2026年06月09日

新ひぼろぎ逍遥1134 松浦党の神々 ❶ 松浦市 今福神社

新ひぼろぎ逍遥1134 松浦党の神々 ❶ 松浦市 今福神社

20250905

太宰府地名研究会 古川 清久


これから松浦党のエリアの神社を簡潔にまたゆっくり調べて行きたいと思います。

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松浦市にある神社。 応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます無題.png    


AIによる概要

「松浦市 今福」は長崎県松浦市にある今福町を指します。この地には、応徳元年に創建された今福神社歳の宮)」や、昔ながらの街村の雰囲気と旧平戸街道の面影が残る町並みがあります。また、江戸時代に旗本松浦氏の所領(今福領)となり、炭坑によって栄えた歴史も持つ地域です。


分かり難いのが七郎神社と思います。大雑把に言えば、松浦党のエリアでも平戸、唐津を除き、南にも展開した領域になりますね。佐賀県の佐賀市(旧三瀬村から旧大和町)での数回の神社トレッキングでも遭遇しましたので外にも在る事は知っていますが、一部、以下の資料をご紹介します。

 以下は、今福周辺の神社を長崎県神社庁のHPから拾ったものです。

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無題.png七郎神社については祭神にばらつきが在り決定打がありません。しかし、トレッキングで遭遇し無題.pngた玉里神社に関するリポートをご覧になれば、参考にはなるでしょう。それらが、松浦党の本拠地とも言える松浦市に集中している事は、若宮神社が近隣に在るなどと併せ考えるべきでしょう。

 今福の若宮神社は松浦丹後権守源勝命と祭神を入れ換えが行われているようですので、それを調べる価値がありそうです。

今福の若宮神社 右矢印1

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社号 七郎大明神
祭神 少名彦命・神代勝利
 神社由緒調の鳥巣山七郎神社々伝には鎌倉時代の嘉禄2年(1226)に創建されたと次のように記されている。
 祭神 神代勝俊、或ハ井手野七郎卜云フ第六十六代堀河天皇嘉禄二年丙戌四月上旬藤瀬左馬助卜云フ人創建シテ平松村ノ氏神トス
 祭神 神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。勝利はその当時まだ生れていないので、神社明細帳にある祭神少名彦命を祀ったのが正しいと考えられ、神代勝利を合祀したのは室町時代の末期少なくとも勝利の死後のことであろう。
 井手野七郎については、後代まで神として祀られている以上、何らかの口碑伝説が残されていなければならないが、村を治めた有力者であったかも知れないというだけで、歴史的な記録や伝説は何一つ残っていない。
 七郎神という社号はこの地方に多く、三瀬村内にも柳瀬玉里七郎神をはじめ岸高、軽井谷七郎神・杠、田宇曽七郎神・宿七郎神・薙野七郎神などがあり、大和町旧松梅村や脊振村西北部、富士町旧北山村川上川上流地域の谷々などの小部落に点々と二十数社も祀られていて、祭神は少名彦命・椎足彦天皇・椎武王・十城別王・志々岐神・新田義貞など様々で一定せず、七郎明神そのものを祭神としているのは脊振村鹿路地域の5社だけである。共通することは、どこの郷民も古くからこの神社を「七郎さん」という親しみのある名で呼んでいることである。七郎明神とはどのような神であろうかと文献をさがしてみても、このような固有の名前をもった神は発見することができない。この神を祀ってある地域は、小城から旧神代領の北山々内に限られていて、これらの地域特有の神である。
 以上のことから考えると、「七郎さん」というのは部落の守護神の代名詞のようにもうけとられる。
 ただ、山内では「七郎さん」は神功皇后の三韓征伐にお伴をした人であるという漠然とした伝説も残っている。七郎神社の祭神に稚武王や十城別王が多くみられるが、この両王は日本武尊の御子で、仲哀天皇の弟、神功皇后とは義姉弟の間柄である。三韓征伐の時には当然行動をともにされたと考えられ、また、三瀬地区に伝えられる神功皇后の山内巡幸は、遠征のための兵員補充が目的であったかも知れないし、「七郎さん」も個人名ではなく、谷々の各集落から七名ずつの若者(郎)が応召し、椎武王や十城別王の配下に入ってはたらいたので、後代になって各部落毎に護国の神・部落の守り神として祀られたのではないかとも考えられる。
 祭神の少名彦命。神代勝利については、玉里神社の項で述べたとおりである。
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 なお、鳥巣七郎神社には石の狛犬が一対奉献されていて裏面に藤瀬左馬助の名が刻まれている。また、拝殿の鰐口の銘には
(表)神埼郡ノ内平松山奉掛七郎大明神 藤原朝臣景光 源右衛門(裏)寛文九巳酉天二月吉日
と刻まれている。寛文9年(1669)といえば、山内は鍋島氏の支配下になっていた。
 この神社は一時荒廃していたが、昭和4510月、部落氏子によって総桧造りの新しい社殿が建立された。                                         

出典:三瀬村史p719


さて、今福神社の祭神ですが、長崎県神社無題.pngとしか書いていません。

 松浦市は、以下の様に書いています。伊弉諾、伊弉冉と二神にしているため、近江の多賀神社からの勧請と思いましたが、その通りでした。

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伊弉諾は新羅系の昔氏ですから、須佐能は簡略化すれば新羅の王子様に成ります。伊弉冉は金山彦の妹ですが、百嶋神社考古学では二人は別れており、伊弉冉は博多の櫛田神社の大幡主(造化三神のカミムスビ)と再婚し名をクマノフスミと変え、熊野那智大社の主神と成っています。

 これが、あまり知られていませんが、熊野神社にこの二神の伊弉諾を祀らないものが多数存在している理由です。

また、須佐能は始め櫛稲田姫を妃にナガスネヒコ、オキツヨソタラシ兄妹をもうけていますが、後に大山祇の長女(大国主命の姉)神大市姫=ミヅハノメを妃に伊勢の外宮様、伏見稲荷様をもうけているのです。

 これが、今福神社に稲荷様が祀られている理由なのです。

 ここさえ解れば、松浦党のエリアに稲荷神社多数確認できる事が解ってきます。

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ご覧の通りです


 最近は、長いブログは敬遠されますのでここまでとします。


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2026年06月06日

ひぼろぎ逍遥1133 叶さんは舟を造った人の末裔ではないか 作業ノートから

ひぼろぎ逍遥1133 叶さんは舟を造った人の末裔ではないか 作業ノートから

20250904

太宰府地名研究会 古川 清久


 無題.png福岡県糸島市加布里のカノウ醤油の存在があまりにも衝撃的だったためにもう少し調べることにしました。

 勿論、姓名分布&ランキングの時代から気になっていたため10年以上前から「叶」姓が奄美大島が中心である事は承知していました。鹿児島県に集中するもそれが県単位では鹿児島になるのです。そこで止め外を調べていましたが、改めて奄美の分布を確認することにしました。姓名分布&ランキングが廃止されたことから、名字由来netをご覧いただきます。

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この縮尺では旧村落名は表示できませんが奄美大島でも南が多いようですね


 喜界町と言うか喜界ケ島は東に離れていますが、与論島は瀬戸内の直ぐ南で徳之島の天城、伊仙も南の島です。

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いずれにせよ、この一帯が叶姓の震源地なのです。この地で現地のガジュマルを刳り貫き舟に仕立て、アウトリガーを加えて帆を立てれば黒潮に乗り長距離の航海ができたのです。舟が引っ繰り返っても紐で繋がり、また乗り組み生き延びるのです。潮と風を見て島伝いに移動できるのです。

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アイノコ舟


大正10年に大和村大金久在住の海老原万吉氏(宮崎出身)により考案され、直進性の高い沖縄製の「サバニ」と安定性に優れた奄美大島の「イタツケ」の折衷舟であることからあいのこ(間の子)と名付けられた。 船首と船尾にサバニ型の逆三角形の構造を取り入れ、船底をイタツケ型の広く平らな構造にすることで奄美の自然環境と漁法に合致。

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2026年06月03日

新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

20250903

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

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この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであっても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバーでもある古川 茂様に酒の話をお願いし、時間を余したら後はお願いしますと言われたことから、当初は、脊振村の広瀧で許された後の川上 猛の福岡市早良への移送(逃亡ではなく管理された収監)ルートを探るトレッキング(ハイキング)へのお誘いの話をしようと思っていたのですが、茂様の酒の話に水を差すのは良くないと思い直し、急遽、前日から書き始めたのがこの話でした。ここでは触りというか概略だけをご紹介することにします。

一方、難 升米はどなたもご存じの卑弥呼が魏に送った外交通詞(使)であり、渡洋航海が出来る上に、政治情勢に精通し、なおかつ交渉能力を持ったエリートであった事が想像できます。

まず、五島灘、玄海灘、響灘、周防灘、播磨灘、熊野灘、遠州灘…と灘と難所の危険な海だから三水へんを加え、難しい海と表現しているのですが、古代にはその意味は今以上だったはずです。〇〇灘の分布については、海上穂保安庁水路図誌記載のをご覧ください。

古代に於いてそういった能力を持った人物とは、神産巣日、神皇産霊、神魂=博多の櫛田神社の大幡主(神代史ではカミムスビとしますが)であり、実際にはその若き後継者であった八咫烏以外には考えられないのです。

酒の話に繋ぎますが、もしも、古代に於いて、余った大量の穀物を運ぶ必要が生じた場合、どうしますか、船で運ぶ以外にはないのです。数日を要するとすれば、雨も降るし、飛沫も有る訳ですから、当然、船倉に入れることに成ります。また、復元力を齎すにはコンテナ船の様に甲板に積み上げることは危険極まりがない訳で、バラストとしての穀物は最適であり、それ以外の方法は取れないのです。

そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。

つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油をそして酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあ

ることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。

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まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。味噌もですが、味噌は今でもローカル色が強く、民俗学の対象として今後に残しておきます。酒造メーカーで衝撃的なのは、八咫烏=橘一族の本拠地の伊勢(百嶋由一郎の言を思い出します)の酒造メーカー株式会社宮ア本店をご紹介してお

きましょう。勝手な思い込みながら八咫烏直系の一族でしょう。

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無題.pngさて、灘の生一本の神戸市灘区に、何故、灘高校が創られたのでしょう。酒造メーカーと言うものは、土地の名士であり富豪であったことはご存じの通りです。と言うよりも、配下の政治家を操り、社会の方向性と将来の国防、貿易、殖産興業をさえも考える集団だったのです。彼らは、必要が有る時には愚かな権力者を跳ばす事も厭わず(今もそうですが)独自の外交を迫られ、いつでもそれを実行できる人材を養成しておく必要性を感じていたからこそ優秀な人員を育てるためにエリート養成のための高校さえも自ら創り出していたのです。ここで、幾つかのリポートをお読み頂けるようにブログのタイトルをご紹介しておきます。

非常に面白いので、亀甲紋をロゴとする醤油メーカーをもう少し出しておきます。以下も、亀甲紋章の醤油醸造メーカー

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伊万里の方に馴染みがあるのが川東の西岡醤油ですが、これも亀甲紋の中に十一が入っていますが、意味は分かりません。

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キッコ―紋の醸造メーカー追加コレクション

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やり始めたら多すぎて切りが無く、キッコーマンは元より、改めて亀甲紋章絡みの醸造メーカー(酒、醤油、味噌…)が非常に多いことに気付きました。上の右の三つは山形ですが、以前から八咫烏系、カミムスビ系の国だと思っていました。図らずもそれを裏付けてくれたのでした。このように醸造家は地域の豪族です。醸造業者が地域の政治的な差配をする隠然たる力を持っていたのです。

これはエピソード的ですが ご紹介だけしておきます。ペルーにも日系移民がかなり渡っています。恐らくその関係者でしょうが醤油(シジャウ)を造っているようです。味覚、食味、嗜好…と言うものがいかに強いかが分かります。始めは気にも留めていませんでしたが、驚くべきことに亀さんまでいたのです。亀甲マークが亀の尻尾になっていますね(右下)。浦島太郎もびっくりでしょう。そして、大幡主も実は浦島太郎なのです。

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宇佐の川上神社の異常な数の南姓は若しかしたら八咫烏ではないか

宇佐の駅館川の金屋の川上神社を参拝したのも10年も前でしたが、ここの氏子には8割近い南姓の方が居られるのです。そして、この神社が和歌山の川上神社 上社、中社、下社になっているのではないかと考えたのでした。そして、南姓も難升米、灘高校も、灘の生一本も、南 沙織 も懸案だった紀伊の「丹生川上神社中社」も廻船業、醸造業も全てが私の頭の中で一瞬に繋がったのでした。

新ひぼろぎ逍遥

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう”

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上神社とは何なのか?”

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空への哀愁”

744

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か”

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宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

「私兵特攻」の宇佐航空隊の川上神社は南さんが集中する八咫烏系氏族の根拠地

柳ヶ浦も旧帝国海軍航空隊の基地があった場所で、昭和20815日の終戦の詔勅が出る直前に沖縄に集結していた万余のアメリカ海軍機動部隊に対して20数機彗星などの特攻機が飛び立ったのでした。松下竜一が書いた「私兵特攻」でも、鹿屋の第五航空艦隊司令長官宇垣纏官揮下の中津留大尉外多くの若き勇敢な海軍将兵が我々の為に命を投げ出した事が書き留められています。

玉音放送後の特攻については、私のブログも含めネットにはいくらも出てきます。

この川上神社の駅館川を挟んだ対岸にあるのが宇佐空(柳ヶ浦海軍航空隊基地)です。上の図でも

戦時下に急ごしらえで造られた基地が分かりますね。※ 右端の方は人間の質が全く異なります。

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815日に日付が変わった頃、宇垣は「彗星」5機で沖縄方面の敵艦船を攻撃するよう、第五航空艦隊司令部の当直参謀であった作戦参謀・田中正臣少佐(兵59期)に命じた。長官自らが特攻するつもりではないか、と直感した田中作戦参謀から報告を受けた第五航空艦隊先任参謀・宮崎隆大佐(兵52期)が宇垣に真意を尋ねると、宇垣は下記のように答えた。「俺が乗って行くのだ。すぐに攻撃準備を整えてくれたまえ。」宮崎先任参謀は宇垣に再考を求めたが、宇垣は肯んじなかった。宮崎先任参謀によると、宇垣は「普段は見せない穏やかな表情」だったという。第十二航空戦隊司令官・城島高次少将(兵40期同期生)、第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将(兵46期)の2名が駆けつけ、「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとか取り止めることはできないか」などと繰り返し翻意を促したが、宇垣は「正式な停戦命令は受けていない。戦闘はなお継続中である。」[「武人として、俺に死場所を与えてくれ。必勝を信じて喜んで死んで行った多数の部下のもとへ、俺もやらせてくれ。」[とその決意は揺らぐことはなかった815日の夜明け後、宇垣の意志が固いと判断した宮崎先任参謀は、作戦命令を起案・発出した。

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同社を参拝したのはもう十年近く前になりますか、直ぐに、これほどの「南」姓の集積地は無いはずです。推定でしかありませんが、瞬間的に、九州王朝の通使として魏に派遣された難升米の「難」は「南」と置き換えら、近畿大和朝廷の時代に、本拠地を移したのではないかと言うイメージが湧いてきたのでした。難は灘高校、灘のなど生一本、奈多神社、奈多宮、玄界灘…以下周防灘全国の灘と呼ばれる海湾名にまで展開しているのです。そもそも渡海し交易を行うには外国語に通じ、潮を読み、天文観測から、歴にまで通じていなければならず、時として国家からも独立して大手商社が人材を養成し確保し言わば東インド会社の様な存在にまで成長する必要性が有るのです。この宇佐の南姓の集積地は、大幡主〜八咫烏…といった古代の外交を担った人々の集積地だった事が分かってきたのです。

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新ひぼろぎ逍遥

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ❽

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➐

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➌

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➋

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後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

近辺では、伊万里川河畔川東の西岡醤油も唐津の宮島醤油も臼杵のフンドーキン醤油も松浦川や臼杵川の河口に工場がありますね、それは車や道路がなかった時代には船で運ぶしか方法がなかったからです。塩や味噌は馬の背に積んでも運べますが、液体の醤油や酒になると容器の重量だけで牛馬による搬送が出来なかったからなのです。

無題.pngこのため、阿蘇には醤油が届かず、阿蘇の田楽(味噌田楽)が名物となり無題.png、大阪でさえも味噌おでんが関東風醤油おでんが普及するのは890年前からだったのです。だから今でもミツカンのおでんの素には関東煮(ダキ)と書かれているのです。大阪では味噌おでんが醤油のおでんに代わるのは戦後なのです。だから関東煮(カントダキ)と呼ばれ東京の哲学科の学生が驚いたという話があるのです

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以下、丹生川上神社のご由緒について (中社様HPより)時期が時期だけに偽装され罔象女神となっていますが、八咫烏の神社ですね

無題.png当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨師の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百三十年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

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