ひぼろぎ逍遥 スポット331 “(跡宮)A1148 「鳥海」❼ “肥前の「鳥海」”から考える”の転載
20260710
ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1148 “26年3月安倍講演への余計な資料として”
「鳥海」❼ 安倍貞隆(大分市安倍一族本家)様をお迎えして “肥前の「鳥海」”から考える
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
2026年3月15日に再び筑紫野市に安倍貞隆様をお呼びしてお話をお聴きすることに致しました。
本稿は安倍講演を前に当方の考えを提起するつもりですが、お考えに沿わない可能性も在りますので、結果、門外漢による勝手な話になるかも知れません。調査研究とは「日本書紀」「古事記」に追従するものでもなければ、村興し町興し世界遺産登録にさもしげに近づこうとするものでもないのです。
では、簡潔に箇条書きで私の提案をお示し致したいと思います。
東北の安倍氏は有明海沿岸から北に進出したのではないか
❶ 通説でも東北の安倍氏は大彦の末裔とします
AIによる概要 安倍貞任(あべ の さだとう)と大彦命(おおひこ の みこと)は、主に系図上の繋がりで結ばれる、古代〜平安時代の陸奥の豪族とヤマト王権の将軍です。 安倍貞任は前九年の役(11世紀)で源頼義・義家と戦った奥州安倍氏の棟梁であり、一方の大彦命は第8代孝元天皇の皇子で、四道将軍の一人として北陸・東国を平定した伝説的な人物です。 家庭画報 +2 直接的な関係と歴史的背景は以下の通りです。1. 系図上の繋がり後世の『秋田家系図』などによると、奥州安倍氏は長髄彦(ナガスネヒコ)の兄・安日王(アビヒコ)を祖とし、その系統は大彦命へと繋がると伝承されています。 これは、東北の安倍氏が、古代のヤマト王権(大彦命ら)に征服されながらも、その支配下に組み込まれて土着した系譜を示すものと解釈されています。ただし、この系譜は「エミシ」の末裔としての矜持を示すもの(伝承)であり、歴史学的には朝廷系(阿倍氏)の血統を称して権威付けを行ったものとも考えられています。 2. 安倍貞任(前九年の役) 人物:安倍頼時の息子で、宗任の兄。 特徴:『陸奥話記』によれば、身長が六尺(約180cm以上)を超え、巨漢で色白の容貌魁偉な人物であった。 最期: 1062年、源頼義に敗れ、深手を負って捕らえられた。その首は釘で丸太に打ち付けられ、朝廷へ送られた。 |

大彦の末裔とすると、久留米の高良大社の高良下宮社の中央神殿に祀られているのが第8代孝元天皇で第9代開化天皇(高良玉垂命)の父になるのです。孝元を祀る神社を土佐の聖社の外知りません。
貞孝さんは否定されていますが(伊万里講演)、百嶋由一郎の金神神代系譜では、呉の太白の一族に妃を送っていた金山彦(同社の女紋は木瓜ですね)の孫にあたる長髄彦が初代神武と衝突した結果、殺害を実行した草部吉見(だから高良山の北麓に吉見岳が在る)が妹を側室=戦利品としているのです(高千穂と中津市の守実では今も花房姫と呼ばれています)。その瀛津世足姫を後に八咫烏が妃とし(救済した)生まれた葛城高千那姫と第8代孝元天皇の間に生まれたのが大彦と武内宿禰なのです。それを通説では以下の様に偽装しているのです。一例
上コトバンク次葉:百島由一郎金神系譜参照
当然にも九州王朝の王族の血をひく玉垂命の腹違いの兄が大彦(日本書紀の四道将軍の日本海ルートで会津に入った)で、その末裔が安倍貞任と宗任になるのです。だからこそ貞任の末裔も朝倉に戻った可能性があるのです。
❷ 福島から宮城に注ぐ阿武隈川河口にも鳥海地名が在る
九州の北半を中心に「雑餉隈」など多くの「隈」地名が存在する事は当会のメンバーはどなたもご存じだと思います。そもそも故)百嶋由一郎は「東北の阿武隈川を調査した時、周辺を見て回り、やはり、阿武隈地名は九州から移動した人々によって持ち込まれたと判った…」と言っていました。
今にして思えば、阿武隈とは安倍氏が持ち込んだ隈地名のの意味なのであり「鳥海(トノミ)」地名も在るのです。

❸ 安倍貞任は出身地からか鳥海の三郎と呼ばれた
まず、鳥海山ほか東北全域に鳥海地名が散見されます。少し全県検索を試みましたが、東北地方と九州にしか鳥海地名は拾えませんでした。今後も広げ、鳥屋、遠見、遠海などを調べる予定です。
では、佐賀県武雄市に残る鳥海地名、併せて大彦の弟武内宿禰を思わせる武雄市武内町、母親の山下影姫を祀る黒尾神社などをご紹介します。
ご覧の通り、佐世保線武雄温泉駅の西隣の次の駅が永尾駅でその正面が鳥海地区なのです(二つに分かれている理由は調査中)ここに注ぐ犬走川は不思議と東の70m低い武雄川に落ちず、西に流れ、松浦川と合流し唐津に注いでいるのです。つまり、有明海側から一気に唐津湾=玄海灘=日本海の対馬海流に乗る事ができるのです。逆に言えば70m程登れば日本海側に筏で移動できるのです。今も。


JR永尾駅付近で西から北に流れる鳥海川はこの元湿地から数キロ先の武内町の大字真手野辺りで佐賀県でも最大級の松浦川と合流し唐津湾に注ぐのです。上は山形の鳥海山で白鳥でしょうか?
開化天皇の指揮下で行われた(通説では第10代崇神が行ったとされていますが)四道将軍であれ、近年架空とされる神功皇后の三韓征伐であれ、ほぼ、近接する時期に行われたと思います。玄海灘側には食料、木材、衣料、金属…など物資が少ないことは皆さん良くお分かりの事と思います。
その中で、仮に途中で休憩、宿泊したとしても半日から一昼夜で唐津湾の最奥部の旧相知町大字山崎辺りには到着するはずで、労せずして有明海側から玄海灘側に多くの人員と船舶建設用の木材、糧秣などの物資を大量に送り込む事ができたはずなのです。
では、有明海沿岸から玄海灘側に兵員、物資を送るとして外に方法があるか便利かを考えて下さい。
普通は、反時計周りで流れる有明海を利用し、島原まで移動し、三つの船越地名(大船越、小船越、貝津船越目でしたか)三つの船越地名が残る諫早から(釣瓶方式で随時搬送する)大村湾に入り、西海橋or早岐の瀬戸(普通は補給を得やすい早岐ルートでしょうが)北九十九島から平戸の支々伎崎を廻り対馬海流に乗る可能性もありますが、まず、長崎半島=野母崎を廻るのは危険性が在り、よほどでなければ無理しては使わないでしょう。有田川コースはあり得ますが陸送が延び不利でしょう。
増しては、脊振山系を越えるルートは論外で、太宰府丘陵を北に越えるのが普通に思えますが、貝原益軒が反対した様に水量が少ない御笠川では搬送できなかったはずです。逆に北九州の堀川運河は戦後も川平田舟、五平太舟で石炭などを運んでいた事はご存じの通りです。とすると、武雄市鳥海以外には考えようがない事になるのです。まあ、米の山経由で飯塚に入り筑豊から送る事は可能ですが。
だからこそ、有明海側の福岡県現筑前町の大己貴神社に神功皇后が兵員を集める話が残っているのです。では、再び話を戻します。上の図を見て頂くと、鳥海川と松浦川が合流する場所に「筏橋」と言う地名が残され橋が今も掛けられています。
ご存じの通り川の合流地は平坦地であれば川幅が広がり水深も深く流速も緩やかになります。
筑後川もそうですが、戦後の夜明ダム建設(S28)まで筏流し川流しが行われ合流地で筏の編成が行われていたのです。当然ながらこの松浦川でも佐賀県西部域の物流に寄与していたはずなのですが。
田舎のためかそれほどの伝承は残ってはいません。
今後も探索は続けますが物理的条件として整っているように思います。言うまでもなく古代には川は道だったのです。そして川沿いに道も造られ宿も鍛冶屋も大工も集まり町もできたのでした。
❹ 神功皇后の三韓征伐でも
浜玉での鮎釣りという奇妙な話は置くとしても、一端は唐津湾の西の神集島にも濃厚な伝承があり、呼子、平戸の西に出て対馬海流に乗らないと半島には移動できない上に、有明海側の武雄市、嬉野市の三韓征伐による兵員の療養の伝承を含め長崎県にも多くの伝承が有るように、有明海側に凱旋、復員しているのです。通説派はそれを消すために有明海側の伝承を神功皇后紀では隠しているのです。
それは、九州王朝の事績であることを意図的に消しているのです。近畿大和朝廷による熊襲退治の体裁を守るために有明海側への復員、増してや凱旋など絶対に肯定できず否定しているのです。
ところが、朝倉市の三奈木神社でも林田の三奈木神社は、その由緒で“神功皇后は肥前高橋の津に凱旋した”と堂々と書いているのです。山手の三奈木神社は全く祭神も異なり、近畿大和朝廷側の伝承を伝えていますが、彦山の高木大神〜阿蘇=藤原に靡いたからなのでしょう。元は、異なるというのは林田の三奈木と同様の祭神、由緒だったのでしょうが、藤原天皇制の時代になると、後漢の霊帝の末裔=阿智王の一族(大蔵、財津、田尻、原田、秋月、笠、龍…)の一族が藤原のエージェントとして専横を振るい宇佐の応神を持ち込みますので正しい伝承は消したのではないかと思います。この後漢の末裔を無視して考えるのは大きな間違いに繋がりますので、おいそれと載せられないように。
❺ では、最後にこの肥前では東部の現在では忘れ去られた様な地方の佐賀県の西部域に於いて、偽装された通説と言うだけの事ですが、一般的には武内宿禰と山下影姫との間に生まれたとされるテーマ・パークの様な世界が閉じ込められている事に気づくのです。
武雄心命と山下影姫の子が武内宿禰とされその父を堂々と祀るのが三千年とも言われる大楠で知られる武雄市の武雄神社があり、その北4キロ程の柏岳の麓にその母とされる山下影姫を祀る黒尾神社が在るのです。
皆さん、現在、武内宿禰の出身地は和歌山県とされていますが、山下影姫を祀る神社は1社も無い事をご存じでしょうか。これには武内宿禰を近畿大和周辺としたい思惑が働いているのです。
対して福岡県西域から佐賀県に掛けて山下影姫を祀る神社10数社程が拾えるのです。
特にテーマ・パークなのか、古来の伝承からなのか、武内町と武内神社が存在する武雄市は無視できない存在になるのです。大きな神社としては島根県松江市の9号線沿いに武内神社が存在します。
境内、平濱八幡宮と武内神社が仲良く鎮座しています。参道を上がると正面に平濱八幡宮、その左隣奥に武内神社の拝殿が並立します。平濱八幡宮は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后、武内神社は武内宿禰命が主祭。
一方、武雄市には武内町があり武内神社が在り、山下影姫と武雄心とされていますが、黒尾神社が4〜5社拾えます。その他佐賀県東部域にも1社武内神社が在り、福岡市にも4〜5社武内神社(武内宿禰)を祀る神社が存在します。久留米市正面の千栗神社の武雄社には孝元と影姫の子が宿禰と…

我々九州王朝論の立場から古代を見通そうとする者としては、神功皇后の三韓征伐と大彦の日本海北上から会津に入った東北遠征を考える時、鳥海の三郎とも呼ばれた安倍の宗任が鳥海の由来を祖先から聴いていなかったとは考えられず、この遠征の重要な兵站基地と成った武雄市の鳥海は遠征出撃の起点でもあったと考えるのです。
この点も含めて佐賀県武雄市の鳥海を探る神社トレッキングを何時か行おうと考えています。
AIによる概要
鳥海三郎安倍宗任(あべのむねとう)は、平安時代中期の奥州安倍氏の豪族で、頼時の三男。鳥海柵(現在の岩手県金ケ崎町周辺)を拠点とし、前九年の役で活躍した。別名・鳥海弥三郎宗任。敗北後は伊予国や大宰府に流されたが、その名や逸話は奥州の歴史に深く刻まれている。
由利本荘市公式ウェブサイト
詳細な解説は以下の通りです。
鳥海三郎・弥三郎宗任:前九年の役において、兄の貞任と共に源頼義・義家軍と戦った豪族。宮城県亘理郡の「鳥海の浦」が出生地とも推定されており、鳥海弥三郎や鳥海三郎と称された。
鳥海柵(とりのみのさく):安倍氏の主要な防衛拠点の一つ。現在の岩手県金ケ崎町西根本町周辺に位置したと考えられている。

金ケ崎町も日本海側の福井県敦賀市の金ヶ崎城の置き換えですが、一般的には織田、徳川連合軍によって滅ぼされた朝倉義景の居城の一つでした。しかしその前は兵庫県養父市の甘木に居たわけで、弟の小佐氏に譲り、金ヶ崎に進出しているのです。そのまた前を辿れば、鳥栖市の養父町、現朝倉市の甘木であることは明らかな上に、金ヶ崎が宗像大社正面の鐘ケ崎とすれば、九州から北上川流域に進出した九州王朝の一族であった事を考えない人はいないはずなのです。



にお読み頂き有難いと思っています。




































![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)