新ひぼろぎ逍遥1134 松浦党の神々 ❶ 松浦市 今福神社
20250905
太宰府地名研究会 古川 清久
これから松浦党のエリアの神社を簡潔にまたゆっくり調べて行きたいと思います。

松浦市にある神社。 応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます
AIによる概要
「松浦市 今福」は長崎県松浦市にある今福町を指します。この地には、応徳元年に創建された「今福神社(歳の宮)」や、昔ながらの街村の雰囲気と旧平戸街道の面影が残る町並みがあります。また、江戸時代に旗本松浦氏の所領(今福領)となり、炭坑によって栄えた歴史も持つ地域です。
分かり難いのが七郎神社と思います。大雑把に言えば、松浦党のエリアでも平戸、唐津を除き、南にも展開した領域になりますね。佐賀県の佐賀市(旧三瀬村から旧大和町)での数回の神社トレッキングでも遭遇しましたので外にも在る事は知っていますが、一部、以下の資料をご紹介します。
以下は、今福周辺の神社を長崎県神社庁のHPから拾ったものです。

七郎神社については祭神にばらつきが在り決定打がありません。しかし、トレッキングで遭遇し
た玉里神社に関するリポートをご覧になれば、参考にはなるでしょう。それらが、松浦党の本拠地とも言える松浦市に集中している事は、若宮神社が近隣に在るなどと併せ考えるべきでしょう。
今福の若宮神社は松浦丹後権守源勝命と祭神を入れ換えが行われているようですので、それを調べる価値がありそうです。
今福の若宮神社 ![]()

社号 七郎大明神
祭神 少名彦命・神代勝利
神社由緒調の鳥巣山七郎神社々伝には鎌倉時代の嘉禄2年(1226)に創建されたと次のように記されている。
祭神 神代勝俊、或ハ井手野七郎卜云フ第六十六代堀河天皇嘉禄二年丙戌四月上旬藤瀬左馬助卜云フ人創建シテ平松村ノ氏神トス
祭神 神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。勝利はその当時まだ生れていないので、神社明細帳にある祭神少名彦命を祀ったのが正しいと考えられ、神代勝利を合祀したのは室町時代の末期少なくとも勝利の死後のことであろう。
井手野七郎については、後代まで神として祀られている以上、何らかの口碑伝説が残されていなければならないが、村を治めた有力者であったかも知れないというだけで、歴史的な記録や伝説は何一つ残っていない。
七郎神という社号はこの地方に多く、三瀬村内にも柳瀬玉里七郎神をはじめ岸高、軽井谷七郎神・杠、田宇曽七郎神・宿七郎神・薙野七郎神などがあり、大和町旧松梅村や脊振村西北部、富士町旧北山村川上川上流地域の谷々などの小部落に点々と二十数社も祀られていて、祭神は少名彦命・椎足彦天皇・椎武王・十城別王・志々岐神・新田義貞など様々で一定せず、七郎明神そのものを祭神としているのは脊振村鹿路地域の5社だけである。共通することは、どこの郷民も古くからこの神社を「七郎さん」という親しみのある名で呼んでいることである。七郎明神とはどのような神であろうかと文献をさがしてみても、このような固有の名前をもった神は発見することができない。この神を祀ってある地域は、小城から旧神代領の北山々内に限られていて、これらの地域特有の神である。
以上のことから考えると、「七郎さん」というのは部落の守護神の代名詞のようにもうけとられる。
ただ、山内では「七郎さん」は神功皇后の三韓征伐にお伴をした人であるという漠然とした伝説も残っている。七郎神社の祭神に稚武王や十城別王が多くみられるが、この両王は日本武尊の御子で、仲哀天皇の弟、神功皇后とは義姉弟の間柄である。三韓征伐の時には当然行動をともにされたと考えられ、また、三瀬地区に伝えられる神功皇后の山内巡幸は、遠征のための兵員補充が目的であったかも知れないし、「七郎さん」も個人名ではなく、谷々の各集落から七名ずつの若者(郎)が応召し、椎武王や十城別王の配下に入ってはたらいたので、後代になって各部落毎に護国の神・部落の守り神として祀られたのではないかとも考えられる。
祭神の少名彦命。神代勝利については、玉里神社の項で述べたとおりである。
なお、鳥巣七郎神社には石の狛犬が一対奉献されていて裏面に藤瀬左馬助の名が刻まれている。また、拝殿の鰐口の銘には
(表)神埼郡ノ内平松山奉掛七郎大明神 藤原朝臣景光 源右衛門(裏)寛文九巳酉天二月吉日
と刻まれている。寛文9年(1669)といえば、山内は鍋島氏の支配下になっていた。
この神社は一時荒廃していたが、昭和45年10月、部落氏子によって総桧造りの新しい社殿が建立された。
出典:三瀬村史p719
さて、今福神社の祭神ですが、長崎県神社
としか書いていません。
松浦市は、以下の様に書いています。伊弉諾、伊弉冉と二神にしているため、近江の多賀神社からの勧請と思いましたが、その通りでした。

伊弉諾は新羅系の昔氏ですから、須佐能は簡略化すれば新羅の王子様に成ります。伊弉冉は金山彦の妹ですが、百嶋神社考古学では二人は別れており、伊弉冉は博多の櫛田神社の大幡主(造化三神のカミムスビ)と再婚し名をクマノフスミと変え、熊野那智大社の主神と成っています。
これが、あまり知られていませんが、熊野神社にこの二神の伊弉諾を祀らないものが多数存在している理由です。
また、須佐能は始め櫛稲田姫を妃にナガスネヒコ、オキツヨソタラシ兄妹をもうけていますが、後に大山祇の長女(大国主命の姉)神大市姫=ミヅハノメを妃に伊勢の外宮様、伏見稲荷様をもうけているのです。
これが、今福神社に稲荷様が祀られている理由なのです。
ここさえ解れば、松浦党のエリアに稲荷神社多数確認できる事が解ってきます。

ご覧の通りです
最近は、長いブログは敬遠されますのでここまでとします。
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にお読み頂き有難いと思っています。
福岡県糸島市加布里のカノウ醤油の存在があまりにも衝撃的だったためにもう少し調べることにしました。




















、大阪でさえも味噌おでんが関東風醤油おでんが普及するのは


















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