ひぼろぎ逍遥1144 2026年“新春三社詣り神社トレッキング資料の公開 ❷
20251209
太宰府地名研究会 古川 清久
―太宰府地名研究会 2025年01月〜2026年3月のご案内 ―新春三社詣り版
❺ 賀茂神社132 二つ葵の神紋はヤタガラスの古社 @ “福岡県うきは市 賀茂神社から”
20150623

多少、遅れ馳せの感がありますが、本物の豊玉彦(ヤタガラス)を主神とする神社をご覧に入れます。久留米市を流れる筑後川を遡ると、左岸にうきは市があり、日田市に至ります。
このうきは市から日田市にかけては物部氏、大幡主(賀茂族)、ウガヤフキアエズの匂いがするエリアです。ついでに言えば、日田市に玉川地区があるのも関係なしとしないのです。
この大幡主、その子豊玉彦(ヤタガラス)のエリアには「隈」地名があることは何回か書いていますが、ここも同様で、東隈、西隈があり、隈上川が流れ、上流には笹の隈があり、隈地名が直ぐに拾えます。「隈」地名は、熊本から大幡主の一族が地名を持って筑後川流域、博多周辺に展開した痕跡なのです。まず、この神社は“美しい”の一言に尽きます。
殷の鳥居の変形(要するに殷の鳥居に瓦屋根を載せた)ではないかとも思える荘厳な門と立派な参拝殿、水路を巡らした庭園風の庭、神社の性格とか祭神云々の話に入る前に、その荘厳、神秘性に圧倒されてしまいます。また、羅針盤状の暦盤が天井に置かれているのも印象的です。
この一族が、星(天文)を観測し航海を行い、暦を創り司る人々であった事が分かります。
博多の櫛田神社(大幡主の本拠地=熊野の出戻り本山)にも暦盤が置かれていますね。

これが京都の下賀茂神社のルーツではないかとお考えになる方がおられると思いますが、その方向で考えられて構いません。間違いないと思います。まず、友好blogの「ひもろぎ逍遥」(もっとも、先方はこちらを「迷惑biog」とされていますが)の綾杉女史のコメントから見ましょう。なお、文中のくじらさんは久留米地名研究会の事務局次長のO氏です。実は徳川家のルーツでもある事が分かってきました。それが10年越しの甲信越調査の成果です。
「山北」は福岡県浮羽市にあります。まずは、くじらさんのコメントの概要。これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。
くじらさん、こんばんは。「山北」ですね。それなら知ってるかも (^−^)物部氏はかなり古いですね。想像以上。あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。何々、アジスキタカヒコネですか。この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?興味津津。早速ウィキペディアを引用してみましょう。
縁起 当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)
祭神 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))う〜む。宇佐から山北へ。そして八咫烏となった。これは奥深い伝承ですね。いつかチャレンジしたい…。
そもそも、このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味ですね)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。
さらに言えば、日田市にも隈地名(星隈など3隈地名が…)があり、豊玉彦を意味する玉川地名まで存在しており、この古代筑後湾の湾奥好地が、大幡主と豊玉彦の支配下にあった事が分かるのです。
注目して頂きたいのは、この二つ葵の神紋です。重要なので次回以降に廻すことにして、まずは、この秀麗かつ気品に溢れた本物中の本物のヤタガラスの神社の画像をお見せします。
ただし、前述1651年の旧記による「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」とあるのはそのままでは受け容れられません。
日向から東征したのは、藤原が第10代とする贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)の事であり、もしも、ここが降臨した地であるのならば、賀茂大神ことヤタガラスは肥後からうきはに入り、後に博多に入ったのかも知れません。
ただ、神武とヤタガラスとは同時期に活躍していますが、宇佐を基盤にした崇神が本物の神武やヤタガラスに出あうはずはないのです。
少なくとも、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)とヤタガラスに関係のある重要な神社であるとまでは言えると思います。


前ブログ ひぼろぎ逍遥 132 葵の紋章のルーツ立ち葵の神社 “福岡県うきは市 賀茂神社から”において、久留米市と日田市の中間にヤタガラスの神社が存在することをお知らせしましたが、実は、まだ十分に納得できないままでいます。
一応はヤタガラス(豊玉彦)の神社としたのですが、本来はそうだったが、今は、藤原が第10代と大幅に格上げした贈)崇神系の神社に半分近く変えられている(乗り取られている?)という意味なのです。
良く考えるとそのことがようやく分かってきたもので、今回は、これに関する補足作業になります。
神社が誰を祀っているかを考える時、注意しなければならないのは、何を主たる指標にするかです。
まず、郷土史家、史談会、教育委員会…といった通説に尾を振る方々は、概して「記紀」「風土記」「神社誌」「神社庁見解」「市町村誌」「縁起書、由緒書」「社伝」…の順に説明される事でしょう。
ところが、九州王朝論者でも、そのまた少数派である神社考古学(百嶋神社考古学)の者は、本当の神代の舞台であった九州の現場と「記紀」、社伝と「風土記」「神社庁見解」とに多くの齟齬、食い違いがあることを知っているのです(つまり「記紀」による古代史の偽装)。
この点、「記紀」に併せてテーマ・パークとして整合性があるように創られた畿内、出雲…などとは全く異なる話になるのです。
何度も言っている事ですが、まず、祭神は時代の動きに合わせ変えられます。
本来の祭神は、残されるとしても摂社に移されることがありますし、隠され、新たに入れ替えられ、加えられ、社伝(縁起、由緒)も改竄されます。
ここで、前述した何を主軸に探るかですが、@祭神の組合せ A祭神の表記 B夫婦神の場合の妃の名 C親子神の場合の子神の名 D神紋 E縁起 F宮司などの伝承 …といったものになります。
そろそろ本題に入りますが、うきは市の賀茂神社に限定して言えば、百嶋由一郎先生が講演中にうきは市の隣、久留米市に田
主丸町に「豊城というところがありますが、贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ています…」と言われていました。
ここで重要になるのがこの賀茂神社の神紋の二つ葵です。そして贈)崇神天皇もこの神紋を使っているのです(葵神紋参照)。
元々、この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、後に(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ているようでもあるのです。

久留米市田主丸町豊城
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
第10代崇神天皇皇子である。『日本書紀』では「豊城入彦命」「豊城命」、『古事記』では「豊木入日子命」と表記される。東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる。
「ウィキペディア」20150630 18:30より
しばらく前から、宇佐市安心院の妻垣神社=足一騰宮=一柱騰宮に入った神武天皇とは、贈)崇神天皇のことであることが分かってきていました。
してみると、前ブログで引用した“宇佐から入ったとする賀茂御神”という行直大宮司の慶安4年(1651年)の旧記(後段)の話は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と、随行した本物の豊玉彦(ヤタガラス)の話が基礎にあり(両者が同社に同時に居た可能性も含めて)、それが神武僭称贈)崇神とその子豊城入彦の話と重なり、本来の祭神の本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と本物の豊玉彦=賀茂建角身命に神武僭称崇神とその母親である鴨玉依姫=神直日が挿入され本物の神武であるように描こうとしているように見えるのです。

百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)
現在、同社の祭神はこのように書かれていますが、神日本磐余彦尊 カムヤマトイワレヒコ(神武天皇) はOK。賀茂建角身命 カモタケツノミコト(賀茂下上大神) は京都の意味で書かれているようですが、下賀茂神社のみOK。上賀茂神社は、神武僭称崇神天皇と考えており誤りだと考えます。従って半分OK。玉依姫命 タマヨリヒメノミコト は神武の育ての母とする通説に沿った意味で書かれているようです。これは、本物の神武天皇の母である神(カム)玉依姫の事か賀茂別雷命=神武僭称贈)崇神天皇の母である鴨(カモ)玉依姫の事か判読できません。従って保留します。賀茂別雷命 カモワケイカヅチノミコト は、当然、神武僭称贈)崇神天皇=豊城入彦の父 でしょう。 ただ、これも上の玉依姫が神武の母であれば、この賀茂別雷命だけが追加挿入されたものであり、鴨玉依姫であるならば、本来の祭神は神日本磐余彦尊と賀茂建角身命の二神であった事になります。
結論としては、各々、京都の下賀茂神社、上賀茂神社の元宮の可能性があります。
ただ、そのルーツは熊本市、それ以前は天草市苓北、海南島の加茂(現存地名)、雲南省昆明…になるはずです。
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。
「ウィキペディア」20150630 19:00による
今回はかなり難しい解析になりました。まだ良く分からない部分がありますが、うきは市の賀茂神社の
神紋は、であり、ウィキペディア氏は現物を見ておられないのかも知れません。
葵の紋章は百嶋由一郎 神代系譜(葵の神紋)のように、立ち葵でも右割れ、左割れと多岐に分かれ、ウィキペディア氏が示されたものは滋賀県の日吉大社の神紋です。
当然にも大山咋=大直日=佐田大神の神紋のようです。
崇神は、その母親が豊玉彦(ヤタガラス)の実の娘である事から、自らをヤタガラスの正統直系とでも考えたのでしょうか。

いずれにせよ、ヤタガラスは旧浮羽町から日田市に掛けて多くの痕跡を残しています。
一方、神武僭称贈)崇神の父親である大山咋=大直日=佐田大神は鴨玉依姫とこの一帯で出会い、旧甘木市佐田(現朝倉市)佐田町(と言っても山の中ですが)に住み、現在の佐田川流域(筑後川右岸)で活動した事だけは間違いがないのです。
そして、その痕跡の一つがうきは市の賀茂神社になるのです。
と、ここまで書いてきましたが、ヤタガラス(豊玉彦)は大幡主の子であり、博多で産まれたはずです(博多の櫛田神社は熊野からの出戻り本山であり、紀州の熊野は後の本拠地です)。
では、父親の大幡主が博多に移動して来る前はどこに居たのでしょうか?
それについても、故百嶋由一郎氏は、“隈地名のルーツは熊本であり、現在、熊本城が置かれている熊本市の千葉城町こそ隈本(加藤清正により熊本と変えられた)であり、そこが肥後における本拠地だったと”されていたようです。
この点、大幡主の父は白川伯王であり、当然の事として、熊本市を貫流する白川(中国風には白水)が白川伯王から付されたものである事とも符合するのです。
しかし、その前にも辿るべき故地があります。
天草下島の苓北町、中国海南省の海南島の加茂、雲南省の省都昆明まで辿る事ができる事はこれまで草部吉見神社との関係で繰り返し述べて来たところです。

これも賀茂神社の境内で見つけた境内社か摂社です。十字架が鮮明に描かれていますね…。
不明な点は、当会サテライト事務局(関心をお持ちの方はおいで下さい)JR春日駅西口 前自然食レストランくるま座 中島 茂まで090-5289-2994 or 編集員 古川 清久090-6298−3254まで


にお読み頂き有難いと思っています。
















![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)