2026年06月24日

新ひぼろぎ逍遥1139 日田市鶴河内の若八幡宮初見参 九州王朝久留米高良大社の痕跡を確認した

新ひぼろぎ逍遥1139 日田市鶴河内の若八幡宮初見参 九州王朝久留米高良大社の痕跡を確認した

20250911

太宰府地名研究会 古川 清久


漸く時間的な余裕が得られ、懸案だった日田市鶴河内に入り価値ある一社を見る事ができました。

この日田市の鶴河内という地区は同市でも深く奥に延びる隠れ里の様な場所で、私も初めて入りました。

 案内して頂いた長瀬様には改めて感謝しているところです。

 まず、普通は全く入る事のない地区で、今になって思い返せば、20年ほど前に日田市の小鹿田焼きの里に雪の残る季節に恐る恐る帰路として通過したことが有ったのかも知れません。

 しかし、この鶴河内集落内一帯にはかなりの人家があったようで、名家とも言えるクラスの大きな御屋敷から中には信じられない様な驚愕の大邸宅まで存在しているのです。

 案内して頂いた方は、行政から脱サラ後、同地の付近にも長期間住んでいた事もあるそうで、実に地元に精通されたガイドだったのです。

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鳥居と参拝殿の間には池が置かれ、太鼓橋や島があしらわれていました。これは九州王朝系の神社には良くある形式で、一般的には水分(ミクマリ)神として、市杵島姫、天御中主命、罔象女神弥都波能売神が祀られますが、池島の石塔の文字を調べましたが確認できませんでした。

 境内を進むと二の鳥居があり左が、一応、一の鳥居の神額で、右が二の鳥居の神額です。

 右が石を削り込んだもの様です。左がコンクリートではないでしょうが、彫が甘く新しいもののようです。正確ではないのでその内もう一度脚立も持ち込んで確認しようと思っています。

 それは、道路とか神殿の改修を見なければ一概には言えないので、初見の神社とはこの程度の甘い見方しかしていないのです。

 ここでは若八幡宮なる概念が、近畿大和朝廷成立後、天武系を潰し天智系に切り替え、あまつさえ橘一族を潰した後、藤原氏(阿蘇系多氏)による専横が歴史を偽造し、呉の太伯王の正統皇統の周王朝の流れを継承していた九州王朝の歴史を潰し、元々、白村江敗戦以降の唐による太宰府占領期に九州王朝の臨時首都が置かれた可能性さえある日田市の若宮神社を実質的に改竄し、応神の子が仁徳などと言ったとんでもない話を造り上げてきたのが近畿大和朝と大原八幡宮の大蔵一族だったのです。

 彼らは、後漢の霊帝の後裔(大蔵、財津、田尻、原田、秋月、笠、龍…)で、列島に移動して来た阿智王の一族だったのです。それ故に近畿大和朝廷の代理人として日田の支配に乗り出したのです。

 その際に、消されたのが若宮神社だったはずなのです。

 若宮神社とは仲哀死後の神功皇后を后(皇宮皇后)として受け入れた開化天皇(久留米高良大社)の長子がオオササギ=若宮神社の主なのです。御二人の間の実子が5人、多分仲哀との間の連子が4人で、その九躰皇子を祀る久留米市山川町の皇子宮+坂本宮なのです。

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更に、参拝殿から神殿に進むと、驚くことに石窟神殿がありました。

 多分、この地区に入った人々が半島経由で遼寧省辺りから入っているのでしょう。

 彦山の北宮、日田の高住神社(豊日別神社)大分県日田市天瀬町馬原172番地と同じですね。

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しかし、立派な石窟神殿ですね驚きました


若八幡宮とは日田の祇園山笠が3基ですか集結する若宮町の若宮神社と同様の祭祀であることが分かって来たのです。大分県には神社誌がないため明治の神明帳を調べるなど作業には入ります。


以下、参考として  無題.pngをお読みください


大分県日田市若宮町 若宮神社

001_神社めぐり。
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日田祇園祭 - Wikipedia

京都府京都市の祇園祭を手本とした祇園祭の一つ。豆田地区の豆田八阪神社、隈地区の隈八坂神社、及び、竹田地区の竹田若八幡宮(若宮神社)で行われる。
小屋入り(山鉾の建造開始)から薮入り(行事参加者の慰労会)までを合せると二十数日間にわたって行われる行事で、祭典の一環である曳山行事は毎年720日過ぎの土日に行われる[1]。この間、巡行を行う山鉾は、豆田地区(港町・下町・中城町・上町)4基、隈・竹田地区(大和町・川原町・若宮町・三隈町)4基と、八坂神社の平成山鉾の計9[2]。このほか、旧上横町の山鉾1基を合わせて計10基が現存しており、日田祇園山鉾会館には、隈・竹田地区の山鉾4基、平成山鉾1基、旧上横町の山鉾1基の計6基が常時展示されている[3][4]。山鉾以外に、八坂神社と竹田若八幡宮の神輿も行列を率いて巡行する。

社号標は「若宮神社」、鳥居の扁額は「若八幡宮」と仁徳天皇が御祭神だよ、とあちこちに示されているのですが、織田木瓜が扁額に彫り込まれており、祇園社としても認識されていることがわかります。

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由緒を記した石碑を読んでいくと、元々ここは若八幡社であったものに、大蔵氏が老松天神を勧請し、さらに後年、祇園社が合祀されたのだとわかります。

これまで石井大明神社をはじめ、九州王朝(玉垂命やその子である仁徳天皇)を祀る神社が、新支配層(オシロワケ(景行天皇)、大蔵氏etc)からいかに邪険に取り扱われてきたかを見てきました。

おそらく、この若八幡社というのも、新支配層の指示で改称したものであり、元々は玉垂宮であったに違いありません。

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最近、やっと若宮八幡宮とは、九州王朝側に対する新支配層の配慮・妥協の産物なのだと理解できるようになりました。仁徳天皇を聖帝(ひじりのみかど)と思いっきり褒め上げるのも、彼が譲位してくれたから、崇神をはじめ現王朝一派が国家を背乗りできたわけで、ほめなければバチがあたろうというものです。

その代わり、日本書紀は仁徳天皇を大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)と記します。

父の開化天皇(=玉垂命)は、日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)とされ、「稚」を「わか」と読むため誤解しそうになりますが、この場合「最後」が正しいのです。

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日本書紀は王朝交代時に存在した複数系統を直列に並べ替えて改ざんしているため、あてになりません。やはり玉垂宮神秘書なり各地の神社伝承を追ったほうが、はるかに整理できます。

父親が「やまとの中心・根底に居た最後の男」さんで、その子の名前には「やまと」はなく、ちょうどこのころ、王朝簒奪・背乗りが完成したのでしょう。

仁徳天皇 - Wikipedia

翌年の応神天皇412月に父帝が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので三年も続く皇位の譲り合いが始まってしまった。貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。

少なくとも3年は抗争したのでしょう。盛者必衰とはいえ、残酷な話だとあらためて感じます。

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2026年06月21日

新ひぼろぎ逍遥1138 松浦党の神々 ❹ 佐世保市 “松浦党と鎌倉神社”

新ひぼろぎ逍遥1138 松浦党の神々 ❹ 佐世保市 “松浦党と鎌倉神社”

20250907

太宰府地名研究会 古川 清久


玄界灘北西沿岸一帯の所謂松浦党の領域にかなりの数の鎌倉神社が存在します。

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これほどの分布を示しながら、AI様は把握されておらず、神社庁も江向町のデータには出てくるので一応は把握しているようですが、何故か積極的には公表されていないようです。


 これ以外にも、佐賀県唐津市の唐津市佐志の佐志八幡宮や松浦党の祖とされる久の上陸地点である松浦市今福の今福神社にも峯五郎源披公靈が祀られているようです。

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長崎県神社庁 の資料にも 2,3,7,9,145社は確認できます。


外の地域はご自分で検索して見て下さい。鎌倉神社 + 〇〇町で…


 佐世保市に編入された旧江迎町〜旧鹿町にも五社の鎌倉神社が在ります。


以前から、佐世保市の鹿町も博多湾の志賀島の「シカ」だと考えていました。

 それは、さらに南の旧大瀬戸町(西海市)があり、旧東松浦郡(佐賀県唐津市)の七ツ釜、呼子、名護屋、…といった地名があり、その間に鹿町、江迎町が在るからです。


859-6144 長崎県佐世保市鹿町町鹿町893の鎌倉神社 のネット・データ から


峯五郎披公霊峯五郎披(ひらく)公とは、宗家松浦氏二代目の松浦直の五男で峯氏の初代にあ無題.pngたる鎌倉時代の人物。峯氏はその後、本拠地を小値賀島から平戸島に移し、明治維新まで続く平戸松浦氏の礎を築くことになります。


鹿町川のほとりにある神社。主祭神は鎌倉様こと峯五郎披公霊。 峯五郎披(ひらく)公とは、宗家松浦氏二代目の松浦直の五男で峯氏の初代にあたる鎌倉時代の人物。峯氏はその後、本拠地を小値賀島から平戸島に移し、明治維新まで続く平戸松浦氏の礎を築くことになります。 摂社として稲荷神社がありますが、並んだ石祠を見るに付近の石祠を集めて合祀したもののように思われます。そこには愛嬌のある古そうな狛犬2頭もいます。

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藤護神社 カーナビ検索 長崎県佐世保市鹿町町深江274 祭神 峯五郎披公霊


鎌倉神社の祭神とされる峯五郎披 の人物像が掴めなかったのですが、漸く少し理解できる情報に遭遇しました。 無題.pngです。これが松浦市を拠点とした松浦党主流と分家とされる平戸松浦氏の対立に繋がるようなのです。


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松浦党研究では以下も基礎研究としては重要ですので是非お読み頂きたいと思います。、


無題.png無題.png「唐津松浦潟」のネット化に成功した後、各方面から反響があった。
平成18年7月25日、唐津松浦潟の著者、松代松太郎の孫という方から突然のメールを頂いた。そしてこの「東松浦郡史」の存在を知った。7月27日ご本人からお電話を頂き、昭和30年頃、常安弘通氏が再版の為に桜馬場の松代家を訪れたことを覚えていらっしゃった。「唐津松浦潟」のネット化に対しては感謝されていて、更にこの「東松浦郡史」のそれも快諾頂いた。早速古書を手に入れ、再びこのネット化に着手する運びと相成った。


著作権云々で問題があればご遠慮なくご指摘頂きたい。 平成18年7月31日  管理人 吉冨 寛



百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

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2026年06月18日

新ひぼろぎ逍遥1137 松浦党の神々 ❸ 佐世保市 飯盛神社 “松浦党と稲荷神社”

新ひぼろぎ逍遥1137 松浦党の神々 ❸ 佐世保市 飯盛神社 “松浦党と稲荷神社”

20250907

太宰府地名研究会 古川 清久

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多くの稲荷神社の中から佐世保市の愛宕山の麓に鎮座する同社を選んだのは、麗峰に惹かれたからでした。福岡市西区と糸島市の境を成す飯盛山に伊弉冉(イザナギと別れたイザナミ)が祀られていたからでした。


現代文訳

日本神話・神社のまとめ 第五段一書(十)
それでイザナギは申し訳なく思い、引き返そうとしました。そのときイザナミは黙って帰らせず
「別れましょう」と言いました。

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そもそも伊弉冉(イザナミ)とは金山彦の妹であり、伊弉諾(イザナギ)と別れた後、博多の櫛田神社の主神大幡主(実は造化三神の神産巣日、神皇産霊:ミムスビ)の妃となり、現在、紀無題.png州は熊野那智大社のクマノフスミ様となっており、夫である大幡主様は熊野速玉大社の主神に成られているのです。

それを裏付けるかのように、飯盛神社の背後の愛宕山山頂には愛宕将軍地蔵尊=金山彦が祀られているのです。福岡市の方は皆さん良くご存じですが、博多の姪浜の愛宕神社は金山彦を祀っていますね。

 ここで少し気になるのは、飯盛山は針尾島近くにも飯盛山が在る事です。これは今後の課題です。

一口に松浦党と言っても、政情の変化によって相互に対立が生じ離合集散から何度もの軍事的衝突までが生じています。

このため、決して一枚岩だったとは考えない様にしておくべきなのです。本流とされる松浦氏と分家である平戸松浦氏なども象徴的で、当然にもそれらの対立は、多くの神社の祭神にも色濃く反映されているはずなのです。では、ここからは、同社の公式HPに目を向けましょう。

無題.png先ずは、神紋からして異なり梶紋になります。

ご由緒

鎌倉後期、後醍醐天皇の御代の元徳元年(1329年)に紀伊國熊野三所権現の分霊を小野町の山に勧請し創建したのがはじまりと伝わる約700年の歴史を持つ古社です
 安土桃山時代の天正八年(1580年)に現在地付近に遷座、飯盛大権現と称しました。 以降平戸藩より崇敬を受け相神浦の総氏神として親しまれてきました。中略

書物には創建不明とされていますが、当社の主祭神の由緒によると元徳元年(1329年)に、和歌山県の熊野三所権現の分霊を、小野町の山に熊野権現として創建されたのがはじまりとされています。時は流れて戦国時代、宗家松浦党(本家筋)と平戸松浦(分家筋)との間で戦がありました。宗家松浦党は、当時の近代兵器「鉄砲」を要する平戸松浦党に、臆することなく勇猛果敢に戦いました。親子二代にわたり戦いましたが、終には和睦となりました。その後、天正8年(1580年)に小野町にある熊野三所権現からご神体を遷座し、現在地付近に飯盛大権現を建立しました。以降、平戸藩から崇敬を受けてこの地域の総氏神として親しまれてきました。明治4年には、社号を飯盛神社と改名し、明治39年には現在地に鎮座地を遷し今に至ります。


 こちらは一応、伊勢〜熊野に掛けて繋がる南朝方の人々だった様ですね。では祭神を見ましょう。


伊弉諾尊 伊弉冉尊と対をなす男の神様。夫婦の神様であり、日本の親神様

伊弉冉尊 伊弉諾尊と対をなす女の神様。夫婦の神様であり、日本の親神様

速玉男命 (縁切り 女人守護)はやたまおのみこと

泉津事解男命(厄除け 有言実行)よもつことさかおのみこと伊弉諾と伊弉冉が問答を交わしたときに発した言葉から生まれた神様

大山咋命(お酒の神様)おおやまくいのみこと京都の松尾大社から分霊されたお酒の神様

素戔嗚命(疫病除け 良縁)すさのおのみこと

松浦丹後守政公(産業発展 土地守護)まつうらたんごのかみまさしこう

松浦丹後守幸松丸公(産業発展 土地守護)まつうらたんごのかみこうまつまるこう

迦遇槌命(火災除け)かぐつちのみこと


敬愛する玄松子様も悩んでおられます。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男。

掃きはらったことや、事解の神名から事態を収拾させる神、絶縁の神と思うが、よくわからない。

一言主神の別名を言離神(ことさかのかみ)ともいい、事解男神と似た神なのだろうか。


松浦丹後守政公(産業発展 土地守護)


松浦 政(まつら まさし)は、戦国時代武将肥前国大智庵城主。父・松浦定延徳4/明応元年(1492)に没すると、15歳で松浦氏嫡流である相神浦松浦氏の家督を継ぎ、相神浦有田今福、黒島、鷹島、佐世保を領有した。明応3年(1494)に嫡男・が誕生した。

明応7年(1498年)、政は狩猟の際の諍いから、家臣の山田四郎右衛門から怨まれることとなり、出奔した四郎右衛門・文左衛門兄弟は、平戸松浦弘定の元へ行き、自分達が案内者となる代わりに政の討伐を依頼した。一度、定によって自領を追われた弘定にとっても、恨みを晴らす好機であり、この申し出を了承し大智庵城攻めを決定した。同年112日、弘定と松浦興信父子は弘定の弟・大野定久に軍を率いらせ、四郎左衛門の案内で間道から大智庵城を急襲。城は一夜で落城し、政は脱出を図るも叶わず自刃。妻と子の幸松丸(後の親)も平戸へ人質として連行され幽閉された[1]

松浦政 (相神浦松浦家)で検索した ウィキペディア・データ20250907 15:22 による

 

松浦丹後守幸松丸公(産業発展 土地守護)


 無題.pngこの人がいなければ佐世保の戦国時代はおもしろくない。宗家相神浦 第16代当主。幼い頃、平戸家による大智庵城落城で父親を亡くし平戸へ人質として捕らわれたが、家臣により助け出され有田の唐船城で当主として育てられる。
 相浦の愛宕山に
飯盛城を建て復活を遂げる。その後20年余りにわたる平戸の攻撃に耐える。数と兵器で圧倒的に勝る平戸軍の攻撃に対して何度も勝利しており、よほどに部下の信頼が厚く領内の結束が堅かったのではないだろうか。また妻の多美野とは仲むつまじく暮らしたようで、80歳で宗金は死去するが、その6日前に多美野も死去している

複数検索で

明応3年(1494年)、松浦氏嫡流・相神浦松浦氏当主・松浦政の嫡男として誕生。同7年(149811月2、父・政が平戸松浦氏・松浦弘定の攻撃により大智庵城で自刃。幸松丸は母・南殿と人質として平戸へ連行され幽閉される。同8年(1499)、旧臣達が一計を案じ、母と共に幸松丸が今福歳の宮に参詣したところを救出、幸松丸は有田唐船城へ入城し旧臣達の支えを受け成長していった。永正9年(1512)に元服。名を親と改め旧領の奪回を目論み、相神浦で兵を上げ大智庵城や武辺城を奪回し、松浦弘定への対抗勢力となったが龍造寺家兼の斡旋を受け弘定と和睦する。同12年(1515)、波多興の長女・多見野を娶る。

享禄4年(1531)、叔父・少弐資元の奔走により、室町幕府から平戸松浦氏が今福・有田・相神浦を返還する沙汰が出され、親は旧領を回復した。また、親は少弐氏との関係を強固にするため、資元の子であるを養子に迎える。天文4年(1535)頃、新たな居城・飯盛城を築城した。

一方、平戸松浦氏当主・松浦隆信は親討伐の軍を起こし南進した。天文12年(1543)、隆信は鷹島・今福を攻め、同13年(1544)には飯盛城に攻め寄せる。しかし、要害であった飯森城は防御が固く戦いは一年余りに及んだ。この間に蹂躙された飯森城下や民の窮状を見た親は、有馬氏の仲裁を受け入れ、鷹島を隆信へ割譲し和睦した。永禄3年(1560)、親は、衰退していた少弐氏に替わり、島原で勢力を拡大する肥前有馬氏から有馬晴純の五男のを新たに養子として迎えることで、有馬氏の支援を受け形勢の逆転を狙った。

6年(1563)、後ろ盾である有馬氏が龍造寺氏に敗れ衰退したことを好機と捉えた松浦隆信は親討伐のため再び南進した。隆信勢は陸海両面から来襲し、鉄砲隊を先頭に飯森城に攻め寄せた[3]。親は隆信方の攻撃をよく防いだが、有馬氏からの援軍はなく、次第に親は劣勢となった。同9年(1566)、親は相神浦を隆信に制圧され、孤立したことで龍造寺氏らの仲介を受け入れ、隆信の三男・九郎(同じく親と名乗らせる)を養子に迎え、隆信に降り飯森城を開城した[4]

その後、永禄6年(1563年)の籠城中に、有馬氏へ援軍依頼を要請しに行ったまま飯森城へ戻らなかった盛が帰還した際、盛の処遇に窮し、九郎を相神浦に、盛を唐船城に配置し、自らは剃髪し宗金と号し隠棲した。天正5年(1577年)、妻・多見野が亡くなって6日後の923日に死去した。

松浦親 (宗金)で検索した。ウィキペディア・データ20250907 15:33 による

 

不慣れな作業ノートで申し訳ありません。いずれにせよ複雑怪奇で直ぐには理解できません。


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

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