2026年06月01日

新ひぼろぎ逍遥1131(前) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❹ 続新田=二田

新ひぼろぎ逍遥1131(前) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902

太宰府地名研究会 古川 清久


1092 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❸ 新田=二田からの続き


日光東照宮はともかくも、世良田東照宮とか仙台東照宮と言ってもご存じない方が多いと思います。

その前に、東照神君家康公を祀る日光東照宮は神社と言えるのか…との反論が飛んできそうです。

しかし、そう言われれば、乃木希典や東郷平八郎を祀る神社は神社ではないのか…と不毛な議論をせざるを得なくなるのです。

この問題を強調し過ぎると、結局、列島の神々とは西洋の一神教の絶対神ではなく、天照だろうが神武だろうが所詮は普通の生きる人間であり、本来は自らの生まれた土地の先祖神としての産土神こそが自らの先祖、祖先神でしかなくそれを崇めているのだと再認識するのです。

つまり、列島の神々とは、所詮、各々の民族、氏族の先祖神でしかないのです。

問題は、神社が生き延びるために世情や政情に併せ、何時しか祭神の入れ替えが行われている事があまりに多いため(これは年から年中神社を廻る者にとっては半ば常識なのですが)、結局、多くの民族が逃げ込んできた列島には驚くほどの多くの民族が入っているにも関わらず、間の抜けた単一民族国家などと本気で思い込んでおられる方が多いため、この観点がなければ、神社探訪とはただの風景を見るだけの観光旅行に成り下がってしまう事になってしまうのです。

そこでご紹介したいのが、より徳川の一族の先祖神を改めて考えさせる神社です。

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以下、同社の由緒書きをお読みください。徳川家のルーツが見えてきます。

実はウィキペディア以降の当方のブログでそれが分かって頂けるかも知れません。

以前から申し上げている筑豊の物部氏の後裔の可能性があるのです。

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以下世良田東照宮で検索した ウィキペディア(Wikipedia)』20250210  20:35による

世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮1つである。1617元和3年)に駿河国久能山久能山東照宮)より下野国日光日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。

歴史[編集]

この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ[要出典]、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。

世良田東照宮は寛永16年(1639)ごろ、長楽寺の再興に取り組んでいた天海に、3将軍徳川家光が命じて創建させたものであるという。当時家光は日光東照宮の造替を行っており、徳川秀忠が造営した日光東照宮奥社の社殿を世良田に移築したとされている。寛永19年(1642)ごろから工事を開始し、本殿の新築、神廟(本地塔)・拝殿・唐門の移築を完了し寛永21年(1644年)1011日に遷宮が行われた[1]。遷宮時には後水尾上皇の勅額の下賜を受けた[2]

江戸時代には神領200石を与えられ、歴代将軍によってしばしば修繕が行われた[3]。修復にあたり参拝する幕府役人は、御目身以上は拝殿廊下、御目身以下は拝殿階下で拝礼した[4]

1875明治8年)[要出典]神仏分離によって長楽寺から分離し、1877(明治10年)に村社、1879(明治12年)に郷社に列格した[5]


この問題については以前から関心をもっていました。

 それは、蘇我氏と物部氏の闘いの主戦場は九州であり、その結果、筑豊に展開していた物部25部族の多くが飯塚市から響灘に流れ出す遠賀川の河口から対馬海流に乗り日本海を北上し北陸から越国に移動したのではないかという仮説を立てていました。

 山陰から但馬への調査から更に北の日本海沿岸に目が向いたのは、そのフィールド・ワークが終わり、もっと奥の東日本の日本海沿岸から調査を始めようと青森〜岩手への調査に踏み込んだのが十年程前でした。

 柏崎、刈羽から新潟の彌彦神社に移動中、カーナビに物部神社の存在を見出し、急遽、ハンドルを切ったのが、西山町(田中角栄の出身地ですね)の二田物部神社との出会いでした。現在、アメブロでこのブログが検索に引っ掛からないのは(正確には順位を下げ検索上位に上がらないようにしているのでしょう)、アメブロの体質で、結果、離脱したのもそういった背景があったのですが、北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した”と入力すれば、完全には消されていませんので興味を持たれたら試してみてください。以下も関連するブログを幾つか挙げておきます。


ひぼろぎ逍遥スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

ひぼろぎ逍遥

584

高知県の物部川流域にひそりと息づく仁位田神社

295

北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

459

二田物部のルーツは対馬の仁田だったのではないか?


神代から中世まで


何故、今回、不慣れな源家とか北条氏とか関東武士団というものに拘わっているかと言うと、関東一円に展開している神社群の多くの中に、筑豊から放逐された物部25部族筆頭としての天神ニギハヤヒ(山幸彦)と結びついた八咫烏、橘一族、石清水八幡宮の強い影響力を感じたからでした。

まずは、鎌倉政権の象徴とも言うべき鶴岡八幡宮の由緒書きをお読みください。


無題.png始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。 その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。

東国社会の中心的存在へ             鳥文字八幡宮

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源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。

幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。

無題.png鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。

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その証拠とまで言えそうな八幡宮が物部氏の本拠地筑豊最深部田川郡香春町に存在します。由緒によるとこちらが古いのです。物部25部族と鎌倉政権、石清水八幡宮=橘一族との関係は明らかです。

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鶴岡八幡神社 カーナビ検索福岡県田川郡香春町中津原404

仁平2(1152)10月、 鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原の館に移り、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め・・・ 


鶴岡八幡宮の歴史は、源頼朝公の祖先・源頼義(みなもとのよりよし)が、由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。 その後、1180年に源頼朝公が現在の場所に遷して、現在の鶴岡八幡宮の基礎が造られました。鶴岡八幡宮は神社としてだけでなく、鎌倉の町づくりや文化発信の拠点としての面も。2024/10/31 無題.png による


石清水八幡宮も伊勢神宮も九州王朝を支えた橘一族(その本体は雲南省の昆明、大理から亡命してきた白族)が祀ったもので、現在は京都の下賀茂神社に象徴される有力な人々の象徴と考えれば大方間違いはないだろうと思います。対して大陸でも漢族との闘いで協力した多氏(阿蘇氏、黎族)は天草の苓北町から白川を遡上し阿蘇でも阿蘇谷と呼ばれる外輪山北半に入っています。

この白族が最初に拠点としたところは熊本市の現千葉城町(後に千葉氏が入っているからです)熊本の表記は加藤清正が隈を熊に変えたもので、この隈地名(雑餉隈…)が九州の南にも広がります。主要には扇方に北部九州の佐賀、福岡、大分一帯に広がっている事でお判り頂だけるでしょう。

 この雲南省から亡命してきた二派が日本の開拓の主力となり日本人の骨格となったのですが、その後も千年近くは数十派の多くの渡来系氏族が入り列島にあまねく広がっていったのです。

 その中でも特に白族は先行して博多に亡命していた呉の太伯王の末裔から政権運営に協力して欲しいとして呼ばれ、熊本から福岡に移動しているのです(百嶋由一郎の言)。

 呉が滅ぶのが大雑把にBC500年ほどとすると、雲南省から海南島南西域を経由して亡命した二つの民族が列島に移動するのがBC300年辺りだったと思われます。

この話は別のテーマですので、先行ブログやパワー・ポイントをお読み頂くとして、先に進みます。



posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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