2026年06月15日

新ひぼろぎ逍遥1136 松浦党の起源を探る 続)交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

新ひぼろぎ逍遥1136 松浦党の起源を探る 続)交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

20250910

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

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この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであっても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバーでもある古川 茂様に酒の話をお願いし、時間を余したら後はお願いしますと言われたことから、当初は、脊振村の広瀧で許された後の川上 猛の福岡市早良への移送(逃亡ではなく管理された収監)ルートを探るトレッキング(ハイキング)へのお誘いの話をしようと思っていたのですが、茂様の酒の話に水を差すのは良くないと思い直し、急遽、前日から書き始めたのがこの話でした。ここでは触りというか概略だけをご紹介することにします。

一方、難 升米はどなたもご存じの卑弥呼が魏に送った外交通詞(使)であり、渡洋航海が出来る上に、政治情勢に精通し、なおかつ交渉能力を持ったエリートであった事が想像できます。

まず、五島灘、玄海灘、響灘、周防灘、播磨灘、熊野灘、遠州灘…と灘と難所の危険な海だから三水へんを加え、難しい海と表現しているのですが、古代にはその意味は今以上だったはずです。

〇〇灘の分布については、海上穂保安庁水路図誌記載の灘をご覧ください。

古代に於いてそういった能力を持った人物とは、神産巣日、神皇産霊、神魂=博多の櫛田神社の大幡主(神代史ではカミムスビとしますが)であり、実際にはその若き後継者であった八咫烏以外には考えられないのです。

酒の話に繋ぎますが、もしも、古代に於いて、余った大量の穀物を運ぶ必要が生じた場合、どうしますか、船で運ぶ以外にはないのです。数日を要するとすれば、雨も降るし、飛沫も有る訳ですから、当然、船倉に入れることに成ります。また、復元力を齎すにはコンテナ船の様に甲板に積み上げることは危険極まりがない訳で、バラストとしての穀物は最適であり、それ以外の方法は取れないのです。

そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。

つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油をそして酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあ

ることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。補足のためのものでいずれまとめて出したいと思います。

そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油を酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。

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まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。味噌もですが、味噌は今でもローカル色が強く、民俗学の対象として今後に残しておきます。酒造メーカーで衝撃的なのは、八咫烏=橘一族の本拠地の伊勢(百嶋由一郎の言を思い出します)の酒造メーカー株式会社宮ア本店をご紹介しておきましょう。勝手な思い込みながら八咫烏直系の一族でしょう。

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無題.pngさて、灘の生一本の神戸市灘区に、何故、灘高校が創られたのでしょう。酒造メーカーと言うものは、土地の名士であり富豪であったことはご存じの通りです。と言うよりも、配下の政治家を操り、社会の方向性と将来の国防、貿易、殖産興業をさえも考える集団だったのです。彼らは、必要が有る時には愚かな権力者を跳ばす事も厭わず(今もそうですが)独自の外交を迫られ、いつでもそれを実行できる人材を養成しておく必要性を感じていたからこそ優秀な人員を育てるためにエリート養成のための高校さえも自ら創り出していたのです。ここで、幾つかのリポートをお読み頂けるようにブログのタイトルをご紹介しておきます。

非常に面白いので、亀甲紋をロゴとする醤油メーカーをもう少し出しておきます。以下も、亀甲紋章の醤油醸造メーカーです。

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これは無題.pngエピソード的ですが ご紹介だけしておきます。ペルーにも日系移民がかなり渡っています。恐らくその関係者でしょうが醤油(シジャウ)を造っているようです。味覚、食味、嗜好…と言うものがいかに強いかが分かります。始めは気にも留めていませんでしたが、驚くべきことに亀さんまでいたのです。亀甲マークが亀の尻尾になっていますね(右下)。浦島太郎もびっくりでしょう。そして、大幡主も実は浦島太郎なのです。
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宇佐の川上神社の異常な数の南姓は若しかしたら八咫烏ではないか

神奈川県編 なし 宮城県は以前調べました

岩手県編  雫石町 福島県  会津坂下町

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百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

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2026年06月12日

新ひぼろぎ逍遥1135 松浦党の神々 ❷ 松浦党が稲荷を祀る訳 “松浦党と稲荷神社”

新ひぼろぎ逍遥1135 松浦党の神々  松浦党が稲荷を祀る訳 “松浦党と稲荷神社”

20250906

太宰府地名研究会 古川 清久


 まず、松浦党のエリアの地図五枚をご覧ください。初めは唐津市からです。

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無題.png 一概には言えませんが、大村市の稲荷社と比較すると、松浦党のエリアに稲荷社がかなり多いことにお気づきになると思います。

 勿論、これらは11世紀以降祀られたものだと思うのですが、今も非常に分かり難いお稲荷様が何者であるかが見えて来ると恐らく多くの皆様は不思議に思われるはずです。

 それほど、藤原(阿蘇氏=多氏)によって創られた歴史が如何に捻じ曲げられているかが分かってくるはずです。

持って廻った話をしましたが、簡単に言えば稲荷様は伊勢の外宮様=豊受大神=宇迦之御魂神(ウカノミタマ)=伏見稲荷とも同体で、須佐之男(アメノヒボコともスサノウと呼ばれる新羅の王子)と罔象女神(ミヅハノメとも呼ばれる大山祇の長女)の間に生れた辛国息長大姫大目命(アメノウヅメで猿田彦の妻)なのです。少なくも、畿内の京都でもない南九州出身の女性なのです。

 驚かれる方が大半だと思いますが、これが故)百嶋由一郎が伝えた事なのです。

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石貫神社 カーナビ検索 西都市大字三宅4615番地ロ号


古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年と伝え、一千有余年の社歴を有する古社である。その社地は創建時の記録「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山槵木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝える。往時は社殿、境内、宏荘森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の「古帳神社知行目録」によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり更に神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)四月、同十一年五月、天文三年(1534)四月、同年十二月にわたりて、神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社領は没収された。明治初年神社明細帳制定に際してもまた登録を脱漏することになった。明治十四年十二月二十七日付明細帳編入を出願し昭和十六年四月無格社となった。

無題.png境内神社として、赤井神社(祭神・木花開耶姫命外一柱)門神社(祭神・岩間戸二柱之神)、二宮神社(祭神・児屋根命、太玉命)、風神社(祭神・級戸神外四柱)、篠貫神社(祭神・磐長姫命)がある。

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宮崎市も稲荷神社が異常なほど多いことがお分かり頂けると思います


「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山槵木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝える。


からは、織田徳川連合軍と激突した賤ケ岳の合戦とか姉川の合戦で知られる浅井、朝倉の朝倉氏の素姓を読み取って頂きたいのです。

ちなみに、先ほどの石貫神社の石貫地名が熊本県玉名市の新幹線玉名駅付近に石貫地区があり、石貫穴観音横穴墓があるのです。

 更に言えば、この阿佐久良山が熊本県益城町福原に移動し朝来山と呼ばれているのです。更に、益城町と福岡県朝倉市の甘木(これをウマシキと読みなさいと言ったのも故百嶋由一郎氏でした…益城マシキと甘木(ウマシキ)が対応しているのです)、これらは更に北上し、福岡県飯塚市の馬敷(ウマシキ)にも成っているのです。それは全国に30以上の朝倉、朝来地名になっているのです。

 つまり、大山祇系(その実体は東西分裂後に南北で分裂した南匈奴金海金氏)つまり、漢帝国と激突したトルコ系匈奴(呼韓邪単于に贈られた三大美女の王 昭君系氏族)である事が分かってくるのです。

だからこそ、加藤清正は豊臣秀頼を熊本城に呼び込み徳川氏と一戦交えようとしたのでした。

それが、熊本城の最下部に昭君の間が置かれた理由なのです。それは同時に、秀頼の母ネネがその系統の高貴な人物だったと解るのです。

勿論、その入り婿となった秀吉、藤吉郎も猿と貶められていますが、それは徳川家が恐れていたから生じたプロパガンダなのです。

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AIによる概要

無題.png宮崎県西都市にある「阿佐久良山(あさくらやま)」は、古くからの歴史を持つ石貫神社(いしぬきじんじゃ)に伝わる地名・伝承地です。主な情報・関連スポットは以下の通りです。

阿佐久良山と石貫神社(西都市)

由緒と地名:石貫神社の由緒記「日能若宮元元由来記」によると、大山祇命(おおやまづみのみこと)が降臨した「阿佐久良山槵木原(あさくらやまくしきばら)五百世山(いおせやま)」がここであるとされています。

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朝倉は朝来と同じ意味で、福井県の朝倉義景も元は兵庫県但馬の養父市に居た訳で、但馬の一番南の播磨との国境に朝来市が在り、天空の城も在るのです。

 この一族もトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂で朝鮮に避退した王 昭君の一族)と思われます。

AIによる概要

淀殿に特定の家紋はありませんが、ねね(高台院)の生家である杉原家の家紋は「沢瀉紋(おもだかもん)」です。淀殿が使用した家紋は、実質的には豊臣家の「五三桐紋」でしたが、ねねの生家が使っていた沢瀉紋を豊臣秀吉が最初に使用していた時期もあったとされています。

ここでは菊池氏も西都原から西米良を逃げ城として西九州ルートで北上したトルコ系匈奴だったとお考え下さい。ただ、南北朝争乱期に宮方に朝敵熊襲が居ると宣伝される事を警戒し、家紋を本来の日脚紋から二枚の並び鷹羽紋に変えているのです。

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最後に、百嶋由一郎が残した最終神代系譜から稲荷様の位置付けをご覧になって下さい。

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つまり、松浦党でも中心的勢力であった久の末裔は新羅の王子様のスサノウと同じく朝鮮半島の金海金氏(トルコ系匈奴)の間に生じた人達だったのです。だからこそ大山祇の長女ミヅハノメの娘である伊勢の外宮様=豊受大神と同体の伊勢稲荷を祀ったのです。

 ただ注意すべきはなのは、トルコ系南匈奴の血を持つもそれを担いだのは多くの海人=倭人であり博多の櫛田神社の大幡主との連携があったからなのです。これが松浦党周辺の稲荷社の意味です。

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2026年06月09日

新ひぼろぎ逍遥1134 松浦党の神々 ❶ 松浦市 今福神社

新ひぼろぎ逍遥1134 松浦党の神々 ❶ 松浦市 今福神社

20250905

太宰府地名研究会 古川 清久


これから松浦党のエリアの神社を簡潔にまたゆっくり調べて行きたいと思います。

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松浦市にある神社。 応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます無題.png    


AIによる概要

「松浦市 今福」は長崎県松浦市にある今福町を指します。この地には、応徳元年に創建された今福神社歳の宮)」や、昔ながらの街村の雰囲気と旧平戸街道の面影が残る町並みがあります。また、江戸時代に旗本松浦氏の所領(今福領)となり、炭坑によって栄えた歴史も持つ地域です。


分かり難いのが七郎神社と思います。大雑把に言えば、松浦党のエリアでも平戸、唐津を除き、南にも展開した領域になりますね。佐賀県の佐賀市(旧三瀬村から旧大和町)での数回の神社トレッキングでも遭遇しましたので外にも在る事は知っていますが、一部、以下の資料をご紹介します。

 以下は、今福周辺の神社を長崎県神社庁のHPから拾ったものです。

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無題.png七郎神社については祭神にばらつきが在り決定打がありません。しかし、トレッキングで遭遇し無題.pngた玉里神社に関するリポートをご覧になれば、参考にはなるでしょう。それらが、松浦党の本拠地とも言える松浦市に集中している事は、若宮神社が近隣に在るなどと併せ考えるべきでしょう。

 今福の若宮神社は松浦丹後権守源勝命と祭神を入れ換えが行われているようですので、それを調べる価値がありそうです。

今福の若宮神社 右矢印1

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社号 七郎大明神
祭神 少名彦命・神代勝利
 神社由緒調の鳥巣山七郎神社々伝には鎌倉時代の嘉禄2年(1226)に創建されたと次のように記されている。
 祭神 神代勝俊、或ハ井手野七郎卜云フ第六十六代堀河天皇嘉禄二年丙戌四月上旬藤瀬左馬助卜云フ人創建シテ平松村ノ氏神トス
 祭神 神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。勝利はその当時まだ生れていないので、神社明細帳にある祭神少名彦命を祀ったのが正しいと考えられ、神代勝利を合祀したのは室町時代の末期少なくとも勝利の死後のことであろう。
 井手野七郎については、後代まで神として祀られている以上、何らかの口碑伝説が残されていなければならないが、村を治めた有力者であったかも知れないというだけで、歴史的な記録や伝説は何一つ残っていない。
 七郎神という社号はこの地方に多く、三瀬村内にも柳瀬玉里七郎神をはじめ岸高、軽井谷七郎神・杠、田宇曽七郎神・宿七郎神・薙野七郎神などがあり、大和町旧松梅村や脊振村西北部、富士町旧北山村川上川上流地域の谷々などの小部落に点々と二十数社も祀られていて、祭神は少名彦命・椎足彦天皇・椎武王・十城別王・志々岐神・新田義貞など様々で一定せず、七郎明神そのものを祭神としているのは脊振村鹿路地域の5社だけである。共通することは、どこの郷民も古くからこの神社を「七郎さん」という親しみのある名で呼んでいることである。七郎明神とはどのような神であろうかと文献をさがしてみても、このような固有の名前をもった神は発見することができない。この神を祀ってある地域は、小城から旧神代領の北山々内に限られていて、これらの地域特有の神である。
 以上のことから考えると、「七郎さん」というのは部落の守護神の代名詞のようにもうけとられる。
 ただ、山内では「七郎さん」は神功皇后の三韓征伐にお伴をした人であるという漠然とした伝説も残っている。七郎神社の祭神に稚武王や十城別王が多くみられるが、この両王は日本武尊の御子で、仲哀天皇の弟、神功皇后とは義姉弟の間柄である。三韓征伐の時には当然行動をともにされたと考えられ、また、三瀬地区に伝えられる神功皇后の山内巡幸は、遠征のための兵員補充が目的であったかも知れないし、「七郎さん」も個人名ではなく、谷々の各集落から七名ずつの若者(郎)が応召し、椎武王や十城別王の配下に入ってはたらいたので、後代になって各部落毎に護国の神・部落の守り神として祀られたのではないかとも考えられる。
 祭神の少名彦命。神代勝利については、玉里神社の項で述べたとおりである。
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 なお、鳥巣七郎神社には石の狛犬が一対奉献されていて裏面に藤瀬左馬助の名が刻まれている。また、拝殿の鰐口の銘には
(表)神埼郡ノ内平松山奉掛七郎大明神 藤原朝臣景光 源右衛門(裏)寛文九巳酉天二月吉日
と刻まれている。寛文9年(1669)といえば、山内は鍋島氏の支配下になっていた。
 この神社は一時荒廃していたが、昭和4510月、部落氏子によって総桧造りの新しい社殿が建立された。                                         

出典:三瀬村史p719


さて、今福神社の祭神ですが、長崎県神社無題.pngとしか書いていません。

 松浦市は、以下の様に書いています。伊弉諾、伊弉冉と二神にしているため、近江の多賀神社からの勧請と思いましたが、その通りでした。

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伊弉諾は新羅系の昔氏ですから、須佐能は簡略化すれば新羅の王子様に成ります。伊弉冉は金山彦の妹ですが、百嶋神社考古学では二人は別れており、伊弉冉は博多の櫛田神社の大幡主(造化三神のカミムスビ)と再婚し名をクマノフスミと変え、熊野那智大社の主神と成っています。

 これが、あまり知られていませんが、熊野神社にこの二神の伊弉諾を祀らないものが多数存在している理由です。

また、須佐能は始め櫛稲田姫を妃にナガスネヒコ、オキツヨソタラシ兄妹をもうけていますが、後に大山祇の長女(大国主命の姉)神大市姫=ミヅハノメを妃に伊勢の外宮様、伏見稲荷様をもうけているのです。

 これが、今福神社に稲荷様が祀られている理由なのです。

 ここさえ解れば、松浦党のエリアに稲荷神社多数確認できる事が解ってきます。

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ご覧の通りです


 最近は、長いブログは敬遠されますのでここまでとします。


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