2024年08月30日

新ひぼろぎ逍遥スポット340 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

新ひぼろぎ逍遥スポット340 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

豊後大野に川上 猛の痕跡を探して  “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した” 改訂版

20240612

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 阿蘇南郷谷の高森町でも外輪山外側の最奥部に鎮座する野尻川上神社(皆さん良くご存じのヤマトタケル命=後の日本武尊に誅伐された川上 猛の出生地の可能性あり)の重要性に気付き、本年8月の盆明けにこの一帯での神社トレッキングを行う事にしました。最も重要と考えているのは大谷川正面に鎮座する野尻川上神社です。この神社の価値は限りなく大きいのですが、皆さんにも理解して頂けるでしょうか。

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野尻川上神社 カーナビ検索熊本県高森町野尻649

 そこで、8月は盆休みとしてイベントは行わない事としていましたので、阿蘇高森の最深部を探る神社トレッキングを行う事にしました。以下はその仮案ですが、普段、殆ど入らない神社56社を巡る企画を立てました。このため、その数社について下調べとしての作業を行っています。

  8月盆明けの仮日 奥阿蘇神社トレッキング 太宰府地名研 “川上 猛の生誕地を探る” 雨天中止or延期

日 時:818日(仮案)930集合1000出発 参加費 1000円 連絡 090-6298-3254(お杖代 古川)

集 合熊本県高森町高森2216スーパー フレイン 駐車場 参加費+資料代(500700円)弁当+お賽銭+雨具持参

参加費:連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)宿泊地は各自で確保して下さい! 時間厳守

順路:@ 矢津田御霊神社 ➁ 祭場阿蘇神社 ➂ 野尻川上神社 ➃ 尾下菅原神社 ➄ 永野祖母嶽神社

余裕があれば、最後に草部吉見神社も巡ります (ご注意を順路は変更有…実際にはパスする神社も出ます)

※ 参加される方の各々ご都合があると思いますので、集合場所と集合時刻を決めておきますので本当に見たいと思われる方だけで決行したいと思います。奥阿蘇物産館or高森町スーパーマーケットフレイン930集合(仮案)で、特に御霊神社は高千穂のひのみこ社の二子石女史に案内して頂きます。

(仮案)高森町のフレインに集合し直接、御霊神社に向かい祭場阿蘇神社を経て野尻川上神社を巡る

 盆明けの8月下旬なら標高800超の現地のこと、暑いと思われるでしょうが、午前中は元より阿蘇でも外輪山の外は既に涼しいためこの点の問題はないでしょう。

 同エリアの最初の訪問地は、御霊神社〜祭場阿蘇神社〜野尻川上神社(初見の方が多いと思います)ですが、この3社に訪問できればとりあえず目的は達成できると考えています。状況に合わせて、最後は希望者のみ草部吉見神社に参拝し戻ります。

 現在、検討中ですが、基本的にはカーナビで移動できますので、全56社の住所を表示します。


➊ 矢津田御霊神社  :熊本県阿蘇郡高森町矢津田1979  吉備内親王、佗戸親王の母、光仁皇子、

早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子

➋ 祭場阿蘇神社   :熊本県阿蘇郡高森町中2168    健磐龍外11

 ➌ 野尻川上神社   :熊本県阿蘇郡高森町野尻649    淀姫、川上大神…9

 ➍ 尾下菅原神社   :熊本県阿蘇郡高森町尾下3843    菅原道真、国常立神、天字受女命

 ➎ 永野祖母嶽神社  :熊本県阿蘇郡高森町津留      山幸彦、豊玉毘賣命、鵜葺草葺不合命

玉依毘賣命、神日本磐余彦命=神武天皇、吾平媛命、木花佐久夜毘賣

 ➏ 草部吉見神社   :熊本県阿蘇郡高森町草部2175    彦八重耳外11

無題.pngフレイン(高森店)熊本県阿蘇郡高森町高森2216 

営業時間 日曜日      900分〜2200

現地では食料購入できません川上淀姫社で昼食予定ですので事前に準備を!フレインでも9時には購入可能

ゴミは持ち帰りが原則!お賽銭は各自でご準備下さい。

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コンビニなど皆無の地域です。トイレについては以下をご利用下さい。トイレ:親水公園 高森町津留

尚、永野祖母嶽神社や草部吉見神社にもきれいなトイレットがあります。川上神社より下は川上渓谷です。
詳細はブログ本数が多いためCD,パワポで配布します。

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参加予定者 40

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2024年08月27日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 339 不思議な坂本一族 探求編 ➊ 山ちゃんブログより

新ひぼろぎ逍遥 スポット 339 不思議な坂本一族 探求編 ➊ 山ちゃんブログより

20240725

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


坂本、阪本、坂元、酒本、酒元、坂下…と多くの表記のある人々ですが、私にも多少関係のある一族でもあるのです。

無題.png伊号1号潜


 当初、坂本神社については志賀海神社の宮司家の一族は安曇姓を名乗っているが、配下にいる人々は皆坂本姓を名乗っており、海神族であり外洋航海をできる人々であったから、古い時代に列島に入っているフェニキア系の人々ではないかと考えていたのですが、今回、彦太忍信命がヘブライ系である事が漸く分かってきました。知人に阪本様がおられた事から少しお尋ねしたのですが、サカモトでも九州(熊本)では少ない阪本ですが…と断られた上で話始められました。お父さんが外洋航路の船長だったとも言われており、びっくりしましたと言われたのでした。

実際、サカモト姓は坂本も阪本もあり、大阪城も元は大坂城であった事からどちらも同じ意味である事が分かっていましたので、構わずお話を勧めた経緯がありました。

 特に家紋についても、跡で三盛亀甲紋に唐花=花菱である事が分かり、アーリア系ではなくヘブライ系なのであろうと、その様に考を改めたのでした。

 実は、私(古川)の仲人さんも職場の上司(地方公務員)の坂本様でした。

 この方のお父さんも旧帝国海軍の潜水艦の艦長で、本来はアメリカ海軍の、迎撃戦を戦う予定だったのですが、ガダルカナル戦に於ける制空権、制海権の喪失に伴って、丸通業務を行わされ、糧秣(米、味噌、醤油)や弾薬、薬品…をドラム缶に詰め込み補給を行う)という消耗戦に追われ、とうとう米艦船による攻撃を受け、半舷は飢島に上陸するも残った半舷と伴に今も海底に横たわっておられる…という話をお聴きしたのでした。具体的には申し上げませんが、伊号1号潜の艦長で…その孫も(つまり仲人の方の息子様)三菱重工で新型魚雷の開発に携わっているとお聴きしたのでした。私はその事を偶然ですが戦記としてハヤカワ文庫で読んでいたので驚いたことがあったのでした。


291830、ガダルカナル島カミンボ岬付近で半浮上して揚陸準備中、ニュージーランド掃海艇モア、同キーウィの爆雷攻撃を受けて損傷したため、浮上して交戦する。1920、伊1は左舷後部にキーウィの体当たり攻撃を受ける。モアとキーウィの砲撃により艦長が戦死したため、水雷長の是枝貞義大尉(海兵64期)の指揮で南緯0913分 東経15940 / 南緯9.217度 東経159.667度のカミンボ沖合1km地点付近で2315に座礁した。やがて、伊1は浸水で右舷側に大きく傾斜して放棄され、その後沈没した。艦長の坂本榮一少佐以下乗員27名が戦死し、66名が生存した。その後機密書類の一部が回収され、海岸で焼却された。しかし、艦内の暗号書等の機密書類のほとんどは処分が不徹底のままだった。生存者は艦内の機密文書の捜索のために乗員2名を残無題.pngしてガダルカナル島に上陸し、後に帰還した。30日、モアは機密文書を捜索中の生存者2名を発見し、1名を機銃で射殺して1名を捕虜にした。生存者からの、機密文書の処分が徹底されていないとの報告を受け日本軍は伊1の処分を行った。22日夜、乗員5名と陸軍第1船舶団11名が大発で現場海域に向かい、爆雷2発を使用して艦体を爆破するも失敗。10日、第26航空戦隊第582海軍航空隊の99式艦爆9機が直援の零戦20機とともに爆撃を行うも、1発を命中させたのみにとどまった。11日、米魚雷艇のPT-65が伊1の艦体の調査を行った。13日、ニュージーランド特 設敷設艇マタイと米潜水艦救難艦オルトラン(英語版)(USS Ortolan, AM-45/ASR-5)によるさらなる調査が行われた。この結果、艦内水没部を米軍の潜水夫に隈なく捜索されて20万頁に及ぶ日本海軍の暗号書や機密書類が引きあげられ、日本軍の暗号解読に大いに役立った。同日、姉妹艦の伊2が雷撃処分するために現場海域に到着。15日まで伊1を捜索するも発見できず、さらに米魚雷艇からの爆雷攻撃を受けたため伊2は帰投した。                        伊号第一潜水艦 (初代)

沈没した伊1を捜索するアメリカ海軍のPT-65                          以上、推敲前草稿

新ひぼろぎ逍遥@ 1048 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (下)坂本編 より


第五十五話  「崇神天皇」(1)  百嶋神社考古学東海ビューロー やまちゃんブログ」より転載

 2022.02.19

写真 貴志川 十三神社の参道梯(みやばし)より撮影出典:Wikipedia(2 022/02/18  2050)


無題.png○『古事記・日本書紀』記事の特徴

○崇神天皇は正統な天皇ではない

○贈崇神天皇の皇后・妃と皇子・皇女


1.『古事記・日本書紀』記事の特徴

同天皇に関する『記紀』記事は「安寧〜開化天皇」までとは対照的に極めて豊富です。その意図するところは、阿蘇ご一家を先祖とする藤原氏による遠大な歴史改ざん計画の中核を成すものです。

2.崇神天皇は正統な天皇ではない

御真木入日子印恵命こと崇神天皇は、藤原氏によって贈られた天皇で、正統な天皇ではありません。

『記紀』は、父開化天皇、庶母伊迦賀色許売命との皇子としますが、名に「倭」あるいは「倭根子」がなく、明らかに開化天皇の皇子ではないことが一目瞭然です。

「神々の系図−平成12年考」では、御真木入日子印恵命(みまきにゅうひこいにゑのみこと)は、天忍穂耳命こと贈孝昭天皇と市杵島姫(いちきしまひめ)の御子大山咋(おおやまくい)こと熊甲安羅梶彦(くまかぶとあらかじひこ)を父、母は市杵島姫と大国主の間に生まれた鴨玉依姫(かもたまよりひめ)とし、姉に活玉依姫(はえたまよりひめ)、兄は稻飯命(いなひのみこと)、弟に梶取こと椎根津彦(しいねつひこ)またの名に倭彦としています。

したがって、正当な天皇ではなく藤原氏によって贈られた「贈天皇」と、故百嶋氏は述べています。

3.『古事記』記事が記す皇后・妃と皇子・皇女

(1)木の国造荒河刀弁(あらかわとべ)の娘、遠津年魚目微比売(とおつあゆめはしひめ)を娶り、豊木入日子命(とよきにゅうひこのみこと)・豊鉏入日女命(とよすきにゅうひめのみこと)の二柱。

「神々の系図−平成12年考」によれば、荒河刀弁は、紀の川の最大支流である貴志川、別名荒河とも呼ばれる川畔(現和歌山県紀の川市桃山町)に盤踞した女性首長(酋長)としています。

写真 貴志川 十三神社の参道梯(みやばし)より撮影

私は大学生時代訪れたことがあり、それはきれいな清流でした。出典:Wikipedia(2022/02/18 2050)

娘とされる遠津年魚眼微比売は、父御年神(みとしのかみ)、母古許牟須姫(こけむすひめ)との間に生まれ、兄は水沼君(みぬまのきみ)・伊予御村別(いよみむらわけ)の祖武国凝別命(たけくにこりわけ)です。

したがって、この系譜は御年神こと贈孝安天皇の系譜を紛れ込ませたようです。

○豊城入彦命を祀る神社 二荒山(ふたらさん)神社 宇都宮市馬場通り 祭神:豊城入彦命とされていますが、豊城入彦自身が東国下向の際、御諸山の大神(大物主こと大己貴命)を祀ったとされています。

無題.png赤城神社 前橋市富士見町赤城山

祭神:赤城大明神(=大己貴命)豊城入彦命

写真 赤城神社周辺の四季 出典:赤城神社HP


大荒比古鞆結(おおあらひこともゆい)神社 高島市マキノ町浦

祭神:豊城入彦命・大荒田別命・須勢理比売命・大己貴命・誉田別命

写真 大荒比古鞆結神社 「変形三ツ鳥居」

大荒比古神社 祭神:大荒田別命・豊城入彦命

大荒田別命は、おそらく豊城入彦のまたの名と考えられます。

豊城入彦命は武将として能力に優れ、九州王朝に忠実で、最初は近江国へ赴任、その後大己貴命が支配する上野(こうずけ)国へ赴任。その後、安羅国王として赴任したと推測します。

無題.png2)尾張の連の祖意富阿麻比売(おおあまひめ)を娶り、大入杵命(おおいりきのみこと)・八坂入日子命(やさかにゅうひこのみこと)・沼名木入日売命(ぬまなきにゅうひこのみこと)・十市入日売命(といちにゅうひめのみこと)の四柱。

「神々の系図−平成12年考」によると、ウガヤフキアエズと下照姫との間に生まれた大海姫(おおあまひめ)は意富阿麻比売と同一人物です。

故百嶋氏は講演会で「にゅう(入・乳)」は天皇にお仕えした人物名の特徴と述べています。

(3)大毗古命の娘御真津比売(みまつひめ)を娶り、伊久米入日子伊沙知命(いくめにゅうひこいさちのみこと)・伊耶能真若命(いざのまわかのみこと)・国片比売命(くにかひめのみこと)・千千都久和比売命(ちちつくわひめのみこと)・伊賀比売命(いがひめのみこと)・倭日子命(やまとひこのみこと)の六柱。

「神々の系図−平成12年考」によると、御真津姫の父は大毗古命ではなく事代主としています。

御真津姫の本来の名は『日本書紀』が記す御真城姫(みまきひめ)です。結婚前の名は五十鈴姫です。

ツヌガアラシトのまたの名に御間城入彦があり、御真城姫はツヌガアラシトこと贈崇神天皇と結婚して名を改めてからの名です。

伊久米入日子伊沙知命は、五十鈴姫との間の御子ではありません。詳細は「垂仁天皇」の稿で説明します。

倭日子命は前述したように、ツヌガアラシトの弟椎根津彦です。

国片姫はツヌガアラシトこと贈崇神天皇御真城姫の娘で、後に開化天皇の妃に成られます。

兄は盟神探湯(くがたち)こと壱岐真根子です。

4.『日本書紀』が記す皇后・妃と皇子・皇女

(1)皇后御真城姫との間に活目入彦五十狭茅(いくめにゅうひこいさちの)天皇・彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)・國片姫命(くにかたひめのみこと)・千千衝動倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)・倭彦命(やまとひこのみこと)・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)の六柱。

彦五十狭茅命・彦五十日鶴彦命は不明です。

(2)紀伊國の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙姫(とおつあゆめまくはしひめ)との間に豊城入彦命・豊鍬入姫命の二柱。

故百嶋氏は「紀の国」を大幡主の支配地としています。

したがって、遠津年魚眼眼妙姫は大幡主の血筋に繋がる姫と推測されます。

(3)尾張大海媛との間に八坂入日子命・渟名城入姫命・十市瓊入姫の三柱。

無題.png表  ツヌガアラシトを中心とする家系図 右矢印1

生年は故百嶋氏の推定

次回は「崇神天皇」(2)です。


今回、国方姫が分かり難いためそれをご説明するためだけに、勝手ながら信頼できる文献史学派の「山ちゃんのブログ」を長々と引用させて頂だきました。

悪しからずご容赦を。

 以下、百嶋由一郎手書きメモからも坂本皇子を探ってみたいと思います。


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百嶋由一郎 006橘系譜


百嶋由一郎氏のこの神代系譜については普段はあまり見ないもので、皇子宮、坂本宮でも神功皇后と開化天皇と間のシレカシの命以下5人の皇子に対して、4人の皇子については仲哀と神功皇后の間に生まれた皇子か仲哀の側室の子なのだろうと言った甘い解釈で留めていたのでした。

 ところが、今般、正確に坂本姓や坂本一族を調べる必要が出て来た事から慌てて調べ始めたのが実情であって、ある意味では良い機会を与えて頂いたとも言えます。

こんなことでもなければ本気で考えないのが日常であって、少しでも前進できればまさに天恵とまで言えるのです。

 大恋愛の末に一緒になった大山咋と鴨玉依姫ですがその間に生まれたのが活玉依姫でその活玉依姫が古々代ヘブライ系の事代主(大国主の子でもなければ、建御名方の兄でもない人なのです)の間に設けたのが五十鈴姫(我が研修所の近くにもこの五十鈴姫を主神として祀る神社があります)です。

その五十鈴姫が初国神武こと贈)崇神天皇との間に生んだのが国片姫(国堅大神)になるのです。

その国片姫が正当皇統第9代開化天皇との間に産んだのが国堅大神で、大神と呼ばれるのも開化の側室の子だからなのです。ちょっと面倒でしたが、漸く坂本皇子の素性が掴めたのでした。

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半島と敦賀、熊本県の球磨川の旧坂本村に近い百済木から「日本書紀」に登場するアリシトの子日羅が百済のナンバー2達率(国防大臣)になっているのも渡洋航海を行う能力を持っていたからであり、


百済来村は、熊本県葦北郡にあった村。現在の八代市坂本町百済来上、百済来下、田上、鶴喰、川岳にあたる。

ウィキペディア20240713 15:44


それはクマカブトアラカシヒコ=大山咋(熊本県の甲佐町の甲佐神社付近から対馬海流に乗り半島に移動していたからなのです。

クマカブトのクマは、熊本、カブトは甲佐町の甲佐神社の甲)の血を引いたツヌガノアラシト(敦賀と安羅伽耶を頻繁に移動した)崇神に渡洋航海の技術が継承されたのでしょうか。


甲佐神社は、熊本県上益城郡甲佐町に鎮座する神社である。肥後国二宮で、旧社格は郷社。


ウィキペディア 20240713 15:45

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甲佐神社 カーナビ検索 熊本県上益城郡甲佐町上揚876

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こうして、球磨川、緑川一帯から対馬海流に乗り半島と行き来していた人々が九州王朝の航海術が支えられていた事が見えて来たのでしたくるのです。

ここまで掘下げてくると、初めて坂本姓の本質は大袈裟ですが、後ろ姿が漸く見えても来たのでした。

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2024年08月24日

新ひぼろぎ逍遥 スポット338 8.15、8.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

新ひぼろぎ逍遥 スポット338 8.158.25 川上 猛の生誕地を探る高森町トレッキングへの配布資料

20240715

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久090-62983254(日田市天瀬町在住)


トレッキング参加の増加も予想される事から24818日と25日の二回の実施を考えており、18日は仕事だけど、25日なら行けるという要望に応える意味もある訳です。勿論、雨や台風による延期もある訳で、二回行えば大体救済ができるという事を考えての事でもある訳です。サブ.サイト新ひぼろぎ逍遥も…

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以下は、熊本のトレッキングに至るまでの佐賀川上、福岡早良、大分豊後大野を含めた配布資料です。

「川上 猛物語」 肥前、筑前、豊後、そして推定生誕地肥後高森までの勝手な新説全史

 佐賀市(旧大和町)に残る川上 猛 伝承

旧川上村は佐賀郡大和町と変わるも、昭和50年大和町教育委員会発行「大和町史」の『伝説・民話』に

●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。

●現在の健福寺の位置より一軒ほど北に、行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は、共に大和町の北部)。…以下省略 このような話が書かれていた。引用文は、現在手元にないため、M44年生まれの元熊本市の職員で熊本県唯一の九州王朝論者と言って良い故)平野雅氏の古代史関係4著中「倭国史談」(異説「ヤマトタケル」)より引用、同著には、この外にも『佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告』上巻中の、旧佐賀郡鍋島村大字蠣久に在る「蠣久府址」の説明に、

往昔此地は九州一の都会、肥州の国府長岡ケ庄蠣久と云い、戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、此地斥鹵(セキロ)の地、蠣殻多かりきし。日本武尊尊河上村に熊襲追討、日向の国より兵船に乗りて蠣久津に到着し、蠣殻の上を歩みて河上村に至り給へり。文徳天皇天安二年勅許を以て、肥前国府市(いち)、藝州宮島市、筑州宰府市を開けりとぞ。以下省略

無題.png佐賀の方はお分かりと思いますが、川上淀姫神社の裏手にある大和不動カントリー倶楽部のコース内に、旧健福寺の元寺が有り、境内地を売却しコースが造られた後失われた様ですが、同地内に川上 猛の墓誌もあり、当太宰府地名研究会のメンバーのM氏もコース建設中にその墓誌を実際に見たと言っているのです。

 これで、記紀にも書かれる川上 猛の誅伐の話の舞台が実は佐賀県の佐賀大和IC.付近で起こった歴史上の事実であった(最低でもその可能性がある)事がお分かり頂けたのではないでしょうか。

 大古と言っても、私たちは高々3世紀(紀元200年代)に起こった事と考えていますが、その頃までは、この地は有明海最奥部の言わばウォーター・フロントとも言うべき観潮域と言える地でした。

 それは、旧「鍋島」村や「蠣久」の地名が往古の地形を物語っているのです。

 さて、川上 猛は熊襲 猛と呼ばれています。勿論、肥前の人間は熊襲ではありませんので、猛はよそ者だったのです。では、何故、この地に盤踞していたのでしょうか?それは交易の為だったと考えています。

 無題.png有明海はコリオリ無題.pngの力によって、基本的に潮流は反時計周りに動いています。このため、上げ潮に合わせ、舟乗りすれば、労せずして当時の湾奥の地にまで入り、物資の交換を行っていたと思うのです。戻るのも翌日までの下げ潮を使うのです。それ以外に余った物資で更なる利得を得る方法は無かったからです。勿論、強奪する事は可能ですが、リスクも多く、安定し継続的な利益を得るには平穏に交易することが余程有利だったからです。

 ここで、淀姫神社を考えましょう。驚かれるでしょうが、同社の主神の淀姫も実は熊襲だったのです。

「佐賀県神社誌要」河上神社 祭神:與止日女神 大明神しかも、現在も神殿上部には男神を表す雄千木が掲げられており、隠されてはいますが実は川上 猛を主神としているのです。そして、実は、猛はこの地では死んではいないのです。それが次の早良の話になるのです。

無題.png❷ 福岡市早良区に移動した川上 猛一族

 我が百嶋神社考古学の師匠の故)百嶋由一郎は、川上 猛は、殺されたのではなく旧脊振村広滝で許され、背振を越え早良に落ち延び、そのご子孫は某神社の周りに今も纏まって住んでおられます。場所も、名前も分かっているが、可哀そうで申し上げられない…と講演で話したまま、亡くなられてしまったのでした。しかし、このままでは永久に不明のまま消えてしまう…と調べているうちに気付いたのが手書きデータの一枚でした(右)。何のことかお分かりにならないでしょうが、実は百嶋神代系譜に慣れてくると分かってくるのです。川上 猛、淀姫兄妹の母とは阿蘇の奈留多姫というお姫様だったのです。その母は、阿蘇宮司家初代惟人(コレヒト)の姉か妹で、阿蘇家の本流中の本流である事が分かるのです。つまり川上 猛は阿蘇氏だったのです。ただ、母の奈留多姫は、八坂刀女と名を改めこの原の諏訪神社にいた建御名方と共に信州諏訪に向かうのでした。この理由も今回は触れませんが、大体の見当は着くようになりました。では、話を進めましょう。このメモを見た時、奈留多姫が二人の母である事が分かっていましたので、早良の諏訪神社を調べれば良いと気づいたのでした。

 幸いなことに、佐賀に多いお諏訪さんも早良には原の一社しかなかったのでした。

 そして三年ほど前に、メンバーに呼び掛け十数名で同社の調査に入ったのでした。すると、境内には氏子の敬老会によって造られた立派な石碑が残されており、筆頭者から大神(オオガミ)さんがかなりの数深く彫り込まれていたのでした。もう、疑う余地はありません。大神さんこそ川上 猛の末裔で、1700年以上この地に住んでおられたのでした。しかも、土地をお持ちだったのでしょうか大邸宅ばかりだったのです。こうして歴史の闇に消え失せる事だけは押しとどめる事が出来たのでした。地元でお尋ねすると、現在も9軒の大神さんがお住まいである事が分かったのでした。

無題.png仁比山神社に近い神埼市城原の白角折(オシトリ)神社が在りますが、こここそ、ヤマト オグナが川上 猛誅伐の為の策を練り、準備を行った場所であったと思われます。

旧脊振村役場前の兼大明神の不思議 この大明神には 日本武尊と吉備武彦神が祭られています。第十二代景行天皇の皇子 日本武尊がこの地に登られてみると賊の川上梟師の一党が大変な威勢を振るっていた 尊は天賦の智勇をもってこの賊を征伐された のち十六代仁徳天皇の御代に一社を創建し氏神とされた 氏子の崇敬が極めて厚く社殿は現地を中心に周囲に広がり大樹が生い繁っていたが 水害 道路要地等に削られ現状となった(脊振村誌より)日本武尊は判りますが、吉備武彦神までが何故祭神なのか理解できません。これが誅殺部隊だったのです。

背振を挟んで嫁とり婿取りか…太宰府地名研究会事務局長のN氏が背振一帯を探索していると、広滝の奥で70代のおばさんと出会い少しお話を聴いたそうです。明治でも県を越えて百姓が嫁、婿の交換を行う事は無かったのですが、“私は福岡から嫁いでいます…”と話されていたそうです。これが直結するとも思えませんが、川上 猛の残存者と早良への移住者との情報交換親戚付き合いはあったはずです。

高良山直下の高良下宮社に淀姫の墓があった…これもここ2年余りで分かった事ですが、九州縦貫自動車道が建設されていた当時、祇園山古墳が削られたり、高良大社の最後の大祝オオホオリ家である鏡山家の大屋敷が道路敷地として買収されたりしていました。その後、鏡山家は土地を道路公団に売却し、うきは市に移住されていますが、その残地が高良下宮社の背後に幾らか残っていたのです。下宮社は何十回も入っていますが、境内の外にまでは気が回らず全く知らなかったのですが、この祇園社の裏の旧鏡山家の残地に淀姫神社の墓なるものがあると、当会メンバーで「事代主のブログ」外を書かれている神社研究者のS氏(現筑紫野市)がこの淀姫の墓があると言い出し、皆が騒然となり、若手女性メンバーが走り回り鉄条網を搔い潜って墓を見無題.png出したのでした。「加輪髪媛」としていますが、紛うことなき下宮後背地にある淀姫の墓所です。百嶋神社考古学研究会通算 027新シリーズ 古川 清久“久留米の高良下宮社の境内隣接地に発見された「加輪髪媛」の墓所 ❷”百嶋神社考古学研究会 奈東 南雄 外をご覧下さい。

❸ 豊後大野に展開した大神一族

 川上 猛の姓が大神(オオガミ)と判ると、豊後大野の阿蘇大神一族との関係に思いが馳せるのに時間は掛かりませんでした。それが早良の原から豊後大野への思考の冒険でした。ましてや、川上 猛の推定生誕地が高森町の野尻川上神社付近であったと分かり、そこに川上渓谷を発見した大谷川は荒城の月の竹田市辺りから大野川となり、豊後大野を経由し大分市を潤す大野川となっている事まで考えると、豊後の支配者が大神一族を中心とするものであった事と一気に見えて来たのでした。以下大野川…

大分県の中央部を流れる母なる大野川は、その源を祖母山に発し、竹田盆地を貫流し、緒方、奥岳川等を合わせ、大分市戸次で大分平野に派し、別府湾に注ぐ100キロを超す一級河川です。その大野川の川上渓谷を降った一族こそが大神惟基…惟栄(宇佐神宮焼打)、荒城の月の岡城(実は大神城)であり、義経を総大将に頼朝と一戦を構え九州を切取ろうとした黒田と同様の動きを先行させた阿蘇大蛇伝説の大神一族だった事まで見えて来たのでした。大神一族に関心をお持ちになれば、穴森神社と宇多姫神社 どちらも今は竹田市になりましたが、そのどちらにも多分火山性でしょうが洞穴があります。古代の人は二つの大穴を見ると繋がっているのでは思うようです。特に穴森神社の風穴は巨大で直ぐに大蛇伝説が生まれた事でしょう。それほどの異観の確かに大蛇の棲み処に見えてくるのです。これを意識した川上 猛の後裔の後裔氏族と考えられる大神氏が大蛇の化身、祖母山の豊玉姫の孫とし強き武人と喧伝したのでしょう。こうして大神一族は「平家物語」にまで書き留められる事にもなったのでしょう。

出生伝説 平安時代中期〜後期の大神惟基には不思議な出生伝説(蛇神婚伝説)があり、「平家物語」や「源平盛衰記」、「九州治乱記」、「大神氏系図」などに記される。「名刀幻想辞典」より

豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はつ無題.pngいに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。MW05 大神惟基」より

祖母山は何故祖母山と呼ばれるのでしょう それは命名に関わる人物が豊玉姫を祖母とする人ではなくそう見立てたい人だったからでしょう。さすがに自分の祖母だと描き流通させるにはよほどの権力者しかないはずです。右図を参照右矢印1

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無題.png当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細違いと共により詳細が伝承されています。祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿やどしたのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君薫育により和歌などの国風に堪た有能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ未明には煙の如く所も言わず名も語らず去るのでした。

詳しくはひぼろぎ逍遥、新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)、百嶋神社考古学研究…を検索して下さい。

無題.png❹ 川上 猛の生誕地が分かった!

 阿蘇南郷谷の高森町でも外輪山外側の最奥部に鎮座する野尻川上神社(皆さん良くご存じのヤマトタケル命=後の日本武尊に誅伐された川上 猛の出生地の可能性あり)の重要性に気付き、本年8月の盆明けにこの一帯での神社トレッキングを行う事にしました。最も重要と考えているのは大谷川正面に鎮座する野尻川上神社です。この神社の価値は限りなく大きいのですが、皆さんにも理解して頂けるでしょうか。野尻川上神社の正面に置かれた同社の由緒を書いた石碑には、肥前の川上淀姫大神を勧請したと書いていた事でした。肥前とは何の関係もないはずの阿蘇外無題.png輪山外の豊後との国境とも言うべき場所に、何故、遠く離れた肥前の神社を勧請しているのでしょうか?この一事を以てしても、この神社が川上 猛と淀姫(実は豊姫)の故地、もっと言えば生誕に関係する土地だったとしか思えないのでした。最低でも、阿蘇氏にしても、出産に際しては母方の親元で安心して過ごすはずであって、川上 猛であれ淀姫であれ、母親(奈留多姫)の里である悲劇の雨宮姫の母にあたる阿蘇ツ姫(草部吉見の娘)の家で出産に臨んでいる可能性さえあるのです。

 阿蘇ツ姫を祀る神社は熊本市北区龍田の二宮陳内阿蘇神社であり、その意味は健磐龍の妃を祀るから二宮なのです。正に、阿蘇氏の本流中の本流の家で生まれた可能性があるのが川上 猛と淀姫だったはずなのです。してみると、川上 猛とは大野川の源流とさえ言える大谷川(豊後竹田、大野を経由して大分市へと流れる大野川)が野尻川上神社正面から川上渓谷と呼ばれれている事は、佐賀の川上峡という地名さえも決定したとまで言えるのではないかとさえ思わせるのでした。以下はGoogleの検索画面です。そう考えると佐賀大和IC.付近は2000年前の有明海の汀線であり、川上淀姫神社が鎮座する場所はどう見ても嘉瀬川の河口であり、以前から怪しいと思っていたのでした。その意味でも謎が解けたのです。ついでに言えば淀姫の淀も同社正面の水泳場ですね。

また、話を変えますが、何故、阿蘇系の建御名方がウガヤフキアエズのお后妃だった奈留多姫を妃としたのかも少しながら分かってきたような気がします。この川上 猛へのテロ事件は、やはり古代の大事件だったのです。まず、川上 猛と淀姫は兄と妹であり、当時、久留米の高良山にいたと考えられるウガヤフキアエズと奈留多姫の子であり、母の奈留多姫は、阿蘇宮司家初代の惟人の姉か妹であり、正しく阿蘇家の本流の御姫様だった事になる訳です。しかも、当時阿蘇家は久留米の高良山を本拠地にしていたと思われる九州王朝の重要な実力部隊であった可能性があり、だからこそ舟で移動すれば有明海を挟んで目と鼻の先のような旧大和町一帯も交易拠点としても重要な場所だったからこそ川上 猛は盤踞していたのです。また、吉見岳の吉見は草部吉見の玄孫にあたる猛の崇める小丘だったのです。

千木を見る限り男神を意味しており、この神殿の主は淀姫ではない事を表しています(佐賀の淀姫と同じ)

続いてホトカミ様 野尻川上神社の基本情報から

大変有難いことに「熊本県神社誌」でも省略されている同社の祭神が表示されています。

御祭神

《合》阿蘇都比当ス,国龍神,比東芬q神,彦御子神,若比盗_,新彦神,新比盗_,若彦神,

《主》淀姫大神,仲哀天皇,応神天皇,神武天皇,武内大神,受持命,祓川大神,風神,霜神

以下、僭越ながら当方で解析させていただきます。合祀神は草部吉見の12神をご覧下さい。


《合》阿蘇都比当ス(草部吉見の娘),国龍神(草部吉見=彦八井耳=鹿島大神),比東芬q神,彦御子神,若比盗_,新彦神(ニュウヒコとお読みください。新比盗_も同様です),新比盗_,若彦神,



《主》淀姫大神(淀姫大神とは日本武尊に誅伐されるも福岡市早良区原の諏訪神社に移動した大神一族の意味で川上 猛と淀姫の兄、妹),仲哀天皇(久留米の高良大社に祀られる高良玉垂命=開化天皇の后の前夫),応神天皇,神武天皇(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラ命の可能性あり),武内大神,受持命(伊勢の外宮の豊受大神=アメノウヅメ=伏見稲荷),祓川大神(高原神楽の祓川神社の主神か?不明),風神(草部吉見その人),霜神(恐らく金山彦=鬼八、喜八伝承のカグツチ)


『野尻川上神社』は、高森町の東側、大谷川を臨む野尻地区の川上集落内にあり、神功皇后の御妹にあたる淀姫大神ほか9柱が祀られています。上を見ると17柱になるので8柱がさらに加わっています。古川

後は、由緒書きが彫り込まれた石塔をしっかりお読みください。そうすれば猛様の出身地と分かります。


川上 猛関連ブログ一覧

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