2026年08月01日

ひぼろぎ逍遥 1141 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ➊

ひぼろぎ逍遥 1141 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ➊


(先行改訂再掲載版=新ひぼろぎ逍遥に順次掲載予定)     2016010520251120

    太宰府地名研究会 古川 清久


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面 物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

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立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」… 無題.png に助っ人を頼みたいと思います。以下。

無題.png徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

無題.png←尻合わせ三つ葵紋(神殿上部)

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。 ………
・写真:上賀茂神社の紋-二葉葵
 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。

以上が10年前の掲載分

この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。新田は○に(一引)です。

 一方、同族と言われる足利氏も群馬県新田の東隣、栃木県足利に展開しているのです。〇に(二引)。徳川が新多(田)物部→二田物部→新田氏起源を『見聞諸家紋』は伝えている訳です(源義家後裔)。また別の方向から百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、大まかには大山祇系氏族が主力だったのではないかと考えています。上賀茂=崇神の系統の可能性も在るようです。

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

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そもそも徳川家の三葉葵の紋章の根源には二葉葵が有ります。そこから徳川氏が何者かも見えてきます。


フタバアオイ(二葉葵、双葉葵、学名: Asarum caulescens)は、ウマノスズクサ科カンアオイ属に分類される落葉性(秋に落葉するが根茎が残る)の多年草の1種である。茎は地上を這って節から根を生じ、先端に2枚の葉をつける。葉は長い葉柄をもち、葉身はハート形(図1)。3枚の葉を図案化したものが徳川家の「三つ葉葵」である。花期は春、花は椀状で紅紫色、下向きに咲く(図1)。果実はさく果、種子はエライオソームをもつ。日本および中国南部に分布する。京都賀茂神社との関わりが深く、賀茂祭は葵祭ともよばれる。…分布・生態

日本の本州(福島県以南)、四国、九州、および中国南部(甘粛省、陝西省、湖北省、四川省、貴州省)に分布する。       ウイキペディア「双葉葵」で検索した(2025 1119 1009)による


なお、上記の中国南部に雲南省が入っていないため改めて雲南省と双葉葵で検索しました。すると、「雲南産のウマノスズクサ科カンアオイ属」出て来ます。

カンアオイで検索すると想定していた雲南省と海南島(海南省)まで出てくることから、百嶋神社考古学が想定する雲南省昆明から紅川(ファンガ)を降りハノイから海南島東南部に避退し熊本に入った白族の人々こそが京都の下賀茂を拠点に九州王朝崩壊後を生き抜き阿蘇氏=藤原を追い落とした関東武士団を束ね鎌倉〜室町〜戦国期を乗り越え、徳川への武家の千年王国を築いた人々のバックに居たという百嶋想定を裏付けている事に符合する事が分かってきました。そのためこの葵の紋章に拘ったのでした。

右別れ立葵は大山祇系(関東武士団の主力)、二葉葵は、カミムスビ系(関東武士団を背後で操り情報戦で闘い続けた八咫烏=カミムスビの息子〜後裔氏族):橘一族、岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮。対して藤原氏は雲南省麗江から瀾滄江(メコン河)からホーチミンそして海南島南東部〜阿蘇に進出した黎族

柏崎刈羽原発から5キロ程度の旧刈羽郡西山町(田中角栄の出身地ですね…ただ、この手の話は対象外ですので進みません。筑後の田中義政は蘇我氏との印象を持ちますので(彼も湿地帯の水郷の柳川を治めるために送り込まれたのでしょう)支配者側かも知れませんが、彼のご先祖様は筑豊からの亡命者と何らかの関係があったのです。この二田物部神社を発見したのは十年前の事でした。

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ここで徳川家の三つ葉葵を発見したのは驚きました。何故、徳川家はこの神社を厚遇したのでしょう。

瞬間、徳川家とは、そして関東武士団のかなり部分がもしかしたら筑豊から逃亡した物部氏だったのではないかという思いが走ったのでした。

 大半の方は蘇我氏と物部氏の内紛は畿内で勃発したと思われているかも知れませんが、6世紀半ばの内紛でそれは九州王朝内の真っただ中の時代で、その舞台とは北部九州だったに決まっているのです。

 少なくとも、ここに住み着いたのは筑豊の巨大湿原から同じく人が好んで住み着かない南魚沼郡の空白地に住み着いた人々だったはずなのです。

 だからこそ、大分県の瀬戸内海沿岸を除き今でも九州全域に色濃く残るO音をU音で代用する(沖縄の三母音の延長とされますが…)「魚」(ウオ)の字が充てられ「ウーヌマ」と呼ばれたのです。

大事を「ウーゴツ」、オッタマゲタを「ウッタマゲタ」、トガ(栂)を「ツガ」と言語上の東西対抗。

これこそ九州から敗残した亡命者が如何に多かったかが良く判る金石文的な物証の様なものなのです。

 そこに、何故か徳川家の家紋=松平、本田の古い家紋尻合わせ三つ葉葵が神殿上部に、参拝殿に水戸黄門の三葉葵の垂れ幕が掲げられていたのです。

 以前からと言っても、江戸の開府以来なのでしょうが、藤原が厚遇した神社に対し、寺院を厚遇し神社を抑え込んだ徳川時代の事、地方の一般の神社に三つ葉葵の御紋など使用させるはずは無いからです。

これは続編の世良田東照宮に続くブログで更にご説明させて頂きますが、今は、逸る想いを抑え、少しずつ説明することに致しましょう。

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祭神   二田天物部命(フタタアマツモノノベ) 物部稚桜命(モノノベオサナザクラ)

   建御名方命(タケミナカタ)      宇摩志麻遅命(ウマシマジ) 正しく物部氏です


社伝によると、天孫降臨の後、当社祭神・二田天物部命は、天香山命とともに当地に来臨。

その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。

居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。

後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。

崇神天皇の御宇、十二世の裔孫・物部稚櫻命、神託により御社を石地より南大崎の浦に遷し、その着船の山を船岡山という。

社伝も先代旧事本紀風のタッチで書かれていますね。


二田物部神社は延喜式内社で大和朝廷より越後の国に弥彦の神様とともに使わされた 二田天物部命を奉る古い神社であります。

 越後二の宮の称号を与えられるなど江戸時代には越後十八社の一つに数えられ越後の 人々の信仰を集めてきた名祠で、戦国時代の武将の領地の寄進や朱印状、起請文(神仏に 自分の言動に偽りのないことを誓ったもの)にも弥彦神社とともにその名がよく見られる。 今から二〇〇〇有余年前の大崎浦にみやしろを建てた時から今日まで連綿として歴史を刻 んでおります。−由緒書きより−


                              敬愛する「玄松子」様による


 では、二田、仁井田、仁田、新多、新田、新井田…で表記される二田物部の進出地を考えましょう。

 まずは、大山祇の墓とも言われる伝大山祇古墳が在る宮崎県西都市から始めざるを得ません。

西都原第二古墳宮に近い航空自衛隊新田原基地(ニュータバルキチ)や、宮崎県児湯郡新富町新田新町(コユグンシントミチョウニュウタシンマチ)九州から関東まで多過ぎるので一部をご紹介。

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御祭神 大山祇命 石貫神社は、天平5(733)の創建と伝えられる古社です。古くは日能若宮、又は石貫大明神と称されていました。創建時の記録「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山?木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝えられています。…神社の西側には169段もの石貫階段があり、御祭神の大山祗命の御陵とされる大山祗塚へと続いています。例大祭の1129日には、大山祇塚の前でも神事が執り行われています。


 無題.png熊本県玉名市の新幹線玉名駅の付近にも石貫地名があり(石貫横穴式石室古墳)、大山祇が玉名から古代日向の西都市に移動したように見えるのです。実はこの「石貫」が中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置する自治県に在るタシュクルガンと呼ばれるトルコ系匈奴の本拠地の名称の中国表記が 石頭城、石城山なのです。謎の古代史跡とされる神籠石にも石城山神籠石が在りましたね(山口県光市〜多布施町)。故)百嶋由一郎は、大山祇は冒頓単于に送られた王昭君の系統の南匈奴の末裔=金海金氏としていました。彼らは、漢帝国を圧倒していた時代から武帝に追い落とされる前後から東西分裂が起こり、残った東匈奴の南北分裂によって半島に移動した南匈奴=後のウマシアシカビヒコジの一族としていました(漢帝国への徹底抗戦派が後のフン族に成ったとも聞きます…)。実はこの勢力が列島に大量に入っているのですが一切無視されているのです。彼らは一応トルコ系と考えて良いのですが、紀元前後より数百年の間に、ペルシャ(パシュツーーン)、イスラエル、ユダヤと、ギリシャ…タジク、キルキスと混血が進んでおり、列島に移動する頃には列島は民族の坩堝と化しつつも、山深く谷、沢の険しい列島の地形によって多くの民族が大規模な衝突を起すこともなく、長い年月を掛けて融合していったのです。

 そして、関東武士団の主力が八咫烏系氏族と姻戚関係を結んだ大山祇系氏族であり、その背後で連携し情報収集と組織化に動いたのが橘一族であり伊勢の八咫烏系氏族だった様に見えるのです。

 八咫烏バイアシオン系譜の黄枠で囲んだ部分に象徴されるのが関東武士団の背後にいた下賀茂神社、岩清水八幡宮、没落した伊勢神宮に依拠した橘一族を中心とする人々だったのです。

 そして、太平洋側の三島から日本海側の黒部を結ぶラインで大山祇系氏族によって畿内勢力を遮断し東国武士団の意思を阿蘇系の藤原残存勢力に圧力を加えていったのだと思うのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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