2026年04月26日

ひぼろぎ逍遥 スポット325 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1142 の先行掲載 「鳥海」❷ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? “大彦の後裔”

ひぼろぎ逍遥 スポット325 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1142 の先行掲載

「鳥海」 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? “大彦の後裔”

        20260204

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


もう少しお話ししましょう。

 まず、熱海、安曇、志賀海、直見、岩見、花見(古賀市)、渥美、尾身、宇美、登美、氷見、氷見と多くの見、美、海というミ語尾が付される地名が散見されます。これらは海人族が住みついた地名と考えることができそうです。その意味でも「鳥海」が海人族によって付された事は一目でした。

 この点からも、配下に多くの海人族(例えば和多津見神社の一族)がいたことも間違いないでしょう。

 とすると、安倍氏の一族が海人族の船で対馬海流に乗り東北まで移動したと考えています。

 では、百嶋由一郎が残した神代系譜(俗称金神系譜)部分から大彦を見て頂きましょう。

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この大彦とはどのような人物かを考える時、分かりやすい例がありますのでご紹介します。

一部しか説明できませんが、武田信玄も大彦の末裔です。関心があれば以下を…。

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百嶋先生のメモをバック・ナンバーからご紹介します。

349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”20170117

甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

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 百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。

そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。

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「日本書紀」(崇神紀)十年条には、大彦命(オオビコ)、武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ)を各地方に派遣したという所謂「四道将軍」についての記述があります。

 ただ、この通称「金神系譜」では、通常、武内宿祢の父とされる屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたとされる武内宿祢が、孝元天皇と山下影姫との間に産れているとされることに気付かれた方がおられると思います。

 この部分が、百嶋神社考古学の真骨頂とも言うべき最深部の最も複雑かつ難解な部分であり、この解説には別稿が必要とされることからここでは触れません。

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再掲 超細密金神系譜(部分)

十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…                以下省略


特に決め手と言えるようなのが960です

上)ひぼろぎ逍遥 下)ひぼろぎ逍遥(跡宮)

462

武田信玄も九州王朝系氏族の後裔だったのではないか?

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

   

私も 960を書いた時点で、それ以来、武田信玄が大彦つまり東北の安倍一族の末裔だと確信しています!

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普通、高良大社は表門左三つ巴、裏紋木瓜とされていますが、それは臣下の紋であり、通常表には出されません。それは、神輿の一部、宝物庫の中にあり、祭礼時しか公開されません。

それが花菱紋=門光=唐花紋と呼ばれるもので、信玄の旗指物では大量生産と視認性のために簡略化されたものなのです。

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四道将軍としての移動中に甲斐に入ったと考えてはおらず、その時点では甲府市に伝わる「天津司舞」伝承に関係する神武天皇(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラミコト)ではなく、本物の神武天皇カムヤマトイワレヒコの神武巡行(神武東征は開化天皇の指揮下で崇神が臣下として実行したこと)時点で残留した人々による拠点ができており休養、補給で寄っている可能性はあるでしょう。

 これについては、以下外をお読みください。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

577

阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “徳島県美馬市美馬町西荒川”

612

続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏に

よる近稿からの転載”

611

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏に

よる近稿からの転載”


話が進み過ぎますので、追いつかない方も居られると思いますので、ここで少しブレーキを掛け、鳥海三郎 安倍宗任 の岩手県胆沢郡金ケ崎町を確認して頂きましょう。

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鳥海柵とのみのさく(岩手県金ヶ崎町)

わが国の 梅の花とは みたれども 大宮人は いかがいふらむ 安倍宗任

この歌のエピソードはとてもお気に入りである。

出典は「平家物語」の『剣巻』という異本であり、角川や岩波の文庫版には収録されていないので、長年気になっていたが、インターネットのJ-Text(日本文学電子図書館)でテキストが公開されていた。

(前略)・・・頼義これを賜はりて奥州に下向し、九箇年が間戦ひつつ終に軍に打勝ち、貞任をば首を取り、宗任をば虜りて上洛す。貞任が長九尺五寸、宗任は遥かに劣りて六尺四寸ぞありける。頼義の宿所にありけるを、卿相雲客達、「吾妻の夷、さこそはをかしく侍らめ、いざ行きて笑はん」とて梅花を一枝手折りて、「宗任、これは如何に」と問ひければ、宗任取りあへず、

我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん
と申したりければ、皆しらけてぞ帰りける。さて宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁昌して今にあり。松浦党とはこれなり。(後略)

え〜と、簡単にいうと、源頼義は前九年の役で勝利し、敵将の安倍貞任は殺して、その弟の安倍宗任は捕虜として都へ連れて帰った。
都では貴族たちが、奥州の蝦夷を一目見ようと集まってきたが、その中の一人が梅の花の一枝を見せて、「宗任、これは何であるか」と、辺境の人々には都の風流が理解できないだろうと侮蔑を込めて問いかけた。そしたら宗任は歌を詠み、
「我が国では梅の花と言うけれど、都では何と言いますか」
と答えたので、みんなびっくりしたと。
後に宗任は筑紫に流されるが子孫は繁栄して松浦党となった云々。なんとも楽しい逸話である。
ちなみに、安倍晋三総理大臣は、なんと安倍宗任の子孫らしい。
そして、安倍宗任が守っていたのが鳥海柵。「とのみのさく」と読む。
胆沢川の段丘を利用した軍事拠点であったらしい。
前九年の役では、安倍氏は衣川柵の陥落のあと、厨川柵(盛岡市)まで撤退したので、鳥海柵では戦いは行われなかったようだ。


松浦党研究連合会解散に伴う後継組織の講演会に大分市の安倍貞隆氏の講演を設定した事から書き始めた佐賀県武雄市山内町「鳥海」の話を書きましたがその真偽はともかく無関係ではないのです。

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2026年04月25日

ひぼろぎ逍遥 スポット324 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1141 の先行掲載 「鳥海」❶ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…?

ひぼろぎ逍遥 スポット324 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1141 の先行掲載

「鳥海」❶ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…?

        20260203

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


今回の話の伏線には神功皇后の三韓征伐の話があります。まずは、そこから始めたいのです。

 そもそも神功皇后に関する話は、少なくとも畿内では本気で考えられた事がないはずで、増してや、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」で“高良玉垂命(第9代開化天皇)と神功皇后は夫婦なり…”更には通説で応神の子(笑ってしまいますが)仁徳天皇が、このご夫婦の長子とするなど狂気の沙汰と成るはずなのです。

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右手のコンビニの方向が「鳥海」で、つばめが停車しているのがJR佐世保線永尾駅です。

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この鳥海川は上流の犬走地区から流れ出しており(圃場整備事業で河道が変更されていて判然とはしませんが…)、かなりの流域面積を持ち古くは相当の流量があったものと考えられます。

 無題.pngしかも、少し東まで流れていたら、その水は有明海側の旧武雄町方面に流れていたはずなのです。

 正しく、山上の縁の様な所を廻り込み松浦川本流に注ぎ玄界灘側に流れているのです。

 このかなりの深さを持つ鳥海川はJR永尾駅構内を蛇の様に暗渠で横切り北流しているのです。

 何度か大雨の時にも訪れた事がありますが、かなりの水量と流速があり、言わばウオータースライ

ダーなみに唐津まで流れ下っているのです。

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この永尾駅周辺は標高80m程度ですが、逆に言えばそこから数百メートル東から一気に標高10mほどの武雄町(平成の大合併で山内町は武雄市に編入されました)に駆け下る事になるのです。                                             

次に、この点から本題に入ろうと思うのですが、その前にお断りしておこうと思うのは、大字鳥海が実際には二つに分断されている事をご紹介しておきます。

 あまりない事ですが、昔に遡る飛び地なのかも知れませんが、経緯については調べていません。今のところ全く不明です。

 ここから、今回のテーマである有明海側から玄界灘側への移動ルートについて考えて見たいと思います。

 想定しているのは47世紀の倭国です。

 まあ、地形も道路もかなり違っているでしょうが、大きな地形の変化はないはずで、現在、武雄市役所の有る一帯まで感潮域で、大潮の満潮時なら、相当奥まで(つまり、河口堰、海岸堤防が無いのですから)現在の武雄市役所正面には有明海が広がっていたはずなのです。そして鳥海の直下には川が入っていたはずなのです。


AIによる概要                「武雄温泉 神功皇后が舟を着けた」で検索

武雄温泉(佐賀県)には、神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる開湯伝説があり、皇后が三韓征伐の帰途にこの地へ兵船を停泊させたという伝承が残っています。

無題.png関連する伝説やスポットは以下の通りです。

御船山(みふねやま)

神功皇后が新羅からの帰りに御船(兵船)を繋いだ(着けた)ことに由来して名付けられた、武雄のシンボル的存在の山です。

開湯伝説(柄崎の湯)

神功皇后がこの地を訪れた際、持っていた矛の柄(つか)で岩を突くと、そこから温泉が湧き出たと伝えられています。

この伝説から、かつては武雄温泉を「柄崎(つかさき)の湯」と呼んでいました。

武雄神社 武雄神社は『武雄神社本紀』によれば、神功皇后が帰途に武雄へ立ち寄った際に船が御船山へ姿を変えた、という伝承と関わりがある神社です。

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この縮小のグーグル・マップでも杵島山、花島、長島、御船山に高橋、芦原など海を思わせる地名が拾える上に、武雄温泉の東にある高橋駅正面に有る鳴瀬地名が決定的だと思うのは、有明海の潮が引潮となり潮が落ち始めると、杵島山との間で幾つかの河川が集中し奥まで入っていた武雄湾=六角川の潮が流れ出す時の轟音が鳴り響くために鳴瀬と呼ばれたのです。

 花島地名の南に大日如来にちなんだ大日地名がありますが、ここには六角川(旧潮見川)の大日堰が設置されています。ここには国交省所管ですが、生物調査で有明海に棲む草フグが採集されていました。実際にはこの上流にもまだ潮が上がるはずでだからこそ小規模ですが河口堰が置かれていたのです。

 ここまで申し上げれば、神功皇后の三韓征伐の折、嬉野温泉(嬉野市)に傷ついた将兵を湯浴みさ

せた、神功皇后は「肥前の高橋の津に凱旋した」(福岡県朝倉市の林田の三奈木神社の由緒)、神功皇

后も柄崎温泉(武雄温泉)に湯浴みした…といった話が残っている事がお分かり頂けるでしょう。

 ここで、話を少し変えます。実は、武雄市の武雄町下西山には「枯れ木塔」という奇妙な地名があります。            長崎に向かう国道34号線と佐世保向かう35号線の分岐点辺り

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以前この事が気になり、この一帯の「浦」地名を調べたことがありました。現在でも、JR武雄温泉駅の正面は西浦町ですし、34号、35号分岐点以西の武雄川流にも5つ程の○○浦なる地名が拾えた事を覚えています。

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東北地方まではともかく、特に九州では大体馬鹿にされるのが落ちですが、以下をご覧ください。

AIによる概要                           アイヌ語 塔地名で検索

無題.pngアイヌ語に由来する「塔」の字を含む地名は、主に北海道や南樺太に見られ、多くは「トー(=沼、湖)」や「トウ・トゥ(tu=山、丘)」という言葉の音に、漢字の「塔」を当てたものです。

主なアイヌ語由来の「塔」地名は以下の通りです。

塔路(とうろ)

無題.png場所:南樺太(現・ロシア連邦サハリン州)

由来:アイヌ語の「トー・オロ(tō-oro=沼・のところ)」、あるいは「トゥ・オロ(tu-oro=山・のところ)」。

塔岩(とういわ)

場所:北海道十勝地方

由来:アイヌ語の「トゥ・イワ(tu-iwa=山・の岩)」などの音当て。

塔下(とうした)

場所:北海道内各地に見られる地名。

由来:「トウ(沼)」の下(川下や麓)にある場所を指すことが多い。


 アイヌ語では湖を意味するのは柳田の「遠野物語」でも良く知られた話です。

 湖の傍の原っぱ程の意味でしょうが、かつては34号、35号の道の合流部は水も集まる場所だった訳で(古代には川がそのまま道だったのです)、枯れ木の塔の地図の正面に園田病院という精神科の大きな病院が在るのですが、以前、お聴きしたところ、病院建設敷地は沼で、病院の関係者からそこを埋め立てて造られました…と言われた事を覚えています。

 もう30年以上前に「九州の先住民アイヌ」根中 治氏の本を読んだ事もありました。関連して波呂地名を紹介しておきましょう。この波呂地名は鹿児島県阿久根市、それに京丹後市にも確認しています。ひぼろぎ逍遥400(アメブロ)…

 さて、山田秀三と言えば押しも押されもせぬ高名なアイヌ語学者でしたが、根中氏は同書で山田秀三氏の『北方の古代文化−アイヌ語族の居住範囲』を引用しながら、西日本におけるアイヌ語地名の存在をかたくなに否定する山田秀三氏その人も含む地名学の重鎮達のアカデミズムに対して疑問を投げかけておられます。

・・・数年前に、福岡県の糸島郡を歩いていたら、浦志とか、波呂とかいった地名があってびっくりしました。浦志は先ほど北方に多くのウラミナイやウラシベツのあることをご説明しました。波呂に似た名は、北海道の北見に芭露ぱろという地名があります。パロ(Paro)は川口や沼の口という意味でよく地名に使われる語です。また、パ行音が和人に引き継がれる時にハ行音になることも先ほど申しましたとおりであります。

だが西のほうに、こういった形の名がところどころにあるというだけでは、そのままこれをアイヌ語系地名であると判断する勇気はまだ出てきません。・・・

『北方の古代文化−アイヌ語族の居住範囲』山田秀三

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話が多少逸れましたが、先に進みましょう。

 武雄川の奥にもかなりの浦地名が存在することは話しましたが、兵員、物資の搬送は、三韓征伐は唐津から更に西に向かい対馬海流に乗るのが効率的である事は明らかです。

 一方、四道将軍による東への進出=侵攻は、九州から瀬戸内海コースと日本海コースで、東、北へ列島を北上する事であり、太宰府、筑紫野地峡を進めば良いため、必ずしも武雄〜唐津ルートに拘る必要は無いのですが、神功皇后の主として新羅、三韓への侵攻と丹波、北国への侵攻には補給路としては極めて安全で有効だったはずです。

 勿論、長崎半島(野母崎)は論外ですが、諫早地峡(この地には三つの船越地名が残されています)〜大村湾〜早岐の瀬戸or西海橋〜九十九島〜平戸島(南、北)を大回りするよりは効率的だったはずです。

 ここで考えるのですが、朝鮮半島の西の場合は長崎県口之津と島原〜大村から、半島or半島以東は、物資、兵員の量にもよりますが、山内(鳥海)地峡を越えさえすれば、筏を編成し松浦川のウォーター・スライダーを利用して流せば、半日〜程度で、安全かつ効率的に送り込めたと考えられるのです。 

 その意味では、大宰府=二日市地峡を搬送するには水量が少なく、コースが短かいとしても松浦川の滑り台には劣るように思えるのです。

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多分、以前から不思議に思っていた三間坂という奇妙な三文字地名はこの巴形の谷(耕作地)なのかも知れません。まあ、それは良いとして、山間地にこれほどの可耕地が在る事も雨量水量が運び出す土砂が造り出した豊かで平坦な土地が有ったからですが(犬走の奥は日当たりが良いものの元はは傾斜が急な棚田です)、ここが兵站(物資集積)基地であったとすれば、有明海全域から左回り(コリオリ)の潮流で山内の鳥海の直下の武雄川最奥部まで送り込み、高低差70mを持ち上げれば、後はのんびり唐津に送り出すだけで完了するのです。

木材はこの一帯で調達し随時流し、兵員、糧秣外は筏で送り出すとして、後は武雄川の限界点から、斜めの釣瓶を何基も設置し送れば良いはずなのです。

杣人とは後の時代の言葉でしょうが、山に入り木を切り出し筏や舟を造るのは往々にして海人族で、安倍の貞任、宗任の一族が高良玉垂命(藤原が第9代としたせざるを得なかった開化天皇)の腹違いの大彦の末裔であることとも対応するのです。

そもそも、神功皇后の三韓征伐にも白江(白村江)戦にも志賀島の海人族の存在無くしては成立していないであり、近畿大和の勢力やったなど大嘘以下のお伽噺であり偽装でしかないのです。

山内町の「鳥海」(トノミ)も海人族が付けた地名あり、以下の岩手県金ケ崎町役場の資料の同町の名も宗像の鐘ケ崎に縁故を持つ人々が移り住んでいるのです。

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 以下は、宗像市の鐘崎、金ケ崎とも呼ばれています。東京都墨田区の金ヶ崎はなく鐘ヶ淵で鐘ヶ淵

は鐘ヶ淵紡績後のカネボウ化粧品のルーツで無関係しておきます。

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2026年03月31日

ひぼろぎ逍遥 スポット322(跡宮)A1140 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」の先行掲載

ひぼろぎ逍遥 スポット322(跡宮)A1140 「鳥海」地名を探る…安倍宗任と「鳥海」の先行掲載

        20260131

 太宰府地名研究会 古川 清久

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山形〜秋田へと広がる鳥海山


二県五市に跨る中近世を対象とした旧「松浦党研究連合会」の解散に伴い、新たな活動を開始した独立系の研究会にお誘いを受けたのは2025年の夏でしたが、既に三回目の研究会が開催されようとしています。今後、どのような発展を遂げるか期待しているところです。

 三回目の講演にお呼びしたのは前九年の合戦によって滅んだ東北の安倍氏の流れを汲む、安部の宗任34代安倍貞隆氏(大分市在住)です。

 221日(土)に伊万里市の生涯学習センターで古代のルーツを知る会主催でご講演頂く予定です。

 そこで、安倍さんの紹介をして頂きたいとの依頼を受けたことからお引き受けしたのですが、短い講演時間を削る訳には行きませんので、ご紹介は文面で配布させて頂こうと書いたのが前ブログでした。そこで、とりあげたエピソードを改めて掲載しておきます。以下。


初めて貞隆さんにお会いした時にも出た話ですが、私も関心を持っていたテーマですのでご紹介したいと思います。、

弟の宗任(鳥海三郎)と前述しました

安倍 宗任 (あべ の むねとう)は、平安時代中期から後期の武将。陸奥国の俘囚の長とされる豪族、安倍氏の安倍頼時の子(三男)。鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。             「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 による

俘囚の長なるふざけた表現は、民俗学者の谷川健一(直接聴いてます)も含めよく耳にしますが、

 佐賀県の伊万里から武雄の中心に移動されるとして山内町を通ると、JR佐世保線の永尾駅の正面に鳥海(トノミ)という地区が在る事をご存じの方は居られると思います。

 東から鳥海川が流れ込み、舟原地区から流れ込む西からの河川と合流し昔から沼沢地が存在していただろうことは一目で、大雨が降れば海に成る事を昔は良く見ていました。

 恐らく、古代には多くの水鳥の棲みついた沼だった事でしょう。この鳥海川は数キロ降ると、西の青螺山を源流とする松浦川と武雄市武内町辺りで合流し唐津湾に注いでいるのです。

 安倍宗任もそのような沼沢地に近い河川合流地を拠点にしていたと思うのです。

 この「鳥海」という地名や屋号など全国にも散見されますが、一番有名なのが帝国海軍の重巡「鳥海」の元となった鳥海山の秋田、山形ですが、かつては実際に秋田県にも鳥海町もあったのです。

 私がこれも同じだと思っているものに、チューリップで有名な富山県の砺波平野(現砺波市)で

す。「ナ」と「ノ」は全く違うと反論がきそうですが、ナも所有の格助詞で、「そこおなご帯を解け

…」とは悪代官などがしばらく前まで使っていた普通の言葉なのです。

 古くは、「マコ」、「タゴコロ」、「川タゴ」(昔は田んぼの用水路にたくさんいたものです)…と普通に使われていた言葉なのです。まあ、本題から逸れ過ぎましたのでここで止めておきます。

では安倍一族とは何なのか…(俗称「金神神代系譜」部分から

百嶋神社考古学を根幹とする当グループとしては、以前から大彦の流れで久留米の高良大社の高良玉垂命の腹違いの兄の一族であるとしています。以上引用終了。


鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。は、「安倍宗任」で検索したウィキペディア20260131 11:53 によるもでしたが、「鳥海弥三郎宗任」とも呼ばれているのです。


鳥海の山名がどういう関係でつけられたかは、この山の変遷をたどる上で、見のがすことができない。鳥海という山名が記録の上に現れたのは、和論語の中に鳥海山大明神とあることに始まるとされている。

 鳥海山の号は国史に見る所なし。和論語に鳥海山大明神と出づ。三代実録には飽海の山とありて山名を記さず。(大日本地名辞書)

 無題.png和論語が作られたのは、丁度頼朝の時代で、鳥海の山名はこの時までには、すでに一般から呼ばれていたと思われる。

 この山について変遷を考えると、古くは大物忌の神山、北山、飽海の山とか呼ばれていたようで、鳥海と呼んだのはその後のことであった。飽海の山というのは、由利郡にはまだ設置されず、飽海郡内の山であったからそのように呼ばれたのであるが、後世長く呼ばれた鳥海の山名は、どうしてできたのであろうか。結論からすると、安倍氏の全盛時代安倍宗任(むねとう)の所領がこの方面にあったことによるものとするのである。なぜかといえば安倍宗任を鳥海弥三郎宗任※と称したことである。そのわけを調べると、宮城県亘理郡に鳥海の浦という所があって、ここが宗任の誕生地であるところから、その生地にちなんで鳥海弥三郎と称したと推定される。


無題.pngによる

第八代天皇である孝元天皇の第一皇子であり、日本書紀では「大彦命」、古事記では「大毘古命」と表記されている。日本列島の四つの地域に派遣された『四道将軍』の一人で、彼は北陸に派遣されたという。また、大彦はかの有名な陰陽師である安倍晴明を輩出している一族の「阿倍臣(後の安倍氏)」を始めとした諸氏族の祖とされている。無題.png

私達は通説派とは全く異なりますので、四道将軍は、高良玉垂命と神功皇后の指揮下で臣下の崇神=ハツクニシラススメラミコト(この男は天皇でもなんでもない)が、大彦(日本海航路)と共に崇神の息子が会津で出会ったから会津と言う…という日本書紀の記述と成っているのです。日本書紀は阿蘇氏の一派の末裔である藤原が創りでかした話なのです。

 ともあれ、日本海ルートで北上した結果、秋田、山形に鳥海地名が在る事は納得も行くのです。 その後も、九州王朝系の人々が何派にも亘り東北の開拓に入っている可能性が有るのです。それが岩手の菊池、菊地姓であり、これまた、帝国海軍の軽巡洋艦の阿武隈ですが、二等巡洋艦は通常、川の名から取られるのです。当然にも福島県宮城県に流れる北上川に次ぐ東北で二番の川である阿武隈川という地名にも現れているのです。正に安倍氏の住んで居た隈(雑餉隈など九州限定の地名が東北に飛んでいる事からも大彦は九州から移動した氏族の一員だった)なのです。そして、この阿武隈川の河口にも鳥海が在るのです。

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さて、ここから「鳥海」地名を拾ってみましょう


佐賀県武雄市山内町鳥海は別稿としますが、南の茨城県からサンプリングを始めることにします。


 茨城県 企業名、店名では確認できますが、市町村名、字名…は確認できません

❷ 福島県 福島県大沼郡三島町大登に「鳥海館跡」が確認できます。

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「日本書紀」の四道将軍による合流により会津と言う…に大彦の末裔としての宗任に関連する「鳥海」地名が確認できることから、会津へのルートは、安倍宗任に関連する「鳥海」地名の存在はやはり柏崎刈羽から上陸した安倍氏が魚沼郡を経由し沼沢湖畔の金山町から猪苗代湖の会津に入っている様に見えますね。因みに金山町と会津若松間の距離は60キロ程度です。

無題.png 秋田県由利本荘市に鳥海町が在りました。

由利本荘市は、秋田県の南西部にある市。20053月に本荘市、由利郡矢島町、岩城町、由利町、西目町、鳥海町、東由利町、大内町が合併し誕生した。

歴史・沿革……近世の藩領制において、秋田県の大部分が秋田(佐竹)藩であったのに対し、由利郡は、亀田藩、本荘藩、矢島藩、仁賀保氏領、幕府領に分かれ、鳥海町は、北に隣接する矢島町、東由利町とともに矢島藩に属していました。矢島町が武家、町人の居住地域であったのに対し、鳥海町、東由利町はそれを取り囲む農村部の位置づけになります。鳥海町は、昭和30年(1955年)に川内村、直根(ひたね)村、笹子(じねご)村の3村が合併して鳥海村となり、昭和55年(1980年)に町制を施行して現在に至っています。町役場、中学校のある川内地区、鳥海山麓の直根地区は矢島、本荘方面との結びつきが強く、一方の笹子地区は東に接する雄勝郡羽後町、湯沢市方面との交流が盛んです。

これについては、南の鳥海山起源で付された町名の様です。起源としては浅いようです。

❹ 岩手県一関市大東町鳥海 この南西には平泉がありますね

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❺ 青森県平川市沖館

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これも後発の名称と言うだけで、直接的に宗任とはかんけいは無いようです。

何れにせよ、これだけで何かが分かると言った事にはならないでしょう。


❻ 山形県鳥海山                   

どなたもご存じの鳥海山


鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん)は、山形県と秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)、山形県では庄内富士(しょうないふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。鳥海国定公園に属する。日本百名山・日本百景の一つ。2007年(平成19年)に日本の地質百選に選定された。2009年(平成21年)に国史跡「鳥海山」として指定された。

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何故、鳥見山と呼ぶかを探っていましたが分かりません。一応、「トリミヤマ」と呼ばれていたとは出て来ましたが、山頂の湖を鳥海湖と呼んでいるからではもちろんないでしょう。

 山頂の湖に大量の水鳥が棲みついているとも思えないため、やはり裾野の沼沢地(池)が語源だろうと考えてしまいます。

 ただ、東北一帯に分布する「鳥海地名」が、西日本の中でも孤立して佐賀県の一画に存在するのかも良く理解できません。

 以下の想像は余り分かって頂けないとは思うのですが、少し頭に過る事があるのです。

 ひねり出した様な話ではあるのですが、東北の安倍氏は大彦の末裔と言うのは通説でも理解できる話であって、日本海ルートを北上した四道将軍の一人が大彦とすると、


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

ウィキペディア20260201 1724による


 無題.png勿論、通説とは異なりますが、百嶋神社考古学の立場からは、北陸道は大彦(具体的には高良玉垂命の腹違いの兄で武内宿祢の実弟)百嶋由一郎金神系譜=安部氏、山陽道は吉備津彦命(孝霊天皇とハイイロネの間に生れた桃太郎)百嶋由一郎最終神代系譜、東海道は彦坐王=天足彦(名目的には開化天皇=久留米の高良玉垂命の子であり実態は草部吉見と自らが滅ぼした長髄彦の妹武内足尼の間に生れた子)、丹波国は丹波道主(伊勢の外宮様と草部吉見の間に生れた息長水依姫と彦坐王=天足彦の実子)詳しくは神代系譜参照の事。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


東海道を武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)が進軍したとするのですが、この人物はナガスネヒコの乱を鎮圧した実行部隊で妹を妃にしているのです。百嶋は名目的には開化の子としているとしていました。その意味は、保障として開化が世話をしたのではないかと考えています。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


重要な点は、藤原が第9代とした開化天皇とは呉の太白の血を引く福岡県久留米市の高良大社にいた高良玉垂命で大彦の本拠地も大分県大分市です。彦坐王も福岡県東部の彦山北麓辺り、丹波道主も博多の櫛田神社の交易拠点で京丹後市には日本海側最大の前方後円墳が存在しているのです。

このように、全て九州から進軍しているのであり、通説派は畿内から四方に送り込んだように説明しているのです。

 まあ、この通説派の話は為にするだけのものですからここまでとして、要は九州から進軍しているとすると、「鳥海」地名が佐賀県に在る事が意味を持つのです。

 それは、神功皇后の三韓征伐問題でも気付いていたのですが、それは、この佐賀県武雄市山内町から松浦川が流れ唐津湾に注いでいるのです。

 人口は有明海側に集中しており、玄界灘側には今でも農耕地(水田)が少なく、兵員、資財、糧秣の輸送を考えると、ここほど便利な場所は無いのです。

 松浦川には現在でもダム、取水堰、河口堰が存在せず、周辺の木材を伐採し筏さえ組めば、半日、休憩を入れても一昼夜あれば容易に輸送が可能なのです。

 この佐賀県の「鳥海」辺りは標高80m程度で、武雄市中心部から西5キロ程までは舟でも移動でき

そこから、80メートル物資を運べば、一気に玄界灘側の唐津に送りだすことが可能なので、日本海側を進軍したのが大彦=安倍氏とすると、この補給廠(基地)とも言うべき土地を知っていた可能性があるのです。

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美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は、福岡県朝倉市林田にある神社。

祭神 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸病にかかり崩御された。皇后はこのことを秘し、その根幹新羅を討つべく、出師の計画を立て、兵員を集め、兵船・軍器を整え、神々を祭って日本最初の外征に肥前名護屋から出征して無題.pngいった。皇后は航海中船中で素戔嗚尊・大己貴命・事代主命の3神に戦勝を祈願された。

海上つつがなく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗・百済も来貢し、肥前・高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である。ウィキペディア(20180125 1012による

朝倉市にはミナギ神社と呼ばれるものが二つあります。

福岡県朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社

一つは、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社で、もう一つは、今回、取り上げる朝倉市林田210(旧蜷城村)の美奈宜神社です。

「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。


…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…(同社御由緒)


083 朝倉市林田の美奈宜神社社伝に驚いた! 神功皇后は肥前の高橋津に上陸し武雄(柄崎)温泉で湯浴みした”


つまり、神功皇后はおろか開化天皇さえ(欠史8代)消し去ろうとする通説派(畿内説論者)は神功皇后の三韓征伐から有明海側への凱旋など絶対に否定したかったのです。

 その意味では、林田の美奈宜神社社伝は真実を伝えているのです。

 一方、朝倉市荷原2421(旧三奈木村)の 美奈宜神社は、日田の大原八幡宮の宮司家(大蔵氏=後漢霊帝の後裔阿智王の一族)が後に入っているため、由緒が全く異なるのです。

 これについては長く成るため別稿とします。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット