2025年04月09日

1064 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

1064 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

20240809

太宰府地名研究会 古川 清久

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以上は「苗字由来net様のデータをご紹介したものです。以前は、姓名分布&ランキングを多用しておりましたが、3月で閉鎖終了となりましたので、今後はこれを活用させて頂きたいと思っています。

今回、豊後大野の大神一族が記紀神話で有名な川上 猛(俗称熊襲 猛)の後裔氏族であろうとの推定から、この姓名分布からもアプローチしたいと考えたものです。


緒方惟栄は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。 『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子孫であるという伝説がある。    ウィキペディア20240809 10:39による


 この大神外緒方などの全国分布を見る時、分かり難いですが幾つかの興味深い点に気付きます。

 まず、大神姓の分布は、最低でも九州起源であると言う事が見て取れ、東にも相当に広がっている事が分かります。絶対量の事を申し上げてはいませんのでその範囲でお考え下さい。

 一方、緒方が最も権威がある中心的一族の様に見えます。古代には、少なくとも阿蘇氏の本拠地は九州の中心部であり、緒と尾とは頭が緒であり、尾は末端の意味があったはずで、本家と分家と言うよりも御屋形様と臣下の上下関係を表すはずで、指揮と臣従を意味している様に見えます。

 つまり尾方と尾形でも肥後に残った(つまり本店)臣下と、前線に出向いた(つまり支店)配下の意味

が感じられます。

また、緒形も尾形も地方、戦場に出た指揮官と配下の違いが反映されている様に見えるのです。

 頭に浮かぶのは、崇神天皇指揮下で実行されたとされている(あくまでもされている)四道将軍です。

 これは九州王朝の高良玉垂命(阿蘇氏=多氏の後の藤原氏も渋々第9代天皇とせざるを得なかった開化天皇+神功皇后コンプレックス複合体)の指揮下で日本海側北上に送り込まれた実は安部一族(開化の腹違いの兄=大彦の一族)であり、そこでも新潟に緒形、尾形がピークを見せているのです。

 無題.pngその安部氏と合流したのが東関東に進出した崇神の息子の一人で、故に「会津」と言うという記紀に良くある語呂合わせとしての地名説話なのです。

 ついでに小形姓を見ると、やはり佐賀、熊本、大分方面から東北地方に進出し、定着した人々に見えますね。これは後の時代ですしょう。多分、安部の貞任、宗任が潰された後の時代であるように思います。起点は京都の舞鶴と言うよりも福井の敦賀辺りからでしょうか。分布からはそう見えます。

 崇神の別名はツヌガノアラシト=都怒我阿羅斯等

 敦賀にやって来ていた(阿羅)伽耶の人=ズーズー弁地帯では人はシトですね。阿蘇国造大山(クイ)咋を祀る甲佐神社の主神は贈る崇神の親なのです。

 まあ、不確かな作業ですが、崇神がやった中国地方、畿内から東日本征服戦争にも阿蘇氏が関係している事が良く分かります。ただ、間違えないで頂きたいのは、これも九州王朝が年嵩でも配下の崇神の息子の世代にやらせたことなのです。 上は小形 

 ただ、この事によって後の藤原が草部吉見の孫の世代の崇神の業績を偉大に見せ彼こそが神武より業績が大きいものとしたのです。津田よ!それが欠史八代などと言う大嘘の原因なのです。神武僭称贈崇神

大神が何故、緒形なのだ!と言われる方も居られるでしょうが、宇佐神宮の辛島一族、大神比義の一族、そもそも、この豊後大野を潤す大野川(上流の大谷川その一部が川上渓谷)が阿蘇草部吉見の支配領域に端を発している事、有名な阿蘇大蛇伝説の一族が元は大神一族と呼ばれていたという事が、ここに来て漸くはっきりしたことから、今回の高森町野尻川上淀姫神社を主眼に高森町辺境最深部の殆ど目立たない小社数社と草部吉見(後の表向き春日大神、鹿島大神=事実上の藤原氏の祖)を巡る8/18,8/2550人規模(7県)の方々(50人規模)をお呼びするトレッキングへの一助となるべくこの小稿も書くに至ったものです。勿論、川上 猛はヤマトオグナ=オウスノミコトによって誅殺されているはずだ…とか、何故それが大神一族と繋がるのか?と言った話は先行ブログでは書いていますのでそちらをお読み頂きたいのですが、佐賀県に川上峡が存在し、そこに、淀姫神社が在る事、京都の伏見の淀姫神社の由緒に、肥前の淀姫神社を元宮とする旨が書かれ、大阪の淀川の地名起源も淀姫神社に端を発している事から、当時はそれ程の権威を淀姫(ウガヤのお后ですから)は持っていたのだと分かる訳です。

現在もこの淀姫は高良大社の麓の高良下宮社=祇園神社に隣接する南の境外地(最後の高良大社大祝一族=鏡山家の屋敷跡の高速道路買収残地に加輪髪媛の墓が残されている事でも分かるのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)965をお読みください。

965緊急報告高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶


肥前でも東の佐賀には、ほとんど気付かない程度ですが、川上 猛に関する伝承が残っています。

また、更に東の神埼市には、誅殺した側とされる後の日本武尊に関わる白折角神社もあります。

先を急ぎますが、故)百嶋由一郎はどこでその情報を得たかは分かりませんが、「脊振村(現神埼市)広滝で許され、脊振山を越え福岡市早良区の某神社の周りに今も纏まってお住まいになっています」と講演会で話しております。ただ、「可哀そうでその名前(姓氏)もその神社も分かっているが言えない」と話し鬼籍に入ってしまいました。こうして永久に解らない謎になったと思ったのですが、数年後、百嶋先生の手書きデータの中にその謎を解く記述を発見したのでした。

それは、川上猛兄妹の母奈留多姫が、葦原中津国を奪われた建御名方(他にも証明はしていますが、出雲神話の舞台も朝倉郡であって決して出雲の国で起こった事ではないのです)の妃となり諏訪への道行きとなった…と言うメモだったのです。

阿蘇氏本流の奈留多姫は川上猛など一族と別れ名を八坂刀女と名を改め、建御名方と一緒に諏訪に向かったのでした。つまり、これまで早良の神社を探っても分からなかった神社が早良区原の諏訪神社と分かったのでした(早良区に諏訪神社は一社のみ)。そして、日を改め10人を超えるメンバーを集め同社に参拝すると、その周りには9軒の大神(こちらはオオガミ)さんが住んでおられたのでした。

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百嶋最終神代系譜(部分)


大神惟基 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240810 05:20 による


出生伝説 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

『平家物語』には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。

すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は無題.png、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える[注釈 1]。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。

件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾の明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。    

ネットでも【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎を聴けます。

−平家物語 巻第八

平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。

大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。

人物 出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。

その祖については、宇佐八幡宮の創建者である大神比義や、畿内の貴族であった大神良臣などが候補として挙げられている[2]

豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もある[要出典]が、年代上問題があるとされる。

神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。子孫  長男:高千穂(高知尾)太郎政次 - 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、三田井氏の祖となる。次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる

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2025年04月06日

1063 伊藤まさ子西原村勉強会へのご案内

1063 伊藤まさ子西原村勉強会へのご案内

20240808


太宰府地名研究会 古川 清久


夏季を中心に五回ほど、熊本市益城町の東隣、西原村で万葉集外の勉強会を行っています。

年によっても多少異なりますが、56789月に10人を超える程度の勉強会を続けています。

 今期は10月までで終了…来年は5月からの予定。

 8月も20日に1330から勉強会が行われます。オープン参加ですので「万葉集」〜古代史、考古学(彼女は学者裸足です)に関心をお持ちの方には是非参加頂きたいと思います。


日 時   2024820日(日曜日)13301630 は終了 9月は24日(火曜日)

   講演者   伊藤まさこ(「太宰府・宝満・沖ノ島: 古代祭祀線と式内社配置の謎著者」)

参加費   500円            ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」著者

   テーマ     「梅花の宴後の旅人と憶良」


   会 場     俵山交流館萌の里(熊本県阿蘇郡西原村小森21153)から県道28号を200m降る俵山湧水そば 平田庵(熊本県阿蘇郡西原村小森18058)前の大邸宅 P20

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2025年04月03日

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1062 呉さんが当研究会の研修所においでになりました 

ひぼろぎ逍遥(跡宮)1062 呉さんが当研究会の研修所においでになりました 

20240803

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)1011熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か? 20240226 

書きました。これは、春秋戦国期、呉越同舟の呉の末裔の呉の王族が越に滅ぼされ、その夫差の御霊を抱き列島に避退した際に、周王朝の王族の末裔を列島に運んだ人々ではないかと夢想した話でしたが、それから数ヶ月を経た7月、今度は、運んだ人々ではなく、運んで貰った側の呉(クレ)姓の方が当研修所に来訪されたのでした。

今回は珍しいこの呉姓の人々が実際に日本に居られると言う具体的な事実に遭遇できた事に関する話しです。

 日本にも「呉」(クレ)という行政単位がある事はご存じだと思います。

 勿論、広島県呉市の事であり、我々の世代ぐらいまでは、明治以来の呉の海軍工廠と旧帝国海軍の呉鎮守府(略してクレチン)の呉が反射的に浮かんでくるのです。横須賀(ヨコチン)、東郷平八郎が居た舞鶴(マイチン)、九州は佐世保(サセチン)と普通に呼び習わされていた様です。

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明治の四つの軍区はご覧の通りですが、現在の海上自衛隊は青森県むつ市大湊港に明治に由来しない大湊地方総監部・大湊地方隊隷下部隊・第7護衛隊・第15護衛隊・大湊海上訓練指導隊が置かれています。 

さしずめ明治なら大湊はダイチンかデカチンになっていたはずです。

さて冗談はこれまでとし、以前から呉市があったなら大陸の呉起源の呉国の末裔が住み着いているはずで、列島には春秋戦国の呉起源の周王朝の末裔がきっと居るはずだと考えていたのです。

そう考えたのは、瀬戸内海の奥深く、多くの島々に取り囲まれた波静かな内海は、水軍で知られる呉国にこれほど相応しい土地はないはずなのです。そう思うのは、孔子様も誉めそやした中国ナンバー・ワン周王朝の後継者を巡り身の危険を感じた、正統皇位継承者の長男と次男が南の越人の国に鯨面分身し(『皆、黥面(げいめん)・文身(ぶんしん)す』)下降り、その血筋を請われ王族となったという周王朝の後裔分流国家が呉だったのです。これが倭は「呉の太伯の末」の意味であり、古代史ファンが沸き立つ理由でもあるのです。詳細は「熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?」をお読み下さい。それも面倒な方は以下を。


『日本』という国名や、『天皇』という称号は、律令国家となった天武天皇の時代に定められたものです。それまで日本は国内では『ヤマト』、国外からは『倭』と呼称されていましたが、平安時代に編纂された『日本紀私記丁本』には日本が『姫氏国』と呼ばれているとの逸話があります。「なぜそう呼ばれているのか」との天皇の問い掛けに、南朝の僧・宝誌は「日本の皇祖神が天照大御神で、神功皇后などの女帝も輩出している為、『東海姫氏の国』と呼ばれている」と答えます(ちなみに東海とは中国人が古くから言う東シナ海の呼称であり、近年韓国が強引に呼ぶ日本海の別呼称とは全く関係がありません)。この書の中での問答はここまでですが、実は姫氏という呼称にはもう一つの理由があります。

『後漢書』や『三国志・魏志倭人伝』などの倭国の記述で、『皆、黥面(げいめん)・文身(ぶんしん)す』という記載があります。黥面とは顔の入れ墨で、文身は体の入れ墨です。実際顔や体に入れ墨を施した土偶が国内で複数発掘されており、記紀にも記述のある事なので、古代の日本にそういう風習があった事は間違いないでしょう。魏志倭人伝によれば入れ墨は倭国内の各国で異なっていたようで、身分によって違いもあったようです。

また、『普書』、『北史』の倭国の記述には、『自ら太伯の後と謂う』との記載があります。これは倭国の人が「自分たちは呉の太伯の末裔である」と語っていたという事です。呉の太伯とは周の王族・古公亶父の長子です。

『史記』によれば古公亶父には太伯、虞仲、季歴の三人の子がおり、三男季歴の子・昌に古公は後を継がせたいと思っていました。それを知った長子の太伯は身の危険を感じ、弟の虞仲と共に南の長江流域の荊蛮へ逃げ、その土地の住民と同様に文身・断髪をし、それを意気に感じた千余家の人々と共に太伯は呉の国を起こします。そして古公亶父の下で季歴の後を継いだ昌は周の文王となります。『史記正義』によれば太伯が身を隠したのは倭族の住む太湖北岸の無錫県との事。ここでいう倭族とは百越の一族の事です。

呉の太伯は紀元前12〜紀元前11世紀の人物で、太伯に従った呉の民族は苗族(ミャオ族)の祖となる三苗の一族との伝承があります。三苗とは黄帝に敗れた蚩尤(しゆう)の味方をし、国を追われた九黎族の末裔です。現在の苗族の末裔はタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に現住する少数民族で、その宗教観は縄文・弥生の日本同様全てのものに神や霊魂が宿る多神教で、未だ入れ墨を施している民族も僅かにいるようです。

相尾マサキの気まぐれブログ Masaki Aio Official Brog 「東海姫氏の国の謎」


この相生さまは、青地白貫きの部分を良くご存じで感心します。

 漢族などと戦い続けた三苗 九黎族の一派 多一族がメコン川(中国領内は瀾滄江)を降りホーチミン(旧名サイゴン)に降り、黒潮に乗り海南島に上陸し列島(九州天草へ)に入り阿蘇氏になったのです。

 同じく漢族に抵抗した雲南省昆明の白族(ペイツー)は紅(ファン)河を降り、ハノイに、そのハロン湾沖には海南島が…。彼らも海南島南西部で準備し列島から熊本へ入り、博多に移動したのです。

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この加茂は現地でチャマオと呼ばれてます。下賀茂神社の鴨玉依姫に通じ、鶏のチャモ、チャボです。

加茂鎮中華人民共和国 海南省 保亭リー族ミャオ族自治県 编码: 572313


加茂百度百科

https://baike.baidu.com › item › ...このページを訳す

加茂,隶属海南省保亭黎族苗族自治,地保亭黎族苗族自治县东南部,东邻六弓,南三道南与三交界,西靠新政,北依保城,全行政区域面233.4 ...


Wikipedia

https://ja.wikipedia.org › wiki › リー族

黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。 リー族黎族. 総人口. 推計130万人. 居住地域. 言語. 加茂語(英語版)、黎語、


詳しくは、

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 647 九州王朝成立前夜の解明へ @“雲南省麗江にいた多大将軍の一族が日本列島を開拓した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)648 九州王朝成立前夜の解明へ A“雲南省昆明にいた白族が日本列島を開拓した”

ひぼろぎ逍遥 034 阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か? A立田阿蘇三宮神社 をお読みください

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雲南省麗江の麗江古城の多大将軍像を確認中の百嶋由一郎氏


話が脇道に入りましたので戻ります。

そこで、呉市を考えていると、西の山口県が古くは周防の国と呼ばれていた事が気になり始めました。

かつて周防、長門の国と呼ばれた山口県の瀬戸内側が周防国でしょうが、その中止部に防府市があります。

 中国地方を制圧した毛利氏は関ヶ原以降防長二か国に押し込められましたが、その長門の府とも感じる長府があります。その地に長府藩士の子(江戸の長府藩上屋敷から移り住んだ)が日露戦争は203高地の乃木希典でした。

 つまり、瀬戸内海側の関門海峡(これが長門ですね)側の西に長府があり、東に周防があるのです。

 その防府市には玉祖神社と言われる周防国を支配する大社があります。

 市内には、その分社が4〜5社あるほどの権勢の神社なのですが、宮司(直接お聴きした事も…)はおろか宮司家も行政も氏子集団も誰が祀られているか分からないなどと惚けた事が本気で言われているのです。

 我々百嶋神社考古学の者から見れば一目で、玉の祖とは豊玉彦=八咫烏の祖である博多の櫛田宮の主神大幡主=古事記の冒頭などに僅かに登場する「神産巣日神」の事若しくはそれに連なる祖先神全体を奉る神社である事は明らかなのです。

 つまり、後の藤原となる阿蘇氏=多氏が持ち込んだ応神などではなく、本物の八幡神が正八幡神社の意味で、現在の祭神が何であれ、本質的には同一神を祀る社なのです。

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玉祖神社 カーナビ検索 山口県防府市大崎1690


この意味があり代々丁重に飼われている鳥も実は八咫烏を意味しているのです

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正八幡宮 カーナビ検索山口県山口市秋穂西337 


 この神社も残念ながら宇佐神宮への恐怖か肖りの為か応神を受け入れ神額が泣いています。

「山口県神社誌」10p

 この話はここで終えますが、詳細は ひぼろぎ逍遥 玉祖神社 で検索して下さい。

 この周防とは何かと以前から考えてきたのですが、どう考えても周王朝の府を守る防衛の府=鎮守府としか思えないのです。

 その東の奥にあるのが厳島神社と呉なのです。これを裏付けるものはありません。しかし、そのうち分かるような気はしています。

 さて、呉さんの話に戻りますが、来訪された同氏は呉にお住まいではないのです。


 無題.png分布を見ると、兵庫、大阪と東京、神奈川がピークを示しています。

 兵庫(但馬)は九州王朝の逃亡地ですから分かり易いのですが、首都圏はやはり明治以降の天皇家との関係があるのではないかと思っています。無題.png

 倭は呉の太伯の末と言うフレーズは現在も僅かながら生き延びている様に思えます。

 さて、呉さんとお話していて、「自分は呉の太伯の一族の末裔」と言っていたが誰も本気にしなかった。と言われていました。だからこそ研修所にお出でになったのですが、ココウタンポの話をしてすぐに反応される方は居られません。多分、家伝なのか自ら調べられたかなのでしょうが、私にとっては自ら春秋戦国の呉の末裔と称する方に出会う事が出来た事は人生の小さな宝物を得た気がしています。 


以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』20240807 09:21 による


周公旦 周公旦(しゅうこう たん)は、中国周王朝の政治家で且つ、周邑の君主。姓は姫、諱は旦。周文公としても知られる。魯の初代の公である伯禽の父。呂尚(太公望)や召公奭と並ぶ、周建国の功臣の一人である。

生涯

「周公」は称号と思われる。周の西伯昌(文王)の四男で、母は太姒。次兄にあたる初代武王存命中は兄の補佐をして殷打倒に当たったとだけとしかわからない。

周が成立すると曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していないので魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた。

建国間もない時期に武王は病に倒れ、余命いくばくもないという状態に陥った。これを嘆いた旦は自らを生贄とすることで武王の病を治してほしいと願った。武王の病は一時回復したが、再び悪化して武王は崩御した。

武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は摂政となり、三公の太傅となって建国直後の周を安定させた。

その中で三監の乱が起きた。殷の帝辛の子の武庚(禄父)は旦の三兄の管叔鮮と五弟の蔡叔度、さらに八弟の霍叔処ら三監に監視されていた。だが、霍叔処を除く二人は旦が成王の摂政に就いたのは簒奪の目論見があるのではと思い、武庚を担ぎ上げて乱を起こしたのである。反乱を鎮圧した旦は武庚と同母兄の管叔鮮を誅殺し、同母弟の蔡叔度は流罪、霍叔処は庶人に落とし、蔡叔度の子の蔡仲に蔡の家督を継がせた。

さらに、引き続き唐が反乱を起こしたので、再び旦自らが軍勢を率いて、これを滅ぼした。

その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。

また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、文武両道の旦を理想の聖人と崇め、常に旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかった(「吾不復夢見周公」)ので「年を取った」と嘆いたという。

「周公」の称号については旦は周の故地である岐山に封じられて周の公(君主)となったのでこう呼ばれるのではないかとの説もある。また、武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。


呉越同舟の話も良く知られてはいますが、呉人は元より、越人も入っています。

直ぐに思いつくのは、越前、越中、越後の新潟県ですね。

今年は1020日に、筑紫野市で講演が終わり次第、山梨の山中湖湖畔に在る友人の別荘に向かい、今回は全体で3週間程の旅になりますが、関東の百嶋神社考古学研究会のメンバーであるT氏と新潟県の南魚沼郡の神社調査に向かいます。来年は会津ですが。

 この越後には漢族から追われ南に逃げた越南(ウェツナン、ヴエツナム)ベトナムに対して、北に逃げた越人の末裔だろうと思っています。面白いのは瀬戸内と日本海に住み分けている事ですね。

 まあ、根拠のある話ではないので、これまでとしますが、こういった事は、どこかで思考の飛躍を齎し新たな知見を得られることもあるのです。

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