2026年08月24日

ひぼろぎ逍遥1149 大陸から列島に避退する人々

ひぼろぎ逍遥1149 大陸から列島に避退する人々

20251226

    太宰府地名研究会 古川 清久


 2025年という年ほど、我が列島が大陸から適度に離れた絶妙の位置に在り、その天啓の地に住み着く事ができた幸運に感謝した事はありませんでした。

この、文明を受け入れられるも、容易に侵略できない距離が在り、独立した文化と文明を維持することが出来た天啓の土地であったあった事を改めて認識したのでした。

 現在、中国大陸から大量の中国人が自らの生存のために何とか入国し、あわよくば居座ろうとしている連中が大量に入国している事は皆さんも良くご存じだろうと思います。

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その中には、単に不正で手に入れた金銭の保全だけが目的の者、これ以上中国共産党の暴政には堪えられないというまだまともな人間性を保った者、我が子と一族の生存だけを望む者…と多くの異なった動機があるのでしょうが、それが難民としての性格を持つ以上に、国家の蚕食に進むほどの危機を漸く食い止める事に何とか目途が着いたという安堵感を感じられるところまで辿り着いたと言うのが偽らざるを得ない実感と言えばその通りでしょうか?

無論、異論はおありかも知れませんが、長い人生の中で得た実感である事だけは間違いないのです。

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さて、余計な話をしたかも知れませんがここから話を本題に戻しましょう。

下は、ネットから拾いましたが、不確かとされる夏王朝は廃されています。

個人的には大陸の神話に登場する蚩尤(シユウ)という戦神九黎(キュウレイ)族の頭目とされる北方系に山岳地帯に追い上げられた現代で言えば苗(ミャオ)族などのビルマ・タイ系の人々にシンパシーを持つことから、蚩尤と黄帝にさえ遡りたい衝動を否定できない訳で妙に「夏」王朝まで消す必要は無いのではないかと思うのですが、最後、蚩尤は濃霧を発生させて黄帝軍を苦しめるも最終的には黄帝によって討伐されたそうです。ただ、この蚩尤の末裔の一族が列島の民族のかなりの多数派を形成しているのではないかと考えているから敢えて妙な話を持ち出したのです。

 それは、つい先だって大火に見舞われた大分県大分市佐賀関半島の付け根に「志生木」(シユウキ)と呼ばれる気になる地名が有るからです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(アメブロ版)337 蚩尤の神をご存知ですか?20160503…という10年前に書いた小稿をお読み頂きたいのです。

 何だそれだけの話かと思われるでしょうが、中央構造線に沿って丹生を採取する集団が長崎、佐賀〜佐賀関を経由し和歌山まで伸びている事は皆様良くご存じだと思います。そして、佐賀関は古くからの(恐らくは古代からの)金属精錬所と知られる所で、その意味でも蚩尤と繋がるのです。

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佐賀関の歴史を考える上で、日本鉱業佐賀関精錬所(現:JX金属 ※注1)を欠かすことはできません。精錬所の大煙突は長く佐賀関のシンボルでありましたし、また、多くの住民が精錬所と関わってきました。町の興隆と衰退は精錬所の影響を大きく受けてきたと云えますし、佐賀関は「精錬所の企業城下町」と云っても過言ではありません。

佐賀関の歴史を考える 第2回 「精錬所 ON MY MIND」より

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 大陸の歴代王朝は一定の賞味期間を過ぎれば、例外なく王権の寿命が尽き消え去ります。

 それほど、フライパンの様な風土は過酷で、戦闘力の有る男や息子は殺され老人と子供を育てるため女は夫の殺害を恨みながらも新しく支配者となった男に従わざるをえなくなるのです。

 こうして、敗残した民族、王国の中枢部は山岳地帯に逃げ込み何とか自らの民族の命脈を保とうとし続けて来たのでした。

 特に著しいのは揚子江より北の一帯で、技術と著しい労働力を必要とする列島の稲作地帯は年貢と言う形で徴税権を奪い合うのに対して、北方系の領土そのものを奪い取り、放牧、遊牧できる土地と食料を奪い取る場合は、皆殺しにして民族そのものが入れ替わる構造になるため、長江以北はほぼ先住民族が消されていると考えるべきなのです。

 従って、中国は漢族の国と言った話(全中国人の9割が漢族と言われますが)も実は疑わしく、本物の漢人がいたとしても実際には山岳地帯の少数民族に紛れているのではないかと思うのです。

 問題は漢族を自称する者が文明人扱いされた(現代の都市戸籍)事から皆漢族と主張したかっただけのはずなのです。

 更に話を先に進めましょう。導入部に手間取りましたが、本題は大陸から、海路、半島を経由し多くの民族、敗残した国家の中枢部の多くが何派にも亘って列島に避退、逃亡、亡命し続けたという事を考えたいのです。古くは孔子様の話に遡ります。


「孔子 筏に乗って日本へ」で検索した AIによる概要


『論語』における記述この話は『論語』公冶長(こうやちょう)第五にある以下の言葉が由来です。 子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者其由與。(子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は其れ由(ゆう)かと。)

意味: 孔子が「私の説く道義(世を治める正しい教え)が世の中で行われない。いっそ筏に乗って海に出てしまいたい。私についてくるのは子路(孔子の弟子)くらいのものだろうか」と嘆いた、という内容です。

真意: これは当時の乱れた世相に対する孔子の落胆や冗談、あるいは弟子の子路の勇気をからかった言葉だと解釈されています。実際に海外へ行く意図はなかったと考えられています。


 何処まで意味のある話かは不明ですが、孔子様でさえ東夷の島に行きたいと思った…ほど大陸の

乱れが酷かった事だけは想像ができます。勿論、紀元前500年の時代なのですから、その後、春秋

戦国の呉が滅び、始皇帝が全土を統一し、その秦も滅び、漢帝国が入れ替わって行くのです。

 ここでお考えいただきたいのは、大陸国家の勃興期に於いてさえ、既に敗残した旧王権の中枢部が小さな新大陸としての列島に避退し始めている事をお考え頂だきたいのです。

 まず、大陸から列島への移動が伝えられるのが越王句践に滅ぼされた夫差が自決しその末裔の呉の王族臣民が海路列島に移動していると言う話は良く知られています。

紀元前473年ついに首都姑蘇が陥落し夫差の末裔が列島に避退する話は良く知られています。

彼らは舟山列島辺りから海路九州西岸に入っている様で、その末裔と思われる一族が現熊本県山鹿市に入っているのです「松野連系譜」と知られる松野鶴平(旧鉄道大臣、参議院議長…)、松野頼三(元自民党官房長官…)、松野頼久(旧鳩山内閣官房副長官)。

以下【避雷】伪书《松野連(姫氏)系図》小考 より

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蛇足になりますが、海路、呉から夫差の末裔を運んだと思われる一族がではないかと考えている人々が今も纏まって熊本県玉名市にお住まいに成っておられます。関心をお持ちの方は以下を検索して下さい。

新ひぼろぎ逍遥 1020 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か? 20240226

古公亶父 君主古公亶父は、周初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫。先祖の后稷・公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。『詩経』では太王。『史記』によれば、武王が殷を討つ前に太王と追尊した。それ以前は太公と呼ばれ、孫の文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。両親: 公叔祖類 子女: 季歴、太伯・虞仲 Zhongyong of Wu

そもそも、呉国とは皇位継承を巡り危機をに陥った 太伯・虞仲が南の越に逃れ、越の民に担がれ、呉国を建国する(つまり南に逃れた周王朝の分流)のですが、ついには彼らも大陸を放棄し列島に移動しているのです。

次に秦の始皇帝の一族も列島に移動している事にも触れさせて頂きます。

太秦さんの事はこれまた古代史の常識に成っており、今更、申し上げる必要は有りませんが、紀元前210年には315年で滅び、四散しつつも半島に逃れ、56世紀には豊前から京都に移動し、西陣織に象徴される養蚕、機織から製鉄、鉱山開発、土木、治水等に進出し朝廷の資金源と成って行くのです。それに先立ち、徐福の一族によって列島各地に植民が行われ、これとは別に、始皇帝との同族を確認し相互に姻戚関係を結んだ金山彦の一族も列島に入り、金属採掘、冶金、加工を行っているのです。

徐福、金山彦、最後は太秦としてイスラエル系ともユダヤ系とも言われる人々が列島に入り国土開発を進めているのです。

それらが結束して入って来たかと言えばそうではなく、そもそも万里の長城をの為に狩出される恐れ逃亡した秦の臣民から、政争を避け半島に逃れた人々も生き延びるために列島に入っているのです。勿論、この始皇帝と同族を確認した金山彦系の一族が九州王朝の初期を支えてもいるのです。

それが、分かるのは、九州王朝の本拠地の一つであったと思われる筑後の久留米市の高良山が白鳳年号の2年を使っている事でも分かるのです。

この白鳳年号は天武帝のもので、天武天皇は白江戦に敗北し本拠地を奈良に無抵抗で移しますが、それまでは北部九州から関東まで大規模な版図を持っていたと考えられるのです。

天武帝は、実質的には本拠地を置いて唐、新羅と激突しその後、天智系に皇統(天智と天武が兄弟と言うのは藤原が創ったフィクションです)を奪われているのです(故 佃収説による要約)。

次にご紹介したいのは漢王朝の一族がかなりの数で列島に入っている事です。

これに気付いたのも15年程前でしたか、久留米に中国風の一字姓で「笠」(カサ)と名乗る人々が居られる事でした。併せて、佐賀県鳥栖市、みやき町一帯に、ドラゴンの「龍」姓の人々が居られる事に気付き、何れももしかしたら漢王朝の末裔ではないかと思ったのでした。

そうした中、高千穂町で明治の旧教派神道系の教会を買収しひのみこ社という神社を再建した無題.png霊能者のF女史から、熊本市の金峰山中腹に劉邦と後漢の霊帝(12代)の末裔=阿智王の一族の廟を建て自ら初代劉邦から数えて100代でしたか101代でしたか漢帝国の王族の一族との系譜までお持ちの某建築会社の経営者をご紹介頂いた事がありました。

その後ご本家の法事にお誘いまで受けたのですが、何とそちらは映画「男はつらいよ」で皆さん良くご存じのフーテンの寅さんを叱責する帝釈天の御前様こと笠 智衆のご実家の浄土真宗の寺の直下の檀家でもあったのでした。これは笠姓と漢王朝の廟を造られたT氏の一族と笠氏も同族であることが分かった瞬間でもあったのでした。

その後、中央高速の恵那トンネルの東の昼神温泉郷で知られる長野県阿智村一帯の調査に入り、リポートを加えましたが、20年ほど前から日田の大蔵、熊本の財津、

朝倉市の秋月、更には田尻、原田…も、薩摩に避退した大前、伊作(伊佐)…とまだまだ多くの氏族が浮かび上がってくるのですが、未確認の部分もありもう少し調べる必要があります。

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前述の100代系譜を見ると、近畿大和朝廷の指示で東北侵攻に出た坂上氏も同系譜に出てくることから、田村麻呂も後漢の一族であることが分かってきました。

以前から、熊本県和水町や大分県旧朝地町に坂上神社を数社づつながら発見し、もしかしたらと考えていた事がありましたが、これも系譜によって氷解したのでした。

もう一つの側面として、この阿智王の一族は権力を握った藤原(阿蘇氏)天皇制に協力する性格が認められ、長野の南伊奈に盤踞し、諏訪の建御名方の南下を阻止するために配置されている事も阿智村の郷土史資料を見ると解ってきましたし、九州の中央部の日田市の支配を任され、岡山県の倉敷に阿智神社、阿智郷が在り、その名の通り、安定した年貢を確保する任務をそつなく行っているのです。

阿智王の一族は優秀な経営集団であり、国家の運営さえも安心して任せられる存在だった事が見えて来たのでした。正しく平時の能吏であり、大陸で国家の運営を差配して来た事が頭に浮かんでくるのでした。漢帝国滅亡までくれば、当然にも魏呉蜀の三国鼎立の時代に入りますが、孫呉の一族が久留米から薩摩に落ちている事も確認していますし、大分市と別府市の境辺りに邯鄲(カンタン)という地名が現存しており、中国の戦国期の大国であった趙の首都の地名そのものであることから、大分市の西の端に趙から大量の大陸人が入っている事も思わせるのです。

 まあ、その後も列島には多くの大陸の民が入っている事は、近代の清王朝の愛新覚羅氏が入っている事でも良く知られた話ですし大陸の周辺まで視野を拡げれば、百済、新羅は言うまでもなく、高句麗に至っては、78世紀に掛けて高句麗人が日本に亡命している事も良く知られています。


「続日本紀」などによると716年、大和朝廷は駿河、甲斐、相模など7つの国の高句麗人1799人を武蔵国(現在の埼玉県日高市周辺)に移住させ、高麗郡を置いた。彼らの持っていた技術を生かす狙いだったとも言われている。

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一方、我々、百嶋神社考古学の者から言わせて頂けば、二世紀に阿蘇に入って来た神八井耳、神

沼河耳(後の藤原はとんでもないことに第二代綏靖天皇としているのですが)、この息子の草部吉見

は高木大の次女栲幡千千姫命を妃として受け入れ、以後木大神=高御産巣日神の配下と成っているのです(事実上の入婿)。

この多氏(阿蘇氏とも宇治氏とも呼ばれる)も雲南省麗江からメコン川(中国名 瀾滄江)からサイゴン=ホーチミンに降り、海南島南東部で力を蓄え、肥後に避退していると考えているのです。詳しくは、

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 647 九州王朝成立前夜の解明へ @ 

“雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した”20181005をお読みください。

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一方、幕末まで天皇家の宮廷祭事を司った白川伯王家も、阿蘇氏と連動し紀元前二世紀までには同じく海南島を経由し熊本に入り、呉の太伯王の末裔の一族からの招聘を受け列島に於ける呉国の再建に協力しているのです。

この白族こそ、雲南省昆明の滇池(てんち)の青銅器文明と関係を持つ一族で、青銅冶金、造船、木材加工、建築に秀でた一族だった様なのです。この一族こそが、鴨玉依姫を主神とする下賀茂神社の(八咫烏の一族)として継続していると考えているのです。

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面白いことに、海南省には加茂と言う地名まであるのです 下賀茂の加茂です

 この多氏と白族が漢族と最後まで戦い続け、力尽きて列島に避退する道を選択したのでした

 この両派に、金山彦系、大山祇系(トルコ系南匈奴)を加えた勢力が、初期九州王朝のひいては日本人若しくは、倭国〜日本国の骨格を形成しているのです

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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