2026年06月27日

新ひぼろぎ逍遥1140 解散した松浦党研究連合会(伊万里)の新研究会に加わる事になりました

新ひぼろぎ逍遥1140 解散した松浦党研究連合会(伊万里)の新研究会に加わる事になりました

20250911

太宰府地名研究会 古川 清久


かつて、佐賀県、長崎県に跨る、「松浦党研究連合会」というかなり大きな郷土史会と言うか擬制的同一氏族の研究団体が在りました。

しかし、その連合会も高齢化(それは若手の研究者が育っていないからですが…ここ三十年の国家的停滞の結果ですね)によるもののはずで、郷土史会としては視野の広い最盛時は名目500人を数え唐津市、伊万里市〜松浦市、平戸市、佐世保市の佐賀、長崎を跨ぐ研究会でした。

 しかし、全国的にとまでは言わないものの、域外の方達にとっては「松浦党」も含めてそれほど知られておらず、瀬戸内の海を支配した、河野水軍、村上水軍、渡部一族、越智一族…伊勢水軍(九鬼水軍)…に比べると、その認知度はかなり低いのではないかと思います。

 実際には、西海の、五島、平戸、南北、東西松浦、壱岐、対馬と言った西の辺境地で、中央の畿内から見れば異蛮の地としか見られていなかったからであったと想像しています。

 しかし、ここでお考え下さい、日本国、日本民族にとって最大の国難とも言えるものが史上何度かありますが、どう考えても最大の危機は、元寇だったと言えるでしょう。

 勿論、遡れば、白村江=白江戦の大敗北による武官の劉仁願、文官の郭務悰による太宰府占領、都督府=太宰府都府楼設置に日清戦争、日露戦争、大東亜戦争から変質させられた太平洋戦争の大敗北、米軍占領(現在も続く)…現在にも続く米国民主党系=ジェパン・ハンドラーズ=ユダヤによる日本占領、洗脳こそ危機としては遥かに大きくは在りますが、現在の国難を敢えて除外すれば、元寇こそが最大の危機だったとは言えるでしょう。

その元寇に於いて、ほぼ、陸上に橋頭保も確保させず、狭苦しい負傷者だらけの船内に引揚させた敵兵共(大半は半島朝鮮人だったのですが)に果敢に夜襲すら仕掛け悠々と引き揚げ、またも翌朝から勇敢に戦った兵者こそ松浦党だったのです。

 勿論、鎌倉武士団も北条時宗揮下に、現代奮闘したのです。言葉で表現すれば究極のアウト・無題.pngレンジ戦法(敵の弓の届かぬ場所から射撃)=長弓(和弓)による貫通性の高い長距離射撃による撃滅戦による事もあるのですが、夜陰に乗じて小舟で敵船に乗り込み、火を掛け、抜刀隊(学徒出陣の「陸軍分裂行進曲」(出陣学徒壮行会)がどうしても頭に過りますが…)による敵兵への切り込みを行い意気揚々と引き揚げて来たのが九州の辺境に住む我々のご先祖様だったのです。

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一般的には、短弓は騎馬戦に有利で速射性に優れるとされていますが、モンゴル軍の怒涛の騎馬軍団が一気に制圧する様な場面は残された古い絵巻の中には殆ど出てこないのです。

良く考えれば、実際に大量の騎馬兵が集団で疾走できる草原など列島には殆ど無く、雑木林から長弓で狙い撃ちされるのが実態だったのです。仮に、もし大量の騎馬を持ち込んだとしても、実際には馬を地面に降ろす余裕さえなく、飼葉や水を与えるにも大変な量だったはずです。

「牛飲馬食」は良く言われますが、船にどれほどの馬を載せていたかは分かりません。多分、将官クラスだけは用意していたはずですが、朝鮮兵中心の全軍騎馬兵などでは絶対なかったはずなのです。

それは、図像学的に残された絵を検証すれば、元寇の敵兵は殆んど歩兵であることに気付くのです。一方、迎え撃った鎌倉武士団は、大半騎馬武者として描かれています。

それは、勇敢で勇壮な騎馬武者を描かせた要素はあるはずですが、やはり敵兵の殆んどが、歩兵だったのです。

そもそも、モンゴルに平定された「高麗」王朝(918年〜1392年)は自らの安全のためだけに蒙古に日本制圧を薦めたのでした。所詮、朝鮮人が考える事はこの程度の事だったのです。

 元寇とは1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二回行われたとされますが、文永の役は実質的には属国に成り下がった高麗が日本へ侵攻した事件でそれも直ぐに戻ってしまっているのです。

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本格的には七年後に江南の敗残兵を加えた、東路軍+西路軍(=江南軍 しかも多分意図的でしょうが遅れて到着する)で、実際には大量の農機具が搭載されていたとされており、実際には、海を渡った武装植民隊だった可能性さえあるのです。

 このため、江南軍は戦闘と言うよりも上陸し土地を得て大陸から亡命する意図があったとも考えられているのです。

従って、逃亡、亡命、移住、植民の意思を持っていたのですが、その準備で遅れ、台風に遭遇する羽目にもなったかも知れないのですが、その筋の方々の研究中の話ですのでここまでにしておきましょう。そもそも、古くは徐福も始皇帝から資金だけを引き出して30006000とも植民を行ったのですから。

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鎌倉期 倭寇 で検索した AIによる概要による


鎌倉期に活発化した倭寇は、主に北九州や瀬戸内海沿岸の漁民や土豪が中心となり、朝鮮半島や中国沿岸で食料や人を略奪する海賊行為を行った集団です。これは、元寇後の社会不安や国内の南北朝争乱による窮乏、政治の混乱が背景にあり、中国や朝鮮側からは恐れられ「倭寇」と呼ばれました。彼らの活動は14世紀後半にピークを迎え、高麗の滅亡や明の取り締まりにも影響を与え、前期倭寇と呼ばれます。


昔、倭寇は元寇に対する報復戦の意味もあったと考えていました。

既に、初期倭寇は定説にまで高まっているのでしょうか?江南に関して言えば、平戸、五島の西には揚子江、蘇州(古くは上海はまだ存在しておらず)、その南に在る浙江省、福建省は正に一衣帯水で情報は繋がっており、倭人と江南人は後の王直や鄭成功を持ち出すまでもなく情報は十分に伝わっていたのです話が深入りし始めましたので元に戻します。


太宰府地名研究会 2025911月のご案内 

99は仮案としていましたが、921日日曜(1300〜)会場:生涯学習センター(福岡県筑紫野市二日市南1-9-3に伊万里市の曹洞宗の古刹の住職を譲られた80歳代の曹洞宗 僧侶兼七幸神社宮司の話をお聴きします。明治までこの地にはイスラエル系と考えられる神社が存在していたのです。

日時:921日日曜(1300〜)会場:生涯学習センター(筑紫野市二日市南1-9-3

「二千年の天文台址」〜七幸神社古譜考」〜壱之寺住職小島宗光(伊万里市)

講演者:壱之寺住職小島宗光(伊万里市)旧松浦党研究会連合会 会員

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既に二回の事前打ち合わせが行なわれていますが、実際に前日の20日の土曜日夜1900から第一回目の研究会設立会合を行い、不肖にも私が一時間ほどの前座のお話をさせて頂く事になりました。

このため、6月末の初夏から準備して来たパワー・ポイント「松浦党研究の継承ために」という大仰なタイトルで話をさせて頂きます。一時間では触りだけにしかなりませんが、恐らく松浦党研究会では過去取り上げられた事のない変わった話になります。

これに向けて、松浦党に関係する話を30本弱、書きましたが、その一部を切り出しP.P.化したものが以下です。

新ひぼろぎ逍遥 1116 松浦党の起源を探る ❻ カヌーを造った人たち 20250802から 20264月オンエア予定

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講演時間から考えて、「松浦党の起源を探るカヌーを造った人たち」に関する話のほんのさわりだけになります。従って、配布資料としては、叶、加納、嘉納姓とカヌー、カタマラン、タウ、カウ、タウヌイ、カウルア、タウルアヌイ、カウルアヌイ…といったポリネシア語が飛び交う話になるでしょう。以下は、その続編です。同時にオンエアされますのでそれまでは半年ほどお待ちください。場合によっては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のビアヘロ版で先行公開するかも知れません。

以下、前編を配布する予定です。

新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった20250209 をお読みください。


新ひぼろぎ逍遥1139 松浦党の起源を探る 続)交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

20250910


本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

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この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであったとしても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバー…以下省略。

 実は柔道の嘉納治五郎先生も灘の生一本の菊正宗酒造の一族で、正しく船を操り穀物などの物資を輸送していた廻船業者が船倉の穀物が発酵するために醸造業者となり「菊正宗」酒造など同族の酒造業者を束ね灘高校までも創立させた人々だったのです。

 再度、話を戻しますが、先にお話しした、ポリネシア語が太平洋の島々から列島に持ち込まれている事に気付かれたのは、それこそ元寇の発掘調査を行った、東海大学(当時)の茂在寅男(モザイトラオ)教授と、騎馬民族国家論で著名な江上波夫教授も来られていた時で、二人の著名な学者を眼前にして興奮した記憶があります。その時、私は鷹島の西の阿翁の浦に釣りに来て、帰りのフェリーに乗るべく岸壁にいたのでした。

 丁度、茂在先生の著書を二冊ほど読んでいましたので、感激もひとしおでした。正に、日本にも船をカウ(ルア)ヌイ=これがカヌーの語源、タウ(ルア)ヌイと呼んでいた人々がいた!

 かつて、東海大学(当時)の茂在寅男(モザイトラオ)教授が、『日本語大漂流−航海術が解明した古事記の謎』光文社 1981年の中で、古代ポリネシア語の発音と対応する言葉が『記紀』などに記載されているのではないかとしました。
 一例を挙げれば、「古事記」仁徳記には「枯野」(カウヌイorカウルアヌイ)という高速船のことが書き留められています。良く知られた髪長姫の話ですね…。


『日本書紀』に、日向の豪族牛諸井(うしもろい)の娘の髪長媛が大雀命(オオギミノミコト。のちの仁徳天皇)の妃となった…


 今は、乗って来た船はポリネシア系の高速船であっても、日向の髪長姫それ自体は、トルコ系匈奴(王昭君系の東西分裂後の東匈奴が南北分裂によって生じた南匈奴)と考えています。それは別の話に成りますのでここで止めておきます。


新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

20250903

本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

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この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであっても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバーでもある古川 茂様に酒の話をお願いし、時間を余したら後はお願いしますと言われたことから、当初は、脊振村の広瀧で許された後の川上 猛の福岡市早良への移送(逃亡ではなく管理された収監)ルートを探るトレッキング(ハイキング)へのお誘いの話をしようと思っていたのですが、茂様の酒の話に水を差すのは良くないと思い直し、急遽、前日から書き始めたのがこの話でした。ここでは触りというか概略だけをご紹介することにします。

一方、難 升米はどなたもご存じの卑弥呼が魏に送った外交通詞(使)であり、渡洋航海が出来る上に、政治情勢に精通し、なおかつ交渉能力を持ったエリートであった事が想像できます。

まず、五島灘、玄海灘、響灘、周防灘、播磨灘、熊野灘、遠州灘…と灘と難所の危険な海だから三水へんを加え、難しい海と表現しているのですが、古代にはその意味は今以上だったはずです。〇〇灘の分布については、海上穂保安庁水路図誌記載のをご覧ください。

古代に於いてそういった能力を持った人物とは、神産巣日、神皇産霊、神魂=博多の櫛田神社の大幡主(神代史ではカミムスビとしますが)であり、実際にはその若き後継者であった八咫烏以外には考えられないのです。

酒の話に繋ぎますが、もしも、古代に於いて、余った大量の穀物を運ぶ必要が生じた場合、どうしますか、船で運ぶ以外にはないのです。数日を要するとすれば、雨も降るし、飛沫も有る訳ですから、当然、船倉に入れることに成ります。また、復元力を齎すにはコンテナ船の様に甲板に積み上げることは危険極まりがない訳で、バラストとしての穀物は最適であり、それ以外の方法は取れないのです。

そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。

つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油をそして酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあ

ることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。

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まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。味噌もですが、味噌は今でもローカル色が強く、民俗学の対象として今後に残しておきます。酒造メーカーで衝撃的なのは、八咫烏=橘一族の本拠地の伊勢(百嶋由一郎の言を思い出します)の酒造メーカー株式会社宮ア本店をご紹介してお

きましょう。勝手な思い込みながら八咫烏直系の一族でしょう。

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無題.pngさて、灘の生一本の神戸市灘区に、何故、灘高校が創られたのでしょう。酒造メーカーと言うものは、土地の名士であり富豪であったことはご存じの通りです。と言うよりも、配下の政治家を操り、社会の方向性と将来の国防、貿易、殖産興業をさえも考える集団だったのです。彼らは、必要が有る時には愚かな権力者を跳ばす事も厭わず(今もそうですが)独自の外交を迫られ、いつでもそれを実行できる人材を養成しておく必要性を感じていたからこそ優秀な人員を育てるためにエリート養成のための高校さえも自ら創り出していたのです。ここで、幾つかのリポートをお読み頂けるようにブログのタイトルをご紹介しておきます。

非常に面白いので、亀甲紋をロゴとする醤油メーカーをもう少し出しておきます。

以下も、亀甲紋章の醤油醸造メーカー

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無題.png以下、丹生川上神社のご由緒について (中社様HPより)時期が時期だけに偽装され罔象女神となっていますが、八咫烏の神社ですね

当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨師の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百三十年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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