2026年03月09日

ひぼろぎ逍遥 スポット322 「IKIGAI」いきがい のご紹介 ❶ 博多の櫛田神社

ひぼろぎ逍遥 スポット322 「IKIGAI」いきがい のご紹介 ❶ 博多の櫛田神社


 太宰府地名研究会 古川 清久


「九州の神社仏閣巡りガイド 」「IKIGAI

発行所 西日本新聞社メディアビジネス局  取材編集・制作・印刷/西日本新聞プロダクツ

無題.png

当会の2026年新春三社詣り神社トレッキングは、うきは市で行いました。

2月に入り山奥で寒さに耐えていると、当会のメンバーからIKIGAIが送られてきました。

この手のガイド・ブックは、所謂、行政機関が関与する地域振興ものが多い中、なんと九州最大規模の「西日本新聞社」によって発行されているのです。

新聞業界は関連のTV、(ラジオ局?)と併せ存亡の問題を抱える中、新たな展開への模索を行っているのでしょうか?…ペーパーはデジタル化されるとしても、情報ソース自体を準備するにもそれなりの人材とノウハウの蓄積は必要にはなる訳で、新たなマン・パワーは、その時代の展開の中にあっても、であるからこそ必要であって、凡そ「芸」とは言えない芸人や使命感の全くない役人などに置き換えることはできないはずなのです。

特に、戦後、神社研究自体が米国とそれに自ら迎合した在日、在中勢力によって放置され抹殺された上に、兼務が進む中、宮司も禰宜も氏子総代も古老も自分達の神社についても何も知らない時代が目前に迫っているのです。

 ところが、手にしたこのガイド・ブックは、一見、所謂村興し町興し、果ては世界遺産登録と言った愚かしさと集りといったものが全く無く、非常に誠実で落ち着いたものに仕上がっているのです。

これは西日本新聞社の「脳活新聞」が発行するフリー・ペーパー(令和8年版)で2月から無料配布されているものだったのです。

 そこで、エールを贈ると言うほどの事はないのですが、取り上げられる範囲で少しずつご迷惑にならない範囲でコメントを加えていこうと思うに至りました。

 ただ、当会及び当サイトの姿勢は極めて辛辣で、真実を探求する立場は変わりませんので、その範囲でお読み頂きたいと思うのです。

 勿論、個人的に依怙贔屓は在るのですが、まずはランダムに気分次第で一社ずつ取り上げて行きたいと思います。当方の理解能力もありますので、取り上げられない神社も、暫くは延期したい神社、結果、取り上げない…ものも出て来るかと思いますがその点はご容赦頂きたいと思うものです。

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著作権侵害にも成りかねないためご紹介に留め縮小しています。

詳しく読みたい方は御面倒でも拡大してご覧ください。

さて、櫛田神社に関してはトレッキングも含め何本も書いていますが、幾つかご紹介しましょう。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

770

熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した

新ひぼろぎ逍遥

スポット227 再び博多の櫛田宮について

博多の櫛田神社の祭神とは、中央に大幡主=神産巣日神(カミムスビ)、左に天照皇大神、右にスサノウを祀っています。

元々は祇園神社であることからスサノウは良いとして、以前から天照が何故祀られているのか、そして、その神紋が桜であるという一点が理解できない不可思議な謎として漂っていました。

當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平寶字元年託宣により大幡主大神を鎮祭した。天照皇大神の御鎮座は之より更に古い。素盞鳴尊の奉祀は天慶4(941)追討使小野好古が反亂の鎮定に下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による。…


「天照皇大神の御鎮座は之より更に古い」についてはかなり疑わしいと考えています。

まず、その前に、天照が桜の神紋を使う事が理解できません。そのような例があるのでしょうか?

その上に、天照祭祀をことさら古く描こうとする上記の行は、ただのご都合主義か?つじつま合わせなのか、強弁なのか、他の権力からの圧力なのかまだ分かりません。

無題.png勿論、天照は糸島〜福岡に掛けて実際に住んでいたと思われる事から古層の伝承を残している可能性も考えておく必要はあるでしょう。

一般的に桜の神紋を使うのは大山祗、その娘のコノハナノサクヤ、多少拡げてその兄の大国主命(百嶋神代系譜による)の一族は桜の神紋を使うのです。

社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し昭和40年(1965年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や昭和54年(1979年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』はこの説を取り上げている。しかし、それは同市早良区の櫛田神社のことであるという反論もある。

戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。

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明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。                    ウィキペディア(20200210 12:59による


この問題に直面し何度も考えたのですが、櫛田神社の境内社である石堂神社を再確認した事から謎が解け始めました。

櫛田宮の神殿背後地には、石堂神社以下数社の数基の鳥居と境内社が並べられた神域があります。

神殿背後地だけに余程偉いか古い神様か、神社創立以前の祭祀が凍結されている可能性があるのです。社殿裏に並んで8社が鎮座します。この規格の揃った鳥居は松尾神社、諏訪神社、金刀比羅宮、皇大神宮、竃門神社、今熊野神社、天満宮、石堂神社のものなのでしょうか。

そして、石堂宮の神紋を見ると桜であることが分かります。

ご丁寧に大幡主系の亀甲紋と桜との合併紋なのです。とすると、櫛田宮、石堂宮、祇園社の祭祀形態が石堂宮を廃され天照皇太神に換えられた可能性が見えてくるのです。では、石堂宮とは何なのでしょうか?

博多祇園山笠では全流全参加者によるお汐井取り(おしおいとり)が行われます。

お汐井取りですが、舁き手たちは筥崎宮を参詣し心身を浄め、櫛田神社を参詣する行事であり、石堂川(御笠川の河口部分を石堂川と呼ぶ)にかかる石堂橋から箱崎浜へ「お汐井道」と呼ばれる小道をたどり箱崎浜を目指し、そして櫛田神社のある博多区まで戻ってくるのです。

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その行程は約10キロ。全参加者が一同に集まるのです。

これが、船を山越させる船越の名残であり、その実戦経験を保つ言わば軍事行動であることは、

ひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥

687

船 越

でも取り上げていますが、御汐井汲み神事と繋がる海神族の祭祀と関係があると思われるのです。

この祭祀が宗像三女神の市杵島姫、豊玉姫を象徴しているとすれば、石堂宮とはその二人の女神であるウムガイヒメ、キサガイヒメをお妃とした宗像大社の本来の祭神の大国主命(コノハナノサクヤヒメの兄、大山祗の息子)を意味していることになるのです。

天御中主、大幡主、事代主、大物主…

つまり、大幡主(カミムスビ)への入婿であり、その証拠に、大国主命は「主」(ヌシ)という尊称(呼称)を使う事が許されているのです。

これが分かれば、現在の祭祀形態に先行し、大幡主+大山祗+スサノウという強力なトリオ、トリロジーが存在していた可能性が見えてくるのです。

この石堂宮が大山祗系民族(氏族)=トルコ系匈奴(大国主、コノハナノサクヤ、ミヅハノメ)を象徴するものであろうことは、これまでの事前調査である程度の推察が可能です。

詳しくは、以下をお読み下さい。

一気にドライブを掛けた話にしましたが、以下から読まれる方が無難でしょう。


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熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

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タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


623 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu          20180728


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえればアフガニスタンの

カブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があ

ります。

他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

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Ta Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石城山 石頭城)


古代ギリシャからは「トリスラピディア」とも呼ばれていたとか…。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、“この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」(いずれも中国表記)と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(玉名市の石貫地区、西都市の石貫神社の石貫も石ノ城=石城山を意味するのです)。

当然、山口県光市+多布施町の石城山神籠石もそうですし、石動=イシナリ(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動)もそうですし、石堂宮の石堂もこの「石頭城」「石城山」の置換えなのです(東北の岩木山も…)。それで、桜を神紋とする大山祗祭祀が先行して存在し、後に天照祭祀が割り込んだのであろうと考えるのです。

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詳しく説明しても良いのですが、自分で調べなければ頭に残らないのでご自分で検索してお読み下さい。

ついでに申し上げれば、境内に置かれた「花本大神」の石碑が松尾芭蕉の俳号が起源であるという話が23本ならまだしも、230本、ほぼ同じトーン、同じ内容で見事にネット上に羅列されているのです。

その成否はともかくとして、自らの頭で考えようとしないのか、肖り、集りなのか、単なる安心感なのか、まず、この独創性の欠如だけには呆れてしまいます。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

372

花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と

豊後大野の宇田姫神社について”

参照を

博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭ですが、山笠が置かれる辺りの、少し奥まった場所に、ひっそりと、しかし、かなり大きな石塔(石柱)が建てられ、そこには「花本大神」と大書されているのです。

 これに関しては前述のとおり、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるとされているのです。

 ところが、百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。恐らく、全てをご理解だったのだと思います。

勿論、これについてはただの手書きメモが残されているだけで、それ以上の事は聴かされてはいませんが、ようやく大方の見当が付いた事から、後世の研究のためにも所見を残しておこうと思うものです。

真実の歴史、古代を探索するならあり得ない話であって、少しは余計な話をさせて頂きます。

もう十年近く前でしたが、大分県豊後大野市の神社調査を行っている時、同市の清川町に鎮座する宇田姫神社に参拝しました。この神社の由緒を読んで見ると、華の本」の故事が書かれており、直ぐに博多の櫛田神社の花本大神の事が頭に過ってきたのでした。

少し込み入った話になるため、ここでは短絡する(される)ことのないように、まずは同地の無題.png宇田姫神社の祭神である宇田姫様が「華の本」と呼ばれている(いた)事だけをお考え下さい。

 さて、宇佐神宮とも覇を競った大神一族(元々緒方の一族は、祖母山の豊玉姫の遣いである大蛇が夜な夜な郷に降り、大蛇の子を宿して生まれたのが大神惟基で大蛇の化身とされたのでした)が豊後の大野郡や直入郡に蟠踞していた事は知られています。

しかもこの一族は大神比義として宇佐の宮司家でもあったのです。

特に惟基は大蛇の子として知られ、宇佐神宮焼き討ち決行し後に処断された緒方三郎惟栄(大神惟栄)、「平家物語」(巻第8「緒環」オダマキ)にも登場しているのです。

 櫛田神社を筆頭に“芭蕉の神号“といった事で納得されている分には、それはそれで結構だと思うのですが、真実の歴史、古代を探索するものとしてはあり得ない話であり、ネット上に芭蕉の神号説が如何に大量に複製されていようが、孤立した旗を高く揚げておこうと思うものです。

 なお、メンバーのブログ「宮原誠一の神社見聞諜」では天照は後にカミムスビと夫婦になっているという新研究を提出しておられます。これも謎解きの一環になるでしょう。注目を!


百嶋由一郎氏が残した神代系譜、講演録音声CD、手書スキャニングDVDを必要な方は090-6298-3254まで

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あとがき


 始めに櫛田神社を取り上げたのは、太宰府天満宮、宮地嶽神社に続き、九州島でも最も重要な神社と考えるからです。

 一つは古いからと言う意味と、造化三神(AI様に従えば、『古事記』の冒頭、天地開闢の際に高天原に最初に出現した、万物生成の根源となる3柱の独神:性別がない神です。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神を指し、宇宙の起源や生成化育の神として崇められます)の御一人だからです。

 故)百嶋由一郎に依れば、性別がない神では勿論なく、天之御中主神は肥後の八代に上陸した妙見宮の主神、櫛田神社の主神である大幡主の父神=白川伯王の姉であり、高御産巣日神は雲仙、高千穂、久留米の高良山、彦山…に拠点を移した高木大神なのです。

そこで、櫛田神社で現在も主神とされる大幡主ですが神産巣日神その人であり、勿論、男神です。

その後継者である豊玉彦=豊国主は、京都の下賀茂神社の鴨玉依姫の父神=八咫烏なのです。

 しかし、この造化三神が全て九州起源(降臨以前は、大陸、半島…)とすれば、それだけでも、奈

良はまほろば…と嘯く近畿大和など一笑に付すべきでしょう。 

まあ、今更どう言っても、百嶋は古事記の95%は嘘と断言しており問題にならないのですが…。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 ここで、もう少し補足しておきますが、この一族は、大山祇系と金山彦系と相互に、嫁取り婿取りを繰り返し、強固な姻戚関係を形成していました。

 とりわけ、大幡主系と大山祇系は中断が無い様で(金山彦系は神武=勿論、初代神武カムヤマトイワレヒコとナガスネヒコとの衝突により中断し後に復活するのです)非常に強固だったのです。

 この事が、現在のシンボルに反映されている様に見えるのです。以下をご覧ください。

AI による概要によれば、福岡の櫛田神社には、祀られている三柱の神様に由来する3つの神紋があり、特に祇園宮(素戔嗚尊)の「三つ胡瓜(きゅうり)」が有名です。山笠期間中は胡瓜の輪切りに似るこの紋が避けられ、主に祇園宮と櫛田宮の紋が使用されます。 神紋の概要 祇園宮(素戔嗚尊): 三つ胡瓜(きゅうり)櫛田宮(大幡主命): 三つ銀杏(いちょう)としますが妖しいですね。

大神宮(天照皇大神): 桜紋(三つ桜)と言うのは明らかに後世の改竄でしょう。

どう見ても、櫛田宮の神紋は左から、祇園宮のスサノウは織田木瓜に、主神の大幡主は三つ盛亀甲に五三の桐、大神宮は桜ですね。

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天照皇大神が桜などと言うのは如何にも妖しく、元々はコノハナノサクヤ姫の祭祀であしらわれる大山祇系のシンボルですね。スサノウにしても、金山彦の娘櫛稲田姫を八岐大蛇退治で妃としたのです。つまり、金山彦系(ナガスネヒコの乱)、大山祇(熊襲=トルコ系匈奴)のシンボルを残しているのです。

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2026年03月04日

ひぼろぎ逍遥 スポット321 『雑録七幸神社史』(1) 小島宗光 掲載稿の掲載 ❶

ひぼろぎ逍遥 スポット321 『雑録七幸神社史』(1) 小島宗光 掲載稿の掲載 ❶

        20260125

 太宰府地名研究会 古川 清久


昨年3月に解散した「松浦党研究連合会」を母体に伊万里を中心に結成された 古代のルーツを知る会の中枢メンバーである小島宗光住職の文書を月一本ペースで掲載して行くことに致しました。

「松浦党研究連合会」と言っても余りご存じない方が多いと思いますので簡単に説明申し上げます。 
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「松浦党研究連合会」は全国にある郷土史会、史談会…と言ったものになるのですが、この手の会は、普通は集まりやすい纏まった地域に根差しており、市郡域を越え益してや県境を越える研究会には成らないのでした。

 その中で、佐賀県伊万里市を軸に唐津市、更には、県境を西に越え、長崎県の松浦市、平戸市、佐世保市にまで広がる通常の行政単位を越えた広域の民間研究団体が存在していたのでした。結成は、昭和52年ですからもう少しで半世紀にまでなる大きな郷土史会が存在していたのでした。

 その会も後継者を失い、昨年の3月で解散を決め、中心となっていた伊万里市のメンバーによる独立した再建が開始されたのでした。

その際、私にも参加しろと言う要望があったのですが、中近世など門外漢のためかなりの躊躇いはあったものの参加にすることになったものです。

それは、私自身が三ツ星を家紋に持つ橘一族である上に、幕末まで有明海側で小規模な廻船業を行っていた家系であった事から松浦党の一派だったであろうとの認識を持っていたからでした。

もう一つは、当会の北部九州全域をカバーできる調査体制を創るためにも、佐賀県から長崎県をカバーする必要もあるからでした。 既に、福岡県久留米市、筑紫野市、北九州市、熊本県西原村、大分県も不定期で会合を持っている事から、私達が考えている九州王朝探求への条件が整うからでした。勿論、松浦党は壱岐、対馬、五島から余り知られてはいませんが、有明海、不知火海…にも広がりも見えるのです。その意味では、不得意な中近世にも踏み込む良い機会を与えて頂いたと思っています。

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『雑録七幸神社史』⑴

はじめに

 伊万里市内に古代天文台址があったと知る人は少ないのです。

 かく言う私も「ホシミ」という地名には長く興味をもってきました。韓国慶州視察の折に新羅時代の善徳女王(在位六三二〜六四七)が築いた瞻星台(チョムソンデ)が星を観察する宗教施設であったと知りました。日本書紀によれば天武天皇(〜六八六)が占星台を設置する条をのべるにより、古代天文観測の不可欠を追って垣間見たのです。

 日本では神社と天文台の関わりが密接であったことから@、国内調査を試みました。「ホシミ」と「テンモン」はその代表的な地名であり、詳細を一覧するには至っていませんが見てとれる場所はあります。神社と天文台の関わりは(後の章で)述べますが「西海道第一番札所七幸神社」の事例をもって佐賀県伊万里市山代町楠久の跡形は認知できます。

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烏ン枕誌面に投稿するきっかけとなったのは平成291126日に行われた『楠久・津歴史ふれあい館オープン記念シンポジューム(フォーラム)』」にさかのぼります。このときシロウオ部会・グランドゴルフ部会・ホシミ部会の三部門を置き、町の活性化と会館活動の具現化を諮ることが住民会議で採択されたその日の議決でした。その後の議論は音沙汰なしのままシロウオ部会とパークゴルフ部会は楠久津行政区が所管することになりホシミ部会は取り残されたまま放擲されたことを耳にしました。

フォーラムの場では私は説明を求められなが(ママ)既に宙に消え失せて、何処かで抹殺させた犯人がいるのです。私の無力感と悲憤はやがて消えるとしても、貴重な遺産を無下に放棄された慚愧は堪えられず、有形無形の遺跡、史跡や文化財が滅亡してきた過程と同種であり、ここに導き出された結論はいかがなものかと承服できません。せめて採用できなかったという経緯と説明はあって然るべきです。

 古代天文台址の検証をありていのまま議論して、すがたを消した史跡の存在を一層あきらかにし、せめて、区民の賛同と反証を厳格に捉えて叱正と修正を得たいのです。碩学の諸賢もまちづくりの同胞も忌憚のない意見をお寄せくださり誌上で明らかに致しましょう。

 既決された意見だったのであれば筋や必要性が提出者の私には届いていません。不要性であることが答えであるならば根拠を持たない棒にも箸にもかからない愚にもつかない、意見とも中傷ともつかない行為ではなく明瞭な御意見を求めます。喧嘩を売るなら理屈はいりませんが区民や地域にとって根拠が不明瞭であっては公開議論さえ成立しません。

 論文堤上の齟齬を避けるため、私なりに意見の所在を整理して異合があれば正します。

歴史的な立証を必要とするのであれば、史実を証明す傍証すなわち代理証明に委ねます。物理的な証拠が現存しないかぎり、偽証罪に問われないためにも真実を掘り下げて述べる必要があります。


七幸神社の「存在」

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地域のほとんどが記憶から失われた七幸神社を、なぜ私は再興する意志をかためるに至ったかを概述しなければなりません。その「存在」は地域の皆さんに全く無かったのではなく常套したものが世代と時代の変遷をともなって必要の優先度を失ったものと判断し経緯を要約して論点をまとめます。

 昭和二十九年に私が現住地に住むようになってから六十四年間、七幸神社の名は度々耳にしましたがすでに過去の沙汰です。名残を示す外観は皆無でごく一部の社地が残り、地主の川久保友助、深江智彦、山口晴興の三名が所有者として名を連ねながらも故人となられました。現在は楠久区が管理して壱之寺が借用しています。

 旧境内地は人手にわたり、地籍は畑や山林となって蝮の巣となっています。明治の初頭まで九州一円では有名を馳せた七幸神社を知る人は不在、由緒だけが健在です。

 在来のホシミの神様は皇大神宮さんの祭りとして中古賀地区の皆さんがうけつがれていますが、七幸神社の名を語られることはありません。このように民間伝承の分野では死滅状態と言えるでしょう。

 戸籍ともいうべき由緒の事跡はどうような仕組みによって斯様な経過を招いたのでしょうか。

 維新政府による神仏分離令が発布されて廃社に至ったのは明治四年一月四日のことです。神仏混交の修法をまじえて地域住民はもとより国内および国外ともユニバーサルな性格を発揮してきた七幸神社にはとどめの一撃でした。天文台を司る七幸神社は暦の発行と時報を伝える役権が県令に移行します。長崎出島との出入りになくてはならない相棒であった鍋島水軍とともにお払い箱となったのです。楠久六箇村(楠久村・福川内村・城村・峰村・大久保村・日尾村)と村社の存在が解体され、愈々上知令を持って傷を深め広げます。A

上知令(じょうちれい、あげちれい)は、一八四〇年代から一八七〇年代にかけて、江戸幕府明治政府が出した土地没収の命令です。

 由緒寺社の領地は治外法権下にありました。現代の法人法による公益保全の原則がそうであるように宗教法人の免税措置は既成の事実でした。

 ところが、領主の権力が消滅した時勢だから法的根拠も失われたのだと穿った苛斂誅求な解釈をもって、ときの明治政府は窮乏する財政の穴埋めを急ぐために没収することを強行したのでした。この破廉恥な政治行為は長いこと不問に伏され戦後長時間をかけて明かされます。教科書にも載せない、社会通念からも排除するという作為は百数十年を掛けて抹消されたのです。

 その一方では疑うような偏重主権がまかり通りました。

 明治四年 (一八七一年)もしくは明治六年とされますが、伊勢神宮の大麻を全国700万戸に有料で強制配布を実施するBなど一連の神道優遇制度は富国強兵政策に利用される結果となります。

国教化政策による神社神道を皇室神道の下に再編成して軍国主義・国家主義とを連結しました。天皇を現人神(アラヒトガミ)とし、天皇制支配の思想的支柱としました。第二次大戦後、神道指令によって解体されましたが国民の宣撫特権が委ねられたこのときから度々の事変(戦争)は開始されたとみるべきです。C

 明治維新の激流に乗って門出した神社神道とすべての権利を剥奪された七幸神社の行く末は歴然の帰結が待っていました。楠久・津まちづくり活動の三つの意見をなさしめている根幹には今も脈々と流れる思想にあぶりだされた七幸神社の「存在」だと解釈するのは身勝手でしょうか。

国体神道偏重主義と廃仏毀釈運動により、やがてその反動思潮は檀家制度の寺院や集落神社への絶大な変容をもたらしました。明治二十三年(一八九〇)には一九万三二四二社あった神社数は現在八万一五〇八社となりました。特に合祀による減少は目を覆うばかりで、神官の需要は絶望的となりつつあります。D斯様に通例の不況神社のあり方では神社を再興し運営することも容易ではありません。

 しかし、神仏の教理教学をこえた神仏混交の協調体制や天文知識による自然観測は、青少年が求めている新しい課題環境の中にあります。

 「青少年に対する教育は学校が中心となっており、地域の青少年教育においては、その期待される役割を十分に果たしていない状況にある。」と、E平成204月に渡海紀三朗文科大臣が舵を切っていらい自然学習活動は一途に広がっています。

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写真は現在とおなじものです


七幸神社 所在地:佐賀県伊万里市山代町楠久5241


 世界は近代化がすすむにしたがって生物対応性社会が求められ、寺社の森は格好の聖地として解放されるべき理想的な舞台です。寺院と神社間に敵対視する理由や怨恨は全く存在しません。もともと二千数百年におよぶ日本の神さま仏さまは政権の利害に基づく神仏分離令に至るまで、すこぶるなかのよい親交を続けました。既成化されていない七幸神社は、これまでの神社にはない計り知れない可能性を具有しています。ほんの少し正気で判断すれば誰にでも納得できる事情です。

 七幸神社の再興を躊躇していた平成のはじめに、御神体らしき尊像がとどけられました。解放後七幸神社周辺の地主であった山口康彦家によって屋敷の整理中に発見、真贋のほどはさておき異常なほどに古い異国製の石像の発見でした。その尊像が埋められた場所は現在の七幸神社(KUSUKU)の丘です。この時から一気に勢みがついて走り出しました。数十年の歳月を重ねて平成二十八年四月十日に修祓が勤められ、再興がかなって仮被屋が葺かれ現在の姿形となりました。

『宮記』を主体とした論題の「七幸神社の背景を探る」とともに、当初の願望に述べた通りに反論者のご意見を含めて応需します。ご了承のうえご協力をおねがいます。


@「忘れられた天文台」 東海林郁三 近代文芸社

A 本光寺文書

B 神宮教院規則「第五条大麻ヲ全国ニ頒布スル事」

C 「近代の集落神社と国家統制」森岡清美著 吉川弘文館

D 『神道入門井上順孝著 平凡社新書

E 文科省中央教育審議会20文科第124

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七幸神社に参拝されたい方は、佐賀県伊万里市山代町楠久5241 

 直接的には佐賀県伊万里市山代町楠久52411壱之寺茶房(090-36067117をお訪ね下さい

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多少紙面が遺りましたので、「松浦党研究連合会」から生まれた新たな研究会の話を再開します。


 敗戦後であるにもかかわらず、ある種の解放的な時期を迎えると多くの民間研究団体が自然発生的にその背景には、会が一定の大きさに成ってくると、当初は独立した民間の自主的な研究会だったものも、成長してくると県教委、国立大学、県文化課…と言ったものに頼る傾向があり、其れに応えるかの様に、中央情勢については私達にお任せ頂いて、地域については限定して余計な浅酌を避け事実だけを回収して下さい…と言った通説派の学者にとって都合の良い方向に捻じ曲げられる場合がある事を数多く聴いいているのです。これ以降は本題から逸れますので紙数が余れば後段に掲載します。

 そして、結論は、記紀に集約し紛れさせられることになり、仮に熱心に真実を探ろうとする人々が在ったとしても、結局は旧態依然たる通説まがいの話に纏められ、後身の研究者が離れ若手の補充が失われると言う全国で見られる郷土史会、史談会、地名研究会…の解散、消失に繋がっている様に見えるのです。

こうして、最後は村興し町興し果ては世界遺産登録と言った言わば官製文化運動に絡めとられ、お粗末にも熱心な研究者であっても、最後は行政の芸人に成り下がり成りきると言った事にもなって行くのです。

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2026年02月24日

ひぼろぎ逍遥 スポット320 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!       “不思議なまで集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

ひぼろぎ逍遥 スポット320 宇佐市 駅館川河口の川上神社は和歌山の丹生川上神社だった!

      “不思議なまで集中を見せる金屋の南姓はやはり八咫烏(橘一族)の末裔だった”

        20260107

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


本稿は、新ひぼろぎ逍遥に7本書いた難升米を探る話の続編になります。

余裕があればそちらを先行してお読みいただきたいと思います。

それは2026年の松の内は終わり、皆様方が一斉に仕事始めとばかりに仕事を始められる6日の話でした。本来はご案内するだけの予定だったのですが、ひょんなことから宇佐の川上神社に行くことになり、ご案内する事になりました。しかし、瓢箪から駒でした。そのある種退屈な作業の予定だったところが、これまで56年掛けて作業して来た言わば結論と言っても良い棚ボタの様な有難い結論に辿り着いたのでした。

正に天からの恵みを得たような思いで何やらお年玉を頂いた様な思いがしています。

今回、当会に新たに参加された神社フリークと言っても良い女性があまりにも天気が良いので、一人でも宇佐の川上神社に行こうかと口走った事から、手拍子でそれならガイドしても良いと動き出したのが発端でした。こういう時にドラマは起こるのです。

ただ、神社研究を続ける人にしかお判り頂けないマニアックな話をお届け致します。

新ひぼろぎ逍遥

755

宇佐の駅館川河口に難升米の一族の後裔を発見したか?

“宇佐市金屋町の川上神社の南姓の集中”

747

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再々考)

“全国の川上神社の祭神を調べよう”

746

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(再考)

“一体川上神社とは何なのか?”

745

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(補足)

“宇佐空への哀愁”

744

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(下)

“金屋地区は廻船業者の街”

743

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(中)

“金屋の南さんとは何か”

742

宇佐の金屋の南姓は難升米の後裔氏族か?(上)

“駅館川河口を見下ろす川上神社”



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 一回のブログのUPにも制限は有る事から、前提となる話を遡ってご説明することは重ね重ねに成る事から、ご面倒でも先行ブログの拾い読みでもして頂けることを前提に書くことにします。

 このため、今後とも、数本のブログを加える可能性がありますので敢えて申し上げておきます。

 78年前宇佐の駅館川右岸の旧宇佐空(柳ヶ浦航空隊)対岸の断崖地に建てられた川上神社を参拝し、現地には牛頭天皇の神額の鳥居が置かれ、その祠も同社の屋根の高さ程の崖地上段に実際牛の置物が置かれ、須佐能と稲荷の祭祀が認められるも、その低段の境内地には神名が明きらかではない参拝殿神殿を持つ神社が存在していたのでした。それが川上神社と呼ばれている様なのです。

 もう56度は参拝を重ねており、以前からその不思議さが残っていたのですが、今回、余りの好天に誘われ、久しぶりと言っても一年にはならないでしょうが、正月松の内明けの日に参拝する事になったのでした。

 殊更、この神社を目的にしたのは、依然ブログに書いた南姓の異常な多さを見せる事でした。

 この南姓は、外に出た者のも含んでいるのでしょうが、氏子と思われる寄進者の棟札を見る限り、氏子の2/3を超える78割には成る異常な多さを示していたのでした。


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200戸を超えない地区で南姓と森姓が多いと聴きましたが、特に上の写真では南様が多いのです


 この事を認識して以来、関係者にも当たりましたが、最後は兼務社からも迷惑ですと言われるほどになり断念せざるを得なかったので。この南姓については、難升米の末裔の一族だったのではないかとの思いが消せませんでした。ただ決め手が乏しく提案していただけだったのですが、今回、松の内の跡片付けに来られていたのでしょうか、偶然にも区長(ご迷惑になるといけませんので名は伏せますが)様と偶然にもお会いして、かなり参考に成るお話を色々とお聴きしました。

 そのお話の中で、私が興味を惹かれたのが「南一郎平」の神社と言うより顕彰碑と言う方が正確な

施設があるとお聴きしたのです。それは南氏の素姓が分かるかも知れないと思ったからでした。

 無題.pngNHK朝ドラ「南一郎平」誘致推進協議会(構成団体)作成のパンフをお持ちで、宇佐学マンガシリーズD日本三大疎水の父 南一郎平まで頂いたのでした。まあ村興し町興しなのですが。

 以前から、この疎水(農業用水路=九州では「井手」とも)の存在はある程度承知していましたが、基本的には日豊線外側の明治以降の干拓地向けの用水路の延長程度の理解しかなかったのでした。まさか17キロ上流の安心院盆地の駅館川支流の津房川に頭首工(取水口)を造り、駅館川右岸にサイホン工や水道トンネル更には石造りのアーチ型通水橋までも造る大工事だったのでした。詳しくは広瀬井手略図を見て下さい。考えれば川面の低い駅館川の水を引くには安心院辺りに成るのです。

 ここからは私の話になります。難升米(百嶋神社考古学=八咫烏)の時代から1600年は後の時代の人々に投影している訳で容易に理解頂けるとは考えてはいないのですが、今回、南尚神社を発見し密かにイメージが一気に膨らんだのでした。

 それは後の話として、もう少し時代が離れた話を続けさせてください。中近世はおろか近代など門外漢ですので右の高尚なマンガ本に全面依存しますが、一郎平は結果二度の入牢を含め艱難辛苦の末に資材は失うも父の願いを達成し遂には大事業を完遂するに至ります。まさに偉大で無私な人物だったのでした。

 当初、3000両と見込み日田の豪商広瀬久兵衛に借用を依頼し事業は始まるのでした。ただ、多くの難工事や災害も起こる中、幕末から明治に亘る難工事の末最終的には一万両の大工事となり、南一郎平は資財を失うも工事は完了するに至るのでした。

 その後、この人物は用水路工事の大土木工事の経験を乞われたのか、三大疎水で知られる福島県の猪苗代湖から郡山市に水を送る安積(アサカ)疎水、栃木県の那須疎水、京都の琵琶湖疎水…外を完成させ、現業社なるゼネコンの萌芽の様な企業興すことになるのです。

 不正確になりますのでここで止めさせて頂きますが、このような気骨のある偉人を生み出したのが幕末〜維新期の宇佐の金屋だったのです。


漸く宇佐の金屋の「南」姓が如何なる人々であったが見えて来た


さて、ここからが我が百嶋神社考古学の世界に話に入る事に戻る事に致します。

始めに掲載した先行ブログをお読み頂ければ、宇佐の金屋の川上神社に異常なまでの南姓の集中は、何らかの政治情勢の変化と経済構造の激変が関係しているはずだと思い書いたものでした。

当時もこの南姓は難升米の後裔氏族の改名によるものではないかと考えたものでした。

 今回、新たなブログを書き加える事にしたのは、半ば証明とも言えるような事実に遭遇したからでした。

 この広瀬井手を成功させた南一郎平を祀る神社(実際には顕彰碑と集会所なのでしょうか)が無題.pngある事を金屋の区長様からお教え頂いた神社に行くことにしました。始めは周辺の醸造業所を案内しようと考えその後に参拝することにしたのですが、同社の地番が分からず迷ってしまいました。私は半ば諦めてしまいました。ただ同行の女性は熱心で、郵便局で聴いた場所を少し探した後、直ぐに南尚神社を見つけ出したのでした。この同行者のおかげで辿り着くことが出来たのでした。私だけではこの幸遇を掴めたかどうか分かりません。やはり神社調査は大人数ではできませんができるだけ複眼で行うべきで、少し驚いています。やはり調査は複数で行う方が相乗性を増すのです。少し大げさな表現をしますが、その後想定を裏付ける事実に驚愕したのです。前置きが長くなりましたが、それが左の祠でした。

☚ 南尚神社 宇佐市高森(地番不詳)

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現地には南尚神社の顕彰碑=南神社建立の際の記念写真を描いた看板が置かれていたのです

AIによる概要無題.png

橘紋 (たちばな) 日本の実用家紋 ZIP (AI, PNG, PSD) - 家紋藝術 ...

橘氏の紋章は「橘紋(たちばなもん)」で、日本固有の柑橘類である「橘」の実と葉を図案化したもので、不老長寿や永久不変の象徴とされ、平安時代から名門氏族である橘氏が用いたことから、源氏・平氏・藤原氏と並び称される格式高い紋章です。代表的な使用家として井伊家(彦根橘紋)があり、その他にも多くの武家や旗本で使用され、文化勲章のデザインにも採用されるなど、現代でも広く親しまれています。

 写真でお分かりの通り、この南一族は橘一族の後裔氏族だったのです。

 現地に入り、私も写真を撮っていますが、明らかに橘一族で、橘一族のルーツが八咫烏なのです。

橘氏は、敏達天皇の後裔、美努王(ミヌオウ)の子、葛城王(橘諸兄)らが臣籍降下した一族で伊勢を拠点に、天皇家に后を送り込む一族で神産巣日之命(造化三神一つ)具体的には博多の櫛田神社の大幡主でその子が八咫烏=豊国主=豊玉彦(正しく豊の国の主ですね)…であり、後に彼らの後裔氏族が「常世の国」から非時香菓(トキジクノミ)を持ち帰ったとされる田道間守(タジマモリ)の功績にちなんで「橘」の氏を賜りました。勿論、その意味とは冬でも青葉を絶やさぬため未来永劫繫栄すると橘姓を名乗ったのです。しかし、実際には奈良麻呂の変以降、藤原=阿蘇氏=多氏に追い落とされ中級以下の地方豪族と成るのでした。九州王朝が白江戦後に滅び畿内に権力が移った事から本拠地も移った事が分かるのです。

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大分県ホームページ「南一郎平」より

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最初の画像はグーグル・マップの南尚神社のものですが、これは2026年に当方で撮影したものです


黄色い円内に橘紋がはっきり写り込んでいますね、金屋の庄屋であった南一郎平の一族が橘一族と分かります。こうして、これまで67年間に亘って悩んでいた謎が解けたのでした。

橘の家紋を使う(許される)一族は、造化三神と呼ばれ天地開闢の神の神産巣日神(カミムスビ)で、具体的には博多の櫛田神社の大幡主から讃岐〜阿波〜更に紀州に展開した忌部であり、幕末まで生き延びた天皇家の宮廷祭事司る白川伯王家とも重なる天皇家の重要な外戚でもあった一族です。

その直系の実子が豊玉彦、豊国主(大分は明らかに豊の国ですね)、八咫烏…など二十も三十も多くの呼び名を持つ最重要氏族の末裔なのです。この一族が魏の皇帝に送った遣いが難升米なのですから。大分の方には馴染みのある話ですが、国東半島の「奈多神社」(みかん=橘、トキジクのかくのみを取りに行った田道守)ここに半島から姫島を経由し同社に移動して来たアカル姫の話が残っていますね、福岡市東区の奈多宮とも重なり、正しくカミムスビ系の根拠地が駅館川河口の金屋地区にも展開していた事が分かるのです。

当然にも、橘諸兄、橘奈良麻呂、県犬養三千代…は知られていますが、奈良時代後期、757年(天平宝字元年)に勃発した、藤原仲麻呂の専横を打倒しようとするも失敗し、橘奈良麻呂の変以降の橘氏は源平藤橘でも、中級以下の貴族として地方の豪族として零落していったのでした。あまり知られてはいなのですが(勿論、歴史の背後というか底流で動いているため)、実際には、伊勢を根拠地に、八咫烏の後裔氏族が石清水八幡宮を軸に関東武士団を纏め貴族化した藤原氏(阿蘇氏、多氏)を抑え込み、鎌倉幕府、室町幕府から戦国期を経て徳川政権まで続く武家の無題.png支配を打ち立て政権の背後で復活しているのです。 

ここで、橘氏について分かり易い話を一つご紹介しますが、柑橘類の一つにスダチとカボスが在りますが、これも京都の下賀茂神社の賀茂族=加茂族=橘氏が運んできたトキジクの実の一つなのです。それは、スダチとは酢 橘で、カボスは鴨族、加茂族が持ち込んだ酢の意味なのです。

カボスはカモスの意味でM音とB音の入れ替わり現象は、日本語の呉音と漢音の問題で、烏帽子をカブル、カムル、目(メ、マ)を瞑(ツブル)る、瞑(ツムル)が同様である事でもお分かり頂けるでしょう。

改めて南一郎平(改名尚=久)に敬礼!私には、難升米に通じる尚(ショウ)を選んだようにも思えるのです。では、まだ紙面に余裕がありますので、一般的には殆ど知られていない古代の外交通史の話をして見たいと思います。


大夫 AIによる概要

239年に卑弥呼が魏に遣いを送ったとき、皇帝から与えられた称号

卑弥呼は、中国の魏(ぎ)に239年(景初2年)に使者を送り、大夫の難升米(なしめ)らを派遣しました。これに対し魏の皇帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、銅鏡などを授け、倭国との関係を正式に認めました。これは、倭国の統一と地位向上を図るための外交戦略でした。


この大夫の意味は今や吉原の高級花魁としてしか知られていませんが、本来は中国の官位で、日本では律令制下の五位以上の高官を指しているのです。

周王朝における大夫 AIによる概要

周王朝における「大夫(たいふ)」とは、封建制の下で諸侯に仕える家臣階層の一つで、卿(けい)の下、士(し)の上に位置する小領主・役職者を指し、周王や諸侯から領地を与えられ、国政に参加する貴族層でした。彼らは領地を持ち、武力や政治力で実権を握ることもあり、春秋時代以降には実権が有力な大夫の手に移り、士の階層が台頭するなど、身分制度は変遷していきました。

これらの事からも分かるのは、倭人は呉の太白の後とか裔…と言われる様に、春秋戦国の呉国(つまり呉越同舟の呉…直接には自決した夫差の末裔が列島への逃亡した人々、若しくはそれに協力を依頼された一族)だから周の大夫を名乗っているのです(現段階では後者を想定していますが)。

当然ながら当時、上海は海の底で存在しませんので、蘇州から舟山列島を経て列島へと入った呉の末裔の外交官として入った難 升米の末裔が南姓を名乗っているのではないかと考えているのです。

当然、渡洋航海できる船を操ることが出来、尚も、天文、地理、暦、言語に通じた優秀な人物が送り込まれている事は間違いが無く、元々は博多の那の津辺りから建国間もない魏に答礼朝貢しているのです。

無題.pngただ、その博多に拠点を置いていた想定九州王朝の八咫烏が活躍した時代から500年は降る時代になると(具体的には7世紀の半ば以降の白村江の大敗北以降)、宗像を本拠地としていた天武の父と天武帝は、無抵抗に本拠地を奈良に移します(佃収説)。その後阿蘇氏をルーツとする藤原氏による天智系に皇統が替わるに至ると、この八咫烏の後裔氏族は瀬戸内海航路(宇佐と浪速)に対応し、本拠地を移しているのです。その大阪の浪速高津の宮の手前にもう一つの拠点を置き、船倉に大量の穀物を積載し東に運んで行ったはずなのです。当然、密封空間では発酵が始まるのですが、分離し塩を加え、また、発酵を留めるなどの工程を加えます。

一部を酒なり醤油(当時はまだ醪=モロミでしょうが)なり、味噌なりに分離する必要が生じ、神戸の東灘区辺りに分離するための工場、作業場が必要になったはずなのです。これが、廻船業者というか古代には輸出入業者にとっては非常に重要な要請だったのです。

ここも、東に移動した奈多であり、博多の那の津なのです。そこまで解れ無題.pngば、何故、灘の生一本の多くの醸造業者が資金を注ぎ込み、灘高校(灘中学校・高等学校)=兵庫県神戸市東灘区にある日本最高水準の男子進学校として知られる私立中高一貫校が創られたのかまでが分かって来るのではないかと思うのです。

因みに、この灘高校を創ったものこそ柔道の講道館で知られる嘉納治五郎の一族を中心とする人々であり、宇佐の金屋とも通底しているはずなのです。

彼は、灘の生一本でも良く知られる菊正宗酒造の一族で治五郎まで作られているのです。

これまで、列島の歴史は開国と鎖国を繰り返してきました。江戸時代の鎖国は良くしられていますが、遣唐使の廃止も含め、鎌倉政権の元寇期には元(実質は朝鮮人と江南軍は福建の反漢族)と直接対決していますし、豊臣政権期は対外開放と言うより対外進出さえも行っています。

このように国際情勢の変化により対外政策は一定であった訳ではないのです。

このように渡洋航海もできる人々とは、時に自国の政権の政策と衝突する事も多々生じるのです。

最近は忘れられていますが、江戸期にアユタヤに進出した山田長政なども衝突した人物の一人でしょうか…。

こうして、貿易業者とか現代では大手商社といったものは、時の政権とか海外勢力からの圧力には敏感なのです。このため時の権力から独立した優秀な若者を自前で養成し、必要な時には何時でもそのネット・ワークを擁して自らの要望を実現しようとしてきたのです。

ある意味で、大隈重信の早稲田もそのような意図を感じますし、福沢諭吉の慶応も上智(これは悪魔のイエズス会系ですので要注意ですが)も同様でしょう。

当然にも異論どころか非難も有ろうかと思いますが、私にはそう見えるのです。

そうです、灘の生一本も恐らく八咫烏系の橘一族の人々であり、全国に廻船業の拠点としての港(湊)を置き、正面の海を灘と呼んでいたのでした。

以前、海上保安庁の把握している「灘」地名を調べたことがありましたが、鹿島灘、相模灘、遠州灘、熊野灘、播磨灘、備後灘、燧灘、安芸灘、周防灘、伊予灘、響灘、玄界灘、天草灘、日向灘と列島全域に灘地名があり、何故、灘と呼ばれ、湊と表記されるかが見えて来るのです。

つまり、当時も列島全体がこの一族の商圏に成っている事が分かるのです。

無題.pngではここで、川上神社の分布を見てみましょう。ここで注意を要するのは、当方は、淀姫神社がかなり川上神社と呼ばれている事を承知している事から、どうも社名も九州では川上神社という名称が規制されている様にも見えるのです。事実、当の宇佐の川上神社は牛頭天皇社とされていますし、名護屋の川上神社が牛頭天皇社とも呼ばれている事が気になっています。

多くの九州の川上神社が、最も重要な和歌山の丹生川上神社(上、中、下社)と繋がっている事が今は良く判るのです。

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では、関西では良く知られている丹生川上神社(中社)を軸にご紹介しておきましょう。

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重複にはなるのですが、話を換えて、特攻基地でもあった宇佐空こと柳ヶ浦の海軍航空隊の正面に、酒造業者、味噌製造業者、醤油醸造業者の建物が残っている事と、船を使う廻船業者と醸造業者の事をお話ししたいと思います。ここで紙面が尽きました。詳しい川上神社の分布は前掲のバック・ナンバーを、また、今後各予定の続編もお読み頂きたいと思います。

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