新ひぼろぎ逍遥1117 松浦党の起源を探る ❼ カヌーを造った人たち 続編
20250803
太宰府地名研究会 古川 清久
元東海大学の茂在寅男をご存じの方は多いと思いますが、特に松浦党研究会の関係者の方々は良くご存じだと思います。
それは、3〜40年前に遡りますが、13世紀の元寇に伴う海底遺跡の発掘調査については、ネット上に沢山の資料が公開されています。
ここでは、琉球大学の池田榮史名誉教授の資料から概略をご覧ください。
伊万里湾と言っても長崎県松浦市の高島南岸の浅海での調査が中心だった訳で、その当時の私は海釣りに嵌っており、年に50回は釣行していたのです。

その日も車を持ち込んで、鷹島の阿翁浦港か何処かに釣りに行った帰りのフェリーを待っていたのですが、そこで驚くべき経験をしたのでした。ただ、それが何年だったかが分からないのです。

1、鷹島海底遺跡の調査・研究略史
@1980〜82(昭和55〜57)年度
文部省科学研究費特定研究「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」(研究代表者:江上波夫)
の一つとして、「水中考古学に関する基礎的研究」(研究代表者:茂在寅男)が組織され、鷹島周辺海域
での調査実施(音波探査機器の導入と海底地層調査、潜水調査)
→ 鷹島海底遺跡における水中考古学研究の開始
A 1981(昭和56)年7 月20 日
鷹島の南海岸延長7.5km の沖合い200m の範囲について周知の遺跡化
1983(昭和58)年
鷹島床浪港離岸防波堤建設工事に伴う緊急発掘調査
B 1988・89(昭和63・平成元)年
鷹島床浪港護岸堤工事に伴う緊急発掘調査
C 1989〜91(平成元〜3)年度
科学研究費補助金(総合研究A)「鷹島海底における元寇関連遺跡の調査・研究・保存方法に関する
基礎的研究」(研究代表者:西谷正)による鷹島周辺海域での調査実施(音波探査、潜水調査)
D 1995・96(平成6・7)年度
鷹島神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査 → 大型木製碇出土
E 1992〜99(平成4〜11)年度
鷹島町による鷹島海底遺跡目視分布調査(主に神崎港周辺地域)
F 2000〜04(平成12〜16)年度
国庫補助を受けた鷹島町による神崎港試掘調査
G 2000〜02(平成12〜14)年
神崎港改修工事に伴う緊急発掘調査 →甲冑類、漆器類、船材類など大量出土
その日も帰りのフェリーを待っていたのですが、今は、その日の釣果も魚が釣れたのかどうかも覚えていません。殿ノ浦の防波堤に調査隊の方や報道関係者らしき方までが10メートル程先に居られたのでした。そこには江上波夫、茂在寅男らしき方がおられたのです。
東大の考古学者でオリエント考古学の先駆者などと言われていますが、戦後直ぐに出された「騎馬民族国家」は良く知られています。
当研究会は江上波夫教授の流れを汲む東洋史学会の流れを汲む佃収先生の九州王朝説をここ十年程取り組んできましたが、もう一方の東京商船大学日本の工学博士、作家、水中考古学研究者とされ当時、東海大学におられた時に出された「日本語大漂流」“日本語大漂流―航海術が解明した古事記の謎”(1981年) (カッパ・ブックス)を読んだばかりでしたから、感激はひとしおでした。
そのお二人の著書をこれ以外にも幾つか読んでいたために近づいてご尊顔を目に焼き付けることができたのでした。
実は、直前のブログ 新ひぼろぎ逍遥1116 松浦党の起源を探る ❻ カヌーを造った人たち もこの茂在研究でも「日本語大漂流」日本語大漂流―航海術が解明した古事記の謎〜佛教大学の黄 當時教授による「古代日本語の船舶の名称における異文化の要素について」―博多を中心に― がモチーフになっていたのでした。大袈裟言えば人生の宝物の様な経験をした記憶です。

さて少し話を戻します。佛教大学の黄 當時教授の内容は、国語学者(ご本人は台湾出身ですが…)専門家として極めて学術的な論証をされていますので一般にはなかなか分かり難いものだった
かも知れません。ただ私流に簡略化して言えば田舟とか枯野といった舟らしき表記が出てくるので
す。
それらを、「万葉集」「古事記」「日本書紀」…などに痕跡が残る「タウ」「カウ」をポリネシア語(メラネシア、ミクロネシア…でも方言があるためこの差が生じているようです)の舟、船を表す言語だとされたのでした。
古代において、タ(田、多、手などと表記され、tauと発音された)舟、カ(小、乎などと表記され、kauと発音された)舟が存在した。
さらに、「手舟」、「手乃舟」と表記された舟についても、「手」のみで、本来意味は通じていたのだが、理解しやすくするために「手」、「手乃」だけでわかる舟、船を、あえて、舟、船の意味を補足し重複して表現されたとされています。(黄 當時教授)
カヌー(canoe) は日本語 東京商船大学名誉教授の茂在寅男(もざいとらお)博士の説によると、「古事記」や 「日本書紀」といった日本最古の文献の中に古代ポリネシア語の発音と類似している言葉が 数多く記載されている。 たとえば「古事記」の仁徳天皇の章で、「枯野」という速く走る舟が 記述されています。一般には「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった意味にとられていますが、 茂在博士は「枯野」という漢字は言葉の発音に合わせた当て字と解釈するのが妥当であり、 本来、「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかと推測しています。 発音から船に関する言葉を探していくと、「カヌー」に出合います。「カヌー」という言葉は、 カリブ海の住民から西洋人に伝わったとされており、その語源をたどると北太平洋環流に 関係してくるそうです。「カヌー」とは、太平洋からカリブ海にかけての広い地域で使われた 船の名称かも知れません。 「枯野」は、「日本書紀」で「軽野」に変わり、3世紀頃、伊豆の国で造船にあたったという 記述が出てきます。現在、伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる 「狩野川(かのがわ)」が駿河湾に注いでいます。カヌーを作る木を山で切り出し、 狩野川を使って海辺へ運んだと考えても不思議ではありません。「軽野」や「狩野」という 地名は各地で見ることができ、たとえば7世紀から8世紀にかけて書かれた「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」 には、長さ15丈(45メートル)もの大船を作った「軽野の里」のことが記述されています。 ニッポン大航海記 はれ情報 No.198 APRIL 2001 『古代日本の航海術』茂在寅男 1992年 |
黄先生は、一度だけ当研究会の研修所にお泊りになった事もありますし、この件についてある程度お話しもしています。しかも、ハワイの大学にもお勤めになっておられるようで、ポリネシア語にも造詣が深かったようです。
簡単に言えば、ポリネシア語は後ろから修飾される言語で、カウ、タウの後ろにヌイという修飾語が付加されると、大きな船という意味になり、カウヌイ、タウヌイとなり、カノウ、タノウが「枯野」「田野」として地名や「記」「紀」「万葉集」などに書き留められているという訳なのです。
それ松浦党のエリアでは、平戸の田ノ浦港、田の浦温泉、今回の鷹島の殿ノ浦港にもなっている可能性が有るのです。勿論、田んぼが広がるような土地でないことは言うまでもありません。
そう言えばこうも言われていました。タヒチもフランス領ポリネシアの島です。僅かな航空機しかない航空会社ですが、エア・タヒチ・ヌイと称しているのです。潰れる大韓航空と同じですね…。

また、双胴船=ダブル・カヌーをカタマラン、カタマラ船などと言いますね。
これが、「枯野」と書き留められたポリネシアのカウルアヌイ=大型双胴カヌーなのです。

と、ここまで解ってくれば、平戸市の田助港も的山大島の神ノ浦港も考える価値があるのです。
門司の田ノ浦港、熊本県葦北郡田浦町、九州島だけでも、相当のタノ、カノ地名が拾えるはずです。茂在教授が強調されていた鹿児島県の鹿屋、黄教授の勝間(志賀島)カタマラン…などその例になるでしょう。

ついでに私も間違いないと考えている大分県佐賀関の幸の浦をご紹介します。
この幸の浦は平戸市の田助港の脇港の幸ノ浦と同一地名ですね。
この一帯に住み着いた人々は、ポリネシア系の海人族だと思っています。
幸ノ浦神社は参拝していないため、機会が在れば行きたいと思っています。
佐賀関一帯は過去何度もフィールド・ワークを行っていますが、魚釣りばかりに気がとられ、このような興味深い神社を後回しにしているのです。お粗末。

恐らく、海の幸を与えてくれる神社と思われているのでしょうが、大型船それもカヌーの意味だったのです。そして、佐賀関と平戸と九州島の東と西にカウorカウヌイの地名があり、平戸に田の浦港が在る事を考えると、ポリネシア語の異なる方言を使う人々が、田助と田の浦に分かれて住んで居た可能性も思わせるのです。

最後に、この神社の奥宮とも言うべきところに、エビスさんに並んで、お稲荷様が祀られていました。なんと、ここにも稲荷さんが居られます。
まさに、海の神と山の神が合体した結果であり、愛媛の大三島の大山祇神社も擬身体という表現で、カミムスビ系と大山祇系、つまり、天御中主命(白山姫=妙見神=北辰様)とウマシアシカビヒコヂ(金海金氏=トルコ系匈奴)の間に生れた大山祇がひっそりと祀られていたのでした。
ただ、これは交易によって得られる富から、豊かな農耕地から得られる稲作による富が上回り(一粒万倍)、徴税権(年貢)を奪い合う事に主眼が移り、農耕地=領地を得ることが重要になって行く平安末期から幕末までの武士の時代となって行くと、海洋民、海人族はただの兵站(ロジィスティックス)輸卒、丸通としての価値しか無くなっていったのです。
それが軍国華やかなりし時代に言われた「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち…」続きは省略します。という戯れ歌に良く表現され、帝国陸軍内部でさえ貶められたのでした。それが松浦党の悲哀の背後に在るものなのです。


にお読み頂き有難いと思っています。

















ここ十数年頻繁に甲信越の神社調査に足を運んでいるものとしては、大山町の
)が代表的で、今はその区別もされ無くなり、住吉三神をそのまま合祀する時代になってしまった様です。その開化天皇と仲哀死後の神功皇后との間に生れた長子シレカシノミコト(通説派はオオササギとしますが…まあ、それでも良いでしょうが)=仁徳天皇(勿論、応神の子など言うのは大嘘です)を祀るのが若宮神社なのです。















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