ひぼろぎ逍遥1148 日田市の大原八幡宮とは何なのか?
20251220
太宰府地名研究会 古川 清久
ふとした事から大分県日田市の高官とお知り合いになる機会を得たことからそもそも日田市とは何なのかを改めて考えることにしました。中でも大原八幡宮はその象徴とも言えるものなのです。
皆さんも日田が天領であった事は十分にご存じかと思いますが、九州の中央部に位置し周囲が険しい山岳地帯に囲まれるも西に開けその隘路を九州最大の河川筑後川が流れ下り、博多、太宰府、久留米という要地に容易に進出できる天恵の地でもあり、誰もが本拠地を置くとすればこの地以外には在りえないと思える土地だったのです。
加えて、鯛尾金山が幕末以降も操業を続けており、正しく九州支配の観点から言えば最適の地だったのです。遡れば、鎌倉期(元寇に晒される)に於いてもその奥の南小国に地頭職が置かれ、宿敵阿蘇氏に睨みを利かせつつ、更に安全な場所に防衛拠点を置いていた事でも良く分かるのです。

無論、全ての時代に亘って日田市を概括する能力は元より、そのつもりもないのですが、ここでは、これまで取り上げてきた日田の特異な時代的特徴に絞ってお話をして見たいと思います。
まずは、ここ数年書いてきたものから。ご紹介いたします。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
1022 | 日田を八咫烏王国とするとかつて取り上げた宇佐は 駅館川河口の川上神社が蘇ってきた ❶ |
1021 | 有王社は蟻通神社だった “有王社は、何故、周防の 櫛崎から持ち込まれたのか” |
1020 | 有王社は蟻通神社 ❿ “推定 祭神を入れ替えた 大蔵氏入府以前の日下部氏とは何か?” |
1019 | 有王社は蟻通神社 ❾ “祭神を入れ替えた後漢靈帝の 別れ阿智王の一族としての大蔵氏” |
1018 | 有王社は蟻通神社 ❽ “事代主のブログ氏の蟻通神社”を転載 |
1015 | 豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある ❼ “有王社の基層に蟻通神社があったと考えたならば“ |
1014 | 蟻通神社をご存じでない方のために ❻ |
1013 | 続々大分県日田市の「有王社」を疑う“ ❺ 「平家物語」の有王童子がここに祀られる必然性は無い |
1012 | 続 大分県日田市の「有王社」を疑う ❹ “蟻通神社を消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか” |
1010 | 大分県日田市の「有王社」を疑う “新ひぼろぎ 逍遥からの転載” ➌ |
1009 | 豊後の日田市は八咫烏(=豊玉彦=豊国主)の 都だった ❷ |
1008 | 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の 宮原誠一氏が報告されています➋ |
1007 | 日田市大原八幡宮の元、元々宮を当会の 宮原誠一氏が報告されています➊ |
1006 | 大分県日田市の「有王社」を疑う ❶ |
1005 | 再び大分県日田市の「大原八幡宮」を考える |
1004 | 再び大分県日田市の「加々鶴」地名を考える |

紹介したものから興味を持たれるものをネット検索されても良いのですが、日田市と言えば事実上の豊後一宮とも言える大原八幡宮であり、その宮司家としての大蔵一族、財津一族に関して彼らが何者であるのかについて多少のコメントを加えたいと思います。
新ひぼろぎ逍遥
958 | 気ままな上州への神社調査 ❹“中央高速阿智PAの昼神温泉と 阿智村その「阿智」とは?“(下)阿智神社を役場図書館の資料から |
957 | 気ままな上州への神社調査 ❸“中央高速阿智PAの昼神温泉と 阿智村その「阿智」とは?“(中)阿智神社へ参拝 |
956 | 気ままな上州への神社調査 ❷“中央高速阿智PAの昼神温泉と 阿智村その「阿智」とは?“(上) |
白江戦として国家を揚げて闘ったのは間違いなく天武天皇の父親で(本拠地は宗像から太宰府一帯)、それを引き継いだのが天武天皇だったのですが(佃修九州王朝説)、恐らく阿蘇氏、高木大神、天智系の裏切りによって、800隻の軍船の半数が撃滅され、不思議と400隻は逃げ帰っているのです(中小路駿逸説)。
この九州王朝の敗戦の結果、天武帝は本拠地を安全な奈良に移すのですが、それは7世紀以降の話であって、唐新羅連合軍に敗残した結果、太宰府が占領され、その百済領占領軍の武官鎮将劉仁願に送り込まれた文官郭務悰の支配工作を受ける時代に成ると、その後の九州王朝後の近畿大和朝廷の支配を受ける事になったのです。その後、その代理人として送り込まれたのが、後漢の霊帝の一族だったのです。それが、大蔵、財津氏でもあり、詳しくは以下辺りから読み始めた方が分かり易いでしょう。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
697 | 物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か? |
696 | 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県 日田市の大原八幡宮を疑い再考へと” |
695 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町 の大原八幡神社” |
694 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町 の大原八幡神社” |
この大蔵氏に象徴される一族は、皆さん良くご存じの漢帝国の初代劉邦の後裔氏族で、「新」を
挟んで、前漢、後漢に跨る王朝で、所謂、中国本土を支配した漢族そのものの政権だったのです。
実質、漢族と言われるのはこの辺りまでの人々であって、その後の、魏、呉、蜀の辺りに成ると、
北方系騎馬民族に追い立てられ、実質的には異民族とも言うべき、隋、唐(こいつらは半島から遼 寧省から東北部に展開していた実質は鮮卑族)なのです。その最後らしい漢族も、とうとう列島に亡命しているのです。
それは、後漢も霊帝の時代に成ると(第12代)、宦官の十常時に皇位継承の決定権迄奪われ、半島経由で列島に移動するしか無くなってしまったのでした。
この一族は、多くの臣民を率いて入っているため、別姓を名乗っているケースが多く、その中心的氏族には、田尻、原田、秋月、笠、龍、坂上に前述の大蔵、財津、阿智…と多くの名を使いつつ姻戚関係を深めており、かなりの有力な氏族に成っているのです。
有名なのが、「男はつらいよ」に登場した帝釈天の御前様役として知られる笠智衆で、これも初代劉邦の劉氏を置き換えた姓なのです。同様に、鳥栖、基山方面に多い龍も同様の置き替えであることは一目なのです。笠智衆の場合は熊本県玉名市の旧小天町の某浄土真宗系(本願寺派)の跡継ぎだったのですが、どうしても映画界に進む事を諦めきらず、松竹の俳優に成ったのでした。
この阿智王の話を知ったのは、熊本県庁の東隣で建築会社を営んでおられた田尻様に劉邦依頼100代の系譜を見せて頂き、熊本市の西の金峰山中腹に劉邦、霊帝、阿智王の廟を建てられている事を知り、何度かトレッキングを重ねたことがあったからでした。
一度、田尻様の御本家に呼ばれたことがありましたが、その上に笠智衆の旦那寺が在り、正しく同族である事が良く分かったのでした。実際、久留米市内にも「笠」姓が異常に多く、若しかしたら劉氏の一族ではないかと思っていたのですが、これについてはクリーン・ヒットだった訳です。
一方、日田市の大原八幡宮に目を移すと、神社研究者としては絶対に許すことのできない祭神の入れ替え、偽装、隠蔽が目に余り、九州王朝を抑え込むために、大蔵の一族が近畿大和朝廷の先兵=植民地総督として振舞っていた事が鮮明になったのでした。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
697 | 物部の大原足尼命を祀る日田の大原八幡神社とは何か? |
696 | 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県 日田市の大原八幡宮を疑い再考へと” |
695 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社” |
694 | 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社” |
大分県には、宇佐八幡宮の力があまりにも強いためか、そもそもどの県でも存在する「大分県神社誌」と言ったものが存在しないことから神社の祭神が一般的には容易には把握できないのです。実は、福岡県みやこ町、苅田町にも同系統の大原八幡社が存在することを承知しており、しかも、
日田の大原からの勧請であると伝えていたことから事から、九州では非常に正確な記事が搭載されている事で知られる「福岡県神社誌」を見ると、大原八幡宮とは元々は全く異なる物部系野神社であったものを宇佐から応神天皇をご丁寧にも元々大原、元大原を経て現在の祭神がでっち上げられ
ている事が明らかになったのでした。
この外来のしかも大陸からの移住者にとっては、日本の神など鼻から尊崇の念など有るはずもないのであって、それ以上に大陸には日本の様な神々を崇拝するという考えなど孔子様の話(彼は神々を信じてはおらず、主君への忠誠心しか考えていないのです)を待つまでもないのです。つまり、処世術を体系化し主君に取り入ろうとするだけの謂わば功利主義程度の学問でしかないのです。
実際、7〜8年にも日田の大原八幡宮にも20人規模で宮司もお呼びしてトレッキングを行っているのですが、そんな事実は全くお話し頂けず、完全にあしらわれてしまっていたのです。
このような体質がまかり通ると、神社や祭神への尊崇の念は消え失せ、お賽銭を回収するだけの

商売に成り下がっている訳で、既に、全国の神社の存亡が危ぶまれ、氏子組織の壊滅、地域の結束基盤の根幹を支える構造が消失へと向かっている事をお考え頂くべきなのです。
ましてや、九州にとっては敵方の近畿大和朝廷、藤原=阿蘇氏の先兵として支配者側の神社として外来勢力がキリスト教のポンティウスピラトスの様に振舞うのであれば、大原八幡宮の未来は存在しないとしか考えようがないのです。

大原八幡神社の御祭神は、大原足尼命 現在の豊前・豊後の国造饒速日命大原足尼命の祖先・物部氏の祖神応神天皇第十五代天皇・八幡の大神仲哀天皇 第十四代天皇・応神天皇の父君神功皇后応神天皇の母君 五柱の神であらせられ、この豊前、豊後の国の祖神であり、私共の繁栄を守護し給う大神として、人々に普く崇敬するところであります。
大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。
命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。
その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御観請し現在に至る。
この間約一七〇〇余年のあいだ、地域の守護神として人畜平安、厄除開運、生産豊登は謂うに及ばず海上安全、航空安全、交通安全、旅行安全、土木建築安全、縁結び、子授け安産・子そだて、心の病・婦人の病、機織・和裁洋裁の上達等の尊い御霊験を現わされ、人々の厚き尊敬を集め、年を重ねて参拝者も増え続け、現在の発展に至っております。


にお読み頂き有難いと思っています。
















![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)