ひぼろぎ逍遥1146(後) 徳川家は筑豊から避退した物部25部族筆頭二田物部氏だった
20251210
太宰府地名研究会 古川 清久
後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、持明院統に近く冷遇されていた貴族西園寺公宗と北条高時の弟泰家の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、光厳上皇が尊氏に対し新田義貞追討の院宣を発給し、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧。北朝の光明天皇即位を支援し、光明天皇から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。一度は尊氏に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。幕府を開くにあたって、尊氏は是円・真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。征夷大将軍として幕府の軍事を取り仕切り守護を纏めた。これを支えた保守派の直義に対して、尊氏の執事高師直は執事施行状など尊氏の意を受け先進的な体制を取りいれていた。後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天龍寺を建立し、全国の戦没者を弔うため66の安国寺利生塔を設立させた。その後、師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。
生涯 誕生と家督相続
尊氏は嘉元3年(1305年)7月27日[6][注釈 1]、足利氏当主の貞氏の次男として生まれた[8]。確実な生誕地は不明で、足利氏の本貫(名字の根拠の地)である下野国足利荘(栃木県足利市)・上杉氏の本貫である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)・鎌倉幕府の本拠地である相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)などの説がある[9]。京都の綾部安国寺には、足利尊氏が浸かったといわれる産湯の井戸や母・清子が男子出生を祈願した地蔵菩薩が残されており、尊氏の産着や毛髪なども保存されている。日本史研究者の清水克行によれば、当時の足利氏は幕府の実質的支配者である北条得宗家と友好関係を保つため鎌倉に活動拠点を移していたため、2013年時点では鎌倉誕生説が最も有力な見解とされてきたが、鎌倉での記録もないため、京都綾部誕生説か鎌倉誕生説かは未だ決着がつかないままとなっている[9]。
母は貞氏の側室・上杉清子。貞氏の正室・北条顕時の娘が産んだ嫡男の足利高義は母違いの兄。後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。
幼少時より家督を継ぐことのない次男として育っていたが、13歳の時に兄の高義が21歳で死去したことによって、父貞氏の後継者の立場になる。そして元応元年(1319年)10月10日、従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる[10]。このとき15歳。また、同日に元服をし、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる[注釈 4]。
足利氏の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたが、兄であり貞氏嫡男の高義の死後であるにもかかわらず「又太郎」と名付けられたのは、貞氏が北条氏との姻戚関係を重視し高義の遺児が家督を継承することを重視してのことと考えられる[12]。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた[13]。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹・赤橋登子を正室に迎えた。なお後に守時は鎌倉幕府の執権となる。元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去すると高氏が家督を継ぎ、26歳で源氏足利家の当主となった。楠木正成の戦を描いた勝川春亭画「和州如意輪堂合戦」。右上方に足利尊氏が描かれている。 元弘の乱
→詳細は「元弘の乱」を参照
元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加した。このとき、父・貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとされる。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった[13]。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせず、さっさと鎌倉へ戻っており、花園上皇を呆れさせている[14]。元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた[15]。
篠村八幡宮と足利高氏旗あげの地碑(京都府亀岡市)
正慶2年(元弘3年/西暦1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻・登子、嫡男・千寿王(後の義詮)を伴おうとしたが、幕府は人質として2人を鎌倉に残留させている。高氏は京都への上洛途中、三河国八つ橋まで来たところで、幕府に謀反を起こすことを吉良貞義を含めた腹心に打ち明け、同意を得た。三河国で謀反の志を打ち明けた理由は、三河国が足利氏一族や被官が濃密に分布していたからであると考えられる[16]。その後、海老名季行を密かに船上山へ参候させ、後醍醐より討幕の密勅を受け取った。
高氏らは上洛し、名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、4月29日、船上山と京都を繋ぐ山陰道の要衝であり、また千種忠顕軍が展開していた丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。この際、高氏は九州の薩摩国にまで催促状を出しているが、これは距離的に六波羅攻略のためでないのは明らかで、将来高氏自身が独立して政治を行う時のために九州の豪族を味方につけるのが目的だったと考えられる[16]。関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も尊氏の名代として参加している。一方、高氏の庶長子・竹若丸は伯父であり、走湯山密巌院別当だった覚遍に伴われて山伏姿で密かに上洛しようとしたが、途中で北条の手の者に殺害されている。静岡市駿河区には竹若丸と従者を供養したと伝わる将軍塚が残り、付近の円福寺の将軍堂には竹若丸の騎馬像を胎内に納めた足利尊氏坐像が安置されている。高氏が倒幕を決意した原因は、『太平記』や『梅松論』に見えるように、亡父の法要を満足にできぬまま出兵させられたことが1番に挙げられる[12]。また足利氏は、建長2年(1250年)の閑院内裏造営や、建治元年(1275年)の六条八幡宮造営などで、多額の費用を負担させられており、北条氏による足利氏への経済的要求は他の御家人と比較して突出していた[12]。加えて『吾妻鏡』には、足利義氏と結城朝光が書状の書式をめぐって争った際、義氏が足利氏を源氏一門として別格であると主張したのに対し、朝光は御家人としての立場は変わらないと主張し、その論争に仲裁に入った幕府は朝光の主張を正当なものとした、という記述がある。この裁定は、御家人の中に特別な存在を認めることは幕府(=北条氏)にとって得策ではなかったからである[12]。しかし、逆にこの出来事を『吾妻鏡』に記したことは、『吾妻鏡』が「北条氏得宗政権を正当化する弁解状だった[17]」ように、こうした話を挿入すること自体に、北条氏が足利氏を特別視し、その立場に対する警戒心(足利氏を抑え込もうという意識)が現れているとも考えられる[12]。
建武の新政
→詳細は「建武の新政」および「後醍醐天皇」を参照
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされた。鎮守府将軍となり、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年(1333年)6月12日、従四位下、左兵衛督となる[10]。
同年(元弘3年)8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに、尊氏と改名した[10][注釈 5]。尊氏は建武政権において参議という中枢機関の要職に就き、足利家の執事である高師直、その弟・高師泰をはじめとする家臣も多数起用されたことから、後醍醐天皇からはかなり厚遇されていたようである。新政府の各種機関に名を連ねていないことで世間から「尊氏なし」と揶揄されたが、実際は奉行所をいち早く立ち上げ、後醍醐天皇の綸旨を受け通達する文書を多数出しており、更には後醍醐天皇の命により北条高時を供養するため宝戒寺の建立にも携わっていたことから、尊氏は建武政権時から既に武士を束ねるべく頭角を表していたと言える。正慶2年(元弘3年/1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父・後醍醐天皇の命で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。中先代の乱→詳細は「中先代の乱」を参照建武2年(1335年)信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で淵辺義博を遣わし護良を殺害させた。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま4万の軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。建武の乱 →詳細は「建武の乱」を参照 尊氏は、中先代の乱の戦後処理のため、また関東の防御を固めるため京都には戻らず鎌倉に留まった。
上洛の命にも応じなかったため11月、後醍醐天皇は義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めていた。尊氏は赦免を求めて寺に蟄居し出家すべく断髪(一束切)する[注釈 6]が、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出陣する。『太平記』ではこの時、異形の尊氏が敵に狙われぬよう鎌倉中の武士が皆一束切になったという逸話が残っている。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津国豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津国兵庫から播磨国室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。建武3年(延元元年/1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前国多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。尊氏は洛中をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている[注釈 7]。足利勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲った。室町幕府 設立 →詳細は「室町幕府」を参照1336年11月7日、尊氏は、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへ諮問して『建武式目』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。内容が厳格なため直義の意向が強く働いたのではないかとする説があるが根拠はない。むしろ『建武以来追加』で尊氏は下知に従わない守護に対し将軍自ら裁定を下すことを沙汰しており、その厳格さがうかがえる。 実質的には、この『建武式目』をもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して(北朝と南朝とのどちらが本物の三種の神器を保有していたかは不明)独自の朝廷(南朝)を樹立した。新政権において、尊氏は軍事指揮権と恩賞権、そして守護の補任と、武士の棟梁として君臨し、その他の業務を直義と師直に任せた。佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。しかし、室町幕府創設時は尊氏の発給文書は直義の3倍にも上り、『建武以来追加』には上記のとおり尊氏による御沙汰が多く反映されている。尊氏は建武の新政においても奉行所を設置し後醍醐天皇の勅命を受けその手腕を発揮しており、幕府の根幹となる事案は将軍である尊氏が担い、雑訴などの日常的な実務を直義が担っていたとする見解も出てきている。幕府体制が落ち着くと次第に直義の発給数は増えてゆくが、その数は尊氏が最も多く出した発給数と比較しても6分の1と少なく、尊氏とほぼ同じか多くても2倍にも満たない。また、直義が出した軍勢催促も尊氏が口頭で指示を出した旨が島津家文書に残されており、将軍という立場ゆえの上位下達の存在を無視するわけにはいかない。暦応元年(1338年)8月11日(新暦9月24日)[20]、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ[21]、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は夢窓疎石に勧められ、「報恩謝徳」「怨霊納受」のため、光厳上皇の院宣で天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。さらに、光厳上皇の院宣をもとに、諸国に安国寺と利生塔の建立をさせた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。対して直義も貞 和元年あたりから直冬を養子に迎えたり神護寺に自身と尊氏の肖像画を奉納するなど自己顕示が活発化、師直との対立が目立つようになる。 この頃直義は異様に大きな花押を書いているが、これを直義の自信からくる権威の現れと見るか、認めてもらいたいとするフラストレーションと見るか意見が分かれている。 以上引用終了

世良田東照宮 カーナビ検索 群馬県太田市世良田町3119-1
八幡太郎義家の名で知られる源 義家は良く知られてはいますが、一般的には徳川家のルーツと言った事にはそれほどは知られてはいない様に思えます。
その背景には、自らが葬った前権力の成立時の事など正確には伝える必要など一切無いという以上に、幕藩体制期には鎖国政策が採られ国家の発展が著しく遅れ西欧列強の言いなりになっていたとか、士農工商〇●といった階級差別が存在していた…と言った前政権を貶める政策が採られるのは致し方ない部分があり、正確な認識が失われているからであろうと考えるのです。
それは、徳川が豊臣政権に対する姿勢も同様で、秀吉を猿扱いにした…という嘘か誠か分からな
い話に繋がり、時々の政権の態度に反映される影の部分が有る事で多少は想像が着くでしょう。
鎖国と言う表現もその一つで、決して外国貿易が禁止されていたのではなく、貿易利権と情報入手を独占していただけの話であって、寧ろ戦国期を通じて列島でも数十万人レベルで奴隷貿易を行っていたイエズス会系のポルトガル宣教師や東インド会社…の元では秀吉政権を倒しつつも、その事実を承知していた徳川政権は秀吉の伴天連追放令(1587年)を継承し、天草島原の乱という残忍ではあるものの実に正しい政策を取り続け植民地化からの逃れたのでした。ただ、更に欲張れば伴天連追放令を取りつつも、対外開放政策を取り鉄砲の数だけでも当時最高の武装力を達成していた列島の東南アジア進出にブレーキを掛けたとまでは言えそうなのです。
ここまでの話から、八幡太郎義家の孫の代で分かれた長男の系統(群馬の新田)上野国=コウズケの国、次男の系統(栃木の足利)下野国=シモツケの国〜別名上州(上州とくればこれはどうしても新田郡三日月村の「木枯し紋次郎」になりますね)の流れから戦国争乱期を経て、贅沢な話ですが、室町政権と徳川政権という二つの武家政権が成立している事に気付くのです。
足利氏と新田氏
南北朝の初期、互いに争った足利氏と新田氏は先祖を同じにする同族同士でした。
源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重(1114〜1202)は足利庄を出て上野国新田庄(群馬県新田郡)で新田氏を称し、二男義康(1127〜1157)が足利氏を継いだのです。
なぜ長男の義重が足利の家を継がなかったのか、その理由ははっきりわかっていません。作家の海音寺潮五郎氏は義康の母は後妻だったので先妻以上に義国に愛されていたためではないか、と書いています。
注意:新田義重の生年には1114年、1135年の二説がありますが、1135年ですと義康の兄にはなりません。また義康の生年も1116年、1127年の二説があります。
長男でありながら実家を継ぐことができなかった義重の胸中はどんなものだったのか。
とても平常心でいられたとは思えませんし、いつの日か本家を凌いでやる、くらいのことは思ったことでしょう。極端なことを言えば、このことが後の足利氏と新田氏の確執の原因となるのです。
1180年、源頼朝の挙兵を知った新田義重は頼朝の協力要請を断り、独力で平氏打倒を目指し、兵を寺尾城に集結させます。寺尾城は群馬県新田郡とも、高崎市とも言われています。
源氏一族には平氏のように一族皆仲良くして、共に繁栄しようなどという美しい同族愛(?)は一切ありません。我こそは、我こそはという人ばかりで、源頼朝が弟の義経や範頼、同族の佐竹氏を討ったのは象徴的です。
義重の場合、足利を見返す良いチャンスだとでも思ったことでしょうし、頼朝は義重の従兄弟為義の孫にあたります。このため案外頼朝のことを軽んじていたのではないかとも思います。
しかし挙兵したものの兵の集まりが悪く、頼朝の勢力がまたたく間に強大となってしまったので、義重は平氏打倒を諦めざるを得なくなります。そしてこの挙兵が源頼朝の疑心を招き、義重は自ら鎌倉に赴き申し開きをしなくてはならなくなります。
釈明が認められ義重は赦されて帰郷しますが、ほっとするのもつかの間、とんでもない事件に巻き込まれます。
源頼朝の長兄は義平(悪源太義平)といい、新田義重の娘を妻にしていました。
義平は平治の乱の敗戦後、一族が散りじりになった後も平清盛を倒そうとして捕らえられて殺されています。頼朝はまだ少年だったころこの兄嫁に会ったことがあり、子供心に心ときめいたようです。鎌倉の主となった頼朝は、ふとしたことからこの兄嫁が義平の死後は実家の新田に戻っており、誰とも再婚していないことを知りました。
昔の思い出が忘れられず、あろうことか頼朝は彼女にラブレターを送ったのです。
困惑したのは新田義重でした。頼朝の妻北条政子の気性の激しさと嫉妬深さを知らぬものは坂東にはいません。恐怖した義重は慌てて娘を他家に嫁がせてしまいます。頼朝はやり場のない怒りを新田氏に向け、結局新田氏は鎌倉幕府の中でも要職を得ることはできなくなります。
風神ネットワーク 様 問題はここからで、徳川家が実は筑豊まで北上した大山祇系の物部氏だったことなのです。


にお読み頂き有難いと思っています。
















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