1070 南阿蘇村の久木野神社とは何か? ❸ “海幸山幸神話とは草部吉見と猿田彦を描いたもの”
20240829
太宰府地名研究会 古川 清久
先に、海幸山幸神話は久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」の冒頭に書かれたものとしましたが、古代に於いて最大の交易品としての塩を造り、南北阿蘇を中心とする山岳地帯に送り込んだ山幸彦=猿田彦(実はニギハヤヒ)は当然にも海浜を中心に活動していたはずです。
一方、阿蘇でも外輪山東の高地に拠点を置いた海幸彦=草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミが海幸彦と呼ばれている事が当会メンバーの中でも問題になった事がありました。
筑前、筑後の神社研究の最高峰宮原誠一氏(「宮原誠一の神社見聞諜」)もその事に疑問を持っておられました。ついには、記紀神話を作った人々が間違っている…とまで言われていたこともありました。

上 は「熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社分布マップ」(昔々異界とこの世を分けていた猿田彦さん)によるものです。相当前から在る研究者によって公開されているもので、最近も更新されている様で、新たに追加改良がおこなわれていますが、猿田彦を主神とする神社を「熊本県神社誌」から抽出し作成され、一覧表も含め自由に活用してください…とまでされています。
本ページに所載してあるマップ、地名表等必要ある方はご自由に使用して下さい。願わくば後でどの様に使ったか教えてください。
興味をお持ちの方は、ます。ボールド太字で直接検索して下さい。
右は、健磐龍を中心に拾い出した別図です。
阿蘇神社系祭神祭祀神社分布マップ
こちらも関心をお持ちの方は検索を試みて見て下さい。
高良玉垂宮神秘書

これは、当会メンバーの「事代主のブログ」氏が書かれている「神話を科学する(古代史探訪)」のトップ画面ですがその中に訳文があります。

天照大神の子は四人いる 三人は、天照大神より四代まで継がれた。正哉吾勝々天忍穂耳尊の弟 天津彦々火瓊瓊杵尊、その弟 彦火々出見尊、その弟 ソソリノ尊という。ソソリノ尊は神代に付かずに海の遠くに行かれた、その時ソソリノ尊に借りて兄 彦火々出見尊海原に出て、針を海にいれ赤目口という魚に針を取られた。
弟ソソリノの釣り針なので兄の彦火々出見呆然と呆れて立っていると、塩土ノ翁というものが現れ そのことを話すと「私はあなたの恩徳を忘れていません。今来たのはそのお礼にしようと思います。」と言い、メナシ籠に彦火々出見を入れ海中に入ると、ほどなく竜宮界に入った、そして竜王に伝えると、竜王は「この世界に三年間逗留するならば願いをかなえる。」と答えた。彦火々出見は「承知しました。」と答えた。竜王魚達を寄せ集め、赤目口を呼んだ。赤目口の口の中を開けると針があった、その針を取り出し竜王に納めた。
竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、三年に当たる時釣り針を渡した。釣り針を受け取り夫婦で竜宮を出て海上に上がった。そして釣り針を弟ソソリノ尊に還した。
その後豊玉姫は懐妊し産所を造ってくれと頼まれたので、鵜の羽で屋根を葺いた、葺いているうちに産まれたので彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊という。
豊玉姫が云うには百日して御覧下さいと言ったが待ちきれず九十九日に当たる時、彦火々出見隙間から見ると豊玉姫は大蛇となって七又の角の上に子を持ってあやしていた。
豊玉姫は彦火々出見が覗いたことを責め子を置いて海中に還っていった。
百日たたずに子を残したので心残りなので尾を隠した狩衣はその時より始まった。彦火々出見尊は嘆き悲しんでいるところに玉依姫の妹玉依姫が竜宮より現れてその子を養育された。その玉依姫は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の脇にいた。玉依姫と彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊はやがて夫婦となった。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊は住吉大明神である。その子は住吉五神と言う。二人は女子 三人は男子である。二人の女子の名は表津少童命 中少童命 男子は三人いて嫡男大祝の先祖 表筒男 次男 神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男という。次男中筒男はその地に留まり神武天皇となり皇代となった。
住吉大明神は明星天子の垂迹 大祝先祖の表筒男は日神の垂迹 高良大井底筒男は月神垂迹である。天神でいる間 兜率天に住み三光と現れ国土を照らした。
ここに皇代十五代神功皇后の時異類日本に渡った。その時筑前国四王寺の峯に上り虚空を祈った。東の空に白雲が現れその白雲が開いたのは四天王という 四つ桙はその中に光って見え白雲に乗り現れ四王寺を下った これによりその場所を四王寺の皇子と高良大井の文にある。そのことわりを云うと異国征伐の時 幕の文のことである。四方に光る光を放つので門光といい 月神が現れ 半時して明星天子の垂迹住吉明神 七旬老翁と現れた その御子嫡男日神垂迹表筒男尊 二人現れた 前の天皇三男月神垂迹底筒男 四王寺の皇后の前に三人現れ住吉明神は「我が子三男月神の垂迹底筒男は、応作天将軍の生まれ変わり、天下の大力士 大将軍である。」と云った。住吉高良大将軍と定めると 皇后は「日神垂迹表筒男 両将軍を決めて三韓を責め従う叓。」その後住吉明神は皇后の前から消え昇天された。三男月神底筒男 皇后夫婦となり 嫡男日神垂迹表筒男は皇后の妹豊姫と夫婦となりその御子は、大祝日徃子という底筒男 表筒男二人は皇后と共に皇宮におり 三男月神垂迹底筒男は皇宮に住んでいる間位を譲り 太政大臣物部保蓮となった。」
大臣は干珠 満珠を借りている間 藤拝かかる下で定める間 その名線を取り藤大臣といい 嫡男表筒男をどうするかと言うと 皇后は「天照大神の日孫なので玄孫大臣物部大連とすればよい。」と云った。玄孫大臣と書き玄孫の大臣と読む、皇后 高良に来てしばらくして御子が何人か生まれた。
四人は仲哀天皇の皇子 五人は高良大井の皇子である。先の四人と後の五人を合わせて九躰皇子という。
皇代十七代仁徳天皇の時、皇后は崩御された。高良明神 豊姫 玄孫大臣 その子大祝日徃 武内大臣 皇宮を出られた。
武内大臣は因幡国立草の郡の辺に靴を脱ぎ棄て衣を木の枝に掛け山の奥に入って行った。残り四人は皇宮よりはるばる行き 豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まり 姫は河上大明神となられた。
高良大明神 大祝日徃子は 九月十三日に山に還り 皇宮で三種の神器を納め、神壐は高良大明神が預かり 宝剣は神功皇后 内侍は玄孫大臣が預かった。
大祝 本名鏡山という 大祝は職について名 秘すべし皇代四十代天武天皇の時、大祝道麻呂男子美濃理麻呂に御託宣があり斗藪のひく密かに来て 天下の万法は遂に仏海に帰する 当社の明神は仁王経の文の如くを持って御法心有 大祝に大明神から大井御垂迹を束帯を付いた。高良明神から高良大井と名を変えて 異国征伐の時 干珠 満珠で国土を治められる。また皇宮で神璽を持っている間 鳥居玉垂宮と打ち 大祝家の鳥居は大祝大明神第一位と打つ。 大祝家は高良に御遷幸以来今までに並ぶ家が無かった。
高良大井の御紀文にも五姓をおさめること神部物部が為である。天神七代 地神五代よりこのかた、大祝の系図定まった。
海幸、山幸の名こそ使っていないものの、これが冒頭の文書でもある事から「海幸山幸神話」の原型であることは疑いようがありません。正しく九州王朝の神話だったのです。
当然ながらこの神話は九州で発生したものであり、奈良の片田舎で起こった出来事などではないのです。
当会メンバーも、少ないですが、宮神秘書を全体で10冊ぐらいは持っておられるでしょう。
貴重極まりない本であり、20年程前までは高良大社社務所には30冊は残っていましたが、今は無いようです。読む意思をお持ちの方はぜひ探し出し試みて頂きたいと思います。
さて、冒頭の疑問に戻ります。
皆さんの中には、牛、馬は水と草があれば生きていけると思われている方もおられるかも知れませんが、実はそうではないのです。
牛舎を見られた方で気づかれておられるかも知れませんが、飼葉桶の上か横には石鹸のような物がぶら下がっているのを見たかもしれません。
これは、塩を中心とした必須ミネラルが固形化されたものなのです。牛さんは配合飼料を食べながら、この塩を舐め補給しているのです。これが牛においてさえそうなのです。
対して狐や雑食性の動物は捕食した内臓から必須的ミネラルを得られるから良いのですが、それでも不足するため、塩泉、硫酸泉、硝酸泉、炭酸泉などの温泉が理想ですが、岩の隙間などから滲み出る、冷泉、鉱泉、塩泉などを知っており、それを舐め、補給しているのです。
ただ、厩舎に閉じ込められるとそれもできないため、前述の通りとなるのです。
ましてや、人間に至っては絶対になければならないものであり、山に生きる民にとっては正に渇望の物
資であり、海から送り込まれる魚の干物や海藻や藻塩はどうしても手に入れたい生活物資だったのです。
こうして、海の民と山の民の交易が始まり、塩を中心とする海産物と、代わりに鹿角(角は骨とは異なり爪と同様のたんぱく質であり弾力性に富んだ釣針「チ」の原料)や干肉、毛皮…を交換していたのです。
それ以外の方法は考えられないのです。仮に山の民が鉄鍋や土鍋を背負って山を下り海水を汲みに行くにも便利な容器はありませんし、塩を焚くにも木を伐り長時間現地に居座る必要があるため、どうしても海の民との協定が必要になるからです。それなら交易する方が遥かに増しで合理的な方法なのです。
この山幸彦は八咫烏(博多の櫛田宮の主神の大幡主=神産巣日神カミムスビ=塩土老翁,塩筒老翁の息子、豊玉彦、神主玉…とも呼ばれる人物で豊玉姫の父神)で、対馬の海神神社、和多都美神社を根拠地に大陸、半島、印度シナとも交易をしていた武装商船隊の首領とも言える人物だったのです。
『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁(しおつちおじ)、また『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記される。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240830 10:57
海幸から借りた釣針を失い途方に暮れていると、通りすがった塩筒老翁から龍王の宮に行けとのアドバイスを受けるのですが、それは息子の八咫烏の所に行けと言って、出会ったのが祖母山にも祀られる豊玉姫(イズノメ)だったのです。そして生まれたのが久留米の高良大社のウガヤフキアエズであり、豊玉姫の子育て放棄により代わりに乳母として送り込まれたのが鴨玉依姫(下賀茂大社の主神)だったのです。
この豊玉姫と姥嶽神社(本体は鴨玉依姫)が祖母山に祀られているのです(その前は違いますが)。
それ以前は、健男霜凝日子神(タケオシモゴリヒコ=実は金山彦の息子の神武皇兄五瀬命)が祀られていたのです。
『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240830 11:16

画像は、「神宿る祖母山をたずねて、信仰の道をたどる - 祖母山麓エリア再生プロジェクト 公式サイト」 様より借用
話が寄り道しましたので、終わりに、私が考える海幸彦、山幸彦をお話ししたいと思います。
仮に海の民が塩を持って山の民の棲む村を訪ね塩を売ろうとするとどうなるでしょう。
数戸しかない小規模な集落ならうまくいくかも知れませんが、大きな集落に見知らぬ海の民が辿り着きいきなり交易を求めてもうまくはいかないはずで、普通は族長とか村長とか言われる人物に付け届をして交易をさせて貰うはずで、決して一手販売は許してはもらえないはずなのです。
従って、塩を含む海産物を定期的に運び、その交易を仕切るはずなのです。
丁度、マッカーサーによる占領期間に北朝系、韓国系の在留日朝鮮人に駅前マーケット(英国のインド支配にグルカを使った事と同じ)を仕切らせ、メリケン粉、石鹸…などを販売させた事と同じ事が起こったはずなのです。その後、駅前マーケットを仕切った連中は戦地から戻ってこない夫人の店や空き地を借り、その内、返却せずに騙し取り、駅前一等地を我が物とし、抵抗できない日本人を追い出し事実上の更地としてパチンコ屋を造り始めるのです。これが日本全国の駅前一等地にパチンコ屋が軒を並べている原因で、こいつらはその内日本人になりすまし、与野党を問わず議員や自治体徴の長に成っていったのでした。
こいつらがかなりの数政権党ばかりか、野党にもごっそり入り込み、親中派、親韓〜親朝派になっているのです。また話が逸れましたが、それはともかく、海産物を山に一手販売したからこそ海の幸を運ばせ市を開いて交易地を仕切ったから海幸彦と呼ばれ、逆に、交易で得た山の幸を持ち帰ってくる海人族が山
幸彦と呼ばれたと考えるのです。
では、海幸彦はどうして釣針を持っており、山幸彦に貸すことが出来たのかが良く判らないのです。
元々、九州の産鉄地は福岡、熊本が最大だったとされています。
学会も絶対認めない国東半島の製鉄も金山彦系で、一説、10万トンの金糞が出ていると言われており、今も海岸線の浜辺には今も種子島同様に大量の砂鉄が大量に存在しているのです。
しかし、それは荒尾市から玉名市、山鹿市に跨る尚岱山の砂鉄による製鉄で、菊池川中流域、岩野川中流域であって、阿蘇系の人々ではなく元々は金山彦系の人々によるものだったはずなのです。
ただ、金山彦の娘、櫛稲田姫を妃としたスサノウの子、つまり金山彦の孫にあたるナガスネヒコの神武(カムヤマトイワレヒコ)との衝突の結果、製鉄利権を手に入れた阿蘇系は草部吉見の時代には、熊本の製鉄利権を既に手に入れているのではないかと考えているところです。
それが、玉名の疋野神社の神様が第6代(贈)孝安天皇(日置、比気、羽曳野…も同族)とされ、草部吉見=ヒコヤイミミが第5代(贈)孝昭天皇となっていることでも分かるようなのです。
これも隠されていますが、この両天皇は第2代綏靖(阿蘇神社の最奥神殿に祀られている金凝彦カナコリヒコ=巨旦将来)と併せ、阿蘇系の天皇なのです。百嶋最終神代系譜で検証して頂きたいと思います。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
久木野村とは熊野から伊勢志摩の戦国時代の九鬼水軍(九鬼守隆)の九鬼の「クキ」と通底しており、伊勢が八咫烏=豊玉彦=豊国主の支配領域と考えて良いのです。
考えればそれで良いのであり、八咫烏の支配領域そのものを意味していたのです。ちなみに、九鬼守隆の家紋も、左三つ巴であり、高良大社の表神紋とも一致しており、ついでに言えば、同社の裏紋の木瓜は金山彦の神紋であり、高良玉垂宮の初期は金山彦が同社のスポンサーであり、ナガスネヒコの乱の後に、裏紋として木瓜を下ろし、以後は、神産巣日神、八咫烏を表に上げている事が分かるのです。
実に良い勉強をさせて頂く事ができました。
質問された氏子総代様に感謝します。こうして、久木野村が八咫烏の支配領域だったことが一層鮮明になりました。
追補
勿論、仮説も仮説の推論に過ぎませんが、草部吉見=ヒコヤイミミも久留米と太宰府(どちらも首都、副都)に存在した九州王朝に出仕していたはずで、大幡主や八咫烏もその構成要素の一部だったのです。

高良山直下の吉見岳に中世の山城 吉見城があったことから、ヒコヤイミミの時代にも存在した可能性は十分にありそうです。
それ以上に、どこの事だか解明されていない海幸山幸神話の舞台が肥後熊本であり、しかも山の民となった阿蘇氏と天草の海辺で製塩を行っていたなどお伽噺をしているのか…と思われても仕方がないのが道理なのです。
そこで、阿蘇に近い土地で起こった出来事が奈良に持ち出されている例をご紹介しておきます。
これは、ひぼろぎ逍遥036として10年前(20140118)に書いた(大半は引用)ものです。
西風が卓越する熊本でも、立野はその西風が凝集するところであり、それを示すかのように、阿蘇に向かう途中に、自然エネルギーと称する無駄な風車が並んでいるのです。
前置きが長くなり過ぎました。古田史学の会の正木 裕 氏による 広瀬・竜田を疑う―「祭広瀬・竜田神」は九州王朝の祭礼― です。本文はこのタイトルで検索が可能です。
奈良に龍田大社があり、風の神祭を行い、台風など来ない奈良で台風封じの祭が行われています。
所謂「日本書紀」に言う「龍田の神を立野に祭る」です。これは風の神ともされる熊本市の龍田に祀られる草部吉見=ヒコヤイミミを立野の大峡谷に祭り風を鎮めると言う祭が奈良県に持ち出されているのです。このようなとんでもないことが平然と行われているのです。海幸山幸神話も一例に過ぎないのです。
広瀬・竜田を疑う ―「祭広瀬・竜田神」は九州王朝の祭礼― 二〇〇九・六月 正木 裕 |
書紀天武・持統紀に記す「祭広瀬・竜田神」は九州王朝の祭礼。これを近畿天皇家は継承した。書紀ではもともと近畿天皇家の祭礼であるかのように記した。
@竜田神は阿蘇・健磐竜命と阿蘇都比当ス。
A広瀬神は筑後川の「広瀬」(朝倉付近)に祭られた九州王朝の天子(または皇子)。
U資料状況
『日本書紀』、養老(大宝)令ほか(注1)、
日本書紀において「広瀬・竜田神」の祭礼記事が、天武四年から持統十一年にかけて、三十六回記載されている。うち竜田に「風神」、広瀬に「大忌神」とあるものが十八回、単に広瀬・竜田神とあるものが十七回、竜田風神のみが一回となっている(別紙1)
この広瀬・竜田はいずれも近畿天皇家の祭神であり、後代の資料から、その場所は広瀬神社が奈良県北葛城郡河合町川合、竜田神社は同生駒郡三郷町立野南にあるとされている。(注2)
(参考)延喜神名式(延長五年・九二七)、大和国平群郡条「竜田坐天御柱、国御柱神社二座」、同、広瀬郡条「広瀬坐和加宇加乃売命神社」(地図別紙2)
しかし、日本書紀の天武・持統記事が無条件に信用できないことは、古田氏指摘の「持統吉野行幸」の白村江以前からの盗用例でも明らか。
V祭広瀬・竜田神の疑問
@天武四年に突然祭りはじめた理由も明らかではない上、持統十一年に唐突に終わっている。それまで毎年の様に四月・七月に祭礼を催していたのに、続日本紀の文武期にこの祭礼記事が見られない。→(大宝二年(七〇二)まで持統は存命していた)
大宝令(養老令七五七年(天平宝字元年))神祇令で明記されたから続紀は記さなかったというのは無理。→六九八年から七〇一年の律令制定前にもその記載が無い。
(神祇令孟夏条 孟夏。神衣祭。大忌祭。三枝祭。風神祭。)(神祇令孟秋条 孟秋。大忌祭。風神祭。)
A竜田は風神であり、風水害から田畑を守る神とされるが、大和の地は風の弱いことで有名。気象庁のデータでも明らか。(注3「奈良の風」)
Bまた広瀬は「大忌神」とあるが、何故「忌む」なのか。忌み神とは「大いに忌み清めて祭る神」とされる(青木紀元氏・前注)が、これはほぼ全ての神に共通したことで、広瀬のみをわざわざ「忌み神」とする理由の説明になっていないのは明白。
C佐保川、寺川、飛鳥川等の合流点ではあるが、「広瀬」の形容がふさわしいほどのスケールがあるか、あるいは著名な氾濫源だったかは疑問。
◆(推論)天武・持統期はいまだ九州王朝の時代であるから、この祭礼も九州王朝のものと考える。
W、仮説の妥当性について
○第一回目の「竜田祠・広瀬祭」
◆(天武四年四月)癸未(一〇日)。遣小紫美濃王。小錦下佐伯連広足、祠風神于竜田立野。遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬、祭大忌神於広瀬河曲。
○九州での広瀬・竜田の神にふさわしい神
書紀におけるもう一つの「竜神・大河」の祠り
持統六年「五月辛巳(十七日)大夫・謁者をば遣して、名山岳瀆(かは)を祠りて、請雨(あまごひ)す」「六月壬申(九日)に、郡国の長吏に勅して、各名山岳瀆を祷らしむ」
(岩波注)後漢書順帝紀に「遣大夫・謁者、詣嵩高首陽山、併祠河洛、請雨」「勅二千石、各祷名山岳瀆」などとある。奈良・平安時代には吉野水分神など竜神に祈雨使を派遣する。
書紀で用いられる「瀆(涜)」の字は大河の意。四涜といえば中国で揚子江・黄河・淮水・済水をいう。
どう考えても奈良の諸川ではない。→(なぜ名を隠したか)
○「名山岳瀆」は「阿蘇山と筑後川」
隋書俀(タイ)国伝に阿蘇山を祭るとある
■阿蘇山有り。其の石、故無し。火起り、天に接する者なり。俗以て異と為し、因って禱祭(とうさい)を行う。(有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭)
阿蘇山の神・阿蘇神社と「健磐竜神」(注4)
奈良竜田大社と阿蘇神社の類似性
○阿蘇地域にあるの竜田と立野(別紙2)
竜田も立田山も、阿蘇山から「白川」の流れに沿って広く遺存する。
→白川は「竜田川」と呼ぶにふさわしい。
「立野」と阿蘇山・健磐竜神(地図と注5)
○健磐竜神は阿蘇(火山)で田の神(阿蘇神社注)
奈良龍田大社より充実した稲作関連祭事(資料)
→健磐竜=田ケ磐竜・「ケ」の神、イワは修辞。実質は「竜田」
(古賀達也氏は「古層の神名」『古田史学会報』71号で「チ・ケ・ソ・クイは古層の神名であるとする)
X、竜田神の祝詞
■(祝詞)奉る宇豆の幣帛は、比古神に、御服(みそ)は明妙(あかるたへ)・照妙(てるたへ)・和妙(にぎたへ)・荒妙(あらたへ)、五色物(いついろのもの)、楯・戈(、御馬に御鞍具(みくらそな)へて、品品の幣帛獻り、 比賣神に、御服(みそ)備へ、(略)
阿蘇神社祭神
祭神 健磐竜命 阿蘇都比当ス 国竜命 比東芬q神 彦御子神 若比盗_ 新彦神 新比盗_ 若彦神 弥比盗_ 速瓶玉命 金凝神 諸神
(祝詞)五穀物(いつくさののたなつもの)を始めて、 天下(の公民の作(つく)る物を、草の片葉(かきは)に至るまで成さず、一年(ひととせ)二年)に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこな)ふ(略)悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ(略)吾が宮は朝日の日向ふ處、 夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾)が宮は定め奉(まつ)りて
○「一年(ひととせ)二年)に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこな)ふ(略)悪しき風・荒き水」という毎年のような風水害は「阿蘇」にこそふさわしい
→■阿蘇の雨と風(阿蘇付近3200ミリ/年)
(参考)「熊本県は九州山地の西側にあたるため、東シナ海から入ってくる暖かく湿った空気が入りやすく、大雨や集中豪雨が発生しやすいところです。
特に梅雨時期の雨は多く(6・7月の2ヶ月間に、年間降水量の約4割が降る)、たびたび土砂災害や洪水の被害をもたらす原因にもなります」
熊本県の気候(熊本地方気象台)より
Y、「広瀬」についての検討
筑後川について
「広瀬」は筑後川に関する地名だが「大忌神」は筑後川の神ではない
「広瀬」の比定
筑後川の「広瀬・広瀬駅」(資料地図・地名辞典)
『和名抄』によれぼ、上座郡には広瀬郷があり、それは朝倉町比良松付近(朝倉広庭宮近辺)に比定されるので、広瀬駅もその近くに位置した(資料)
夜須と杷木の中間といわれる→木の丸殿・恵蘇八幡宮の山頂には、一時斉明天皇を葬ったといわれる古墳があり、祭神として応神天皇、斉明天皇、天智天皇が祭られる。まさに「忌殿」であろう。また筑後川が大きく蛇行した河原に面し、「広瀬河曲」にふさわしい。付近に水神社もある。
○「朝倉橘広庭宮」「木の丸殿」「恵蘇八幡宮」の不審
@「朝倉橘広庭宮」(遺跡が無い、書紀編者は隣接する「朝闇寺」を知らなかった。「朝闇寺は「長安寺」と称せられていた(『大宰管内志』)。→「欽明紀(二三年八月)鐵屋(クロガネノイヘ)は長安寺に在り。是の寺、何の國に在りということを知らず。」
A「木の丸殿」天智が斉明の遺骸を仮置きしたというが、「仮置き」なのに何故古墳があるのか。
B「恵蘇八幡宮」奈良・飛鳥ならわかるが斉明・天智等を筑紫で何故祭るのか。
○「奧都(おくつ)御歳(みとし)」と「大忌」
広瀬の神の祝詞に「奧都御歳」の語
■「皇神の御刀代(みとしろ)を始めて、親王(みこ)等・王等(たち)・臣(まへつぎみ)等(たち)・天下(あめのした)の公民(おほみたから)の取(とり)作(つく)る奧都(おくつ)御歳(みとし)は、 手肱(たなひぢ)に水沫(みなわ)畫(か)き埀(た)り、向股(むかもも)に泥(ひぢ)畫(か)き寄(よ)せて、取作(とりつく)らむ奧都(おきつ)御歳(みとし)」
○「奧都(おくつ)御歳(みとし)」とは、
通説○最も遅く実る穀物である稲○稲のうち最も遅く実る晩稲
→御歳(みとし)は穀物であることは確かだ。
みとし‐の‐かみ【▽御年の神/▽御▽歳の神】穀物の守護神。 「―の子、其の田に至りて」〈古語拾遺〉
問題は「奥都」
○奥都城(おくつき)とは、上代の墓のこと。またそこから神道式の墓のこと。神道式の墓石に刻まれる文字でもある。奥津城、奥城とも書く。
「奥(おく)」とは、奥深い意の「奥」や「置く」を意味するといわれる。「城(き)」は、古代の「胆沢城」の「城」の用例にみるように棚・壁などで四辺を取り囲んだ一郭の場所をいい、また「柩(ひつぎ)」の意味もあるとされる。全体の意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた境域」ということであり、また「柩を置く場所」の意となる(『ウィキペディア』)
広瀬の神は「死者」である。死者への供物が「奧都御歳」
→「祖先たる九州王朝の天子の霊(墓)」こそ広瀬神
「斉明」は朝倉では死んでいない可能性。(拙著)「有間皇子謀反と斉明牟婁温湯行幸の真実」
(推論)「河曲」に祭られた神は九州王朝の天子
(候補)白村江直前に没した「伊勢王」あるいは「甘木の大王」(古田氏の立論)と麻底良山に祀られる「明日香皇子」
○「祭竜田風神、広瀬大忌神(天武六年)」から「祭広瀬・竜田神(天武八年)」へ何故変わったか
→この間に起こったこと=天武七年十二月筑紫大地。地震以前が九州、以降は大和か
以下省略。さらにお読になりたい方は、ネット上から検索してお読みください。