2026年06月06日

ひぼろぎ逍遥1133 叶さんは舟を造った人の末裔ではないか 作業ノートから

ひぼろぎ逍遥1133 叶さんは舟を造った人の末裔ではないか 作業ノートから

20250904

太宰府地名研究会 古川 清久


 無題.png福岡県糸島市加布里のカノウ醤油の存在があまりにも衝撃的だったためにもう少し調べることにしました。

 勿論、姓名分布&ランキングの時代から気になっていたため10年以上前から「叶」姓が奄美大島が中心である事は承知していました。鹿児島県に集中するもそれが県単位では鹿児島になるのです。そこで止め外を調べていましたが、改めて奄美の分布を確認することにしました。姓名分布&ランキングが廃止されたことから、名字由来netをご覧いただきます。

無題.png
無題.png

この縮尺では旧村落名は表示できませんが奄美大島でも南が多いようですね


 喜界町と言うか喜界ケ島は東に離れていますが、与論島は瀬戸内の直ぐ南で徳之島の天城、伊仙も南の島です。

無題.png

いずれにせよ、この一帯が叶姓の震源地なのです。この地で現地のガジュマルを刳り貫き舟に仕立て、アウトリガーを加えて帆を立てれば黒潮に乗り長距離の航海ができたのです。舟が引っ繰り返っても紐で繋がり、また乗り組み生き延びるのです。潮と風を見て島伝いに移動できるのです。

無題.png
無題.png

アイノコ舟


大正10年に大和村大金久在住の海老原万吉氏(宮崎出身)により考案され、直進性の高い沖縄製の「サバニ」と安定性に優れた奄美大島の「イタツケ」の折衷舟であることからあいのこ(間の子)と名付けられた。 船首と船尾にサバニ型の逆三角形の構造を取り入れ、船底をイタツケ型の広く平らな構造にすることで奄美の自然環境と漁法に合致。

無題.png
posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年06月03日

新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

新ひぼろぎ逍遥1132 松浦党の起源を探る 交易の民(武装商船隊)が醸造業者となっていく

20250903

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥 1095 灘の生一本も難 升米も八咫烏だった 20250209 を松浦党研究会向けに手を加えたものの再改定版です。

無題.png

この事に気づいたのは十年も前の事でした。そうであっても証明することが難しく、賛同して頂けるとも思わなかった事からそのままにしていましたが、当会のメンバーでもあり、松浦党研究会のメンバーでもある古川 茂様に酒の話をお願いし、時間を余したら後はお願いしますと言われたことから、当初は、脊振村の広瀧で許された後の川上 猛の福岡市早良への移送(逃亡ではなく管理された収監)ルートを探るトレッキング(ハイキング)へのお誘いの話をしようと思っていたのですが、茂様の酒の話に水を差すのは良くないと思い直し、急遽、前日から書き始めたのがこの話でした。ここでは触りというか概略だけをご紹介することにします。

一方、難 升米はどなたもご存じの卑弥呼が魏に送った外交通詞(使)であり、渡洋航海が出来る上に、政治情勢に精通し、なおかつ交渉能力を持ったエリートであった事が想像できます。

まず、五島灘、玄海灘、響灘、周防灘、播磨灘、熊野灘、遠州灘…と灘と難所の危険な海だから三水へんを加え、難しい海と表現しているのですが、古代にはその意味は今以上だったはずです。〇〇灘の分布については、海上穂保安庁水路図誌記載のをご覧ください。

古代に於いてそういった能力を持った人物とは、神産巣日、神皇産霊、神魂=博多の櫛田神社の大幡主(神代史ではカミムスビとしますが)であり、実際にはその若き後継者であった八咫烏以外には考えられないのです。

酒の話に繋ぎますが、もしも、古代に於いて、余った大量の穀物を運ぶ必要が生じた場合、どうしますか、船で運ぶ以外にはないのです。数日を要するとすれば、雨も降るし、飛沫も有る訳ですから、当然、船倉に入れることに成ります。また、復元力を齎すにはコンテナ船の様に甲板に積み上げることは危険極まりがない訳で、バラストとしての穀物は最適であり、それ以外の方法は取れないのです。

そうなると、密封された船倉では何が起こるでしょうか。バルト海やパタゴニア沖の様な寒冷な海ならばいざ知らず、黒潮の洗う東アジア中緯度の海では直ちに発酵が始まり、歩留まりが悪ければ、穀物は、味噌、醤油、酒の材料としてしか価値が無くなるはずです。そうなのです、この穀物の搬送から、発酵、醸造による食品が更なる富を獲ることができる事が解ったのです。近畿大和朝廷の時代になると、瀬戸内海航路は最重要の交易路となり、その場所つまり中心的な集積地が灘高校のある、神戸市灘区だったのです。

つまり、博多の櫛田神社の氏子の移動によって、北部九州一帯から操船技術、醸造技術、製塩技術を持った人々が移り住み、味噌を醤油をそして酒を造り始めたのでした。それは関東でも同様で、亀甲紋章を使う人々だったのです。特に象徴的なのは味噌や醤油で、亀甲紋章を付したものが数多くあ

ることは直ぐに分かります。その代表的なものが亀甲萬だったのです。

無題.png

まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。味噌もですが、味噌は今でもローカル色が強く、民俗学の対象として今後に残しておきます。酒造メーカーで衝撃的なのは、八咫烏=橘一族の本拠地の伊勢(百嶋由一郎の言を思い出します)の酒造メーカー株式会社宮ア本店をご紹介してお

きましょう。勝手な思い込みながら八咫烏直系の一族でしょう。

無題.png

無題.pngさて、灘の生一本の神戸市灘区に、何故、灘高校が創られたのでしょう。酒造メーカーと言うものは、土地の名士であり富豪であったことはご存じの通りです。と言うよりも、配下の政治家を操り、社会の方向性と将来の国防、貿易、殖産興業をさえも考える集団だったのです。彼らは、必要が有る時には愚かな権力者を跳ばす事も厭わず(今もそうですが)独自の外交を迫られ、いつでもそれを実行できる人材を養成しておく必要性を感じていたからこそ優秀な人員を育てるためにエリート養成のための高校さえも自ら創り出していたのです。ここで、幾つかのリポートをお読み頂けるようにブログのタイトルをご紹介しておきます。

非常に面白いので、亀甲紋をロゴとする醤油メーカーをもう少し出しておきます。以下も、亀甲紋章の醤油醸造メーカー

無題.png

伊万里の方に馴染みがあるのが川東の西岡醤油ですが、これも亀甲紋の中に十一が入っていますが、意味は分かりません。

無題.png

キッコ―紋の醸造メーカー追加コレクション

無題.png
無題.png
無題.png

やり始めたら多すぎて切りが無く、キッコーマンは元より、改めて亀甲紋章絡みの醸造メーカー(酒、醤油、味噌…)が非常に多いことに気付きました。上の右の三つは山形ですが、以前から八咫烏系、カミムスビ系の国だと思っていました。図らずもそれを裏付けてくれたのでした。このように醸造家は地域の豪族です。醸造業者が地域の政治的な差配をする隠然たる力を持っていたのです。

これはエピソード的ですが ご紹介だけしておきます。ペルーにも日系移民がかなり渡っています。恐らくその関係者でしょうが醤油(シジャウ)を造っているようです。味覚、食味、嗜好…と言うものがいかに強いかが分かります。始めは気にも留めていませんでしたが、驚くべきことに亀さんまでいたのです。亀甲マークが亀の尻尾になっていますね(右下)。浦島太郎もびっくりでしょう。そして、大幡主も実は浦島太郎なのです。

無題.png

宇佐の川上神社の異常な数の南姓は若しかしたら八咫烏ではないか

宇佐の駅館川の金屋の川上神社を参拝したのも10年も前でしたが、ここの氏子には8割近い南姓の方が居られるのです。そして、この神社が和歌山の川上神社 上社、中社、下社になっているのではないかと考えたのでした。そして、南姓も難升米、灘高校も、灘の生一本も、南 沙織 も懸案だった紀伊の「丹生川上神社中社」も廻船業、醸造業も全てが私の頭の中で一瞬に繋がったのでした。

新ひぼろぎ逍遥

747

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)“全国の川上神社の祭神を調べよう”

746

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)“一体川上神社とは何なのか?”

745

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)“宇佐空への哀愁”

744

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)“金屋地区は廻船業者の街”

743

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)“金屋の南さんとは何か”

742

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)“駅館川河口を見下ろす川上神社”

「私兵特攻」の宇佐航空隊の川上神社は南さんが集中する八咫烏系氏族の根拠地

柳ヶ浦も旧帝国海軍航空隊の基地があった場所で、昭和20815日の終戦の詔勅が出る直前に沖縄に集結していた万余のアメリカ海軍機動部隊に対して20数機彗星などの特攻機が飛び立ったのでした。松下竜一が書いた「私兵特攻」でも、鹿屋の第五航空艦隊司令長官宇垣纏官揮下の中津留大尉外多くの若き勇敢な海軍将兵が我々の為に命を投げ出した事が書き留められています。

玉音放送後の特攻については、私のブログも含めネットにはいくらも出てきます。

この川上神社の駅館川を挟んだ対岸にあるのが宇佐空(柳ヶ浦海軍航空隊基地)です。上の図でも

戦時下に急ごしらえで造られた基地が分かりますね。※ 右端の方は人間の質が全く異なります。

無題.png

815日に日付が変わった頃、宇垣は「彗星」5機で沖縄方面の敵艦船を攻撃するよう、第五航空艦隊司令部の当直参謀であった作戦参謀・田中正臣少佐(兵59期)に命じた。長官自らが特攻するつもりではないか、と直感した田中作戦参謀から報告を受けた第五航空艦隊先任参謀・宮崎隆大佐(兵52期)が宇垣に真意を尋ねると、宇垣は下記のように答えた。「俺が乗って行くのだ。すぐに攻撃準備を整えてくれたまえ。」宮崎先任参謀は宇垣に再考を求めたが、宇垣は肯んじなかった。宮崎先任参謀によると、宇垣は「普段は見せない穏やかな表情」だったという。第十二航空戦隊司令官・城島高次少将(兵40期同期生)、第五航空艦隊参謀長・横井俊之少将(兵46期)の2名が駆けつけ、「死を決せられる気持ちは理解できるが、戦後処理や、国家的な責任の問題もあるため、なんとか取り止めることはできないか」などと繰り返し翻意を促したが、宇垣は「正式な停戦命令は受けていない。戦闘はなお継続中である。」[「武人として、俺に死場所を与えてくれ。必勝を信じて喜んで死んで行った多数の部下のもとへ、俺もやらせてくれ。」[とその決意は揺らぐことはなかった815日の夜明け後、宇垣の意志が固いと判断した宮崎先任参謀は、作戦命令を起案・発出した。

無題.png

同社を参拝したのはもう十年近く前になりますか、直ぐに、これほどの「南」姓の集積地は無いはずです。推定でしかありませんが、瞬間的に、九州王朝の通使として魏に派遣された難升米の「難」は「南」と置き換えら、近畿大和朝廷の時代に、本拠地を移したのではないかと言うイメージが湧いてきたのでした。難は灘高校、灘のなど生一本、奈多神社、奈多宮、玄界灘…以下周防灘全国の灘と呼ばれる海湾名にまで展開しているのです。そもそも渡海し交易を行うには外国語に通じ、潮を読み、天文観測から、歴にまで通じていなければならず、時として国家からも独立して大手商社が人材を養成し確保し言わば東インド会社の様な存在にまで成長する必要性が有るのです。この宇佐の南姓の集積地は、大幡主〜八咫烏…といった古代の外交を担った人々の集積地だった事が分かってきたのです。

無題.png
無題.png

新ひぼろぎ逍遥

1002

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ❽

1001

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➐

1000

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

999

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➎

998

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

997

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➌

996

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか ➋

995

後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から

東に向かったのではないか 

近辺では、伊万里川河畔川東の西岡醤油も唐津の宮島醤油も臼杵のフンドーキン醤油も松浦川や臼杵川の河口に工場がありますね、それは車や道路がなかった時代には船で運ぶしか方法がなかったからです。塩や味噌は馬の背に積んでも運べますが、液体の醤油や酒になると容器の重量だけで牛馬による搬送が出来なかったからなのです。

無題.pngこのため、阿蘇には醤油が届かず、阿蘇の田楽(味噌田楽)が名物となり無題.png、大阪でさえも味噌おでんが関東風醤油おでんが普及するのは890年前からだったのです。だから今でもミツカンのおでんの素には関東煮(ダキ)と書かれているのです。大阪では味噌おでんが醤油のおでんに代わるのは戦後なのです。だから関東煮(カントダキ)と呼ばれ東京の哲学科の学生が驚いたという話があるのです

無題.png
無題.png

以下、丹生川上神社のご由緒について (中社様HPより)時期が時期だけに偽装され罔象女神となっていますが、八咫烏の神社ですね

無題.png当神社の御祭神「罔象女神(みづはのめのかみ)」は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨師の神として信仰され、五穀の豊穣に特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神のご加護を祈ってきました。
今を去る事千三百三十年余り前、第四十代天武天皇白鳳四年(675年)「人聲の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨(長雨の事)を止めむ」との御神教により創祀せられ、雨師の明神、水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く「延喜式」(927年)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として「二十二社」の一つに数えられました。祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました。763年より応仁の乱の頃までは朝廷よりの雨乞い、雨止めの奉幣祈願が九六度されていることが記録にみられることからも当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。しかし、都が京都に遷り戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師明神社もいつしか蟻通神社と称され、ついには丹生川上神社の所在地さえ不明となってしまいました。明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治四年丹生村(下市町)、続いて明治二十九年川上村の神社が、夫々有力視され官幣大社丹生川上神社下社、上社とされました。蟻通神社こそが丹生川上神社だと大正十一年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な研究調査により丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。そこでこの神社の社務所を当社に移して、下社、上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は「丹生川上神社」と登記されています。本殿は江戸時代文政十二年(1829年)の建築で、東吉野村の文化財に、又瑞垣内にある灯篭は鎌倉時代の弘長四年(1264年)銘で、国の重要文化財に指定されています。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年06月01日

新ひぼろぎ逍遥1131(後) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❹ 続新田=二田

新ひぼろぎ逍遥1131(後) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902

太宰府地名研究会 古川 清久


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

無題.png

石清水八幡宮 カーナビ検索京都府八幡市八幡高坊30


関東武士団が日本海側を北上し新潟辺りで上陸し群馬に入った物部氏であろうという仮説を出していたのですが、群馬と言う米作ができない決して豊かとは言えない土地に踏み入り、関東平野と言う浅間山、富士山、榛名山などの火山灰土壌の畑作地帯の開墾を行ったのですが、大河川はあるものの、川底が深いために水が引けない以上、稲作の沃土は限られており、粉食地帯であったことは、おやき、ホウトウ、フライ、蕎麦、蒟蒻を持ち出すまでもなく、関東武士団の強靭な精神性を造り上げた事だけは間違いがなかったのでした。創作ですが木枯し紋次郎も上州新田郡三日月村でした。

近畿大和朝廷の成立は高々8世紀初頭でしかありません。そこで最終的な勝利者となったのは阿蘇氏の一派、南阿蘇高森から東に向かった草部吉見の末裔の一族でした。そうです藤原氏です。

しかし、その権力も二〜三百年程度で終わり、直ぐに関東武士団の脅威を受け続けたのでした。

さて、ここからは秘密の政治工作であることから所詮推測の域を越えません。県犬養三千代

冬でも青々と葉を付けるときじくの実にちなんで橘宿祢の氏姓を貰います(和銅元年708年)。

 実際には、逆にこの頃から皇室に妃を出せる外戚(女系橘)の地位を失って行くのです。

 橘諸兄(敏達天皇の後裔が亡くなると奈良麻呂の変藤原仲麻呂打倒未遂事件天平勝宝9 757)の敗北により宮中の半数近くが犠牲になります。クーデターに関係しなかったことから残った橘一族も中級以下の者と零落し多くは地方で生き延びる事となります。逆に藤原天皇制の報復への機運も高まって行くのでした。

無題.png

この地方に下野した橘一族(八咫烏後裔=白族)が拠点としていた、石清水八幡宮を軸に、蘇我物部戦争の犠牲となり関東に生息地を得た物部氏が束ねられ、関東武士団として頭角を持ち上げ、公家化した藤原追討に立ち上がり武家政権を打ち立てたのが鎌倉幕府の成立だったのではないかと考えるのです。

 九州王朝の無念さ、物部氏の恨み、橘一族の復活これらが束となって実現したのが武士による

千年王国の幕開けだったのです。表向きは応神を祀るも本当は高良と若宮を祀っているのです。

 そう考えるのは、橘一族=八咫烏の石清水八幡宮が高良を護持しているからです。

徒然草(上)第52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ

仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ*、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良どを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり*。さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず*」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*              無題.pngによる


大分県の国東半島一帯も瀬戸内海挟んで周防の国と一衣帯水の領域ですが、この地の伊美の別宮社(別宮とは石清水八幡宮別宮という意味です)を始めとして多くの神社が高良と若宮を共に祀っています。それは仁徳天皇=オオササギが開化天皇神功皇后長子であることを知っているからなのです。

無題.png

高良神社 カーナビ検索 京都府八幡市八幡高坊30


先に、武田信玄の晩年の居城あった躑躅ケ崎に近い武田八幡宮に九州王朝の若宮=仁徳が祀られていると書いたかも知れませんが(長いので覚えてない)、関心を持たれたら以下をお読みください。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

武田信玄が高良玉垂命の腹違いの兄大彦末裔であることがお分かり頂けるでしょう。

無題.png
無題.png
無題.png

蘇我物部戦争

丁未の乱は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変、衣摺の戦いともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。これ以後、物部氏は衰退した。発生日:西暦552年 

ウィキペディア20250221 09:31による


こんなものは九州王朝の時代に北部九州で起こっているのであって、近畿にあるのは近畿大和朝廷の歴史として置き換えられたテーマ・パークでしかないのです。

結果、敗残した物部25部族の大半が日本海ルートで安全な越前、越中辺りで上陸し(柏崎刈羽辺りでしょうね)数世代を掛けて関東へと入ったのが物部=改め武士(関東武士団)となったのです。


天物部二十五部   無題.png様による


 [二田物部](ふた)        鞍手郡小竹町新多二田ケ浦

 [当麻物部](たぎま)       未詳

 [芹田物部](せりた)       宮若市芹田

 [鳥見物部](とみ)        直方市頓野

 [横田物部](よこた)       飯塚市横田

 [嶋戸物部](しまと)       遠賀郡遠賀町島門

 [浮田物部](うきた)       未詳

 [巷宜物部](そが)        早良郡曽我?

 [足田物部](あしだ)       未詳、鞍手郡疋田説あり

 [須尺物部](すさか)       糟屋郡粕屋町酒殿

 [田尻物部](たじり)       未詳、みやま市田尻?

 [赤間物部](あかま)       宗像市赤間

 [久米物部](くめ)        未詳、糸島市久米?

 [狭竹物部](さたけ)       鞍手郡小竹町

 [大豆物部](おおまめ)      嘉穂郡桂川町豆田

 [肩野物部](かたの)       北州市小倉北区片野

 [羽束物部](はつかし)      遠賀郡岡垣町波津

 [尋津物部](ひろつ)       鞍手郡鞍手町八尋?遠賀町広渡?

 [布都留物部](ふつる)      鞍手郡鞍手町古門?

 [住跡物部](すみと)       未詳

 [讃岐三野物部](さぬきのみつの) 未詳、福岡市博多区美野島?

 [相槻物部](あいつき)      朝倉市秋月?

 [筑紫聞物部](ちくしのきく)   北九州市小倉南区企救

 [播麻物部](はりま)       未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた

 [筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北


二田物部は「新」をニイ、ニュウと発音するヨーロッパ系言語を持ってきた人々の様で、一応、半島外北部 中国東北部遼寧省辺りから入っていると考えるべきなのでしょうが、そもそも大山祇系も半島の金海(キメ)の金海金氏で、西都原から筑豊に入っているのかも知れません。

そのルートは、熊本市の南、御船町→益城町(マシキではなく元はウマシキでしょう)→甘木(現朝倉市)→飯塚市(馬敷)→鞍手郡小竹町新多二田ケ浦なのではないかと考えています。

それが良く知られる狗奴国と考えています。

直ちに大山祇系と断定はしませんが、彼らが宮崎の西都市の北に位置する新田原(ニュータバル)辺りから北上し筑豊に入り、新潟と名付けたのだと思うのです。だからこそ、新(ニイ)潟と呼んだのです。

無題.png

百嶋神社考古学では大山祇系は金官伽耶の金海金氏(王昭君系南匈奴)と考えており、だからこそ、物部25部族の筆頭に就いたでしょう。

田尻物部、秋月物部は、後漢の霊帝時代に半島経由で入ってきた阿智王の後裔の一族でしょう。

鳥見物部はトミノナガスネヒコを思わせます。金山彦系(若しくはカミムスビ系)のはずです。

物部氏とはこの様な雑多な集団であり、当時は旧遠賀湖でも言うべき遠賀川と玄海灘の潮が入る低湿地帯のはずで、半島から入ってきた人々は他の先住民と衝突しない場所を選んで徐々に自らの国を開拓し始めていたのです。今回、これまで別個に調べてきた多くの要素を繋ぎ合わせ、甲信越のフィールド・ワークの結果、分かってきたことを繋ぎ合わせていくと、九州から移動した=逃亡した物部氏の多くが、新潟から関東一帯に展開し関東武士団として復活した姿が浮かび上がってきたのでした。

昨年、埼玉の百嶋神社考古学メンバーと南魚沼郡への調査を行いましたが、悪天候によって途中で中断しました。現在、再度の調査を企画しています。それ以降、もっと詳しい事が解ってくると思います。

今回、関東武士団の成立のアウト・ラインが漸く見えてきましたが、更に詳しい事が解ってくると思います。


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記