新ひぼろぎ逍遥@1057 川上 猛と淀姫の両親を祀る糸島市の産宮神社
20240704
太宰府地名研究会 古川 清久
今回は、当会メンバーであり「神話を科学する(古代史探訪)」の管理者でもあるS氏の第2ブログから「産宮神社」を転載させて頂く事にしました。
福岡市近辺にお住まいの方で産宮神社をご存じでない方はおられないと思いますが、私も、以前、ブログを書いています。ただ、観点が異なっているため、S氏のブログを転載したいと考え産宮を選んだのでした。
それは、川上 猛に関係があるからです。この事についてはどなたも本気ではお考えになっていないはずで、敢えて、事を荒立てることも真実を伝えるには必要かも知れないとようと掲載を考えたのでした。以下もゴシック体は当方の文責になります。

2020.08.132020.10.30
鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は「記紀」に彦火々出見と豊玉姫の息子として記載されているにもかかわらず誕生以外の説話はほとんど残っておらず。彼を祭る神社は、ほとんどありません。
糸島市前原に珍しく鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を祭る神社が存在します。
由緒

産宮神社66
御祭神 奈留多姫命 玉依姫 彦波鸕鶿草葺不合尊
例祭日 二月二十五日 百手的射神事
毎月二十五日 安全祈願祭
略縁起 御祭神奈留多姫命は御懐妊に当り祖神をお祈りし「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て満世産婦の守護神とならん」と仰せられて無事皇子を安産された由 以降産宮と称え安産守護の神様として広く崇高を集めてきました。又神功皇后三韓征伐に際し当宮に産期の延びん事を祈られ、御帰朝後皇子を安産せられた由、その奉賽の為百手的射神事を奉納され、この故事にならって二月二十五日には的射の神事が修行されている。
社前に梅樹あり「子安梅」と云う その神水は神功皇后が韓土より持帰り 初めてこの地に植えられたものと云う。 案内版より
この略縁起を見る限り鸕鶿草葺不合尊の妻は奈留多姫で初代神武天皇の母でであるかのような印象を受けますが、ここには奈留多姫が皇子を生んだと記されているのみで、神武天皇とは記されていません。
また社伝では「奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓いて、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、以後、「産宮」と称えて安産守護の神と祭る、とある。(略)
しかしこの社伝も全くの作り話で初代 神武天皇の母は「記紀」では玉依姫と記されており 二代綏靖天皇の母は「媛鞴五十鈴媛命(ホトタタライススキヒメミコト)」であり、記紀によれば「大和国」で結婚し子を産んでいる。
ここの伝承では玉依姫もしくは媛鞴五十鈴媛命の別名が奈留多姫のように見えますが、奈留多姫は天忍日と雨宮姫の娘で別名 八坂刀売神( ヤサカトメ )後の諏訪大社の建御名方の妻に当たる人物のようです。
ではこの鸕鶿草葺不合尊と奈留多姫の間に生まれた皇子とは誰のことかというと

息子では日本武尊に誅殺されたと伝わる川上梟帥 皇女では神功皇后の妹と伝わる佐賀の河上大明神(水沼の君) 淀姫なのです。

筑紫で数年熊襲と戦った日本武尊は佐賀の川上峡まで川上タケルを追い詰めます。女装して宴会に紛れ込んだ日本武尊の前には川上タケルの姿が・・・kouratamadare.com 2020.05.02
「記紀」では悪人のように記載されている川上梟帥は祖父 彦火々出見 祖母 豊玉姫 父 鸕鶿草葺不合尊 母 八坂刀売神の由緒正しい血統であったようです。
「神話を科学する(古代史探訪)」は故)百嶋由一郎の百嶋神社考古学の立場で書かれています。
百嶋最終神代系譜によれば、阿蘇宮司家初代とされる惟人の姉か妹の(年齢が不明なため)奈留多姫とは阿蘇宮司家の本流の人であり、その奈留多姫が当時、久留米の高良山に居たと考えられるウガヤフキアエズ(昔風に書けば「鵜尊」)との間にもうけた子が兄の川上 猛と妹の淀姫である事から、主神として奈留多姫を祀る産宮とは如何なる神社であるかが直ぐには分かり難いのです。ただ、日本武尊に誅伐された川上 猛を伏せ、奈留多姫とその夫であるウガヤフキアエズを前面に出している事から、残された奈留多姫の一族の神社に思えるのです。何故ならば奈留多姫は名を八坂刀売と名を改め諏訪に落ち延びた建御名方の妃となっているからです。その点、豊玉姫の子育て放棄に会い途方に暮れた山幸彦=彦火々出見(ヒコホホデミ)に乳母として送り込まれた鴨玉依姫(下賀茂大社)を祭神として出産から子育てから家庭の護持に主眼を置いた母性を強調しているように思えるのです。その意味では、川上 猛を誅伐した勇ましい後の日本武尊(ヤマトタケル)を祀る神社に比べ、ある種女性の立場に立った不思議な神社です。以下に百嶋神社考古学の粋を集めた最終神代系を次に掲載します。
百嶋由一郎が残した神代系譜(90枚をスキャナーテで読込んだDVD)、講演録音声CD40時間、手書きデータ(スキャニングDVD)を必要とされる方は090-6298−3254までご連絡ください
この最終神代系譜を含め90枚近い神代系譜をスキャナーで読み込みDVDに落としています。

境内

子安梅
この御神木は神功皇后が韓土より持帰り 初めてこの地に植えられ妊婦がこの実を裁けば産が安いっと言われています。
子安神社の子安からも博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの支持が感じられます。
拝殿

摂社

この天神社 庚申社が気になりますね、普通に考えれば金山彦系に思えるのですが単に菅公とします。
分析
鸕鶿草葺不合尊と玉依姫の息子と記される神武天皇というのは、別の人物のことを言っているようです。彼らの息子は、高良大社の伝承通りなら志賀海神社と高良大社の祭神のこと 安曇磯良 高良玉垂命 開花天皇と同一人物で父違いの兄弟が東征した崇神天皇(神武天皇)であるはずです。
鸕鶿草葺不合尊の血統は他にも数か所確認され大己貴と共に国を造っていったようです。
一応、当方の文責で分析を行いますが、上記の黄色のマーカーのボールド部分が最も重要な部分になります。百嶋由一郎氏が「宮崎インチキ神話」と表現したウガヤフキアエズが神武天皇の父神である人物という御伽噺は、後の藤原氏が捏造した話であって、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の母神は左
の神玉依姫なのです。

この方は現在、千葉県の玉前神社に主神として祀られており(千葉県長生郡一宮町一宮3048)、鴨玉依姫をお妃としたウガヤフキアエズが鴨玉依姫と切れた後に、阿蘇系の国造神社の主神大山咋=佐田大神との間に生まれた阿蘇系の血が濃い崇神(神武僭称贈る崇神ハツクニシラススメラミコト「天皇」)が久留米の高良山に居た高良玉垂命の指揮下で四道将軍を指揮し畿内、吉備、北陸、北、東、関東から会津までも征服した崇神の業績を持って、初代神武(カムヤマトイワレ)より大きな業績として、これこそが本物の神武天皇と主張し始め、ウガヤフキアエズの子(腹違いですらない)崇神を後の藤原が権勢を振るうために欠史8代を架空として九州王朝を消し去ろうとしたのです。津田もその延長の御用学者に過ぎず、人と天皇も第9代開化天皇と神功皇后の長子である仁徳(オオサザキ)実名はシレカシノミコトも何処の馬の骨か分からぬ応神の子などと大嘘を吐いているのです。ウガヤフキアエズの妃の子ではあるものの、下賀茂の鴨玉依姫とと大山咋の間に産まれた崇神の流れから藤原天皇制が捏造されたのです。
こうして、正当皇統呉の太伯王の流れを汲む周王朝の血統(列島大率姫氏)は仁徳を最後に失われたのでした。天武も九州で白江戦を命懸けで戦った九州内で活動したという意味では九州王朝系の天皇ですが(第40代)、その時代までは九州に王権が存在したのであり、ド田舎の奈良で国家が始まったのではないのです。それを、戦後、奈良の周辺だけを調べて欠史8代の天皇の痕跡=史跡、伝承が無いから架空とした大噓つきの御用学者共が現在の国史を歪めていますが、そもそも奈良近辺には何もなかったのです。だからこそ、天武が奈良に移動した際には抵抗は一切なかったのです。殆ど日本史は漫画なのですね…。