新ひぼろぎ逍遥@ 1050 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (下)
20240526
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
最近知己を得た八木様があまりにも高学歴かつ頭脳明晰な方だけに、八木姓についてレクチャーするなど烏滸がましい事は十分に承知の上ですが、それに輪を掛けて高千穂は、ひのみこ社の二子石様を介在していただけに中途半端な話で収める訳にも行かず、本稿を書くことになりました。
(上)では元々が関東でも東京都下の方である事から、一応、星宮、カガセオの話にまで触れたのですが、ここでは、再度、落ち着いた話をしてみたいと思います。
八木姓の方がイスラエル系の人であるという話に疑いは持ちませんが、この八木姓と金山彦を繋ぐ決定的な証拠の様なものを持ち合わせている訳も無く、実際には、八木姓=カグツチと言った方程式的な考えさえ持ち合わせて無い事に気付き愕然としているのが実情と言えばそのとおりです。
ここでは、百嶋先生の神代系譜を駆使して最大限、真実に近づきたいと考えています。

百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)
秦の始皇帝、先行する周王朝、殷王朝を含めイスラエル系であった事は(上)編に於いて触れました。それに派生し、周王朝の正当な後継者であった古公亶父の正室の子である長男、次男=太伯・虞仲
が越に入り新国家「呉」の王室に担がれたことから、呉越同舟の呉も別の意味でイスラエル系の後継国家とまでは言えるでしょう。
ただ、その春秋戦国の呉も夫差の時代に越に滅ぼされます。既に国家の命脈が尽きたのかも知れませんが、その夫差の子孫が、恐らく熊本から博多の九州東岸部に入っている様なのです。
従って、熊本県にもこの呉の後裔氏族が九州に入り神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)に象徴されるイスラエル系呉の太白王の末裔が初期の天皇(正当皇統)となっているのです。
こうして、“倭は太白の末”とか裔という良く知られた歴史観が古代史の世界には定着しているのです。
そして、それを示すかのように、本物の神武のお后であるアイラツヒメは金山彦と大山祗の姉に当たるオチの姫の間に生まれた女性で、後に神武と別れて阿蘇の金凝(カノコリ)彦の妃となったことから蒲池姫と名を変え宇土半島南岸の郡浦神社に祀られているのです。
対して、金山彦のもう一人の腹違いの娘である櫛稲田姫(ヤマタノオロチ退治で知られるスサノウの妃
)は熊本県山鹿市の某神社で現在も丁重に祀られているのです。決して出雲などの話ではないのです。
勿論、それは出雲の話ではないかと言う疑問がある事は十分承知していますが、九州で起こった事ではないとして創られた話なのです。言わば、畿内の延長、一部としたい後の畿内王権の意図が見えているのです。
「古事記」は天武朝(天武とその父が白江戦を闘った張本人)により創られた史書あり、その後、九州から大和に本拠地を移すのです。それは太宰府が郭務悰により占領されたから首都を移したのでした。
対して「日本書紀」は壬申大乱以降に藤原政権(阿蘇氏でも草部吉見は藤原の直接の始祖)が創った史書なのです。こうして天武系が打倒され畿内王権が成立し最後は阿蘇系の藤原王朝となったのでした。
同時に博多の櫛田宮の一族の植民国家の一つでしかない出雲が古代出雲王朝などというとんでもない輪を掛けたお伽噺までが生まれたのでした。
ちなみに出雲大社の巨大な古代神殿の大柱の痕跡と大騒ぎされた木柱の痕跡は、その後の理化学調査の結果、鎌倉期の物と判りましたが、ネットに公表されたまま大騒ぎしたNHKも全く修正をしてはいません。
「天下無双の大廈(二つと同じものが無い壮大な神殿)」と称えられる御本殿は、悠久の歴史の中でその度々の御造営遷宮と御修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いできました。
現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。

古代御本殿柱
御本殿を支える九本の柱 御本殿の高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を 今に伝えています。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、その正面向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)があります。
従って、御神座は御本殿と同じ南向きではなく、西向きになります。
御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています。
天下無双の大廈 た い か 、出雲大社巨大柱の発見 出雲大社境内遺跡(出雲市大社町)、調査年:2000(平成 12)年 松尾充晶
出雲大社の発掘調査が進められていた当時、地元の大社町教育委員会には文化財の専門 職員がいませんでした。そこで技術支援のため、県埋文センターから私が調査に参加するこ とになり、3 月初頭から発掘現場の最前線で苦闘していました。4 月 5 日に巨大なスギ材 1 本が見つかり、かつての出雲大社本殿の柱であることがわかると、報道機関の取材合戦が白 熱することになります。その最大の関心事は、「柱材は 1 本だけなのか、それとも“幻の束ね 柱”なのか」という点にありました。出雲大社の宮司、千家家に伝わる古図「金輪 かなわの 御造営差図 ご ぞ う え い さ し ず 」 には 3 本束ね柱の本殿が描かれていますが、そのような特殊な高層建築は実在自体が疑わ れていたからです。 4 月 22 日は土曜日のため発掘作業は休みでしたが、調査の行程が遅れており、私は図面 を描くため現場に出勤することにしました。釣りに行く予定を変更して T さん(当時、県 文化財課勤務)が手伝ってくれます。柱穴の土層断面図を朝から描き続け、日が傾き始めた 夕方 5 時前のことでした。巻き尺の目盛りを読む役の T さんが、1 本だけ見つかっていた 柱材となりの土を指差して「か、なんだや?(これは、なんだ?)」と大きい声を出したの です。指差す先には、2 本目の柱材である巨木の肌がわずかに顔を出していました。これが、 束ね柱確定の瞬間でした。ひと目でその意味がわかった T さんと私は、無言でがっちりと 握手したのです。 その後の分析で、見つかった本殿跡は鎌倉時代(宝治 2(1248)年)の造営であること がわかりました。『古事記』『日本書紀』では国譲りに由来するとされ、平安時代には「天下 無双の大廈」と讃えられた出雲大社の高く大きな本殿ですが、中世には造営が困窮し、規模 が縮小したことが知られています。出土した鎌倉時代の本殿は、古代を通じて繰り返された 大規模建築の更新が難しくなっていた中世への過渡期にあたり、いわば「最後の高層神殿」 ということができます。巨大な用材の確保が難しくなったため、合成材として大きな柱を作 るための工夫が三本束ねの構造ではないか、「金輪御造営差図」はそうした「最後の高層神 殿」の姿を伝えるための記録ではないか、という説も出されるようになりました。 神話に強調される古代出雲の特殊性は実体の無い虚構である、という見方もありますが、 国譲り神話にちなむ出雲大社本殿が特異な大型建築として実在していたことは、この発掘 調査が証明したと言えるでしょう。人類史上、最大の木造建築柱材の発見であり、それが大 勢の参拝客が見守る中で調査されたという点においても、「天下無双の発掘現場」だったと 思います。 (古代文化センター専門研究員)
山鹿市の大宮神社
熊本県山鹿市に鎮座する大宮神社(1943年昭和18年県社となった)は、現在、景行天皇と阿蘇12神を主神として祀る神社とされています。
ただ、同社では元々祇園祭が現在も行われています。スサノウを祀る祇園神社が伝統的な祭神である同社が、阿蘇氏を祀る様になるのは南北朝期以降の話なのであって、阿蘇系でも何でもない山鹿の人々は古来阿蘇の神々を祀ったはずはないのです。また、天照に逆らったスサノウでは県社には不適なのです。また、客人の様な景行天皇を出迎えた話があり、県社昇格のために天皇を迎えたとすることは都合が良かったはずなのです。しかも、「ヨヘホ、ヨヘホ…」と出迎えたとする伝承もヤファエ、ヤファエの可能性が高く、元来、この地の人々がどのような人々であったかを今に伝えている様なのです。
つまり、景行天皇の伝承を持ち込んだのは、神社そのものであったはずで、やはり県社昇格と関係がありそうです。
一般的に肥後の神社を考える上で最も重要な事は、阿蘇神社の印象が強烈なためか阿蘇神社こそが全ての様な理解がされていることでしょう。
「熊本県神社誌」上米良純臣(監修)S56年発行 27pには県内3237社中、阿蘇系神社は300社程度であって、最も多い神社は全体の三分の一に近づく」1,012社の菅原系神社であると言う事実なのです。
これは一般的な印象とは全く異なるものなのです。そこでこの菅原系神社が何かなのですが、仮に菅原道真=菅公を祀るとするとき、父方に造化三神の神産巣日神系(具体的には博多の櫛田神社の本家)と母方に金山彦系の本家の伴の女との間に産まれている事を考えれば、この系統が肥後の神社の最大勢力だった事が分かるのです。
特にこの傾向が、人吉盆地と山鹿市が顕著である事から、ある時代に於いては、山鹿市が如何に重要な地域であった事が分かってくるのです。
そこで、大宮神社を考えるのですが、景行、阿蘇を後付けと考えれば、元々、祇園社を持ち、祇園祭を行っていた山鹿神社とは、金山彦を祀る神社だった事が見えてくるのです。
これについては、大宮神社として、二十本のブログを書いており、400シートのパワー・ポイントも創っているのです。
これをご覧頂くか、ネット上の以下のブログを拾い読みして頂ければ一端は把握できるかと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
300 | 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦” |
299 | 大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも 山幸と豊玉姫が…” |
298 | 大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇 受賣命を祀る古社” |
297 | 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は 猿田の意味を知っていた” |
296 | 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?” |
295 | 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と 安心院の佐田神社 再掲” |
294 | 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の 経津主も猿田彦大神なのです” |
293 | 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“ |
292 | 大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“ |
291 | 大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“ |
290 | 大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて” |
289 | 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから” |
288 | 大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて” |
287 | 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の 主神の大幡主の子であった” |
286 | 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の ウガヤフキアエズ陵” |
285 | 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神” |
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
281 | 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か? |

ところで、「熊本県神社誌」を書いた上米良純臣氏は人吉市の青井阿蘇神社の宮司や熊本県神社長になっておられます。
しかも、菊池志誠会の会長をされており、百嶋由一郎氏は同会の福岡県支部長と言う間柄であったと聴き及んでいます。
そのような間柄であった事から、福岡、熊本県下のみならず九州全域の神社情報が手に入れられる環境下にあった事が容易に想像できる上に、室町戦国期の江戸時代以前から、三十年前ぐらいまでは、人吉市の青井阿蘇神社で数百年の単位で、神社の研究会が継続されており、本当の神社情報が継承されていたとお聴きしています。その僅かな一部を私達百嶋神社考古学の者が継承している事に今更ながら戦慄を感じざるを得ず改めて使命を意識するこの頃です。
百嶋由一郎氏に対し慎んで感謝します。