2026年04月06日

新ひぼろぎ逍遥1123 松浦党の起源を探る ⓭ 阿 漕(アコギ)20101012(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1123 松浦党の起源を探る  阿 漕(アコギ)20101012復刻版)

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太宰府地名研究会 古川清久

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はじめに


本稿は「アコギ」というあまりなじみのない地名を捉えた民俗学的小論に過ぎません。

ただ、もしかしたら、伊勢神宮の前史を探る端緒となるかも知れないと大それた予感を感じています。

従って、地名ばかりではなく、古代史に関心を寄せる方々にも読んで頂ければと考えています。

まず、「あこぎ゙」という言葉があります。普通には「あこぎなまね」「あこぎなやつ」といった使い方がされていますが、とりあえず『広辞苑』を見てみましょう。


「【阿漕あこぎ】(地名『阿漕ヶ浦』の略。古今六帖3『逢ふことを阿漕の島に引く網のたびかさならば人も知りなむ』の歌による@たびかさなること。源平盛衰記(8)『重ねて聞し召す事の有りければこそ阿漕と仰せけめ』A転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。ひどく扱うさま。狂、比丘貞『阿漕やの阿漕やの今のさへ漸と舞うた、もう許してくれさしめ』。)。『阿漕な仕打ち』B能の阿漕。伊勢国阿漕ヶ浦の漁夫が密漁して海に沈められ、地獄で苦しむさまを描く。」


広辞苑はBに「能の阿漕、伊勢国阿漕ヶ浦」を上げていますが、伊勢神宮と大和朝廷との間には今なお多くの謎があると言われます。

そもそも、天照が最高の神であったのならば、伊勢神宮は、何故、大和に置かれず、伊勢に置かれたのか?また、持統、文武を除き、天皇家は何故、明治まで伊勢神宮に対して参拝しなかったのでしょうか?

ともあれ、三重県の津市には“阿漕の浦”と呼ばれる浜があります。ここから話を始めることにしましょう。まず、この阿漕の浦が直接的に「アコギな話」に繋がっているのです。


A) “阿漕”について作業ノートから

“阿漕”という言葉(地名)には、能(謡曲)の「阿漕」、古浄瑠璃の「あこぎの平冶」、人形浄瑠璃の「勢洲阿漕浦」、御伽草子の「阿漕の草子」、西行などの和歌、さらに加えれば、それらを題材にした落語の「西行」といったものまで、実に多くの話や伝承そして逸話が残っています。

 また、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」といった古歌も残っています。このため、室町以降成立してくる能や浄瑠璃に先行して、もっと古い時代から「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようです。

さて、この歌から感じるのですが、ここには、漁業権もしくは入浜権を巡る争いが背後にあったように思えます。

それはともかくとして、和歌で有名な西行ですが(「新古今集」には最多の九十四首を残しています)、元は佐藤兵衛尉憲清という名の禁裏警護役、つまり北面の武士とされていますが、平安末期から鎌倉期の人であり、出家への動機については諸説とりざたされています。

 一応は、「前夜、同族で年嵩の佐藤佐衛門尉憲康と和歌の会から伴に帰り、翌日迎えに行くと急死していたことから出家への道を求めた」というのが有力とされているようです。

もう一つは、恋していた絶世の美女堀川の局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」と言われ「あこぎよ」の意味が分からずに恥じて出家したといった話です。

さて、ここから先は落語の「西行」に出てくる「阿漕」の話です。「……憲清、阿漕という言葉の意味がどうしても分からない。歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉が分からないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようとその場で髪を下ろして西行と改名。諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が『ハイハイドーッ。散々前宿で食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねいぞ』。これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると『ナニ、この馬でがす。前の宿場で豆を食らっておきながら、まだニ宿も行かねいのにまた食いたがるだ』『あ、二度目の時が阿漕かしらん』……『伊勢の海あこぎが浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ』から、秘事も度重なればバレるという意味。西行はこれを知らなかったから、あらぬ勘違いをした訳である。オチは『豆』が女性自身の隠語なので馬方の言葉から、二度目はしつこいわ、と言われたと解釈した。『阿漕』には後に、馬方が言う意味つまり『欲深』『しつこい』という意味がついた。……」(手持ちの「千字寄席」噺がわかる落語笑事典 立川志の輔【監】古木優・高田裕史【編】)一応、落語の話はここまでです。

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古歌として、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」「伊勢の海阿漕が浦に曳く網もたび重なればあらはれにけり」といった別バージョンのものも残っています。このため、室町以降成立する能や浄瑠璃に先行して、「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようなのです。

ここで、謡曲に移ります。謡(うたい)の阿漕(十八ノ四)は、病気の母親に食べさせようとした息子が禁を犯して阿漕ヶ浦(三重県津市の伊勢神宮神饌の漁場)から魚を捕っていたことが発覚し簀巻きにされて海に沈められるという話がベースになっています。

三重県津市阿漕ケ浜から伊勢神宮への御贄(オニエ)を奉納したとされているのですが、漁と奉納とはそれなりの緊張関係があったと思われ、実際に処分された漁師がいたことは間違いなかったようです。

こういう背景があって室町期に謡曲の「阿漕」(当然ながら謡曲は古いため、ここでは殺生を業とせざるを得ない漁師の話であって平治の名はなく孝子伝説とは無関係です)が成立し、江戸期になって古浄瑠璃の「あこぎの平冶」が、また、浄瑠璃 義太夫(**)や人形浄瑠璃、の「勢州阿漕浦」が成立し、ついには芝居にまでなります。

このため、江戸の中期から明治にかけて浄瑠璃が大流行し全国に流布されるようになると、単に「アコギ」と呼ばれていた地名が、「阿漕」という表記になっていったのではないかとも思われるのです。

脱線しますが、釣師の私としてはフィクションとしても密漁したとされた魚が何であったのかが多少気になります。芝居の中などで平冶が密漁したとされている魚は、くちばしが長く本体も細長い“ヤガラ”とされていますが、日本近海の“ヤガラ”の仲間には“アカヤガラ”、“アオヤガラ”2種外があります。私は阿漕ケ浦が砂地であることから考えて、“アオヤガラ”(アカヤガラが美味とされていますが)ではなかったかと考えています。その外にも多くの興味深い話がありますが、この程度にしておきましょう。

結局、転じてこのような酷い仕打ち(簀巻きにして海に沈める)のことを“阿漕なこと”とまで言うようになったと言われているのです。

しかし、では、なぜ、伊勢のこの地は“阿漕が浦”と呼ばれるようになったのでしょうか、それが分らなかったのです。

                 

B)釣りとアコウ地名の分布


沖縄から北岸を除く九州の西岸、島嶼部には赤崎(アコザキ)、赤尾木、赤生木(アコオギ)、阿漕(アコギ)、赤尾(アコオ)、赤木(アコギ)、赤木屋(アコギヤ)、赤木名(アコギメ)といった地名が散見されます。私が始めてこの奇妙な海岸地名に遭遇したのは、二十五年前のことでした。 

佐賀県の東松浦半島(東松浦郡肥前町)に魚釣りに行き、大した釣果もなかったため早めに切り上げ、新らしい釣場を開拓するため“阿漕”地区に踏み込んだのです。

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唐津市肥前町高串 〜 (1/1)初詣、(1/2)甲二峰(こうじぼう)/阿漕(あこぎ)地区散策


その後も、魚釣り(具体的には波止からのメジナ=グレ=クロ釣りからサーフのキス釣りに転向している時期でしたが)で多くの土地を訪ねるようになってくると、非常に印象的な常緑樹(実際には暴風雨などにより潮水を被った時や年に二度ほど定期的に葉を落としますので半常緑高木とされていますが)をたびたび見かけるようになりました。

特に、釣人の多い北部九州を避け魚釣りと旅とを半々に、のんびりと長崎、熊本、鹿児島に南行していたのですが、あまり知られていない漁港の片隅などにアコウ(*)がさりげなく息づいていることに気づくようになったのでした。 


無題.png長崎では五島を中心に、長崎の式見、大村湾の川棚、壱岐、島原半島から対馬などに、熊本では八代、葦北郡内(田ノ浦町の波多島地区ほか)から天草諸島周辺に、鹿児島では本土の阿久根、いちき串木野を中心に薩摩、大隈の両半島の全域に、そのほかにも大分、宮崎にも目立たない入江などにそれなりの数のアコウが分布しているのです。

このアコウという木の生育領域は、ほぼ、和歌山から九州、四国以南に限定されているために全国的にはあまり知られていないかも知れません。

しかし、魚釣りや南の海になじみのない向きにも、鹿児島県は桜島の一角、古里温泉のアコウは知られています。林芙美子ゆかりの某観光ホテルには錦江湾に面した崖下に大きな混浴露天風呂がありますが、その傍らに樹齢数百年とも思えるアコウがそびえ、実にアコウの根(気根)の中に体を埋め込みながら温泉に入ることができるのです。

話をさらに拡げますが、十五年前、私はサーフのキス釣に夢中になっていました。30p超級のキスを求めて鹿児島県の内之浦から、天草下島の南に位置する長島、その天草下島(熊本県牛深市鬼貫崎池田)、山口県の角島、さらに五島列島などへと大遠征の釣行を重ねていました。 

そしてこの大ギスが釣れる静かな入江やその付近の集落には不思議とアコウがあったのです。今年(二〇〇四年)の三月にも、強風の中、長崎県のウエスト・コースト西彼杵半島の沖に浮かぶニ島、崎戸島−大島に短時間ながら釣行しましたが、2本のアコウの木が生える静かな漁港で久々に尺クラスの越冬ギスを手にしました(もちろん尺ギスです)。

このようにアコウに関心を持ちアコウを強く意識しはじめると、九州にはかなりの数のアコウがあることに気付いてきますが、この木の一般的な分布域は沖縄が中心とされています。           

四国の足摺岬のアコウも観光地のためか比較的知られていますが、本州におけるアコウの分布は和歌山県だけとされているようです。しかし、昔は(非常に大雑把な表現ですが)もっと広い範囲に分布していたのではないかと想像しています。その理由は極めて単純ですが、アコウに関係があると思える地名がその外側(周辺部)にも分布しているからです。

もちろん、背景調査を行うことなく地名だけを根拠にアコウの分布域を想像することは根拠に乏しく違法ですらありますが、兵庫県の“赤穂”や三重県津市の“阿漕”さらに多少内陸部とはいえ仙台市の“赤生木”(これは無理かもしれませんが、鹿児島県の笠沙町=薩摩半島先端の町にもこの赤生木という地名があります)などの地名はやはりアコウ樹の存在と関係があるのではないかと思います。

ただし、このような海岸部の地名を考えるときに注意しなければならないことは、海洋民(漁撈民)は非常に移動性が大きく、魚を捕り尽くすとすぐに新たな漁場を求めて移住していく傾向があることです。そして、前に住んでいた地名を新たな土地に付けることがかなりあったようなのです。このため、単純にアコウが生えているということと、地名とが直接的には結びつかないということもあり得るのです。

しかし、思考の冒険はさらに広がります。この木の名称はほとんど地方名(呼称)のバリエーションを持っていません。そしてこの地名の分布が、ほぼ、海岸部に限定されていることから見ると、南方起源の海洋民(漁撈集団)が住みついた地域と考えることも可能であり、これらの集団によって既に確立し普遍性を帯びていたアコウもしくはアコギという樹名がそのまま地名にまで高まったのではと考えるのです。


C)有明海内部にはなぜアコウがないのか


 有明海・不知火海フォーラムのメンバーであり『有明海異変』を問うた私の立場からしても、多少は有明海との関係を展開すべきでしょう。

狭義の有明海(宇土半島三角付近から島原半島布津町付近を結ぶ線の内側)の内部にはアコウの木はないようです。しかし広義の有明海(湯島ラインのさらに外側、天草下島五和町鬼池港から島原半島の口之津町早崎付近を結ぶ線の内側)の外側、口之津町早崎半島先端部にはアコウの群落があります。また、その線の内側に浮かぶ湯島(熊本県天草郡大矢野町湯島−1637年の島原の乱では農民一揆〔キリシタン?〕側が談合を行ったことから“談合島”の別名があります)にも、やはりアコウの群落があります(湯島小中学校付近)。湯島ラインの内側を有明海と考える向きもありますので、この意味でも文字通り有明海の外側にアコウが存在していることになるのです。さらに言えば、有明海と不知火海(八代海)を仕切る宇土半島南岸の不知火町にもアコウがありますので、奇妙にも有明海の内側にだけアコウがないことになるのです。なぜならば、九州西岸で考えれば、それよりも北の長崎県大瀬戸町の松島(松島神社境内)、同じく大島町(大島地区)、前述した佐賀県東松浦郡肥前町(高串地区)、さらに数十キロ北に位置する玄海灘に浮かぶ島、壱岐にもアコウがあるからです。 

植物としてのアコウの性質といったことについては全くの門外漢ですので、“有明海の土壌(例えばシルト層)といったものがアコウに適しているのかどうか”などといったことにはほとんど答えることができません。しかし、このアコウという木の大半が海岸部に分布していることから考えて、“アコウは海と切り離されては生きていくことができない木なのではないか”ということまでは言えるように思います。

ここで考えるのですが、有明海は他の海と比べて堆積(絶えざる陸化のスピード)が異常に大きい海です。現在のように土壌流出が大きくなかった時代、古代とまでは言わないまでも、戦前においてさえも、それなりのピッチで堆積し続けたために、アコウが育つスピードを上回るペースで陸化が進み、結果、海が後退し、アコウは根付かなかったか、大木まで育たなかったように思えるのです。ここ数百年という単位で考えれば、干拓工事の資材として(実際には加工しにくいので実用にはならないでしょうが、干拓地には一般的に森が形成されないのです)、または、“燃料に乏しい干拓地の宿命として伐採されてしまったのではないか“と思うのです。いずれにせよ、仮にアコウが根付いていたとしても、有明海で干拓が始まるようになるとアコウは消えていってしまったのだと思うのです。

かつての干拓地というものは、豊かに見えますが、実は非常に資源に乏しく、水、燃料、建築資材(竹、木材、土、その他)の一切が不足していたのです。佐賀平野の半分以上は干拓地ということも可能であり、よく言われる「佐賀んもんが通ったあとには草も生えん」という県民性も、“全てを資源にせざるを得なかった”この干拓地の欠乏性からもたらされたものかもしれません。つまり、他人の土地に落ちている棒切れさえも持ち帰って燃料にするとか、引抜かれた草さえも持ちかえって堆肥に変えるといった傾向のことです。

こう考えれば、干拓地内の農耕民と言うものは実に貪欲で、全てを肥料や燃料にする傾向があり、この結果アコウが根付く間がなかったとも言えるようです。結局、農耕民とアコウとは共存できないのでしょう。


D)有明海を中心に私が見た九州西岸のアコウ分布


九州全体のアコウの分布を全て把握することは、ほとんど不可能ですが、私が確認した範囲で分布の概略を書いておきます。


【佐賀県】

始めに私が住んでいる佐賀県ですが、東松浦郡肥前町(高串地区)以外には知りません。


【長崎県】

壱岐、五島は魚釣りで過去何度となく訪れたところですが、有川を始めとして多くのアコウが確認されます。その他、車で行ける長崎県内のアコウの生息地としては少数ですが平戸市の獅子地区などを中心に平戸の西海岸などに、大村湾の小串地区や日泊郷などに、長崎市西岸の小江の柿泊から大瀬戸にかけても、島原半島の旧口之津町の早崎魚港の巨大群生地を中心に小浜温泉周辺にも、旧加津佐町、旧南串山町、南有馬町の海岸部に無数のアコウがあります。


【熊本県】

北から、宇土半島の北岸には住吉神社があります(ここも干拓の陸続きになりましたが、百年前には堂々たる有明海に浮かぶかなり大きな島だったのです)。その沖の小島(『枕草子』に登場する「たはれ島」ですが、「島はたはれ島…」)には五年前までアコウの木が生えていました。その後台風で倒れますが、鳥のおかげでそのうち復活することでしょう。

このような小規模なものは別にしても、天草島原の乱で著名な談合島=湯島の小学校にはかなり大きな群生地があります。私は未確認ですので機会があれば見に行きたいと思っています。

宇土半島南岸には不知火海の再生のために環境保護団体によって多くのアコウが人為的に植えられましたが、海岸保全事業の邪魔になるため熊本県は「生態系にそぐわない別種の植物を持ち込むのは環境に良くない」として排除に動いています。多くの外来の新品種、国外産品を農水省に言われるまま無批判に推奨していることは棚上げにしてですが。ただ、結果としてかなりのアコウが増殖しています。

植林とは無関係ですが、八代市の大鼠蔵島に巨大なアコウが数本、それ以外にも干拓地を中心に市街地にも鳥によってかなりのアコウが増殖しています。さらに南に下ると、葦北郡の田浦町、芦北町、津奈木町の海岸部に無数の小木がいたるところに認められます。 

かつては多くの大木があったはずですが、現在それが認められるのは田浦町の隠れ里波多島地区に限られています。

天草にも大木のアコウがあります。一番大きいのは天草上島旧姫戸町の永目のアコウです。これは全国で二番、三番と言われるものですが、私の見たものとしては、これ以上のものが口之津の早崎漁港や鹿児島県の阿久根市の脇本浜や旧串木野市の海岸部にもあるように思うのですが、無論、計測した判断ではありません。その外にも、旧竜ヶ岳周辺、旧松島町、旧大矢野町周辺にも散見されます。上島では旧有明町の無人島黒島に巨木があるとの噂を聞いていますが未だ確認の機会を得ません。下島も旧牛深市の魚貫湾の北岸池田などに相当数認められます。


【鹿児島県】


長島、黒ノ瀬戸あたりからアコウが姿を表し始めます。瀬戸に面した漁港の片隅などにアコウの小木を見つけることができますが、さらに南に向かうと脇本浜にアコウの大木が群れをなしています。現在こそ道路工事や護岸工事で破壊されていますが、ここにはびっくりするようなアコウの巨木があったのです。それを示すかのように多くの切り株が今も残っています。ここから折口浜、阿久根の市街地にも散見されますが、次の群生地は串木野の海士泊周辺になるでしょう。ここにも崖一つを覆い尽くすようなアコウがあります。桜島から垂水にかけても多くのアコウがありますが、象徴的なのは百本のアコウの街路樹です。大隅半島にもまだまだ多くのアコウがありますがこれくらいにしておきましょう。

このように多くのアコウがありますが、これも車で確認できる範囲の話です。船でしか行けないような島や岬にも多くのアコウがあることに疑う余地はありません。

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E) “阿漕”地名と“アコウ”


いよいよ本題に入ります。阿漕という地名起源を考える時、“アコギ”とも呼ばれる亜熱帯系の常緑高木“アコウ”(赤秀)の存在が気になってくるのです。まず、三重県津市の阿漕を考えてみましょう。もちろん、現在、ここにアコウの木があるわけではありません。

一方、アコウの生育限界であり北限ともされてきた佐賀県の肥前町高串には、今でも多くのアコウが息づいていますが、“阿漕”地区はその高串から岬ひとつ隔てたところにあるのです。最近もアコウを探したのですが、残念なことに確認できないでいます。

従って、肥前町高串のアコウという木と“阿漕”類似地名とを直接結び付るものはありません。

今のところは“阿漕”という地名が残る佐賀県の高串港にアコウが生えていたということが唯一の関連性を示すものかもしれません。しかし、アコウという樹木の分布傾向と“阿漕”関連地名の分布傾向にそれなりの関連性があることからして、アコウと“阿漕”との関係はかなりの可能性があるように思います。

再び三重県津市の阿漕の話に戻しますが、一般的なアコウの分布から考えて、黒潮の枝流が流れ込む伊勢の海の海岸はこの木の生育領域(であった?)とも十分考えられそうです。 

 近いところでは、隣県の和歌山県日高郡美浜町三尾にアコウの大木があるようです(龍王神社)。また、三重県内の地名としては、津市の“阿漕”以外にも飯南郡飯高町赤桶(アコウ)、桑名市赤尾(アコオ)、があります。

 今日まで、アコウの木と“阿漕”関連地名とを関係づけて論じたものを私は知りません。また、アコウの木の分布領域の中心とされる沖縄や奄美大島に九州などに比較して“阿漕”関連地名が異常に多いということもないようです。もちろん、これはアコウが多いため地名形成の動機としては弱かったとも考えられます。

 とりあえず、ここではアコウが松、栂(ツガ、トガ)、榎(エノキ)、栃(トチ)などと同様に、それらが特徴的に見える地域において、松崎、栂尾、榎津、栃川といった地名と同様に、自らの存在を地名として留めている可能性があるのではないかというところまでは言えるように思うのです。 

ただし、この木の分布が日本列島の辺境に限定されていたために、“阿漕”という奇妙な表記の地名とアコウの木との関連性が忘れ去られているのではないかと思われるのです。

一般的に漁撈集団は、文字で記録を残さないと言われています。極めて逆説的ですが、それこそが、アコウや“阿漕”が南方系の漁撈集団がもたらした“樹名”であり“地名”である証拠とも言えるような気がします。

その後も、アコウについて調べていたところ、北限とかいったものを超えて、山口県(いずれも瀬戸内海ですが、柳井市の掛津島、周防大島の東和町水無瀬島)や愛知県にもアコウがあることを知りました。しかし、愛知県のアコウは“鹿児島から苗を取り寄せて移植した”ようです。なにやら、民俗学者柳田国男の“ツバキ”の話を思い出しますが、こういったことがあるために、そもそも自然な生育限界とかいったものはなかなか判らないものなのです。

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2026年04月03日

新ひぼろぎ逍遥1122 松浦党の起源を探る ⓬船越20120723(復刻版)下

新ひぼろぎ逍遥1122 松浦党の起源を探る 船越20120723復刻版)下

20250808

太宰府地名研究会 古川清久


 地図を見ていただければ直ぐに分かるのですが、船による移動が重要であった古代において、もしも、諫早の"船越"が事実であれば、大宰府から南に宝満川を下り有明海に出て、西に進み、さらに、諫早湾から船越を経由して大村湾から西に出て(大村湾には西海橋が架かる急潮の針尾瀬戸と小さく緩やかな早岐瀬戸の二箇所の海峡があります)対馬海流に乗れば、労することなく自然に朝鮮半島にたどり着くことができるのです。
 最近、古代史界の一部では、朝鮮半島へのルートとして、下手すればロシアのウラジオストック方面に流されかねない博多や唐津(唐津の唐は遣唐使の唐ではなく、任那=加羅、金官伽耶、高霊伽耶なのでしょうが)よりも、むしろ有明海ルートの方が合理的ではなかったかということが言われ始めているようです。
 仮に、有明海湾奥部から北に向かうとしても、島原半島を大迂回するよりは、諫早の船越経由による大村湾コースが極めて有利であることは言うまでもないでしょう。
 博多湾、唐津湾から朝鮮半島に向かうとしても、一旦は西に向かい対馬海流に乗ったと言われていますので、荒れる玄界灘を直行したり、弱風で西に進むよりは、有明海、大村湾を西に進む方が遥かに安全だったはずなのです。
 これまでにも繰り返し述べてきたことですが、今でも、有明海は非常に大きな潮汐を見せる海です。ギロチンが行なわれるまでは上下で六メートルと言われていましたので、干拓が行なわれていなかった古代においては、浅い海が広がり、多くの島や半島が入り組んだ複雑な地形をしていたはずですので、潮汐は今よりももっともっと大きかったはずなのです(奥行が深く海が浅いほど振幅は増大するとされています)。 
 現在でも諫早は低い平地ですが、実際に"船越"が行なわれていた時代には、その距離は今の地形から想像する以上に短かったのではないかと思います。
 諫早地峡の東側には本明川と半造川が諫早湾に向かって流れています。また、西側には東大川が大村湾に向かって流れています。この間が約一キロですから、ここさえ"船越"すれば良いことになるのです。記述にもあるとおり駅に馬が置いてあったのですから、この外にも馬はいたはずですし(島原半島の口之津、早崎半島に""があったと言われています)、馬に曳かせるなどして、船を運ぶことは思うほど大変なことではないでしょう。小さい船であれば数人で曳けたでしょうし、大きな船でも極力、川を利用し、時としてパナマ地峡のように川を堰き止め水位を上げるなどしてその牽引距離をさらに縮めたはずなのです。
 逆に言えば、そのような重要な場所であったからこそ、古代の駅が置かれていたのです。
 いずれにせよ、ほとんど遮るものがなかった古代において、船を曳くということは普通に行なわれていたと考えられ、もしかしたら、ある程度組織化されていたのではないかとまで考えています。
 また、民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
 非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
 直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。
 少なくとも、諫早の船越地名は非常に古く、潮汐は今よりも大きかったはずですから、太古、大村湾と諫早湾の間において船で"陸行していた"という推定は十分に可能ではないかと思うのです。
 さらに、地質学的な調査、例えば海成粘土の分布といった資料があるのならば、"船越"のルートを特定し、地峡の幅、従って"船越"が行なわれた距離(延長)もある程度推定することができますので、今後の課題にしたいと思います。

*
 延喜式:@弘仁式・貞観式の後を承けて編纂された律令の施行細則。平安書初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。(広辞苑)
 

船越地名の意味するもの


太宰府に大規模な木造建築物が造られた・・・とする時、その材はどこから調達され、どのように運ばれたのか?に想いを向けざるを得ません。

凡そ、トラックやクレーンなどといった便利なものがなかった時代、船やイカダに依存せざるをなかったことは明らかで、その目を九州の最大級の大河である筑後川と太宰府に近接する宝満川に向けることは至極当然なことと言えるでしょう。

いきおい、日田方面で調達された大木はイカダとして筑後川を流され、再度、有明海の巨大な潮汐を利用して宝満川から持ち上げられたと考えるのです。

一方、読売がプロデュースしてひところ話題になった「大王の石棺実験航海」においても、諫早の「船越」(延喜式に登場する「船越」の駅=ウマヤ経由の一部陸路利用)が利用され運ばれたのではないかと考えています。この有明海〜諫早=船越〜大村湾というルートがリアリティーを持つのは、海が安定する夏場でも、南、西風が卓越する長崎南、西岸は通りたくない上に、当時の島原から長崎、長崎から佐世保にかけての長崎南、西海岸には人口の集積がなく寄港地としての兵站が全く望めないからです。

さらに言えば、搬送は王権の示威を兼ねていたと考えられ、数艘の随行船を従えて国家的事業として取り組まれたはずであり、当時の人口集積地である諫早から大村湾に抜け、彼杵付近を中継して平戸の瀬戸を目指したと考えるのです。

長崎県は現在でも長崎市と佐世保市に人口が集積しています。その理由は江戸以来の外国貿易の独占と明治以来の三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠の存在によるものでしかないのであり、小なりと言えども、長崎における弥生以来の稲作の集積は諫早から佐世保に抜ける一帯に集中するからです。なお、本論文は「船越(補稿)」と伴に「古田史学の会」の会報に掲載されたものを再編集したものです。


 船 越(補稿) 対馬 阿麻氏*留神社の小船越       阿麻氏留(アマテル)の氏*は氏の下に一


はじめに


 七月上旬、三泊四日で対馬を散策してきました。と、言っても全体で四二〇キロの行程にもなるため、かなりハードなものであったことは言うまでもありません。
 もちろん、対馬には"船 越"でとりあげた、あの阿麻氏*留(アマテル)神社があります。
 当然ながら司馬遼太郎の「街道をゆく」13(壱岐・対馬の道)には海人神社(ワダツミ)の社家でもある地元の郷土史家(というよりも第一級の民俗学者、古代史家と呼ぶべきでしょうが)の永留久恵氏との探訪のエピソードが書きとめられています。また、民俗学者宮本常一による永遠のベストセラー「忘れられた日本人」に書きとめられた伊奈、志多留から佐護、佐須奈に向かう中山越えの話や、対馬の南端、豆酘(ツツ)の浅藻の梶田富五郎翁のエピソードがあります。

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この島は、西日本を中心に走り回って来た私にとっても始めての土地であり、ある意味で私に残されたフロンティアという勝手な思い入れを持っていました。今回の対馬行は直接的には"船 越"を書いたことをきっかけにしたものですが、少なくとも自分の目で直に、万関、大船越の瀬戸、小船越の阿麻氏*留(アマテル)神社を見てみたい、梶田富五郎翁の話しに出てくる豆酘(ツツ)の多久頭魂(タクツダマ)神社と天道法師の禁断の聖地(シゲ地)を見たい。もちろん景勝地である和多都美(ワタツミ)神社も見たい、などと、多くの思いが重なる非常に欲張ったものでした。もちろん、神社だけを見たわけではありませんが、都合、二〇社あまりを見て周り第一回目の対馬行を終えたのです。
 対馬の神社になぜこれほど思い入れがあるかというと、どうやら日本の神々の支配的ルーツがここにあるようだからです。前述の永留久恵氏による「海神と天神」の冒頭 3 対馬の神々 には、こうあります。
 西海道の延喜式内社一〇七座中、二九座が対馬にある。上県郡の和多(わた)都美(つみ)神社(名神大社)以下一六座、下県郡の高御魂(たかみむすび)神社(名神大社)以下一三社で、次は壱岐に二四座、続いて筑前に一九座があり、西海道の官社の大半が玄海に臨んでいたことになる。大和朝廷がこの海域をいかに重視していたかが窺える。

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しかし、最大の関心は、阿麻氏*留(アマテル)神社の小船越が本当に"船越"できるような場所であるかを実際に現地を歩いて確認することにありました。

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小船越の港 →


 道路改修工事や漁港修築事業などによって現地はかなり変えられ、神社の参道(石段)も、神社前にあったと思われる水路(きっとこれも海からの参道だったのでしょうが)もかなり付け替えられてはいるようですが、昔の地形は十分に想像することが可能でした。

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神社前の水路


 結論を先にすれば、結果は実に感動的なものでした。なんと、阿麻氏*留神社のすぐ裏には(というよりも神社の前を左に船越すればその先にあるのですが)静かな入江がすぐそこまで延びていたではありませんか。

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阿麻氏*留神社裏の入り江 →


 この存在感は古田史学に魅了されている私だけのものかもしれませんが、うっとりするばかりのこの入江の美しさは、私ならずとも感じていただけるものと思います。一方、対馬の東側にあたる神社の表には参道の直前まで水路が延びており、距離にして一〇〇〜二〇〇メートル、高低差五メートル足らずの小さな坂を越えるだけで、労することなく船越ができるように見えるのです。

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入り江から船越を望む


 勝手な想像ですが、まず、積荷を陸揚げして"船越"し、荷を運び再び積み直す。当然ながら、阿麻氏*留神社に対して通行料を納め、人手が足りないときには同社の氏子連に協力を求めて何がしかの労賃を支払うなど、この小船越にはそれなりに組織化され、ある意味で産業化された"船越"が存在していたのかもしれません。
 前述の永留久恵氏には「古代史の鍵・対馬」「海神と天神」「古代日本と対馬」をはじめ多くの貴重な著書があります。今回、私はこのうち、四百数十頁の大著「海神と天神」(1988)を手に対馬を周ったのですが、フィールド・ワークによって多少とも得ることができた"か細い"イメージに、この本が吸い込まれるように入ってきます。それはともかくも、「古代史の鍵・対馬」(1975)にも「船越」という小稿があります。永留氏は、この中で、"対馬には大船越と小船越があるが、実際に船越をしていたのは小船越だけではなかったか"とされています。詳しくは本著にあたられるとして、一部をご紹介します。

 浅海湾から東の海に通ずる要地として、二つの船越があった。大船越と小船越である。もう一つ鶏地の住吉があったが、ここには船越の地名はない。いまは大小となく万関の瀬戸を通行するようになったが、これは明治三三年に、帝国海軍が中略
それならば、古来海外に渡航した人たちは、大船越を利用したはずなのに、ここにはそのような伝承がない。中略
 いまの大船越の部落は、江戸時代の初期に移住して来た、と里の人たちも伝えている。これに対して小船越は応永二六年(一四一九)、朝鮮軍が浅海湾を急襲してきたとき、まず尾崎を焼き、ついで船越を攻め、さらに仁位を襲っている。これらの浦が特に狙い討たれたのは、そこが重要な拠点であったからにちがいない。『大宗実録』には訓乃串と書かれている。また、『海東諸国記』には訓羅串となっている。訓乃串、訓羅串、これが船越に当てた朝鮮語の表記だが、ここでわかることは、小船越ではないということだ。船越に大小はなく、ただ、船越があったのだ。そこで寛文の掘切ができて、大きな船が運行できるようになってから、大船越ができたのかといえばそうでもない。『海東諸国記』に吾甫羅仇時とある。それにしても小船越は、まさに古船越とよぶべきであった。

と。

                      そして
 その外にも、豆酘(ツツ)の浅藻の梶田富五郎翁の話しに出てくる郵便局や梶田翁の家も控えめを心がけながら眼に焼きつけてくることができました。これまでの熱い思いをとりあえず沈めるものでした。
 さて、対馬は確かに豊かな自然が残る島でした、しかし、だからこそかえって破壊的な道路工事や河川工事が目に付き、それに追い討ちをかけるように、多くの照葉樹の森が役にも立たない針葉樹に変えられ続けていることが痛々しく感じられたものです。このままでは間違いなく対馬ヤマネコは絶滅することになるでしょう。

                   船越の新たな展開と収束
船 越 において以下の様に書きました。

 民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
 非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
 直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。

 七月は山笠、山鉾、山車の季節ですが、私が参加している古田史学会の内部では上記の内容がささやかながら新たな展開を見せています。
 同会のホーム・ページ「新・古代学の扉」には「古賀事務局長の洛中洛外日記」という、大変面白い、興味深いコラムがありますが、その第七話、第十一話に"船越"の話しが出ていますのでその一部を紹介させていただきます。

第7話 「祇園祭と船越」

 この祇園祭の山鉾ですが、その淵源は古代まで遡るのではないか。山鉾や博多山笠の「山」は耶馬壹国のヤマと何か関係はないか、と以前から思っていたのですが、山鉾は古代の「船越」の様子を表現したものとする説が、最近出されました。
 ホームページ「有明海・諫早(ママ)干拓リポート」に掲載された古川清久さんの論文「船越」に次のように述べられています。
 「全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないか」中略
 そう言えば、松本市の須々岐神社のお祭り、「お船祭り」では「お船」と呼ばれる山車が繰り出されますが、これなど「船越」そのもの。古川さんの新説は以外と正解かもしれませんね。

11話 「信州のお祭・お船」

 信州のお祭りで有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という名前

からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは(ママ)、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥)の次ぎの記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。
 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。
 「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」
小輿*[輿/](よ)は、輿の同字で輿の下に車
 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね。

 最後に永留久恵氏の「海神と天神」の 第一部 海神編 第二章 対馬のウツロ舟伝説 10 葬送と舟 にこの話の解答に近いものがありますので、少し長くなりますが、その一部をも紹介してこの論考をひとまず終わりにしたいと思います。しかし、再び対馬を訪ねることになると思います。その時には再び、船 越(補稿)Aを書きたいと思います。
   中国の史書「隋書」倭国伝を見ると、倭人の風俗を述べたなかに、「貴人三年殯          

、庶人卜日而葬」との記述があり、貴族は殯宮を建てて長期間 もごり をしたことがわかる。庶民は卜して葬(はふり)をしたが、その間にはやはり殯の仮屋をこしらえたはずである。
しかし、屍を安置する施設をもたないものは風葬に近い形がとられたであろう、と井上氏は説く。そして『続日本紀』文武天皇の七〇六年に、放置された屍を埋葬するよう令した詔が引用されている。
 水葬について諸先学は、蛭子を舟に載せて流したという『記』『紀』の神話は水葬の習俗を映したものだと説いている。南方の海洋民族の間には、死者は船に乗って他界するという説話があり、死者を舟に載せて流す風習があったという。この南海の民族と、いろいろの点で似た習性をもっていた倭の水人に、水葬があったと考えることは無理ではない。志摩で棺をフネとよぶことには、遠い昔のある姿を想像して深い意味を感じる。志摩は、熊野へと続く海人の活動舞台だったからである。また、海辺の村で初盆に精霊船を流すのは、死者の霊が遠い海の彼方に帰るという信仰による。
 葬(はふり)と舟について考えるとき、死者を載せて流すことばかりにこだわってはいけない。屍を葬地に運ぶためには船が必要だったからである。これを思うのは縄文晩期に始まる対馬の古い埋葬遺跡がほとんど海岸にあり、海に臨んだ突崎や、離れた小島にあるからだ。南西諸島では、今でもそのような場所に葬地を営んでいる。この葬地まで運ぶためには、当然舟を必要としたはずである。陸路から行けるところもあるが、舟による方が便利であり、また、舟なくしては不可能な場所が多い。死者を葬地に送るために、舟に乗せて運んだことは間違いない。
 さきに引用した『隋書』のなかに、「及葬置屍船上牽之」と、屍を船上に載せて葬地に運ぶことが記されているが、この場合は水上を航行するのではなく、陸上を牽()いたのである。およそ推古朝頃の風俗を記したものであろうが、船と棺との区別がわからない。しかし、これについて上井氏が攝津の住吉大社の資料から分析した論考は明快である。その概要は、同社に深い関係を持っていた舟木氏があり、この舟木は舟の建造を職掌としたが、同時に棺をも造った。しかも木棺ばかりではなく、石棺をも作っていた。そこで『古事記』にいう「鳥之石楠舟」には舟と棺のイメージが混然としている。というものである。


船越(フナクヤ)


フナクヤ


妙なタイトルと思われるかもしれませんが、船越(フナコシ、フナゴエ)のことです。この場合、現地音のフナクヤは、本土のフナゴエ゙に対応します。

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玉取崎展望台から望む=石垣島本島が北東に伸びていますが船越はその最狭隘部


小論「船 越」 において、このように書いています。


船越という地名(再掲)


   船越という地名があります。“フナコシ”とも“フナゴエ”とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。 

遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。

インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。

それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応“南九州には存在しないのではないか”とまでは言えそうです。


鹿児島にはないとしていましたが、その後奄美にあることを確認しましたので、ここで改めて訂正させていただきます。ただ、沖縄の船越の一つにはこの石垣島の船越地名はカウントしていませんでした。

その船越が、半島が伸びる付け根の伊原間(イバルマ)地区の最狭隘部にあったのです。このような小さな地名はやはりフィールド・ワークでなければ発見できません。この船越は西側に港があり、さらに水路が百メートルは東に伸びていますので、実際に船越をする距離は百〜二百メートルで済みそうです(高低差数メートル)。当然ながら痕跡があると思い周辺を少し探すと、明らかに船越を行っていたと思える通路が真っ直ぐ東側の海に延びていたのです。

このフナクヤを利用すれば、どう見ても、二五キロは節約できるでしょう。

こういった小さな発見の連続が旅を一層面白いものにしてくれるのです。

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石垣島伊原間の船越


最後に、会員のJ氏も気づいたことですが、矢部川の河畔に船小屋温泉があります。この地名が単純に船を入れる倉庫で良ければそれだけのことですが、筑後川の蛇行地に船越があり、同じく矢部川の蛇行地に船小屋(フナゴヤ)があるのです。もしかしたら、南島のフナクヤ地名が→フナコヤ→フナゴヤと変化したのではないかと考えるのですが、それを論証する決め手がなくて困っています。海から遠い船越地名の意味については、久留米市の船越を取り上げた別稿「船越」大宰府への木材はいかに搬送されたか?をお読み下さい。

釣瓶落としての船越


諫早にしても北九州にしても、かなりの標高の場所にも船越地名があります。地形の変化を考えてもまさかと思ってしまいますが、組織的に頻繁に利用できる場合には、上下の搬送路が整備され、錘や滑車や綱そして人員が整備され、半ば産業化された船越も存在していた可能性があるのです。

仮に、十艘程の中型船団が並んでいたとします、そういった場合は、一隻をまず曳上げられます、その場合でも大型の綱が準備されれており大型の石などを反対側に落とし、船を引き上げれば良いのです。

一隻の船が頂上まで上がれば、その船を錘として、次の船を引き上げるのです。

正しく昔の釣瓶(ツルベ)であり、大型の滑車まで揃えば、産業にまで高まるのです。

 唐津の曳山、多くの山笠、長崎の精霊流しに船形のものが引き回される風習が遺り、大綱引きや山車の引き回しが軍事行動の演習かの様に祭りとして行われ続けているのです。

これを海人族の風習として片づけるのではなく生きた軍事演習として理解すべきなのです。

 博多、大阪の泉佐野、泉大津の祇園山笠、京都の祇園祭などの風習として息づいているのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年04月01日

新ひぼろぎ逍遥1121 松浦党の起源を探る ⓫ 船越20120723(復刻版)上

新ひぼろぎ逍遥1121 松浦党の起源を探る ⓫ 船越20120723復刻版)上

無題.png2025 0808

太宰府地名研究会 古川清久


 全国に「船越」(フナコシ、フナゴエ…)と呼ばれる地名が散見されます。

 筑前では糸島市の「船越」、筑後ではうきは市の「船越」そして、北九州市八幡西区の船越が直ぐに頭に浮かんできます。しかし、最も集中しているのは長崎県諫早市の三つの船越地名でしょう。

 これは、十年以上前のものを導入部として持ち込んだものです。


船 越 八幡西区の北九州自動車道小嶺インターチェンジ付近に「船越」があります。

ここは、五〇メートル近い標高があり、現実的には、実際に船越ができた場所とは思い難く、単に船越という土地に住んでいた人々が古里の地名を持ち込んだとも考えられそうですが、場所が場所だけに、全く可能性がないとは言えないように思えるのです。それは、南の遠賀川水系の黒川から分かれた支流から、船越しさえすれば北の金山川から直接洞海湾に入り、関門海峡正面に出ることが出来そうだからです。

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冬場の荒れる玄界灘を通らずに移動できるならば、少々の山なら船越をおこなったのではないかと思うのですが、現在でも江川が通過できることを考えるならば、この船越はよほどの緊急性、もしくは、あの一帯が封鎖されている場合に限定されたものだったと思うのですが、ここでは、話の導入部として、こういう地名もあるというご紹介ということにしておきます。

詳しくは調べていませんが、上津役(コウジャク)という地名も関連しそうな地名ですし、第一、山笠、山車の濃厚な文化は、本来、船越の延長に存在するもののように思えるのです。

歩いて現地をつぶさに見たとしても、古代まで遡って地形を復元できるとは思っていませんでしたが、まずは、確認のために船越の頂上付近を歩いてみました。

現地は、これほどまでの傾斜地にと思うような場所までに住宅が建てられていました。

もはや、古代の地形の片鱗すら確認できずにすごすごと引き上げてこざるを得ませんでした。

これが、都市部で地名研究を行うことが出来ない最大の理由です。

こういうときに役に立つのが、明治三十三年の陸軍測量部作成の地図です。

金山川は今池下池付近と大平付近から流れ出しています。普通に考えれば、国道290号線そのものが船越ラインだったのではないかと思いますが、今のところ何とも言えません。

船越を行なう場合は尾根の両方に滑り台状の通路をこさえ、弦紐で引き上げるのですが、尾根の上にある石を括り長さを調整し反対側に落とすようにすれば、比較的楽に尾根まで引き上げられます。

また、次の船や物資を引き上げる際に尾根まで引き上げた船や物資を降ろせばいいのです。

滑車でもあれば思うほど困難な作業ではないのです。エレベーターの船越版というわけです。

それに、閘門をこさえ、起点、終点まで水位を上げながら、船を引き上げれば、かなりのことが出来たのではないかと思うのです。

現在でも、江川が洞海湾と遠賀川を繋いでいる上に、江戸時代には堀川運河が実際に機能していました。

遠賀川と洞海湾を繋ぐ交通の需要は考える以上に大きかったのです。
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船越英二とか英一郎といった親子もおられますが、東京都の出身で、恐らく東北の船越辺りに所縁があるのかも知れませんが、以下、最初に取り上げた船越地名から始めましょう。


船 越

船越という地名


 船越という地名があります。"フナコシ"とも"フナゴエ"とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。 

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 遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。

 インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。
 それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応"南九州には存在しないのではないか"とまでは言えそうです。
 勝手な思い込みながら、海人(士)族の移動を示しているのではないかと考えています。この点から考えると、大分県南部や熊本県の八代あたりにあってもよさそうなのですが、ちょっと残念な思いがします。大分にはたしか海士(海人)部があったはずですし(現在も南、北海士郡があります)、かつては海賊の拠点でもあったのですから。もちろん地名の意味は半島の付け根で、廻送距離を大幅に軽減するために船を担いだり曳いたり、古くはコロによって、後には台車などに乗せて陸上を移動していたことを今にとどめる痕跡地名であり、踏み込んで言えば普通名詞に近いものとも言えそうです。
 ここで、一応お断りしておきます。"佐賀にはない"としましたが、日本三大稲荷と言われる鹿島市の祐徳稲荷神社南側の尾根筋に「鮒越」(フナゴエ)という地名があります。地形から考えてこれはここで言う船越地名ではないと思います。また、表記が「船越」であっても鳥取県西伯郡伯耆町の船越のように本当の山奥にあるものもありますので、ここで"船越"が行なわれたわけではありません。あくまでも全国の船越という地名の中には"船越"が行なわれていたものがかなりあるのではないかというほどの意味であることをご理解下さい。また、山奥にあっても、海岸部の船越地名が移住などによって持ち込まれたものがありますので、地名の考察とは非常に難しいものです。


                    九州の船越

 この船越地名が九州西岸を中心にかなり分布しています。近いところでは佐世保市の俵ヶ浦半島の付け根に上船越、下船越という二つの集落があり、実際に船を運んだという話も残っています(長崎県佐世保市船越町)。
 「佐世保から目的地の鹿子前(かしまえ)や相浦(あいのうら)の方に向かう途中に俵ヶ浦半島があり、遠回りしなければなりません。遠回りすれば風向きが変ったり、天候が急変することもあります。そこで半島の付け根の平坦な地形のところで、船を陸にあげ、小さな船はかつぐなり、大きな船は引っ張るなりして陸地を越えました。荷物はひとつひとつ運び、乗客や乗組員は歩き、最後に船を丸太を並べたコロの上を引っ張りました。」(「ふるさと昔ばなし」佐世保市教育委員会・佐世保市図書館)
 他にもありますのでいくつか例をあげてみましょう。十年ほど前まで良く釣りに行っていた魚釣り(メジナ、キス)の好ポイントです。長崎県の平戸島の南端に位置する志々伎崎ですが、ここに小田と野子の二つの船越(長崎県平戸市大志々伎町)があります。特に小田の船越は誰が考えても船を曳いた方が断然楽と思えそうな地形をしています。
 また、福岡市の西に糸島半島がありますが、この西の端、船越湾と引津湾に挟まれた小さな岬の付け根にも船越地名があります(福岡県糸島郡志摩町大字久家)。
 九州王朝論者で著名な古代史家の古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、『「君が代」は九州王朝の讃歌』市民の古代 別巻2(新泉社)という本でこの糸島半島の船越にふれておられますので紹介します。


 灰塚さんが『糸島郡誌』(昭和二年刊)から抜粋して、コピーして下さったものの中に、つぎの資料があ

った。
      桜谷神社(祭神)苔牟須売神
 糸島郡の西のはしっこ。唐津湾にのぞむところ。そこにある神社だ。引津湾と船越湾というニつの小湾(唐津湾の一部)の間に岬が飛び出している。その根っ子のところが、字、船越。よくある地名だ。縄文時代や弥生時代の舟は底が浅かった。ずうたいも小さい。一本造りの丸木舟や筏。
 こういうものなら、岬をずっーと回るより、根っこの部分を"押して"越えた方が早い。五十メートルや百メートルくらい、うしろから押す、前から綱で引っ張る。その方がずっと手っ取り早い。時間とエネルギーの節約なのだ。岬の突端など、速い潮流が真向うに突っ走っていることも、珍しくない。雨や風の日など、もちろん。 
 というわけで、日本列島各地にこの地名が分布している。


 ここでは詳しくふれませんが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』は衝撃的な内容であり、興味がある方は同書を読むか、古田史学会のホーム・ページ「新・古代学の扉」にアクセスして下さい。博多湾周辺には、「千代」「八千代」「細石」(サザレイシ)=細石神社「井原」(イワラ)、「苔牟須売」(コケムスメ)桜谷神社=苔牟須売神という"君が代"に関連する地名がセットで広がりを見せています。つまり、これらの地名が織り込まれた歌を明治政府(宮内省)が「君が代」(「古今和歌集」で「我が君は」となっていますが)に仕立てたことになるのです(結果的に明治政府の思惑に反したことになるのですが)。ともあれ、お読みになれば、糸島の船越が桜谷神社(祭神)苔牟須売神に関係したものであることがわかってくると思います。

              対馬 小船越 と阿麻氏*留神社

 もうひとつ例をあげましょう。この船越は"フナゴエ"と呼ばれています。対馬の二つの船越です。今の対馬は大きく二つの島に分かれていますが、昔は一島を成していました。対馬の中央にある浅茅湾は複雑な溺谷が幾つもあるリアス式海岸ですが、ここには非常に幅の狭い地峡がいくつもあります。対馬の東海岸から西海岸に船で移動するためには七〇キロあまりも航走することが必要になりますので、昔から"船越"が行なわれてきましたが、ここに運河が造られます。まず、大船越瀬戸が寛文一二年(一六七一年)宗義真(宗家第二一代)によって開削されます(「昔から船を引いてこの丘を越え、また荷を積み替えて往き来きした。船越の地名はここに由来すると言われる。」=現地大船越の掲示板)。その後、明治三三年(一九〇〇年、結局、日露戦争では使用されなかったようですが)には艦隊決戦を想定した運河=万関瀬戸(マンゼキセト)が帝国海軍によって掘られます(ダイナマイトを大量に使う難工事だったようです)。

 当然にも、大船越(長崎県対馬市美津島町大船越)があれば小船越(〃美津島町久須保)があります。小船越には知る人ぞ知る阿麻氏*留神社(アマテルジンジャ)がありますが、この小船越にも「東西から入江が入り込み地峡部を船を曳いて越えた。ここは小舟が越えたので小船越。大きい船は大船越で越えた」(史跡船越の表示板)という伝承があります。北に位置する小船越には水道はありませんが、この小船越と対馬空港に近い南の大船越の間にあるのが万関瀬戸になります。

 ところで小船越の阿麻氏*留神社ですが、この船越についても古田教授が前述の『「君が代」は九州王朝の讃歌』の中でふれています。「…小船越の方には、阿麻氏*留(あまてる)神社。日本で一番有名な神さま、天照(あまてらす)大神(おおかみ)の誕生地。わたしがそう思っている神社だ。」

 詳しく知りたい方は、「古代は輝いていた」全三巻のT第四章(朝日新聞社)昭和五九年一一月などを読んでください。

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Mapionマピオン →


 これについては面白いエピソードがありますので、二〇〇三年三月に大阪八尾市で行なわれた「弥生の土笛と出雲王朝」という講演内容から紹介します。

小船越に阿麻氏*留(アマテル)神社があります。わたしは、ここがかの有名な伊勢神宮に祭られている天照大神(アマテラスオオカミ)の原産地である。そのように考えています。」『宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」』

そして、古田教授は帰りの飛行機の中でとんでもないことを思いつきます。「何んだ!天照大神は家来ではないか。」「一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い」と。「古事記」の国譲り神話に関連した話です。
阿麻氏*留神社:阿麻氏*留神社の氏*は氏の下に一がありますが、表示できませんので氏*としておきます。


『肥前国風土記』、『延喜式』に見る高来郡駅と船越


 実は、この船越地名が有明海沿岸にもあります。諫早の船越(長崎県諌早市船越町)と小船越(〃小船越町)です。また同地には貝津船越名(〃大字貝津小船越名/長崎県内には末尾に""が付く地名が非常に多い)という地名もあります。ここの船越地名が古いものであることは確かです。肥前国風土記や平安時代に編纂された「延喜式」(*)に、この"船越駅"(駅=ウマヤ)のことが出てきます。「延喜式」に駅馬五疋が置かれていたと書かれていることから考えると、烽火(トブヒ)の存在とともにこの諫早という土地が政治、軍事の重要な拠点であったことが容易に想像できます。

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諫早は千々石湾(橘湾)、有明海(諫早湾)、大村湾の三つの海に囲まれた地峡ですが、それゆえか、古代の官道(?)が通っていました。当時、長崎は取るも足らない場所であり、陸路を考えれば、重要なのは大宰府から西に進み、佐賀県の塩田(塩田町)を通り吉田(嬉野町吉田)あたりから山越えして長崎県の大村(大村市)に下り、諫早を通って島原付近(野鳥?)から海路、肥後(熊本)に向かうものでした(ただし、延喜式の時代にはこの海路は廃止されたと言われます)。

 「肥前風土記」(肥前国風土記)は、一応、七一三(和銅六年)年の詔により奈良時代中期に成立したとされていますが(もちろん異論は存在します)、古代史家を中心に良く読まれているようですので、ここでは原文を省略します。ただし、「肥前国風土記」には船越駅の記述は直接的には出てきません。このことについて、日野尚志 佐賀大学名誉教授が書かれた「肥前国の条里と古道」(「風土記の考古学D」肥前国風土記の巻 小田富士夫編 同成社)から引用させて頂きます。

 律令時代になると駅伝制が整備された。肥前国における初期の駅制は明確ではない。『肥前国風土記』によれば、肥前国の駅路は小路で、養父郡を除く一〇郡に一八の駅家が置かれていた。そのうち具体的な駅名が判明するのは松浦郡の逢鹿・登望ニ駅にすぎない。『延喜式』によれば肥前国に一五駅あって『肥前国風土記』の総数と比較して三駅減少している。この三駅の減少は単に駅の廃止だけではなく、駅路の変更に伴う駅の減少である可能性が強く、奈良時代と『延喜式』時代では駅路が必ずしも同一でない可能性が強いことに留意すべきであろう。

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対して、九二七年撰進、九六七年施行の「延喜式」(巻二十八 兵部省)には、ほんのわずかながら、他の駅と並んで、肥前國驛馬として「船越 傳馬五疋」の記述が出てきます(「延喜式」吉川弘文館)。


「延喜式」新訂増補国史体系第二部 10 葛g川弘文館


ただ、船越の場合は駅路変更の余地がない場所だけに、「肥前国風土記」が成立したと言われている時期に先行する七世紀、もしかしたら、六世紀にも一定の政治権力によって(もちろん我が「古田史学」は大和政権とは考えませんが)烽火や駅が整備されていたのではないかと考えています。

                 諫早の船越、小船越

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「風土記の考古学D肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図です。


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