2026年06月18日

新ひぼろぎ逍遥1137 松浦党の神々 ❸ 佐世保市 飯盛神社 “松浦党と稲荷神社”

新ひぼろぎ逍遥1137 松浦党の神々 ❸ 佐世保市 飯盛神社 “松浦党と稲荷神社”

20250907

太宰府地名研究会 古川 清久

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多くの稲荷神社の中から佐世保市の愛宕山の麓に鎮座する同社を選んだのは、麗峰に惹かれたからでした。福岡市西区と糸島市の境を成す飯盛山に伊弉冉(イザナギと別れたイザナミ)が祀られていたからでした。


現代文訳

日本神話・神社のまとめ 第五段一書(十)
それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず
「別れましょう」と言いました。

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そもそも伊弉冉(イザナミ)とは金山彦の妹であり、伊弉諾(イザナギ)と別れた後、博多の櫛田神社の主神大幡主(実は造化三神の神産巣日、神皇産霊:ミムスビ)の妃となり、現在、紀無題.png州は熊野那智大社のクマノフスミ様となっており、夫である大幡主様は熊野速玉大社の主神に成られているのです。

それを裏付けるかのように、飯盛神社の背後の愛宕山山頂には愛宕将軍地蔵尊=金山彦が祀られているのです。福岡市の方は皆さん良くご存じですが、博多の姪浜の愛宕神社は金山彦を祀っていますね。

 ここで少し気になるのは、飯盛山は針尾島近くにも飯盛山が在る事です。これは今後の課題です。

一口に松浦党と言っても、政情の変化によって相互に対立が生じ離合集散から何度もの軍事的衝突までが生じています。

このため、決して一枚岩だったとは考えない様にしておくべきなのです。本流とされる松浦氏と分家である平戸松浦氏なども象徴的で、当然にもそれらの対立は、多くの神社の祭神にも色濃く反映されているはずなのです。では、ここからは、同社の公式HPに目を向けましょう。

無題.png先ずは、神紋からして異なり梶紋になります。

ご由緒

鎌倉後期、後醍醐天皇の御代の元徳元年(1329年)に紀伊國熊野三所権現の分霊を小野町の山に勧請し創建したのがはじまりと伝わる約700年の歴史を持つ古社です
 安土桃山時代の天正八年(1580年)に現在地付近に遷座、飯盛大権現と称しました。 以降平戸藩より崇敬を受け相神浦の総氏神として親しまれてきました。中略

書物には創建不明とされていますが、当社の主祭神の由緒によると元徳元年(1329年)に、和歌山県の熊野三所権現の分霊を、小野町の山に熊野権現として創建されたのがはじまりとされています。時は流れて戦国時代、宗家松浦党(本家筋)と平戸松浦(分家筋)との間で戦がありました。宗家松浦党は、当時の近代兵器「鉄砲」を要する平戸松浦党に、臆することなく勇猛果敢に戦いました。親子二代にわたり戦いましたが、終には和睦となりました。その後、天正8年(1580年)に小野町にある熊野三所権現からご神体を遷座し、現在地付近に飯盛大権現を建立しました。以降、平戸藩から崇敬を受けてこの地域の総氏神として親しまれてきました。明治4年には、社号を飯盛神社と改名し、明治39年には現在地に鎮座地を遷し今に至ります。


 こちらは一応、伊勢〜熊野に掛けて繋がる南朝方の人々だった様ですね。では祭神を見ましょう。


伊弉諾尊 伊弉冉尊と対をなす男の神様。夫婦の神様であり、日本の親神様

伊弉冉尊 伊弉諾尊と対をなす女の神様。夫婦の神様であり、日本の親神様

速玉男命 (縁切り 女人守護)はやたまおのみこと

泉津事解男命(厄除け 有言実行)よもつことさかおのみこと伊弉諾と伊弉冉が問答を交わしたときに発した言葉から生まれた神様

大山咋命(お酒の神様)おおやまくいのみこと京都の松尾大社から分霊されたお酒の神様

素戔嗚命(疫病除け 良縁)すさのおのみこと

松浦丹後守政公(産業発展 土地守護)まつうらたんごのかみまさしこう

松浦丹後守幸松丸公(産業発展 土地守護)まつうらたんごのかみこうまつまるこう

迦遇槌命(火災除け)かぐつちのみこと


敬愛する玄松子様も悩んでおられます。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。

掃きはらったことや、事解の神名から事態を収拾させる神、絶縁の神と思うが、よくわからない。

一言主神の別名を言離神(ことさかのかみ)ともいい、事解男神と似た神なのだろうか。


松浦丹後守政公(産業発展 土地守護)


松浦 政(まつら まさし)は、戦国時代武将肥前国大智庵城主。父・松浦定延徳4/明応元年(1492)に没すると、15歳で松浦氏嫡流である相神浦松浦氏の家督を継ぎ、相神浦有田今福、黒島、鷹島、佐世保を領有した。明応3年(1494)に嫡男・が誕生した。

明応7年(1498年)、政は狩猟の際の諍いから、家臣の山田四郎右衛門から怨まれることとなり、出奔した四郎右衛門・文左衛門兄弟は、平戸松浦弘定の元へ行き、自分達が案内者となる代わりに政の討伐を依頼した。一度、定によって自領を追われた弘定にとっても、恨みを晴らす好機であり、この申し出を了承し大智庵城攻めを決定した。同年112日、弘定と松浦興信父子は弘定の弟・大野定久に軍を率いらせ、四郎左衛門の案内で間道から大智庵城を急襲。城は一夜で落城し、政は脱出を図るも叶わず自刃。妻と子の幸松丸(後の親)も平戸へ人質として連行され幽閉された[1]

松浦政 (相神浦松浦家)で検索した ウィキペディア・データ20250907 15:22 による

 

松浦丹後守幸松丸公(産業発展 土地守護)


 無題.pngこの人がいなければ佐世保の戦国時代はおもしろくない。宗家相神浦 第16代当主。幼い頃、平戸家による大智庵城落城で父親を亡くし平戸へ人質として捕らわれたが、家臣により助け出され有田の唐船城で当主として育てられる。
 相浦の愛宕山に
飯盛城を建て復活を遂げる。その後20年余りにわたる平戸の攻撃に耐える。数と兵器で圧倒的に勝る平戸軍の攻撃に対して何度も勝利しており、よほどに部下の信頼が厚く領内の結束が堅かったのではないだろうか。また妻の多美野とは仲むつまじく暮らしたようで、80歳で宗金は死去するが、その6日前に多美野も死去している

複数検索で

明応3年(1494年)、松浦氏嫡流・相神浦松浦氏当主・松浦政の嫡男として誕生。同7年(149811月2、父・政が平戸松浦氏・松浦弘定の攻撃により大智庵城で自刃。幸松丸は母・南殿と人質として平戸へ連行され幽閉される。同8年(1499)、旧臣達が一計を案じ、母と共に幸松丸が今福歳の宮に参詣したところを救出、幸松丸は有田唐船城へ入城し旧臣達の支えを受け成長していった。永正9年(1512)に元服。名を親と改め旧領の奪回を目論み、相神浦で兵を上げ大智庵城や武辺城を奪回し、松浦弘定への対抗勢力となったが龍造寺家兼の斡旋を受け弘定と和睦する。同12年(1515)、波多興の長女・多見野を娶る。

享禄4年(1531)、叔父・少弐資元の奔走により、室町幕府から平戸松浦氏が今福・有田・相神浦を返還する沙汰が出され、親は旧領を回復した。また、親は少弐氏との関係を強固にするため、資元の子であるを養子に迎える。天文4年(1535)頃、新たな居城・飯盛城を築城した。

一方、平戸松浦氏当主・松浦隆信は親討伐の軍を起こし南進した。天文12年(1543)、隆信は鷹島・今福を攻め、同13年(1544)には飯盛城に攻め寄せる。しかし、要害であった飯森城は防御が固く戦いは一年余りに及んだ。この間に蹂躙された飯森城下や民の窮状を見た親は、有馬氏の仲裁を受け入れ、鷹島を隆信へ割譲し和睦した。永禄3年(1560)、親は、衰退していた少弐氏に替わり、島原で勢力を拡大する肥前有馬氏から有馬晴純の五男のを新たに養子として迎えることで、有馬氏の支援を受け形勢の逆転を狙った。

6年(1563)、後ろ盾である有馬氏が龍造寺氏に敗れ衰退したことを好機と捉えた松浦隆信は親討伐のため再び南進した。隆信勢は陸海両面から来襲し、鉄砲隊を先頭に飯森城に攻め寄せた[3]。親は隆信方の攻撃をよく防いだが、有馬氏からの援軍はなく、次第に親は劣勢となった。同9年(1566)、親は相神浦を隆信に制圧され、孤立したことで龍造寺氏らの仲介を受け入れ、隆信の三男・九郎(同じく親と名乗らせる)を養子に迎え、隆信に降り飯森城を開城した[4]

その後、永禄6年(1563年)の籠城中に、有馬氏へ援軍依頼を要請しに行ったまま飯森城へ戻らなかった盛が帰還した際、盛の処遇に窮し、九郎を相神浦に、盛を唐船城に配置し、自らは剃髪し宗金と号し隠棲した。天正5年(1577年)、妻・多見野が亡くなって6日後の923日に死去した。

松浦親 (宗金)で検索した。ウィキペディア・データ20250907 15:33 による

 

不慣れな作業ノートで申し訳ありません。いずれにせよ複雑怪奇で直ぐには理解できません。


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posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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