新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく
20250903
太宰府地名研究会 古川 清久
本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであっても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバーでもある古川 茂様に酒の話をお願いし、時間を余したら後はお願いしますと言われたことから、当初は、脊振村の広瀧で許された後の川上 猛の福岡市早良への移送(逃亡ではなく管理された収監)ルートを探るトレッキング(ハイキング)へのお誘いの話をしようと思っていたのですが、茂様の酒の話に水を差すのは良くないと思い直し、急遽、前日から書き始めたのがこの話でした。ここでは触りというか概略だけをご紹介することにします。
一方、難 升米はどなたもご存じの卑弥呼が魏に送った外交通詞(使)であり、渡洋航海が出来る上に、政治情勢に精通し、なおかつ交渉能力を持ったエリートであった事が想像できます。
まず、五島灘、玄海灘、響灘、周防灘、播磨灘、熊野灘、遠州灘…と灘と難所の危険な海だから三水へんを加え、難しい海と表現しているのですが、古代にはその意味は今以上だったはずです。〇〇灘の分布については、海上穂保安庁水路図誌記載の灘をご覧ください。
古代に於いてそういった能力を持った人物とは、神産巣日、神皇産霊、神魂=博多の櫛田神社の大幡主(神代史ではカミムスビとしますが)であり、実際にはその若き後継者であった八咫烏以外には考えられないのです。
酒の話に繋ぎますが、もしも、古代に於いて、余った大量の穀物を運ぶ必要が生じた場合、どうしますか、船で運ぶ以外にはないのです。数日を要するとすれば、雨も降るし、飛沫も有る訳ですから、当然、船倉に入れることに成ります。また、復元力を齎すにはコンテナ船の様に甲板に積み上げることは危険極まりがない訳で、バラストとしての穀物は最適であり、それ以外の方法は取れないのです。
そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。
つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油をそして酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあ
ることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。

まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。味噌もですが、味噌は今でもローカル色が強く、民俗学の対象として今後に残しておきます。酒造メーカーで衝撃的なのは、八咫烏=橘一族の本拠地の伊勢(百嶋由一郎の言を思い出します)の酒造メーカー株式会社宮ア本店をご紹介してお
きましょう。勝手な思い込みながら八咫烏直系の一族でしょう。

さて、灘の生一本の神戸市灘区に、何故、灘高校が創られたのでしょう。酒造メーカーと言うものは、土地の名士であり富豪であったことはご存じの通りです。と言うよりも、配下の政治家を操り、社会の方向性と将来の国防、貿易、殖産興業をさえも考える集団だったのです。彼らは、必要が有る時には愚かな権力者を跳ばす事も厭わず(今もそうですが)独自の外交を迫られ、いつでもそれを実行できる人材を養成しておく必要性を感じていたからこそ優秀な人員を育てるためにエリート養成のための高校さえも自ら創り出していたのです。ここで、幾つかのリポートをお読み頂けるようにブログのタイトルをご紹介しておきます。
非常に面白いので、亀甲紋をロゴとする醤油メーカーをもう少し出しておきます。以下も、亀甲紋章の醤油醸造メーカー

伊万里の方に馴染みがあるのが川東の西岡醤油ですが、これも亀甲紋の中に十一が入っていますが、意味は分かりません。

キッコ―紋の醸造メーカー追加コレクション



やり始めたら多すぎて切りが無く、キッコーマンは元より、改めて亀甲紋章絡みの醸造メーカー(酒、醤油、味噌…)が非常に多いことに気付きました。上の右の三つは山形ですが、以前から八咫烏系、カミムスビ系の国だと思っていました。図らずもそれを裏付けてくれたのでした。このように醸造家は地域の豪族です。醸造業者が地域の政治的な差配をする隠然たる力を持っていたのです。
これはエピソード的ですが ご紹介だけしておきます。ペルーにも日系移民がかなり渡っています。恐らくその関係者でしょうが醤油(シジャウ)を造っているようです。味覚、食味、嗜好…と言うものがいかに強いかが分かります。始めは気にも留めていませんでしたが、驚くべきことに亀さんまでいたのです。亀甲マークが亀の尻尾になっていますね(右下)。浦島太郎もびっくりでしょう。そして、大幡主も実は浦島太郎なのです。

宇佐の川上神社の異常な数の南姓は若しかしたら八咫烏ではないか
宇佐の駅館川の金屋の川上神社を参拝したのも10年も前でしたが、ここの氏子には8割近い南姓の方が居られるのです。そして、この神社が和歌山の川上神社 上社、中社、下社になっているのではないかと考えたのでした。そして、南姓も難升米、灘高校も、灘の生一本も、南 沙織 も懸案だった紀伊の「丹生川上神社中社」も廻船業、醸造業も全てが私の頭の中で一瞬に繋がったのでした。
新ひぼろぎ逍遥
747 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう” |
746 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上神社とは何なのか?” |
745 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空への哀愁” |
744 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街” |
743 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か” |
742 | 宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社” |
「私兵特攻」の宇佐航空隊の川上神社は南さんが集中する八咫烏系氏族の根拠地
柳ヶ浦も旧帝国海軍航空隊の基地があった場所で、昭和20年8月15日の終戦の詔勅が出る直前に沖縄に集結していた万余のアメリカ海軍機動部隊に対して20数機彗星などの特攻機が飛び立ったのでした。松下竜一が書いた「私兵特攻」でも、鹿屋の第五航空艦隊司令長官宇垣纏官揮下の中津留大尉外多くの若き勇敢な海軍将兵が我々の為に命を投げ出した事が書き留められています。
玉音放送後の特攻については、私のブログも含めネットにはいくらも出てきます。
この川上神社の駅館川を挟んだ対岸にあるのが宇佐空(柳ヶ浦海軍航空隊基地)です。上の図でも
戦時下に急ごしらえで造られた基地が分かりますね。※ 右端の方は人間の質が全く異なります。

8月15日に日付が変わった頃、宇垣は「彗星」5機で沖縄方面の敵艦船を攻撃するよう、第五航空艦隊司令部の当直参謀であった作戦参謀・田中正臣少佐(兵59期)に命じた。長官自らが特攻するつもりではないか、と直感した田中作戦参謀から報告を受けた第五航空艦隊先任参謀・宮崎隆大佐(兵52期)が宇垣に真意を尋ねると、宇垣は下記のように答えた。「俺が乗って行くのだ。すぐに攻撃準備を整えてくれたまえ。」宮崎先任参謀は宇垣に再考を求めたが、宇垣は肯んじなかった。宮崎先任参謀によると、宇垣は「普段は見せない穏やかな表情」だったという。第十二航空戦隊司令官・城島高次少将(兵40期同期生)、第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将(兵46期)の2名が駆けつけ、「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとか取り止めることはできないか」などと繰り返し翻意を促したが、宇垣は「正式な停戦命令は受けていない。戦闘はなお継続中である。」[「武人として、俺に死場所を与えてくれ。必勝を信じて喜んで死んで行った多数の部下のもとへ、俺もやらせてくれ。」[とその決意は揺らぐことはなかった8月15日の夜明け後、宇垣の意志が固いと判断した宮崎先任参謀は、作戦命令を起案・発出した。

同社を参拝したのはもう十年近く前になりますか、直ぐに、これほどの「南」姓の集積地は無いはずです。推定でしかありませんが、瞬間的に、九州王朝の通使として魏に派遣された難升米の「難」は「南」と置き換えら、近畿大和朝廷の時代に、本拠地を移したのではないかと言うイメージが湧いてきたのでした。難は灘高校、灘のなど生一本、奈多神社、奈多宮、玄界灘…以下周防灘全国の灘と呼ばれる海湾名にまで展開しているのです。そもそも渡海し交易を行うには外国語に通じ、潮を読み、天文観測から、歴にまで通じていなければならず、時として国家からも独立して大手商社が人材を養成し確保し言わば東インド会社の様な存在にまで成長する必要性が有るのです。この宇佐の南姓の集積地は、大幡主〜八咫烏…といった古代の外交を担った人々の集積地だった事が分かってきたのです。


新ひぼろぎ逍遥
1002 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ❽ |
1001 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➐ |
1000 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➏ |
999 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➎ |
998 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ❹ |
997 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➌ |
996 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➋ |
995 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➊ |
近辺では、伊万里川河畔川東の西岡醤油も唐津の宮島醤油も臼杵のフンドーキン醤油も松浦川や臼杵川の河口に工場がありますね、それは車や道路がなかった時代には船で運ぶしか方法がなかったからです。塩や味噌は馬の背に積んでも運べますが、液体の醤油や酒になると容器の重量だけで牛馬による搬送が出来なかったからなのです。
このため、阿蘇には醤油が届かず、阿蘇の田楽(味噌田楽)が名物となり
、大阪でさえも味噌おでんが関東風醤油おでんが普及するのは8〜90年前からだったのです。だから今でもミツカンのおでんの素には関東煮(ダキ)と書かれているのです。大阪では味噌おでんが醤油のおでんに代わるのは戦後なのです。だから関東煮(カントダキ)と呼ばれ東京の哲学科の学生が驚いたという話があるのです。


以下、丹生川上神社のご由緒について (中社様HPより)時期が時期だけに偽装され罔象女神となっていますが、八咫烏の神社ですね。
当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨師の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百三十年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。


にお読み頂き有難いと思っています。
















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