2026年08月18日

ひぼろぎ逍遥1147 古事記と日本書紀を創った勢力とは何か

ひぼろぎ逍遥1147 古事記と日本書紀を創った勢力とは何か

20251214

    太宰府地名研究会 古川 清久


無題.png今年も一夏で62キロ泳ぎ(一日当たり1.5キロ程度)、今年も風邪などならないだろうと思い込んでいたのですが、無理をしたからでしょうが、5日前辺りから上方風に表現すれば、外気温がマイナス34度まで降った日があった時を挟んで冷え気を感じていました。1221日には筑紫野市で講演予定のため心配していましたが、最近知り合いになった神社にかなり深い関心を持たれる女性から頂いたツムラの漢方製剤「補中益気湯」が即効で劇的に楽になり、有難くも今月分のブログを書き進めているところです。

当会のメンバーは厚生労働省の言う事など全く信用していない人々ばかりで、間違ってもコロナ・ワクチンなど絶対に打たない訳で、医療不信が極限まで深化している訳です。尾身を引き摺り出し、市中引き回しにしろ!と言う者ばかりです。それはここまでとして、ツムラと言えばツムラ順天堂ですよね。…


無題.png 上方では、緒方洪庵先生が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾適塾。1838年開学。正式名称は適々斎塾、別称は適々塾。塾名の由来は、緒方洪庵の号である「適々斎」。幕末から明治維新にかけて福澤諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。…が著名です。「適塾」より。

 無題.png一方、江戸の蘭学は、佐藤泰然の順天堂になります。

 私の出身地の佐賀県武雄市の隣町にも、地価の安さからでしょうが、順天堂の介護施設だか老健施設だかができていますが、古くは長崎街道の沿線に施設を造りたかったのではないかと密かに思っています。


順天堂は1838(天保9)に佐藤泰然が長崎留学から戻り、江戸の薬研堀(現東日本橋)に医学塾「和田塾」を開いたときからはじまる。それから175周年。20144月に祝典が行われる。

江戸には杉田玄白の蘭学塾「天真楼」が始まって以来、有名な蘭学塾がいくつもあったが、「和田塾」は外科塾として名をあげた。その後、泰然は和田塾を女婿林洞海に任せて、自らは佐倉に移るが、林洞海は将軍家定か危篤になったとき町医から奥医師に抜擢された名医であった。

当時の外科の記録「外科実験」 佐倉に移った泰然が開いた順天堂は外科塾として大いに名をあげ、医学生が全国各地から集まった。当時の外科の記録「外科実験」が残るが、その中に嘉永4(1851)に日本で最初の「小便閉膀胱穿孔術」を泰然が行った例がある。尿閉の患者に膀胱穿孔をす無題.pngると、大激痛のあと尿が自然に出て治ったと記す。後はどうなっただろうか?

泰然の次男松本良順が他所で経験したテタヌス(破傷風)の記録もあった。患者は40歳の武士。良順の他に有名な医師も呼ばれたが、良順だけが患者の後弓反張(背中が反り返る)をみてテタヌスと診断した。しかし、幕府の医師良順は治療していない。当時、幕府の奥医師は漢方以外の、つまり西洋医学の治療をすることが禁じられていたからだった。


 こうして、上方の緒方洪庵の適塾、江戸の佐藤泰然の順天堂…が日本の医療の先駆けと成って行ったのでした。その結果、日本の医療がどうなっているかは皆さんのご判断にお任せします。

 尾身を市中引き回しろ!コロナ・ワクチン「予防効果あまりない」とイケシャーシャーと言って

いるのですから、医は算術、出世の道具で、どんな犠牲が出ても知らんぷり…実に降らない俗物、人生、地獄に落ちろ! ツムラと言えば 冒頭から、何の話をしているのかと言われますので、ここでやめておきます。改めて“古事記と日本書紀を創った勢力とは何か”の話に入ります。


無題.png“古事記と日本書紀を創った勢力とは何か”


 風邪でまいっていた時、松浦党研究連合会の後継組織である伊万里市のブランチでお知り合いになった、H様から手紙を受け取りました毛筆で書かれた丁重なお手紙を頂き、「古事記、日本書紀をつくった人達の名前をご教示いただければ幸いです。」との照会を頂きました。

 個人的には、我が師百嶋由一郎の言葉を使えば、「古事記の95%は嘘です…」でしかなく、「日本書紀に至っては一書に曰くで…ちょこっとだけ本当も書いている…」で少しはまし…程度での認識しかないため、ある意味気乗りのしないテーマであり、基本的には年末に厄介な作業を加える事になるのです。ただ、ブログのテーマとしては良くある質問でもあり、ブログを一本書くという事にはなるため多少は許容範囲と考え、おっとり刀を取り上げる事にしたものです。

 ただ、私は神社研究者であって、大まかに言えば5世紀以降は余り関心が無く不得意なジャンルに成ります。ただ、思いつく範囲でお答えはしますのでその程度でご理解頂く事にします。

奇妙なのはなんでそんなことに執着されるのかがでありそちらの方にこそ関心を持つのです。

 まず、一般的に言われている説をご紹介します。


『古事記』の成り立ち 712


『古事記(こじき)』が完成したのが712年(和銅5)。太安万侶(おおのやすまろ)の序文(じょふん)には、天武天皇(てんむてんのう)が、舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて誦み習わせた帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を、天武天皇の没後に、元明天皇(げんめいてんのう)の命令で、太安万侶が撰録(せんろく)し、712年に進上した、と記されています。

帝紀とは、歴代の天皇の系譜。旧辞とは、古い時代に、各地の氏族に口誦で伝えられた様々な伝承のこと。

その系譜や伝承が、一つの大きな物語として体系化されたのが、天武天皇の即位後の7世紀後半ごろ。その体系化された物語が、日本の「歴史」として、文字に記録され元明天皇に進上されたのが712年になります。


現存する最古の歴史書

710年に都が藤原京(奈良県橿原市)から奈良の平城京に移されました。その2年後の712 年、太安万侶(おおのやすまろ)によって『古事記』がまとめられました。これは、7世紀後半の天武朝に天皇の命を受けて、稗田阿礼(ひえだのあれ)が習誦していた歴史を太安万侶が筆録したものです。日本の歴史を叙述したものとしては現存最古であり、日本の古代史を語る際には欠かすことのできない根本史料です。


神話が重視されている


『古事記』は、神代から推古天皇までを紀伝体で記述しています。上・中・下巻の3巻から成っていて、このうちの上巻は神代にあてられており、神々の世界が描かれています。具体的には、天地開闢から始まって天孫降臨に至るまでが叙述されています。

このように上巻の出だしは天地が分離したことから始まっているわけですが、太安万侶が記した序文では、天地が未分離の状態から書き始められています。

しかし、いずれにしてもここから言えるのは、神話の比重が大きいこと。このことは神代の昔から葦原中つ国(地上の国)の支配者は天皇家であるということを強調していると思われ、ここにこそ『古事記』の最大の編纂意図があると言ってよいでしょう。 中巻は神武天皇から応神天皇までが記されています。この時代は、神武天皇の東征伝承や神功皇后のいわゆる三韓平定伝承などをみてもわかるように英雄的な天皇が多く登場します。

下巻は聖帝伝承で有名な仁徳天皇から推古天皇までのことが記されていますが、最後のほうになると記述がとても簡単になっていて、有名な聖徳太子の伝承などはほとんど記されていません。


日本書紀の成立 720


AIによる概要

『日本書紀』は藤原不比等(ふひと)が中心となって編纂に関わった、天皇の命で編纂された日本初の**勅撰(ちょくせん)国史です。不比等は『日本書紀』を通じて、藤原氏の権力基盤と天皇家(藤原氏の外戚関係)を強化する「歴史の書き換え」を行ったという見方があり、蘇我氏を悪役として描くなど、藤原氏の意図**が色濃く反映された書物とされています。

編纂の背景と藤原不比等の役割

発令と完成: 『日本書紀』の編纂は天武天皇の命で始まり、養老4年(720年)に元正天皇に奏上され完成しました。編纂の実務は舎人親王が中心でしたが、藤原不比等が「黒幕」として深く関与したとされています。

律令国家の建設: 不比等は『大宝律令』の編纂にも携わり、天皇を中心とした中央集権国家の基礎を築きました。その中で、歴史書である『日本書紀』を用いて、自らの政治的正当性と藤原氏の地位を確立しようとしました。

歴史の操作: 蘇我氏を貶め、中臣氏(藤原氏の祖)の立場を有利にするような記述が見られ、これは藤原氏の権力強化と目的があったと指摘されています。

『日本書紀』の特徴

初の勅撰国史: 天皇の命で編纂された日本最初の公式な歴史書です。

『古事記』との関係: 『古事記』(712年完成)より多くの史料を用いており、『古事記』よりも詳細で多彩な史料(中国の史書、朝鮮半島の記録など)が使われています。

漢文記述: 神代以降は歴代天皇の事績が漢文で記され、中国の正史(『史記』『漢書』など)を意識した構成となっています。

結論

『日本書紀』は、単なる歴史の記録ではなく、藤原不比等が中心となって日本の国家体制と藤原氏の地位を確立するために編纂・「演出」された、政治的な意図が強く反映された歴史書と言えます。


 無題.png大まかな話はどれも似たり寄ったりでこれで良いのですが、実際にはこの背後に巨大な秘密が存在するのです。

 まず、白江戦(所謂白村江の戦い)は天武天皇と言うより、その名さえも消された天武天皇の父が宗像〜太宰府を拠点に迎え撃ったもので(本城は宮地嶽神籠石)、天武天皇も含め、元々は鞍手郡から宗像市一帯を拠点にしていたのです。

 鬼室福信の要請に対して、斉明天皇は百済王朝再建を約束し、自ら飛鳥を出て筑紫(九州)へ移ることにした。筑紫へは、各地で武器を調達し、兵を集めながらの長旅となった。…と言った話は後の天智系藤原王権(実質阿蘇氏)による偽装でしかないのです。

 百済救援のために兵船800艘を送り、400艘は逃げ帰っており、これが現在でも続く宗像と古賀、志賀島、宮地嶽の地域的な不仲の原因とも言われているのです。

 その後、唐の武官、文官 劉仁願や郭務悰(が送り込まれ8年間の占領政策が敷かれているので

す。これを事前に察知し、天武帝は無抵抗で、奈良に本拠地を移すのです。

 従って、白江戦を雄々しく戦ったのも九州王朝の天武の父+天武であり、その天武が古事記を創り始め、先に古事記が上程され、天武系を一掃した後、成立した事実上の藤原王権(阿蘇氏=雲南省麗江から海南島経由で阿蘇に入った黎族)により日本書紀が創られるのです。

 これは通常、九州王朝論とか九州王朝説と言われる範疇に入りますが、元々、古田武彦九州王朝論に学生時代から嵌ってしまい、50位までは古田史学の会に籍を置くも、古事記が正しく日本書紀は誤りとした古田武彦の立場に疑問を感じ、同会を離脱するのはもう20年も前になりますか…。

 無題.png古事記も日本書紀も殆どでたらめな皇統を繋いだもので、周王朝の血を継承する呉の太伯王の血脈を保っていたのは、初代神武(カムヤマトイワレヒコ)、ワン・ポイント・リリーフで共立された天照大御神=卑弥呼=オオヒルメムチ(父神=列島大率姫氏、母神=兵庫県佐用都比賣神社(式内社・旧縣社)の神殿裏に祀られる天照御祖神社)、第4代威徳天皇(神武と吾平津姫の子)、79代孝霊、孝元、開化、14代でしたか開化と神功皇后との間の長子若宮こと仁徳天皇。ぐらいしか本物の呉の正統皇統は存在しないのです。

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勿論、天武もその父も宗像〜鞍手一帯に拠点を持っていたのですから7世紀半ばの白江戦前後までは九州に拠点を置いていたのです。

 それが恥ずかしいからか天智系の斉明が朝倉までのこのこやって来た事にしているのです。

 その天智系(実質阿蘇系外戚)の藤原天皇制が数百年続くのですが、はっきりした形では鎌倉政権の登場によって、筑豊から逃げ出し新潟から関東に入った物部氏の後裔である関東武士団〜室町幕府〜徳川幕府に引き継がれ関東武士団の千年王国が始まるのです。

 ただ、この事は神社研究(百嶋神社考古学)+佃収九州王朝論を把握できないと理解できるはずもなく、ここでは天武天皇とその父の業績の一端から理解していくしかないのです。

 それを佃収早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)では第3章阿毎王権から天武王権へ(佃説)では212213pしか触れてなく、第3部「王権乱立の時代」(佃説)を読んで頂く必要があります。

ネットで「佃収」と検索して下さい。

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ただ、九州王朝論を多少とも理解され、九州年号の56系統の分裂を理解されていない方には、卑弥呼以来8世紀初頭まで単一の九州王朝が存在していたと言ったとんでもない誤解を受け入れてしまう事に成るのです。

 まずは、天武天皇とその父の業績を知る必要がありますが、「古代史の提言」シリーズBの200pを読む必要がありますが、さしあたっては「九州王権」と年号(その五)「天武王権」と「日本の歴史」(一)-「天武天皇の父」と天武天皇-から70p余りをご紹介しますが、PDFで公開しますかね。241317p

 問い合わせの方には70p余りをコピーしお送りしますが、その前に佃収講演録10時間をお読み頂こうと思っています。

AIによる概要

群馬県で「二田(にた)」という地名やそれに由来するものは、主に**「二田城」(にたじょう)に関連し、物部氏族が居住した歴史があり、「新田(にった)」**という地名や姓氏(新田義重など)とは異なりますが、同様に上野国(群馬県)の歴史的地域と関わっています。

詳細

二田(にた)の地名:紀元前後に九州から東遷してきたとされる物部氏族の「二田氏」が住み着いたことに由来するとされ、二田城の周辺(現在の高崎市周辺)にあったと考えられます。

二田城(にたじょう):この二田氏が築いたとされる城で、歴史的な重要性を持っています。

新田(にった)との違い:よく似た音の「新田(にった)」は、清和源氏の一族で、源義重が上野国新田郡に土着して名乗ったことに始まる有名な地名・姓氏で、「二田」とは起源が異なります。

まとめると

群馬県における「二田」は、古代からの物部氏族にルーツを持つ地名・氏族であり、歴史的な「二田城」と結びついていますが、より広範な「新田」とは区別されるべきものです。 馬鹿

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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