新ひぼろぎ逍遥1135 松浦党の神々 ❷ 松浦党が稲荷を祀る訳 “松浦党と稲荷神社”
20250906
太宰府地名研究会 古川 清久
まず、松浦党のエリアの地図五枚をご覧ください。初めは唐津市からです。



一概には言えませんが、大村市の稲荷社と比較すると、松浦党のエリアに稲荷社がかなり多いことにお気づきになると思います。
勿論、これらは11世紀以降祀られたものだと思うのですが、今も非常に分かり難いお稲荷様が何者であるかが見えて来ると恐らく多くの皆様は不思議に思われるはずです。
それほど、藤原(阿蘇氏=多氏)によって創られた歴史が如何に捻じ曲げられているかが分かってくるはずです。
持って廻った話をしましたが、簡単に言えば稲荷様は伊勢の外宮様=豊受大神=宇迦之御魂神(ウカノミタマ)=伏見稲荷とも同体で、須佐之男(アメノヒボコともスサノウと呼ばれる新羅の王子)と罔象女神(ミヅハノメとも呼ばれる大山祇の長女)の間に生れた辛国息長大姫大目命(アメノウヅメで猿田彦の妻)なのです。少なくも、畿内の京都でもない南九州出身の女性なのです。
驚かれる方が大半だと思いますが、これが故)百嶋由一郎が伝えた事なのです。


石貫神社 カーナビ検索 西都市大字三宅4615番地ロ号
古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年と伝え、一千有余年の社歴を有する古社である。その社地は創建時の記録「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山槵木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝える。往時は社殿、境内、宏荘森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の「古帳神社知行目録」によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり更に神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)四月、同十一年五月、天文三年(1534)四月、同年十二月にわたりて、神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社領は没収された。明治初年神社明細帳制定に際してもまた登録を脱漏することになった。明治十四年十二月二十七日付明細帳編入を出願し昭和十六年四月無格社となった。
境内神社として、赤井神社(祭神・木花開耶姫命外一柱)、門神社(祭神・岩間戸二柱之神)、二宮神社(祭神・児屋根命、太玉命)、風神社(祭神・級戸神外四柱)、篠貫神社(祭神・磐長姫命)がある。

宮崎市も稲荷神社が異常なほど多いことがお分かり頂けると思います
「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山槵木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝える。
からは、織田徳川連合軍と激突した賤ケ岳の合戦とか姉川の合戦で知られる浅井、朝倉の朝倉氏の素姓を読み取って頂きたいのです。
ちなみに、先ほどの石貫神社の石貫地名が熊本県玉名市の新幹線玉名駅付近に石貫地区があり、石貫穴観音横穴墓があるのです。
更に言えば、この阿佐久良山が熊本県益城町福原に移動し朝来山と呼ばれているのです。更に、益城町と福岡県朝倉市の甘木(これをウマシキと読みなさいと言ったのも故百嶋由一郎氏でした…益城マシキと甘木(ウマシキ)が対応しているのです)、これらは更に北上し、福岡県飯塚市の馬敷(ウマシキ)にも成っているのです。それは全国に30以上の朝倉、朝来地名になっているのです。
つまり、大山祇系(その実体は東西分裂後に南北で分裂した南匈奴金海金氏)つまり、漢帝国と激突したトルコ系匈奴(呼韓邪単于に贈られた三大美女の王 昭君系氏族)である事が分かってくるのです。
だからこそ、加藤清正は豊臣秀頼を熊本城に呼び込み徳川氏と一戦交えようとしたのでした。
それが、熊本城の最下部に昭君の間が置かれた理由なのです。それは同時に、秀頼の母ネネがその系統の高貴な人物だったと解るのです。
勿論、その入り婿となった秀吉、藤吉郎も猿と貶められていますが、それは徳川家が恐れていたから生じたプロパガンダなのです。

AIによる概要
宮崎県西都市にある「阿佐久良山(あさくらやま)」は、古くからの歴史を持つ石貫神社(いしぬきじんじゃ)に伝わる地名・伝承地です。主な情報・関連スポットは以下の通りです。
阿佐久良山と石貫神社(西都市)
由緒と地名:石貫神社の由緒記「日能若宮元元由来記」によると、大山祇命(おおやまづみのみこと)が降臨した「阿佐久良山槵木原(あさくらやまくしきばら)五百世山(いおせやま)」がここであるとされています。

朝倉は朝来と同じ意味で、福井県の朝倉義景も元は兵庫県但馬の養父市に居た訳で、但馬の一番南の播磨との国境に朝来市が在り、天空の城も在るのです。
この一族もトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂で朝鮮に避退した王 昭君の一族)と思われます。
AIによる概要
淀殿に特定の家紋はありませんが、ねね(高台院)の生家である杉原家の家紋は「沢瀉紋(おもだかもん)」です。淀殿が使用した家紋は、実質的には豊臣家の「五三桐紋」でしたが、ねねの生家が使っていた沢瀉紋を豊臣秀吉が最初に使用していた時期もあったとされています。
ここでは菊池氏も西都原から西米良を逃げ城として西九州ルートで北上したトルコ系匈奴だったとお考え下さい。ただ、南北朝争乱期に宮方に朝敵熊襲が居ると宣伝される事を警戒し、家紋を本来の日脚紋から二枚の並び鷹羽紋に変えているのです。

最後に、百嶋由一郎が残した最終神代系譜から稲荷様の位置付けをご覧になって下さい。

つまり、松浦党でも中心的勢力であった久の末裔は新羅の王子様のスサノウと同じく朝鮮半島の金海金氏(トルコ系匈奴)の間に生じた人達だったのです。だからこそ大山祇の長女ミヅハノメの娘である伊勢の外宮様=豊受大神と同体の伊勢稲荷を祀ったのです。
ただ注意すべきはなのは、トルコ系南匈奴の血を持つもそれを担いだのは多くの海人=倭人であり博多の櫛田神社の大幡主との連携があったからなのです。これが松浦党周辺の稲荷社の意味です。


にお読み頂き有難いと思っています。
















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