ひぼろぎ逍遥1145 2026年“新春三社詣り神社トレッキング資料の公開 ❶
20251209
太宰府地名研究会 古川 清久
―太宰府地名研究会 2025年01月〜2026年3月のご案内 ―新春三社詣り版
訃報
この間、ムーブ・フェスタを始めとして、年3回近く講演頂いていた佃収先生がお亡くなりになりました。
改めてご冥福をお祈り申し上げます。
実のところ九州王朝論の立場から活動を続ける最後の研究者を失ったと考えており、改めてその深い絶望と空白を感じています。想えば、古田武彦系の九州王朝論の限界を感じて以降、その周辺へと目を拡げていた時、全くの独立した九州王朝研究を続けておられたのが、「法隆寺は移築された」を世に問うた米田良三氏であり、全く別の系統の騎馬民族国家論で知られる江上波夫のグループから独自の丹念な研究から誰も主張した事のない九州王朝説を打ち立てられたのが佃 収先生でした。
もしも、まだ深くまではご存じない方は、佃収 古代史で検索すれば上のHPがトップに出てきます。
佃収先生は、熊本県玉名市のご出身で玉名高校から東京教育大理学部数学科更にコンピューター関係の企業に勤めながら古代史研究に入られ、熊本県和水町の菊水史談会で二十年近く講演され、同史談会の解散に伴い当会から北九州市の丁巳歴史塾などで五年近く講演をお願いしてきました。今夏のムーブ・フェスタでも6000枚のチラシを配布し講演を予定していただけに、車椅子でなければ来れないとお聴きした時点で、講演者の変更と併せ、その後の講演はできないのではないかと考えていましたが、残酷にも現実になった訳です。ピンチ・ヒッターとしての講演者は予め準備していた伊藤まさ子女史に切り替え事なきを得たのですが、来春3月にも復調されればご講演頂こうと丁巳歴史塾では考えておられたようで、人の世の行く末とは我々も含め分からないものなのです。
新たな講演者、研究者にお話し頂く準備を早めたいと思っています。
2025年12月
日 時:2025年12月21日(日)13:00〜
会 場:福岡県筑紫野市二日市南1丁目9−3 筑紫野市生涯学習センター
テーマ:「カヌーを造った人たち」 (松浦党の起源を探る ❻ カヌーを造った人たち 20250802から)
講演者:新ひぼろぎ逍遥 外管理者 古川 清久
2026年 1月は恒例の新春三社詣りを予定しています。

博多風うどんの名店「天水」 うきは市浮羽町山北54−3 11:00〜14:00まで
2〜3月期は、まだ調整中ですが、古代安倍氏の研究者である 阿部貞隆氏(大分市)、佃収氏同様「契丹古伝」の研究者の安部祐治氏(別府市)、筑前と筑後の神社研究の第一人者である宮原誠一氏(久留米市)、当会でも二度ほどお話し頂いている邪馬台国朝倉市説の井上悦文(朝倉市)、大石耕治(久留米市)、…にご講演頂くべく調整中です。
安部祐治氏は4月以降、阿部貞隆氏は2月に伊万里の松浦党研究会後継研究会で調整中のため井上悦文氏に2月に、3月に宮原誠一氏にお願いしようと考えています。
不明な点は、当会サテライト事務局(関心をお持ちの方はおいで下さい)JR春日駅西口 前自然
食レストランくるま座 中島 茂まで090-5289-2994 or 編集員 古川 清久090-6298−3254まで
2026年“新春三社詣り神社トレッキング資料

集合場所変更 にじの耳納の里 うきは市吉井町福益130−1 集合場所変更(弁当豊富…)
順路は変更なし 土産や弁当などを買わない方は、➊ 若宮八幡神社 に直行されてもOK!
美味しいうどんの「天水」から中食後に 直ぐ近くの うきは市浮羽町山北1941の清水寺(セイスイジ)に行きましょう。腹ごなしにぴったりです。以前から気にしていましたが、漸く見当が着きました。やはり現みやま市(旧瀬高町)の天台宗清水寺と関係があるようです。以前から瀬高町は九州王朝の王族の居留地と考えており、その菩提寺の可能性を考えてきましたが、このうきは市の清水寺も元は天台宗なのです。
九州王朝系の天台系はかなり寺領地を奪われており祈禱寺化している事は以前から気にしていましたが、ここも元は天台宗なのです。これも以前に聴いた話ですが、瀬高の清水寺には“京都の清水寺の元寺との伝承があるそうで、元の住職がそう言っていたと聴いています。つまり九州王朝の時代を知る寺の可能性を考えるべきなのです。
AIによる概要 うきは市の清水寺は、** 「清水禅寺(せいすいぜんじ)」** のことで、現在は臨済宗の寺院ですが、開基の伝承では天台宗の開祖・伝教大師(最澄)が関わっているという説があり、伝教大師が山に入り、霊木に観音像を刻んで開いたという縁起が伝わっていますが、一般的には臨済宗の古刹として知られ、日本名水百選の「清水湧水」があることでも有名です。

➊ 若宮八幡神社
若宮八幡宮はうきは市にある神社です。若宮八幡宮とは全国に同名の神社が多数あるもので、そこには武家の守護神たる八幡神を祀っており、鎌倉時代以前は源氏の一族が八幡宮から分祀をしていき、神社を建立していきました。この若宮八幡宮もそのひとつで、建立した人物が源為朝、通称・鎮西八郎為朝と言われた人物でした。福岡応援サイト
AIによる 概要若宮八幡宮の祭神は、一般的には応神天皇の御子神である仁徳天皇(これはでたらめですね F)、または神功皇后、応神天皇の3柱を祀っています。仁徳天皇を祀る場合:川崎市の若宮八幡宮のように、「八幡宮(応神天皇を祀る)」の「若宮(御子神)」として仁徳天皇が祀られることがあります。神功皇后・応神天皇を祀る場合:京都の若宮八幡宮のように、美貌や勝運の神として知られる神功皇后と、その子である応神天皇が祀られることもあります。
❷ 永野水神社(五霊社)
江戸時代、寛文3年の大干ばつを機に、山下助左衛門をはじめ五人の庄屋が筑後川が流れる大石地区に堰を造り、 掘割を掘って水を引く開削工事を久留米藩に申し出たが、筑後川を利用した用水路開削工事は難事業であるため、 藩からの許可はなかなか下らなかった。五人の庄屋は失敗したら処刑になる覚悟で請願書を提出し、 この難工事に着手して寛文4年3月完成に至った。この偉業をたたえて五人の庄屋を祀ったのが長野水神社(五霊社)で、 4月8日の春の大祭には、小学生による「浦安の舞」が奉納され、露店も出店し、 五庄屋の恩恵を受けている多くの人々が参拝に訪れます。長野水神社は桜の名所で、桜の時期は花見客でにぎわいます。ミヅハノメが祀られている事から大山祇系(トルコ系匈奴)総じて熊襲の神社と言えそうですね。
祭神 美津波能賣命、栗林次兵衛、本松平右衛門、山下助左衛門、重富平左衛門、猪山作之丞 さすが、そら様は美津波能賣と解っておられます。(F)同名の水神社はこの一帯にも数社ありますが、飯塚市には水神社が4〜5社拾えます。大山祇の長女神大市姫です。
❸ 隈上正八幡宮
福岡県神社誌を読むと、貞観2年(860年)に石清水八幡宮を勧請したとあり、それが創建のように書かれているのですが、何故か御祭神はかなり石清水八幡宮と異なります。
前回訪問したときは、どうもこの辺りの理由がわからなかったのですが、各地の神社を訪問した目で再度眺めてみると、元は玉垂宮であったものを、八幡宮で上書きしたものだと分かります。豊玉姫が御祭神に居るのも鍵です。豊玉姫は初代八幡神である大幡主の子豊玉彦(豊前坊、八咫烏)と、高木大神・天照大神の娘 萬幡豊秋津姫の子女であり、石清水八幡宮が宇佐神宮の分祠という形態をとりつつ、祭神の扱い(重み、比重)がだいぶ異なることのヒントでもあります。つまり、九州王朝の宗廟である玉垂宮の看板を下ろさざるを得なくなったとき、いっけん現王朝(現皇室)の祖である応神天皇を祭神として受け入れるふりをしながら、石清水から勧請して、大幡主・豊玉彦の初代八幡神の流れを取り込んだとみることができ「かえるのねどこ」福岡県神社誌:中巻263頁 [社名(御祭神)]正八幡宮(応神天皇、豊玉姫命、高良玉垂命、雷神、罔象女神)[社格]村社[住所]浮羽郡御幸村大字西隈上字宮ノ本[境内社(御祭神)]貴船神社(闇淤加美神)、秋葉神社(加具土神)、琴平神社(崇徳天皇)、猿田彦神社(猿田彦神)、天満神社(菅公)、猿田彦神社(猿田彦神)、天満神社(菅公)[摂社(御祭神)]記載なし。[末社(御祭神)]記載なし。(2021.04.25訪問)かえる様とは一、二度電話でお話ししています。これは概ね同意です。(F)ただ、少し疑問があるのは、“九州王朝の宗廟である玉垂宮の看板を下ろさざるを得なくなった”のではなく、元々、本物の八幡宮の意味(つまり大幡主=カミムスビを祀る神社)であって、玉垂宮ではなかったと考えています。今後の課題です。
❹ 浮羽稲荷神社
以前から、「福岡県神社誌」に同社が無い事は元より、しかも、祭神間にバラツキと関連性に整合性が無い事から不思議だと思っていました。ところが、有難い事に旧聞since2009“謎だった浮羽稲荷神社の来歴”2020/01/30様の記事を読んで氷解しました。
是非、以下を丹念にお読み頂きたいと思います。

農産物直売所巡りのため結構頻繁に通っている福岡県うきは市に、浮羽稲荷という神社がある。直売所巡りのメインルートとなっている国道210号線から少し南側に入った耳納山地東端の山腹にあり、普段は無人の小さな神社だが、石段沿いに連なる93基もの赤い鳥居が壮観だ。最近は、例によって「SNS映えする」と人気らしく、先日、何年振りかで長い石段を登ったところ、写真撮影に忙しい若者たちを複数見かけた。以前はなかった光景だ。それはともかく、久しぶりに参拝したのを機会に、以前から気になっていた神社の来歴について調べてみたところ、意外なことが
わかった。この神社の歴史は予想外に新しく、戦後の1957年(昭和32年)創建だったのだ。神社には「開運の神 浮羽稲荷神社の由緒」と書かれた看板が掲げられてはいる(写真)。ところが、由緒といいながら、祭神(稲魂大神、大山咋神、菅原道真)と年間のスケジュールだけを紹介した非常に簡単なもので、由緒という言葉が本来意味するはずの「来歴」や「いわれ」などは一切記されていないのだ。これまで目にしてきた神社の看板は、真偽不明の言い伝えを含めて神社の歴史を長々と紹介しているものが普通だったが。この不親切な看板のお陰で、インターネット上にある探訪記には「由緒ある神社」と紹介しなが
ら、どこにも由緒が書かれていないものさえある。浮羽稲荷神社の来歴を調べるに当たり、最初に参照したのは『福岡県神社誌』(1945)。国立国会図書館のデジタルライブラリーに収録されている。旧浮羽郡内にあった120もの神社が紹介されており、これで簡単にわかるだろうと思っていたのだが、120社の中に浮羽稲荷神社の名前はなかった。あるいは以前は単独の神社ではなく、大きな神社の境内社だったのかもしれないと考え、各神社の解説を丹念に読んでみたが、それでも該当するものはなかった。ここでようやく、同様に赤い鳥居が連なる景観で人気の山口県長門市の神社が、比較的近年に個人によって創建されたことを思い出し、「浮羽稲荷神社の歴史も実は新しいのでは」と思い当たった。インターネットだけではらちがあかないと思い、勝手に自分の書斎扱いしている福岡市総合図書館の郷土資料室に向かった。平成の大合併でうきは市が誕生する以前、旧・浮羽町時代に編纂された『浮羽町史』(1988)に、欲しかった情報が明快に書かれていた。「昭和三十二年(一九五七)十二月、京都伏見、稲荷大明神を新設の城ヶ鼻公園内に勧請した。発起人は三斤会会員で、御幸地区民及び町内有志が賛助した」と。『町史』に書かれていた浮羽稲荷神社創建の経緯をかいつまんで紹介すると、以下の通りだ。発起人の三斤会とは、住民有志によって1924年(大正6年)に結成された懇親グループで、毎月1回、会員宅持ち回りで会合を開き、政治や教育、社会など様々な問題について意見を交わしていた。会場の会員宅には会から酒1升と肉3斤が提供される決まりで、これが会名の由来のようだ。1937年(昭和12年)の会合で、「住民憩いの場として公園を設置してはどうか」という提案が出され、建設地は現在稲荷神社がある山腹が最適ということで意見がまとまったが、この時は話は進展せず、やがて太平洋戦争が始まった。戦後の混乱が落ち着いた1955年(同30年)になってこの話が再燃、会員の一人が町議となっていたこともあって、町や町議会、公園予定地の地元・御幸地区、町民有志への働き掛けもとんとん拍子で進み、同年中に公園設立会も結成され、無事着工にこぎつけた。一見、神社は無関係のようだが、計画は「憩いの場としての公園と、信仰の場としての神社を結び付けて建設するのが構想であった」のだ。57年に社殿や道路などが完成、この年の12月、当時の町長、町議会議長らが京都に赴いて京都伏見稲荷から分霊を迎え、完成したばかりの浮羽稲荷神社社殿に祀った。これが(私にとって)謎だった浮羽稲荷神社の来歴だが、気になったのは、政教分離の問題だ。神社(公園)建設をリードしたのは、あくまでも民間団体の三斤会であり、建設に町の予算が使われたのかどうかも『町史』には明記はされていないが、町長、町議長が分霊を迎えに京都伏見稲荷に出向いたことだけでも、現在では問題になりかねない案件だという気がする。深読みかもしれないが、せっかく住民主導で生まれた神社であるのに、この歴史を大っぴらにPRできないのは、過去の話とはいえ微妙な問題を含んでいるからだろうかと疑った。長文にて失礼致しました。 以上
実は、この手の多くの鳥居を並べる神社が多いのです。形を変えた公共事業なのでしょう。
それは、総本山の伏見稲荷のインパクトが大きい事もあるのですが。
元乃隅神社 123基の赤鳥居が海に向かって並ぶ絶景神社

元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)は、昭和30年に、地域の網元であった岡村斉(おかむらひとし)さんの枕元に現れた白狐のお告げにより建立されました。昭和62年から10年間かけて奉納された123基の鳥居が100m以上にわたって並ぶ景色はまさに圧巻!。山口県屈指の絶景スポットとして人気があります。
神社のご利益としては商売繁盛や大漁・海上安全をはじめ、良縁、子宝、開運厄除、福徳円満、交通安全、学業成就など様々な願いごとができます。敷地内にある高さ約6mの大鳥居の上部に賽銭箱が設置されており、見事に賽銭を投げ入れて、願い事を叶えてください。※本神社は、島根県鹿足郡津和野町にあります「太皷谷稲成神社」とは関
係のないお社です。※写真:Koichi(@Kfish1882)
お断りしておきますが、津和野の太鼓谷様は以下の通りです。
太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めです。
村興し町興し、果ては世界遺産登録と言った新手の公共事業に御利益が在るのはご想像の通りです。
では、ここから稲荷様が何であるかをお話ししておきます。

伊勢の外宮様=豊受大神が辛国息長大姫大目命=アメノウヅメだとは書いてないではないかと思われる方も居られるでしょう。確かに、直接、外宮様=伏見稲荷様と書かれた神代系譜は無いのですが、二見興玉神社は「猿田彦大神」を祀っており、夫婦神としてのもう一つの「アメノウヅメ」様こそが外宮様なのです。
ウヅメとは大目であり(九州では瀬戸内海沿岸を除きO音をU音で発音するためですが)、筑豊の香春神社の主神である辛国息長大姫大目命(埴安姫を介した白川伯王の子孫)こそが伊勢の外宮様なのです。
問題は、伊勢の外宮様が伏見稲荷様と同体であるという事が分かり難いのです。
神社のフィールド・ワークでは、時たま伏見稲荷様=伊勢の外宮様と書いた由緒にも遭遇したことも何度かあるのですが、百嶋由一郎は神代系譜の中では伏せているものの、講演などではそれとして話していた事だけは間違いありません。
AIによる概要 豊受大神(トヨウケノオオカミ)と伏見稲荷(フシミイナリ)は、祀られている神様が異なりますが、**伏見稲荷大社は「稲荷大神(ウカノミタマノカミなど)」**を祀り、豊受大神は「豊受大神(トヨウケノオオカミ)」を祀るため、直接イコールではありません。しかし、豊受大神が 「衣食住」の神様で「穀物」に関わる
ことから、稲荷大神(商売繁盛・五穀豊穣)とご利益が似ており、「豊受稲荷」のように稲荷と豊受が合祀されたり、神仏習合の形で共に祀られる神社も存在します。
豊受大神(トヨウケノオオカミ)について伊勢神宮外宮(げく)の主祭神で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の御饌都神(みけつかみ:食事を司る神)です。
衣食住、五穀豊穣、商売繁盛などを司る神様として、広く信仰されています。
伏見稲荷(フシミイナリ)について伏見稲荷大社(京都)に祀られているのは**稲荷大神(ウカノミタマノカミ)**が主祭神です。五穀豊穣、商売繁盛など、豊受大神と同様のご利益で知られ、全国の稲荷神社の総本宮です。関係性・混同される理由 ご利益の重複: 豊受大神と稲荷大神は、どちらも「食」や「穀物」「商売」に関わる神様なので、ご利益が近いです。神仏習合: 神仏分離以前は、神様と仏様が一緒に祀られる「神仏習合」が一般的でした。そのため、稲荷信仰が広がる中で、豊受大神(稲荷大神と同一視されたり、共に祀られたりする)と結びつき、「豊受稲荷」のように合祀される神社も多く見られます。まとめると、別々の神様ですが、ご利益が似ているため、信仰の上では結びつきが強い、ということです。
079白川伯王系譜A ![]()
まあ、AI様はこうしか書かないでしょうが、伊勢稲荷様とは大山祇の長女ミヅハノメとスサノウの間に生れた方で卑弥呼宗女伊与の母君でもあるのです。
当然、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦の妻でもあるのです。ただ、外宮様の先夫は阿蘇氏の草部吉見であり、後の夫であるニギハヤヒ=猿田彦=山幸彦と添い遂げられているのです。
これは伊勢の二見のルーツである九州の二見浦の夫婦岩(糸島市)



にお読み頂き有難いと思っています。
















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