、有明海という呼称は、やはり、わずか百年足らずのものなのでした。
話がかなり輻輳しましたが、結局、明治の中頃までは有明海の北部が筑紫潟と呼ばれ、宇土半島の南北、つまり、有明海南部と現在の不知火海が“不知火の海”と呼ばれていた。
さらに遡れば、現在の有明海と不知火海を併せた“九州内海”とも言うべき内湾全体を“不知火の海”と呼んでいた時代があったのではないかと考えるのです。

川尻と宇土の位置関係をご覧ください 左は有明海ですね
では、皆さん。このような百年も立たない“有明海”という呼称は“消えてしまっても構わない、仕方がない事だ”とお考えになるでしょうか?
少なくとも私は嫌です。なんとも惜しい事だと思います。
それも含めて、皆さんに考えて頂くことにして、最後にもう一つ、菅野徹氏の文章を引用して本稿を終わりとします。
だが、有明海は、重要な海で、その名をおろそかにすることはできないのである。
同じく『有明海』自然・生物・観察ガイド

有明海の出口、島原半島早瀬崎灯台
おわりに
『夜豆志呂』一六〇号に掲載された田辺達也氏の「口之津へ」という紀行文を読ませて頂きましたが私の名前が数多く飛び出してきました。さらに口之津の史談会での当方の講演“「有明海」はなかった”についてもふれてありましたので、ご無沙汰していることもあり、今回、この一文を寄稿させて頂きました。
また、「ご無沙汰していることもあり」ともしましたが、実は、二〇〇八年年頭から久留米地名研究会の結成に動きました。一年半余りで月例研究会を20回行い、現在、会員も50名を越え、どうやら60名も視野に入ってきました。特に嬉しいことは、この会が、教育員会や公民館、地元郷土史会といった既存の組織に頼ることなく結成され、ありがたいことに若い世代も取り込み、多くの研究者レベルの参加者を得たことです。現在はさらに太宰府地名研究会を準備中であり、筑前、筑後両領域にささやかな拠点を用意しようとしています。既に会の運営も軌道に乗ったことから、今後とも寄稿させて頂きたく思っております。
本稿は「有明海」というごくありふれた地名に焦点をあわせたものですが、結論は意外にも大変驚くべきものになってしまいました。
この問題の検証も含め、今後は、八代海と不知火海というテーマにも踏み込みたいのですが、なにぶん遠方からの調査でもあり、地元の皆さんのご協力を頂ければと密かに期待しております。
誤りや異説、類似地名などの情報をお寄せ下さい。ariakekai@ezweb.ne.jp


にお読み頂き有難いと思っています。
















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