2026年02月18日

新ひぼろぎ逍遥1117 松浦党の起源を探る ❼ カヌーを造った人たち 続編

新ひぼろぎ逍遥1117 松浦党の起源を探る  カヌーを造った人たち 続編

20250803


太宰府地名研究会 古川 清久


元東海大学の茂在寅男をご存じの方は多いと思いますが、特に松浦党研究会の関係者の方々は良くご存じだと思います。

 それは、340年前に遡りますが、13世紀の元寇に伴う海底遺跡の発掘調査については、ネット上に沢山の資料が公開されています。

ここでは、琉球大学の池田榮史名誉教授の資料から概略をご覧ください。

伊万里湾と言っても長崎県松浦市の高島南岸の浅海での調査が中心だった訳で、その当時の私は海釣りに嵌っており、年に50回は釣行していたのです。

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その日も車を持ち込んで、鷹島の阿翁浦港か何処かに釣りに行った帰りのフェリーを待っていたのですが、そこで驚くべき経験をしたのでした。ただ、それが何年だったかが分からないのです。

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1、鷹島海底遺跡の調査・研究略史

@198082(昭和5557)年度

文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」(研究代表者:江上波夫)

の一つとして、「水中考古学に関する基礎的研究」(研究代表者:茂在寅男)が組織され、鷹島周辺海域

での調査実施(音波探査機器の導入と海底地層調査、潜水調査)

→ 鷹島海底遺跡における水中考古学研究の開始

A 1981(昭和56)年7 20

鷹島の南海岸延長7.5km の沖合い200m の範囲について周知の遺跡化

1983(昭和58)年

鷹島床浪港離岸防波堤建設工事に伴う緊急発掘調査

B 198889(昭和63・平成元)年

鷹島床浪港護岸堤工事に伴う緊急発掘調査

C 198991(平成元〜3)年度

科学研究費補助金(総合研究A)「鷹島海底における元寇関連遺跡の調査・研究・保存方法に関する

基礎的研究」(研究代表者:西谷正)による鷹島周辺海域での調査実施(音波探査、潜水調査)

D 199596(平成67)年度

鷹島神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査 → 大型木製碇出土

E 199299(平成411)年度

鷹島町による鷹島海底遺跡目視分布調査(主に神崎港周辺地域)

F 200004(平成1216)年度

国庫補助を受けた鷹島町による神崎港試掘調査

G 200002(平成1214)年

神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査 →甲冑類、漆器類、船材類など大量出土


その日も帰りのフェリーを待っていたのですが、今は、その日の釣果も魚が釣れたのかどうかも覚えていません。殿ノ浦の防波堤に調査隊の方や報道関係者らしき方までが10メートル程先に居られたのでした。そこには江上波夫、茂在寅男らしき方がおられたのです。 

 東大の考古学者でオリエント考古学の先駆者などと言われていますが、戦後直ぐに出された「騎馬民族国家」は良く知られています。

 当研究会は江上波夫教授の流れを汲む東洋史学会の流れを汲む佃収先生の九州王朝説をここ十年程取り組んできましたが、もう一方の東京商船大学日本の工学博士、作家、水中考古学研究者とされ当時、東海大学におられた時に出された「日本語大漂流」“日本語大漂流―航海術が解明した古事記の謎”(1981) (カッパ・ブックス)を読んだばかりでしたから、感激はひとしおでした。

 そのお二人の著書をこれ以外にも幾つか読んでいたために近づいてご尊顔を目に焼き付けることができたのでした。

実は、直前のブログ 新ひぼろぎ逍遥1116 松浦党の起源を探る  カヌーを造った人たち もこの茂在研究でも「日本語大漂流」日本語大漂流―航海術が解明した古事記の謎〜佛教大学の黄 當時教授による「古代日本語の船舶の名称における異文化の要素について」―博多を中心に― がモチーフになっていたのでした。大袈裟言えば人生の宝物の様な経験をした記憶です。

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さて少し話を戻します。佛教大学の黄 當時教授の内容は、国語学者(ご本人は台湾出身ですが…)専門家として極めて学術的な論証をされていますので一般にはなかなか分かり難いものだった

かも知れません。ただ私流に簡略化して言えば田舟とか枯野といった舟らしき表記が出てくるので

す。

それらを、「万葉集」「古事記」「日本書紀」…などに痕跡が残る「タウ」「カウ」をポリネシア語(メラネシア、ミクロネシア…でも方言があるためこの差が生じているようです)の舟、船を表す言語だとされたのでした。

古代において、タ(田、多、手などと表記され、tauと発音された)舟、カ(小、乎などと表記され、kauと発音された)舟が存在した。

さらに、「手舟」、「手乃舟」と表記された舟についても、「手」のみで、本来意味は通じていたのだが、理解しやすくするために「手」、「手乃」だけでわかる舟、船を、あえて、舟、船の意味を補足し重複して表現されたとされています。(黄 當時教授)


カヌー(canoe) は日本語

 東京商船大学名誉教授の茂在寅男(もざいとらお)博士の説によると、「古事記」や 「日本書紀」といった日本最古の文献の中に古代ポリネシア語の発音と類似している言葉が 数多く記載されている。

 たとえば「古事記」の仁徳天皇の章で、「枯野」という速く走る舟が 記述されています。一般には「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった意味にとられていますが、 茂在博士は「枯野」という漢字は言葉の発音に合わせた当て字と解釈するのが妥当であり、 本来、「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかと推測しています。 発音から船に関する言葉を探していくと、「カヌー」に出合います。「カヌー」という言葉は、 カリブ海の住民から西洋人に伝わったとされており、その語源をたどると北太平洋環流に 関係してくるそうです。「カヌー」とは、太平洋からカリブ海にかけての広い地域で使われた 船の名称かも知れません。

 「枯野」は、「日本書紀」で「軽野」に変わり、3世紀頃、伊豆の国で造船にあたったという 記述が出てきます。現在、伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる 「狩野川(かのがわ)」が駿河湾に注いでいます。カヌーを作る木を山で切り出し、 狩野川を使って海辺へ運んだと考えても不思議ではありません。「軽野」や「狩野」という 地名は各地で見ることができ、たとえば7世紀から8世紀にかけて書かれた「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」 には、長さ15丈(45メートル)もの大船を作った「軽野の里」のことが記述されています。

ニッポン大航海記  はれ情報 No.198 APRIL 2001

『古代日本の航海術』茂在寅男 1992無題.png

           

 黄先生は、一度だけ当研究会の研修所にお泊りになった事もありますし、この件についてある程度お話しもしています。しかも、ハワイの大学にもお勤めになっておられるようで、ポリネシア語にも造詣が深かったようです。

 簡単に言えば、ポリネシア語は後ろから修飾される言語で、カウ、タウの後ろにヌイという修飾語が付加されると、大きな船という意味になり、カウヌイ、タウヌイとなり、カノウ、タノウが「枯野」「田野」として地名や「記」「紀」「万葉集」などに書き留められているという訳なのです。

 それ松浦党のエリアでは、平戸の田ノ浦港、田の浦温泉、今回の鷹島の殿ノ浦港にもなっている可能性が有るのです。勿論、田んぼが広がるような土地でないことは言うまでもありません。

 そう言えばこうも言われていました。タヒチもフランス領ポリネシアの島です。僅かな航空機しかない航空会社ですが、エア・タヒチ・ヌイと称しているのです。潰れる大韓航空と同じですね…。


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また、双胴船=ダブル・カヌーをカタマラン、カタマラ船などと言いますね。

 これが、「枯野」と書き留められたポリネシアのカウルアヌイ=大型双胴カヌーなのです。

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と、ここまで解ってくれば、平戸市の田助港も的山大島の神ノ浦港も考える価値があるのです。

 門司の田ノ浦港、熊本県葦北郡田浦町、九州島だけでも、相当のタノ、カノ地名が拾えるはずです。茂在教授が強調されていた鹿児島県の鹿屋、黄教授の勝間(志賀島)カタマラン…などその例になるでしょう。

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ついでに私も間違いないと考えている大分県佐賀関の幸の浦をご紹介します。

 この幸の浦は平戸市の田助港の脇港の幸ノ浦と同一地名ですね。

 この一帯に住み着いた人々は、ポリネシア系の海人族だと思っています。

 幸ノ浦神社は参拝していないため、機会が在れば行きたいと思っています。

 佐賀関一帯は過去何度もフィールド・ワークを行っていますが、魚釣りばかりに気がとられ、このような興味深い神社を後回しにしているのです。お粗末。

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恐らく、海の幸を与えてくれる神社と思われているのでしょうが、大型船それもカヌーの意味だったのです。そして、佐賀関と平戸と九州島の東と西にカウorカウヌイの地名があり、平戸に田の浦港が在る事を考えると、ポリネシア語の異なる方言を使う人々が、田助と田の浦に分かれて住んで居た可能性も思わせるのです。

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無題.png最後に、この神社の奥宮とも言うべきところに、エビスさんに並んで、お稲荷様が祀られていました。なんと、ここにも稲荷さんが居られます。

 まさに、海の神と山の神が合体した結果であり、愛媛の大三島の大山祇神社も擬身体という表現で、カミムスビ系と大山祇系、つまり、天御中主命(白山姫=妙見神=北辰様)とウマシアシカビヒコヂ(金海金氏=トルコ系匈奴)の間に生れた大山祇がひっそりと祀られていたのでした。

 ただ、これは交易によって得られる富から、豊かな農耕地から得られる稲作による富が上回り(一粒万倍)、徴税権(年貢)を奪い合う事に主眼が移り、農耕地=領地を得ることが重要になって行く平安末期から幕末までの武士の時代となって行くと、海洋民、海人族はただの兵站(ロジィスティックス)輸卒、丸通としての価値しか無くなっていったのです。

 それが軍国華やかなりし時代に言われた「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち…」続きは省略します。という戯れ歌に良く表現され、帝国陸軍内部でさえ貶められたのでした。それが松浦党の悲哀の背後に在るものなのです。

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2026年02月15日

新ひぼろぎ逍遥1116 松浦党の起源を探る ❻ カヌーを造った人たち

新ひぼろぎ逍遥1116 松浦党の起源を探る ❻ カヌーを造った人たち

20250802


太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥 062 河野さんからのお問い合わせにお答えして 062(前編)20140426を書いています。この前編と後編の一部を基礎に話を進めたいと思います。なお、テニオハなど語句の手直しを加え、新たな図表、地図、写真を加えています。


久留米地名研究会(当会の前身)には、かなりの遠方からもご質問や情報が飛び込んできます。

 もちろん、ただの思いつきや、ちょっと聴いてみただけといったものに対し、ボランティアだけで逐一対応する余裕はありませんが、ちゃんとした申し入れで、価値のあるものには可能な限りお答えすることにしています。

 これは、以前から存じ上げていた島根県益田市にお住まいの米原さんという郷土史研究者を通じて、広島県安芸太田町にお住まいの河野○○さんから寄せられたものです。

概略を申し上げれば、「安芸太田(中国自動車道が通る島根県境に近い三段峡付近の山中の小都市)にかなりの河野姓があるが、その起源はどこだろうか?」といったものでした。

 そもそも中国山地の山奥と言えば民俗学者の宮本常一が何度も入ったところであり興味は尽きません。

 当然ながら、現地を踏まず一切ヒヤリングもせずに、二階から目薬宜しく九州から想像だけで書くといったことに意味がある訳ではありません。

 ただ、ここではそういった可能性もあり得るといった程度の話として非常に薄い仮説を出させて頂いた訳です。

 まずは伝手ができたことから、時間的余裕ができ次第行こうと思っています。

 フィールド・ワークというものはこの伝手こそが成否を握る鍵であり、成果に直結するものなのです。

なんでも、河野さんは現地のボランティア・ガイドをされているとのことで面白くなってきそうです。

この一帯は非常に魅力的な場所で、たしか、五年ほど前に現地に入り三段峡温泉にも入っています。

 山陰には過去五十回近く入っていますが、その都度、民俗学の宝庫である中国山地の奥深い山村にも極力足を延ばすことにしています。

 まず、安芸太田という地名の持つ意味です。

 我々が見ると、直ぐに「安芸」(安芸の宮島)は海士族の地(二音地名は大体海士族が付すもの)、「太田」「河野」は物部といった連想が走ります。

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ただの思いつきじゃないかと言われそうですが、この手の話は所詮その程度のもので、詳細には現地の神社、姓名分布、家紋、寺院の性格を調べ、郷土史をひも解くことからしか解決はありません。

 ただ、現地だけを見ていれば分かるかと言えば、決してそうでもなく、過去何度となく戦乱が起き、事あるごとに山澤に逃げ込む人々がいた訳です。そのルーツは意外と遠いところにあるものなのです。

 なぜならば、薩摩に落ちるという故事があるように、逃げるところは中央から遠い方が良いに決まっているからです。

 ここまで申し上げた上で、かなり荒い仮説を提出しておきたいと思います。

 と言っても、この河野姓についてはかなり前にある程度の見当を付けていました。

久留米地名研究会のHPには「田ノ浦」が掲載されています。

詳しくはそちらを読まれるものとして、概略について触れておきます。

日本にも船をカウ(ルア)ヌイ=これがカヌーの語源、タウ(ルア)ヌイと呼んでいた人々がいた!


 かつて、東海大学(当時)の茂在寅男(モザイトラオ)教授が、『日本語大漂流航海術が解明した古事記の謎』光文社1981年の中で、古代ポリネシア語の発音と対応する言葉が『記紀』などに記載されているのではないかとしました。
 一例を挙げれば、「古事記」仁徳記には「枯野」という高速船のことが書き留められています。

一般には学者先生によって「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった訳の分らない意味に解釈されていますが、茂在教授は「枯野」字は表音表記でしかなく「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかとしたのです。

もちろん「カヌー」のことなのですが、通常、この言葉はカリブ海の原住民からポルトガル、スペインに伝わったとされています。

ただ、その源流をたどると北太平洋大環流に行き着くというのです。
 『日本書紀』でも「枯野」は「軽野」とされ、伊豆で造られたという記述が出てきます。 

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現在も伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる「狩野川」(カノガワ)が駿河湾に注いでいるのです。

舟を作る木を切り出し、狩野川を使って海辺へ運んだと考えられたのです。

この「軽野」や「狩野」という地名は各地で見ることができ、『常陸国風土記(ヒタチノクニフドキ)』には、長さ15丈(45m)もの大船を造った「軽野の里」のことまで記されているのです。

 また、志賀島の北の岬に勝間がありますが、茂在氏は「无無勝間(マナシカツマ)の小船、無目堅間(マナシカタマ)の小船のカタマはカタマランの事で「筏」。カタマラン=カタマラ船の寄港地とか、鹿児島の鹿屋市のカノヤもカヌーの寄る港を意味するといった事も書いています。

実は、『日本語大漂流航海術が解明した古事記の謎』を読んだ当時、茂在教授は伊万里湾鷹島において、水中考古学に基づく元寇時の沈没船の発掘調査を行なわれており、たまたま、魚釣で鷹島に渡り、帰りのフェリーを待っている時に、発掘調査の一行に遭遇したことがありました。

ちょうど、騎馬民族国家論で著名な江上波夫教授も来られていた時で、二人の著名な学者を眼前にして興奮した記憶があります。

そして、後に触れますが、そのフェリーの発着港の殿ノ浦(トノノウラ)港も松浦党の殿様などではなく、「タウヌイウラ」であることを知る今、戦慄をさえ覚えるのです。

恐らく、茂在教授もそこまでは思い至ってはおられなかったのではないでしょうか。


「古代日本語の船舶の名称における異文化の要素について」博多を中心に 

黄當時(仏教大学文学部教授)論文の衝撃

201131日仏教大学文学部論文(仏教大学『文学部論集』)


黄教授は、通説はもとより、先行する異説を唱える茂在寅男氏や井上政行氏、寺川真知夫氏の論文他『万葉集』に関する寺川真知夫氏の論文等を詳細に検討され(これについては学術論文であることを考慮し引用が不正確にならないように後段に全文をPDFファイルとして掲載しています)ています。

当然にも全文は精緻な論証の長文となるため、以下、古川の責任で略記します。


黄 教授は、

@古代において、タ(田、多、手などと表記され、tauと発音された)舟、カ(小、乎などと表記され、kauと発音された)舟が存在した。

さらに、「手舟」、「手乃舟」と表記された舟についても、「手」のみで、本来意味は通じていたのだ

が、理解しやすくするために「手」、「手乃」だけでわかる舟、船を、あえて、舟、船の意味を補足し

重複して表現されたとされています。

ここで、問題になるのは「手」と「手乃」の意味です。

A井上夢間(政行)論文を元に、

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と、され(同論文3p)、さらに、

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と、されました(同論文7p)。

我流にさらに分りやすく言えば、カウの大型のものがカウヌイ=カヌーなのです(双胴はルア)。

現在の日本語では修飾語が前置されていますが、古代においては、後置修飾語が存在しており(そのような言語を話す人々が列島に来ており=住んでおり)、そのなごりが『万葉集』などに残されていたとされているのです。


以下、4.无間勝間之小舟、5.手という舟/船、6.田という舟/船、6.多という舟/船 など4.は茂在氏も取り上げた、勝間(志賀島の北西岸)カタマラン(双胴船)など、詳細な論証をされています。

詳しくは、論文そのものを読まれるとして、地名についてはほとんど触れられてはいません。

しかし、二〇一二年一月に開催された九州古代史の会の例会においては、このテーマと漢倭奴国王印の読み方などについても講演されています。そこでは五島の田ノ浦など、地名についても触れておられるのです。

茂在氏も鹿児島の鹿屋(カヌー)や志賀島の勝間(カタマラン)などを例示されているように、古代の舟、船が寄航していた港、また、その舟、船が造られた場所、さらには、古代の海人族(ポリネシア系、江南系、タミール系・・・)が居住し、大きな船で通過していた場所までが推定できる可能性が出てきたのです。

特に、田浦、田野浦、田の浦、田ノ浦、田之浦などと表記される地名が、大きな田んぼが広がる港などではなく、その時代において非常に印象的な外洋船の通過し、停泊し、その乗員たちが、上陸し、居留し、後には住み着くことになった土地ではなかったかという提案をされたのです。

さて、ここからはフィールド・ワークを中心に活動する地名研究会の領域になります。もちろん内部には、文献史学、考古学、神社考古学、地質学、言語学、中国語、韓国語にも精通したメンバーが多数お

られますが、異説を排除し文献史学に凝り固まった偏狭な視野ではなく、垣根を越えた研究を行なうのが当会のモットーです。

この鮮烈なメッセジを受け取った途端、まさに「・・・夢は枯野をかけ廻る・・・」様な状態になり、この地名にも多くのバリエーションがあることに気付きました。

直ちに多くの候補地が頭に浮かんできます。

門司の田ノ浦、平戸の田の浦、芦北の田浦、五島列島久賀島の田ノ浦・・・、さらに、何よりも、平戸の幸ノ浦と佐賀関の幸の浦でした。

そして、茂在寅男教授と遭遇した伊万里湾鷹島の殿ノ浦、平戸の的山大島の神ノ浦と殿ノ浦が。


以下、062 河野さんからのお問い合わせにお答えして (後編) に続きます


姓名分布から河野姓を解析する


さて、いよいよ「河野」姓です。当然ながら河野水軍が頭に浮かびます。

しかし、海賊、水軍の河野に大河、黄河の川のイメージは直ぐには繋がりません。黒潮は確かに太平洋を流れ続ける大河かも知れませんが、その意味で採られたものとも思えません。

恐らく、河野の「河」に川の意味はないはずです(中国における川の表記=呼称は南が「江」、北は「河」、半島になると再び「江」になる)。

ただ、河野姓については、叶姉妹で有名になった叶姓、柔道の嘉納治五郎の嘉納加納)姓などが関係ありそうなのです。



叶姓 全国560件中  1位鹿児島県(奄美大島)92件 2位大阪府 56件 3位東京都、大阪府 33

加納姓全国8182件中 1位岐阜県 1260件 2位愛知県 1250件 3位北海道 447

嘉納姓全国217件中 1位兵庫県  (姫路市) 41件 2位沖縄県 38件 3位大阪府 29


河野姓全国38743件中 1位大分県 4058件 2位宮崎県 3759件 3位大阪府 2303

川野姓全国 8448件中 1位大分県   1474件 2位宮崎県 795件  3位福岡県 543

 叶姓は鹿児島県、それも圧倒的に奄美大島に、加納姓(表記が変わりますが)は愛知県、岐阜県に集中しています。

奄美のそれは、そのままカヌー(丸木舟)の製造者の末裔と考えられそうですし、岐阜県、愛知県のそれは「木曽のソマ人」(長良、木曽、揖斐)=船材の切出し船の製造者の子孫と考えれば分りやすいですね。

姓名分布については「姓名分布&ランキング」というサイトを見てください。その県別分布を見れば、もっと、鮮明にイメージが湧いてくると思います。

カヌーが入港、寄港する港、また、その船が造られる港が、叶、加納とされ、それに関係する人の名に転じたとすれば、この姓名の分布はかなり面白いのではないでしょうか?

このサイトでは、県別分布が検索できますので、ある程度、海岸部か川沿いかの判別は付くと思います(ご自分で探ってみて下さい)。

 カヌーの製造者が叶、加納などという名で呼ばれていたのは恐らく間違いないでしょう。

 そこから転じて、河野氏が操船する人、海上戦を担った軍事集団になったのではないかと考えるのです。

 河野水軍がいざとなった時の大分県、宮崎県の辺境の部島嶼部に避退地を元々持っていた可能性は十分にありますが、戦国期が終わり、水軍が解体された後に分散展開し帰農ならぬ帰漁したと見るのが普通かも知れません。

ここで、宮崎県の加納姓についても面白い事に気づき「田ノ浦」でも触れていましたので、その部分だけを切り出しておきます。


1.    加納(宮崎市加納町)

午後からは前述の甲斐さんに同行してもらい、今般、宮崎市に合併された旧田野町に向かいました。

まずは、宮崎市の中心部に流れる大淀川に河口部で合流する古城川、八重川の上流部の加納地区でした。

ただ、ここは既に都市化が著しく、もはや、カウヌイの痕跡を拾うことはできません。

近年まで台地の上に大きな森が広がっていたそうですが、今では、戸建ての住宅が立ち並ぶ巨大な住宅団地になっています。

ただ、面白いことに、この大きな台地には菰迫とか宮ケ迫といった地名が拾え、台地の上の土地には連絡しない坂が川から這い上がっています。

これらは木を切り出すことだけを考えて造られた搬出路だったのではないでしょうか?

どうやら、加納は三本の河川を持つかなり広い流域を持つ土地だったようです。

この程度のことしか分からないため、現地の加納神社の調査は甲斐さんに任せ、田野町を貫流する清武川に面した船引地区に向かいした。

2.    船引(旧清武町)

ここは加納に隣接した土地です。

さらに面白いことに、地区の中心地にある船引神社の参道が、清武川の旧汀線であっ

たと思われる県道13号(高岡郡司分)線に向かって幅三メートルほどの直線の道路が伸びていました。

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この一帯には他にも数本の直線道路が川に向かって延びているのです。

無題.png恐らく、かなり古い時代からこの神社の後背地から多くの大木が切出され、半加工の状態で清武川に運び出されていたのではないでしょうか。

直ぐに、天磐樟船(アマノイワクスブネ)の故事を思い出しますが、神社の境内というよりも、社殿の背後には樹齢九〇〇年と推定される大楠が鎮座していました。

恐らく、大半を切り倒し、最期に一本だけが残されたのではないでしょうか?

あたかも、祭神である応神、神功皇后、中哀天皇よりも、この大楠こそが神体かのようでした。もはや疑いようはありません。宮崎市の加納、船引、田野の一帯は古代の一大造船地帯だったのです。

できあがった船は大淀川水系から日向灘へと引き出され、黒潮の分流に乗せられ、関門を抜け、玄海灘へ、そして、瀬戸内海へと運ばれたのです。


これで、河野姓が何かは分かったなどとは到底考えられませんが、何の情報もないなかで多少とも推定する方法は僅かな手掛かりをもとに想像する以外はありません。

 叶姓、加納姓を考えるとき、奄美に集中する叶姓は好字令以前に成立しているもっとも古い流れであるように思います。

 このポリネシアンとも思える、叶姓(叶姉妹の姉=実際には姉妹ではないが)が造船技術を乞われて北上し、最終的に木曽川、長良川、揖斐川流域で木を切り出し、船や城を造る人々になった叶姓の分家筋が加納姓を反映しているのかも知れません。

 詳しく見れば、叶姓、加納姓、嘉納姓、河野姓に相互に地域的な重複が認められない理由はこのような本家、分家の問題かも知れません。

 以前から、越智水軍は呉越同舟の越(オチ、エツ)の民の末裔ではないかと考えてきました。

浙江省、福建省を中心とする越人を中国の海人族とすることについての異論は聴きませんので、その流れを引いたもののなかから越智水軍が成立したと考えられそうです。

もちろん、河野も越智の一派ではあるのですが、河野の意味は以前から分かりませんでした。

しかし、船を造る人と船を操る人が武装通商民になっただろうことは、バイキングの例を持ち出すまでもなく自然な流れと考えられそうです。以下、本題から外れるため省略します。

なお、黄當時(仏教大学文学部教授)先生は、福岡市の不知火書房(092-781-6962)から「悲劇の好字」を出されています。ついでに私の「有明海異変」も並べておきます。多分残部はあります。

この悲劇の好字の後ろには、私が調査した九州山口の田ノ浦外の地名調査も搭載しています。

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叶姓と加納、嘉納の全国分布について


 叶姉妹は本当の姉妹では無いとのことですが、そんなことはどうでも良いのでお姉さん扱いになっておられるハデメの方はアグネスラム同様明らかに受け口のポリネシアンの形質をお持ちの様です。

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既に、前述していますが、この「叶」(カノウ)姓の分布を、再度、 で調べると、以下のデータが

出て来ます。以前調べた時は、姓名分布&ランキングで調べていましたので、ダントツで鹿児島県でさらに調べると奄美大島が圧倒的だったのです。

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上のデータでも鹿児島が多いのですが、奄美では仕事が無いため大阪に移動しているのではないかと思います。そう考えると、やはり奄美大島が中心と考える事はできるのではないでしょうか。

 アコウだかガジュマルを切り倒し、中を刳り貫き、カヌーを造った人々が今でも「叶」姓を名乗っているのではないでしょうか。

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岐阜県、愛知県が圧倒的だと言うのは以前調べた時と同様の傾向が出ています。

 無題.png木曽川水系は、木曽川・長良川・揖斐川の3河川が知られています。

さらに東の長野県の諏訪湖辺りから降る天竜川を含めると(こちらは静岡県に注ぎますが)、この一帯から大木を切り倒し、一分は現地で船に設えられて、そのまま降れば良いわけで、ここでも加納姓が集中している理由は、船を造る人々、船を操る人々、船を運ぶ人々は海人族だったと考えるべきなのです。

柔道の嘉納治五郎を知らない人々が多くなっているのでしょうが、講道館を創った彼も兵庫県の出身で、無関係では無いはずです。

嘉納治五郎が生まれた摂津御影は灘酒の中心的な生産地でした。実家は現在も菊正宗酒造の造り酒屋です。 祖父の次作は酒蔵十二、廻船十二隻を持ち、各方面に名声を博した人物で、その長女定子の婿として後を託されたのが父である次郎作でした。

今度は、名字マップで嘉納姓を調べました。やはり鹿児島と兵庫なのです。

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既に、新ひぼろぎ逍遥 1113 松浦党の起源を探る  交易の民が醸造業者となっていく 

でも書いた通り、木を伐り出すために山に入り、筏を流し、船を造る人々が、平時は、廻船業者として米、麦、大豆を船蔵に入れ搬送すればどうしても発酵が進むため、塩を加え味噌、醤油、酒を造り出し、実は新たな付加価値を得て成長していったという事になるのでした。

してみると、嘉納治五郎が菊正宗の一族だったという事は、海人族が醸造業者と言うブゲンシャに成長し政治をも左右する事になって行った事までが見えて来たのでした。

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2026年02月12日

新ひぼろぎ逍遥1115 松浦党の起源を探る ❺ 松浦党の神々を探る 01 鎮西伊勢分宮

新ひぼろぎ逍遥1115 松浦党の起源を探る  松浦党の神々を探る 01 鎮西伊勢分宮

20250729

太宰府地名研究会 古川 清久


昔から魚釣りで土地勘の有る地域であり、それなりに松浦党の領域の神社を取り上げてきましたが、松浦党研究との接点ができたことから、今まで取り上げてこなかった目立たない神社から松浦党が盤踞する以前の神社に少しでも接近できればとの思いからこのブログを重ねたいと思っています。

そこで、松浦市でも御厨という印象的な地名の残る神社を探る事にしました。

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鎮西伊勢分宮 姫神社 カーナビ検索 長崎県松浦市星鹿町北久保免535


私の近しい友人も含め、何人かの御厨さんが居られますが、まずは、この姓の大雑把な分布を見ましょう。長崎、佐賀、福岡から東に拡がっている事が分かりますね。

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御厨とは御厨所(神に捧げる食物、供物を準備する厨房)という意味で、通常、その地名が付された正面に供物が届けられる神様が鎮座しているはずなのです。

候補は二つあります。若宮神社と鎮西伊勢分宮姫神社です。

恐らく若宮神社が正解のはずですが、姫神社も松浦党研究にとっては重要ですので、先に、姫神社を見たいと思います。

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AIによる概要 「御厨」は、主に「みくりや」と読み、元々は神様に供えるものを調理する場所、つまり台所を意味する言葉です。それが転じて、伊勢神宮や賀茂神社、皇室などに食材を納めるための領地を指すようになりました。地名として残っている場合もあります。

地名としての「御厨」

静岡県磐田市:かつて「御厨村」という地域があり、現在も「御厨」という名前で親しまれています。

静岡県御殿場市:昔は「御厨地方」と呼ばれ、富士山麓の地域を指していました。

栃木県足利市:旧御厨町があり、現在は足利市の一部です。

大阪府東大阪市:「御厨」という地名があり、古代から中世にかけて「大江御厨」の一部でした。

「御厨」の由来 「御厨」の「厨」は台所を意味し、「御」は尊敬を表す接頭語です。神様に供えるものを調理する場所、つまり台所を意味する言葉が、後に神饌を供給する領地や、それを管理する人々を指すようになりました。

地名としての「御厨」の特徴

神社の荘園:「御厨」は、伊勢神宮や賀茂神社などの荘園として、神饌を供給する役割を担っていました。

歴史的な地名:かつての荘園名や村名が、地名として残っているケースが多く見られます。


 ここでは、AI様も触れてはおられませんが、筑後に、また、鳥取県にも同様の地名が在ります。

 上では、表記が異なる事から外しておられる様です。


AIによる概要

鳥取県には、伊勢神宮の御厨(みくりや)に由来する地名「御来屋(みくりや)」があります。これは、大山町(旧名和町)の日本海沿いの地域で、後醍醐天皇との関係も伝えられています。

詳細:

御来屋(みくりや):

鳥取県西伯郡大山町にある地名で、日本海に面しています。

地名の由来:

伊勢神宮の荘園である「御厨(みくりや)」に由来するとされています。また、後醍醐天皇が着船したという伝承のある「御腰掛岩」や、名和長年との関係も伝えられています。

歴史:近世には伯耆街道の宿場町として栄え、牛市が開かれたり、藩倉が置かれたりしました。また、住吉神社の船引神事も行われていました。

現在:御来屋駅は山陰地方で最も古い駅舎の一つとして知られています。また、御来屋漁港も存在します。

大山町:現在は西伯郡大山町の一部となっています。

御来屋という地名は、歴史と文化を感じさせる、鳥取県西部の重要な場所です。

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無題.pngここ十数年頻繁に甲信越の神社調査に足を運んでいるものとしては、大山町の御来屋は松浦の御厨だなと思ったものでした。一時間程度、港から街並みを見て回り、名和神社など数社を参拝した事を思い出します。ただ、供物の届け先は住吉神社だったのではないかと思ったのでした。

 確か、ブログもその内容で書いたと思いますが、後醍醐天皇を名和長年が受け入れ、船上山に立て籠もった「建武の新政」のイメージが強すぎて、明治に脚光を浴びた名和神社が有名になりすぎ整備もされていますが、住吉神社こそ御来屋から供物が届けられた神社だったと認識しています。ついでに、百嶋神社考古学が言う住吉の神とは、上筒男命がウガヤフキアエズ(下関の住吉神社の主神)、中筒男命(博多の住吉神社)、最も権威が有るのが底筒男命=高良玉垂命(開化天皇)を祀る(大阪の住吉神社無題.png)が代表的で、今はその区別もされ無くなり、住吉三神をそのまま合祀する時代になってしまった様です。その開化天皇と仲哀死後の神功皇后との間に生れた長子シレカシノミコト(通説派はオオササギとしますが…まあ、それでも良いでしょうが)=仁徳天皇(勿論、応神の子など言うのは大嘘です)を祀るのが若宮神社なのです。

 この事が分かれば、松浦市の御厨も若宮神社への供物を作る厨房を地名としている事がお分かり頂けるのではないでしょうか。

松浦市には鷹島を含め6社の若宮神社があるのです。確か、全て参拝したと思っていますが、記憶が薄れつつあります。今は御厨、星鹿港の岸壁でも25センチ超級のクロ、グレ、正式名メジナが楽に釣れた記憶の方が強いのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記