2025年02月19日

新ひぼろぎ逍遥@1057 川上 猛と淀姫の両親を祀る糸島市の産宮神社

新ひぼろぎ逍遥@1057 川上 猛と淀姫の両親を祀る糸島市の産宮神社

20240704

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回は、当会メンバーであり「神話を科学する(古代史探訪)」の管理者でもあるS氏の第2ブログから「産宮神社」を転載させて頂く事にしました。

福岡市近辺にお住まいの方で産宮神社をご存じでない方はおられないと思いますが、私も、以前、ブログを書いています。ただ、観点が異なっているため、S氏のブログを転載したいと考え産宮を選んだのでした。

それは、川上 猛に関係があるからです。この事についてはどなたも本気ではお考えになっていないはずで、敢えて、事を荒立てることも真実を伝えるには必要かも知れないとようと掲載を考えたのでした。以下もゴシック体は当方の文責になります。

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2020.08.132020.10.30

鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)は「記紀」に彦火々出見と豊玉姫の息子として記載されているにもかかわらず誕生以外の説話はほとんど残っておらず。彼を祭る神社は、ほとんどありません。

糸島市前原に珍しく鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を祭る神社が存在します。


由緒

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産宮神社66
御祭神 奈留多姫命 玉依姫 彦波鸕鶿草葺不合尊
例祭日 二月二十五日 百手的射神事
    毎月二十五日 安全祈願祭
略縁起  御祭神奈留多姫命は御懐妊に当り祖神をお祈りし「月満ちて生まれん子端正なれば永く以て満世産婦の守護神とならん」と仰せられて無事皇子を安産された由 以降産宮と称え安産守護の神様として広く崇高を集めてきました。又神功皇后三韓征伐に際し当宮に産期の延びん事を祈られ、御帰朝後皇子を安産せられた由、その奉賽の為百手的射神事を奉納され、この故事にならって二月二十五日には的射の神事が修行されている。
社前に梅樹あり「子安梅」と云う その神水は神功皇后が韓土より持帰り 初めてこの地に植えられたものと云う。                         案内版
より

この略縁起を見る限り鸕鶿草葺不合尊の妻は奈留多姫初代神武天皇の母でであるかのような印象を受けますが、ここには奈留多姫が皇子を生んだと記されているのみで、神武天皇とは記されていません。

また社伝では「奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓いて、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、以後、「産宮」と称えて安産守護の神と祭る、とある。(略)

しかしこの社伝も全くの作り話で初代 神武天皇の母は「記紀」では玉依姫と記されており 二代綏靖天皇の母は「媛鞴五十鈴媛命(ホトタタライススキヒメミコト)」であり、記紀によれば「大和国」で結婚し子を産んでいる。

ここの伝承では玉依姫もしくは媛鞴五十鈴媛命の別名が奈留多姫のように見えますが、奈留多姫天忍日雨宮姫の娘別名 八坂刀売神( ヤサカトメ )後の諏訪大社の建御名方の妻に当たる人物のようです。

ではこの鸕鶿草葺不合尊と奈留多姫の間に生まれた皇子とは誰のことかというと

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息子では日本武尊に誅殺されたと伝わる川上梟帥 皇女では神功皇后の妹と伝わる佐賀の河上大明神(水沼の君) 淀姫なのです。

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真説 日本武尊伝(川上梟師)

筑紫で数年熊襲と戦った日本武尊は佐賀の川上峡まで川上タケルを追い詰めます。女装して宴会に紛れ込んだ日本武尊の前には川上タケルの姿が・・・kouratamadare.com 2020.05.02

「記紀」では悪人のように記載されている川上梟帥は祖父 彦火々出見 祖母 豊玉姫 父 鸕鶿草葺不合尊 母 八坂刀売神の由緒正しい血統であったようです。


「神話を科学する(古代史探訪)は故)百嶋由一郎の百嶋神社考古学の立場で書かれています。

百嶋最終神代系譜によれば、阿蘇宮司家初代とされる惟人の姉か妹の(年齢が不明なため)奈留多姫とは阿蘇宮司家の本流の人であり、その奈留多姫が当時、久留米の高良山に居たと考えられるウガヤフキアエズ(昔風に書けば「鵜尊」)との間にもうけた子が兄の川上 猛と妹の淀姫である事から、主神として奈留多姫を祀る産宮とは如何なる神社であるかが直ぐには分かり難いのです。ただ、日本武尊に誅伐された川上 猛を伏せ、奈留多姫とその夫であるウガヤフキアエズを前面に出している事から、残された奈留多姫の一族の神社に思えるのです。何故ならば奈留多姫は名を八坂刀売と名を改め諏訪に落ち延びた建御名方の妃となっているからです。その点、豊玉姫の子育て放棄に会い途方に暮れた山幸彦=彦火々出見(ヒコホホデミ)に乳母として送り込まれた鴨玉依姫(下賀茂大社)を祭神として出産から子育てから家庭の護持に主眼を置いた母性を強調しているように思えるのです。その意味では、川上 猛を誅伐した勇ましい後の日本武尊(ヤマトタケル)を祀る神社に比べ、ある種女性の立場に立った不思議な神社です。以下に百嶋神社考古学の粋を集めた最終神代系を次に掲載します。


百嶋由一郎が残した神代系譜(90枚をスキャナーテで読込んだDVD)、講演録音声CD40時間、手書きデータ(スキャニングDVD)を必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

この最終神代系譜を含め90枚近い神代系譜をスキャナーで読み込みDVDに落としています。

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境内

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子安梅
この御神木は神功皇后が韓土より持帰り 初めてこの地に植えられ妊婦がこの実を裁けば産が安いっと言われています。


子安神社の子安からも博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの支持が感じられます。


拝殿

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摂社

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この天神社 庚申社が気になりますね、普通に考えれば金山彦系に思えるのですが単に菅公とします。


分析

鸕鶿草葺不合尊と玉依姫の息子と記される神武天皇というのは、別の人物のことを言っているようです。彼らの息子は、高良大社の伝承通りなら志賀海神社と高良大社の祭神のこと 安曇磯良 高良玉垂命 開花天皇と同一人物で父違いの兄弟が東征した崇神天皇(神武天皇)であるはずです。
鸕鶿草葺不合尊の血統は他にも数か所確認され大己貴と共に国を造っていったようです。


 一応、当方の文責で分析を行いますが、上記の黄色のマーカーのボールド部分が最も重要な部分になります。百嶋由一郎氏が「宮崎インチキ神話」と表現したウガヤフキアエズが神武天皇の父神である人物という御伽噺は、後の藤原氏が捏造した話であって、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の母神は左

の神玉依姫なのです。

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無題.pngこの方は現在、千葉県の玉前神社に主神として祀られており(千葉県長生郡一宮町一宮3048)、鴨玉依姫をお妃としたウガヤフキアエズが鴨玉依姫と切れた後に、阿蘇系の国造神社の主神大山咋=佐田大神との間に生まれた阿蘇系の血が濃い崇神(神武僭称贈る崇神ハツクニシラススメラミコト「天皇」)が久留米の高良山に居た高良玉垂命の指揮下で四道将軍を指揮し畿内、吉備、北陸、北、東、関東から会津までも征服した崇神の業績を持って、初代神武(カムヤマトイワレ)より大きな業績として、これこそが本物の神武天皇と主張し始め、ウガヤフキアエズの子(腹違いですらない)崇神を後の藤原が権勢を振るうために欠史8代を架空として九州王朝を消し去ろうとしたのです。津田もその延長の御用学者に過ぎず、人と天皇も第9代開化天皇と神功皇后の長子である仁徳(オオサザキ)実名はシレカシノミコトも何処の馬の骨か分からぬ応神の子などと大嘘を吐いているのです。ウガヤフキアエズの妃の子ではあるものの、下賀茂の鴨玉依姫とと大山咋の間に産まれた崇神の流れから藤原天皇制が捏造されたのです。

こうして、正当皇統呉の太伯王の流れを汲む周王朝の血統(列島大率姫氏)は仁徳を最後に失われたのでした。天武も九州で白江戦を命懸けで戦った九州内で活動したという意味では九州王朝系の天皇ですが(第40代)、その時代までは九州に王権が存在したのであり、ド田舎の奈良で国家が始まったのではないのです。それを、戦後、奈良の周辺だけを調べて欠史8代の天皇の痕跡=史跡、伝承が無いから架空とした大噓つきの御用学者共が現在の国史を歪めていますが、そもそも奈良近辺には何もなかったのです。だからこそ、天武が奈良に移動した際には抵抗は一切なかったのです。殆ど日本史は漫画なのですね…。

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2025年02月16日

新ひぼろぎ逍遥@1056 川上 猛の父神ウガヤフキアエズの子 安曇等良とはどの様な人物か

新ひぼろぎ逍遥@1056 川上 猛の父神ウガヤフキアエズの子 安曇等良とはどの様な人物か

20240704

太宰府地名研究会 古川 清久


無題.png神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峯の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、九月十三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。武内宿禰の請で藤大臣と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた千珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた。藤大臣は「高良玉垂神秘書」では神功皇后の後夫であったと伝わる。別名 安部連保 開化天皇

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これは、メンバーであり同志でもあるS氏の二つのブログの「神話を科学する(古代史探訪」)の一部です。右の写真は博多の祇園山笠に掲げられた安曇磯羅の「イソラ舞」」の姿を現したものです。磯羅は牡蠣殻で傷ついた顔を出すのは憚られるとして覆面をしているものです。百嶋神社考古学ではこの人が川上 猛の父なのです。以下は百嶋由一郎最終神代系譜の一部です。これらが鮮明に描かれています。それは百嶋神社考古学とは、「高良玉垂宮神秘書」を基礎に打立てられたものだからなのです。

川上 猛と妹の淀姫(ヨドは「古代九州標準語」ではユドorユドゥと呼ばれていた可能性があり豊の字を当てユタと呼ばれたのですだから、九州ではホウヅキをフウヅキと言い、オッタマゲルはウッタマゲルと言うのです…この沖縄三母音の影響と言われるものも、本来は、九州が起源と考えるべきかも)。

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左側を含め表示しないと理解しにくいため系譜が小さくなりますが 無題.pngなどで調整を。


百嶋由一郎が残した神代系譜(90枚をスキャナーテで読込んだDVD)、講演録音声CD40時間、手書きデータ(スキャニングDVD)を必要とされる方は090-62983254までご連絡ください


 川上 猛、淀姫 兄妹 は高良山にいたウガヤフキアエズと奈留多姫の子である事は既に何度も申し上げましたが、父神ウガヤフキアエズは母神豊玉姫と彦火々出見(山幸彦)の子であり、高良山にも出仕していたはずです。とすれば、川上 猛、淀姫も高良山から川上に頻繁に移動していたのです。

 陸路は、どうしても大回りになり、何れにせよ筑後川を舟で横断することになる事から、久留米水天宮辺りから舟で佐賀に向かっていたはずであり、前ブログで紹介した「佐賀県名勝史跡天然記念物調査報告」に言う、戸数三千、富家、巨商軒を連ねるという古代の九州の大都会に九州王朝の拠点を置き、海路(有明海はコリオリの法則で反時計周りで潮が動いており)で湾奥の満潮に併せて舟を出せは弄することなく川上峡の淀姫神社付近には到達したはずなのです。

 こうして、熊襲 猛と言われた川上 猛も頻繁に現地を訪れていたはずなのです。

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一方、川上 猛、淀姫 兄妹の母方から考えれば、奈留多姫は阿蘇宮司家初代の惟人(コレヒト)の姉か妹のはずで、阿蘇家の本流中の本流の家系であり背後に海幸系と山幸系の対立も見えてくるのです。

その意味では、「高良玉垂宮神秘書」の冒頭に、海幸、山幸の名称は使ってないものの、それと判る記述で書かれており当時の高良山の実力部隊であった事が読み取れるのです。

 それは、ウガヤフキアエズの両親が、豊玉彦と山幸彦だからです。

 それも「高良玉垂宮神秘書」を読むとかなり興味深い逸話が書かれており、簡単にご紹介しましょう。

山幸彦は海幸彦から借りた釣針を失い、返還を迫られものの元の物を返せるはずも無く途方に暮れていると、そこに現れたのが塩土翁(実は博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ)で、龍王の国に行くことを勧めるのです(勿論、息子です)。その経緯は捨象しますが、そこで出会うのが豊玉姫なのです。

 こうして、恋仲となった二人は夫婦となりウガヤフキアエズを産むのです。

 ところが、奔放な豊玉姫は子育てを放棄します。困り果てた山幸彦は再び途方に暮れるのですが、龍王の父であるカミムスビ=塩土翁の世話で、姥=乳母としての鴨玉依姫が送られるのです。この点は、「記紀」にも書かれている事ですが、「高良玉垂宮神秘書」12p13pを少しでも読まれれば、「記紀」の海幸山幸神話の原型である事が自ずとお分かりになるはずです。

 興味深いのは、子育て放棄の結果、乳母として送り込まれた鴨玉依姫とウガヤフキアエズが良い仲になり安曇磯羅を孕むことになるのです。

 こうして、高良の関係者は流石にまずいとして二人は引き離され、鴨玉依姫は後に市杵島姫と草部吉見の間に生まれた佐田大神=大山咋=日吉=日枝山王と大恋愛の結果夫婦となるのでした。

 彼の玉依姫にはヒコナギサタケウガヤフキアエズにはウワキニテハオワシマスと書かれており、こんなことは記紀には一切書かれてはいないのです。だからこちらが原本だとも言えるのですが…。

 何れにせよ、山幸彦と豊玉姫の間に生まれたウガヤフキアエズは、豊玉彦と言うカミムスビの息子と高木大神=タカミムスビの長女豊秋津姫という最高格式の家系に生まれた夫婦の間に生まれた豊玉姫の血を引く以上、九州王朝でも重要な跡継ぎに成るため大切にされ、その家系はウ尊などと崇められることになるのですが、阿蘇系の海幸彦=草部吉見と健 磐龍と言う阿蘇系=黎族の本流の家系を誅伐することになるヤマトタケルとは、神武天皇(神武僭称贈る崇神と言う偽神武ことハツクニシラススメラミコト)ではない本物の神武=カムヤマトイワレヒコと衝突した金山彦系のナガスネヒコの妹オキツヨソタラシ姫を戦利品として受け入れた草部吉見の血を引いた 天足彦―ヤマトタケル―仲哀 の流れによる誅伐を受けたとも言えるのです。それこそが、川上 猛誅伐の動機だったのではないかとも思えるのです。

 もう一つは、後の藤原となる阿蘇氏に対して憤りを覚えて阿蘇系から離脱したのが大国主の子とされる(実際には全く違うのですが出雲神話は「古事記」にしかなくその意味でもいい加減なものなのですが、古代出雲王国などと妙な感情移入が行われているのです)そもそも大山祗の子の大国主が大幡主=カミムスビへの入婿として送り込まれ、兄事代主(古々代ブライ系)、弟建御名方(金山彦系)が兄弟などと大嘘がまかり通っているのです。ほとんど漫画ですね。古代出雲大国ファンの皆さんもそこは大幡主の植民国家最低でも寄港地の一つだった場所であり、出雲大社境内地の地下から出現した大木の跡もNHK外一斉に古代出雲大国の証拠だと騒いだのですが、理化学調査の結果それも鎌倉期の物だったのです。これについは、既にネットに出ていますので、頭を冷やされてはと思うばかりです。お粗末。


以下「高良玉垂宮神秘書」12p13p

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大国主の元で、筑豊の田川郡一帯の開拓を行っていた建御名方はその地(彦山北側)を失い、大国主は南側の朝倉郡一帯を葦原中津国として日嗣御子の治めるべき地として、天照、高木大神、草部吉見(正勝吾勝々速日天之忍穂耳命)の神代三悪人に奪い取られた事に憤っているのは当然で、商売人故に影響がない事から魚釣りで美穂関で直ちに承諾した事代主とは全く立場が異なるのです。こうして、諏訪に閉じ込められ幽閉される建御名方は、川上 猛兄妹の母の奈留多姫を八坂刀売となり名を変えた妻として諏訪に向かうのです。そもそも出雲神話の舞台は高木大神の拠点であった彦山安定化のために裾野の南北を取り上げる事であり、彦山三悪人(高木、天照)の一人実行部隊が草部吉見(正勝吾勝)だったのです。

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無題.pngこうして建御名方は、阿蘇系から離脱し諏訪に幽閉されたのですが、その後も近畿大和朝廷から監視され続けた事が神社伝承などで分かります。


百嶋由一郎嶋由一郎が残した神代系譜(90枚をスキャナーテで読込んだDVD)、講演録音声CD40時間、手書きデータ(スキャニングDVD)を必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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2025年02月14日

新ひぼろぎ逍遥@1055 熊襲 猛誅伐の舞台1800年前の肥前の川上峡はどのような国だったのか

新ひぼろぎ逍遥@1055 熊襲 猛誅伐の舞台1800年前の肥前の川上峡はどのような国だったのか

20240701

太宰府地名研究会 古川 清久


このような話をしても只の妄想だろうと言われそうですが、それを探る幾つかの資料があるのです。

 一方、川上 猛の妹の淀姫は、当時、久留米市の高良山にいたウガヤフキアエズの息子の安曇磯羅の妃となっているのですが、それは川上 猛がヤマトオグナに誅伐された後なのか、前なのかについてはまだ分からないままです。当時と言っても百嶋神社考古学に従えばAD.200年代初頭ですが、川上 猛は、当時、有明海の最奥部のウオータ・フロントであった佐賀大和IC.付近(淀姫神社がある嘉瀬川河口=川上温泉郷)にいたと考えています。これには、旧「大和町史」「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」同地の真言宗健福寺の記録などにも川上 猛の痕跡が書き留められているのです。この古刹の周辺には川上 猛の墓標なるものがあったとの伝承までがあるのです。これらについては先行ブログをお読み頂きたいのですが、今回は、既に故人になりますが、熊本市在住で戦時下の熊本市役所で空襲を受けながらも業務を遂行されていた古代史研究家の平野雅廣(日偏+廣)氏が2000年に公開された「倭国史談」から、この川上 猛とその当時の川上峡一帯を描いてみたいと思います。

同氏は市民の古代研究会のメンバーであり、保守思想の浸透した肥後では珍しい、当時、一人しかいなかったであろう九州王朝論者であり、「九州王朝の周辺」S60、「九州年号の証言」H3倭国王(くまそ)のふるさと「火ノ国山門」H8、「倭国史談」20008月…の4著を発刊されています。現在、これを全て揃えているのは恐らく私達だけでしょうが、貴重な研究資料だと思っています。これについてはしかるべき人に継承したいと思っています。それには我が研究会の存続、継承が必要になるでしょう。

私は、古田史学の会にかなりの期間在籍していましたが、この間、当時事務局長であった古賀達也氏などと、平野先生が誌上で論争されていた事も知っていますし、現在、当研究会の周辺メンバーとして活動されている熊本市の女性が、平野先生から直接指導を受けておられたことも存じ上げております。

ただ、私は平野先生とお会いした事は無く、駆け出しとしても今でも惜しい事をしたと思っています。

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平野先生は明治442月生まれのもし生きておられれば100歳を優に超えておられる方ですが、平成8年に現佐賀市(旧大和町、佐賀市鍋島町…)を探訪され、川上 猛〜異説「ヤマトタケル」を最終著「倭国史談」に収められています。3849p12p)まずは明治生まれの平野先生のご真影をご覧下さい。

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最後に余談ですが、この佐賀市に合併となった旧「大和町史」にも川上 猛に関する記事があり、当時役所に居た事から出張のついでに待機時間が在ったら、町史などの古代関係の記事を読んでいましたので、平野先生の著書を読む前にも、この川上 猛の記事の存在については、一応、承知していました。そこで、旧久留米地名研究会当時、知り合いになっていた九州王朝論者のT氏(宮崎県の学芸員)に話をしたら彼もこの町史を読んでおられたのでした。結局、この話に関してグループ内では宮崎県在住の彼と私しか知っている人がいなかったのでした。いずれこの話も散逸し、消えてしまうだろうと思った次第でした。彼も、九州王朝論者でしたので、宮崎県の資料に耳川から東征はしてはいないと書いたため学芸員を降ろされ、田舎の小さな学校の校長に格下げされたのでした。これが故)百嶋由一郎氏が言った宮崎インチキ神話の実態なのです。勿論、カムヤマトイワレヒコの狭野神社とか、本物の神武天皇のお后だった日南市の吾平津姫神社とか、海幸の潮神社とか日南海岸の野島神社とか本物の価値ある神社もあるのですが、シーガイヤの近世に海岸堆積によって陸化した、イザナギの禊の神社などと言った2000年前は海の底だった江田神社と言ったほぼ大嘘と言った神社など(もし言うとしても昔の海岸線の江田原の檍中学校辺りなら許せるのですが)が横行している有様では如何ともしがたいと言うべきでしょう。

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百嶋由一郎が残した神代系譜(90枚をスキャナーテで読込んだDVD)、講演録音声CD40時間、手書きデータ(スキャニングDVD)を必要とされる方は090-62983254までご連絡ください

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