2026年06月01日

新ひぼろぎ逍遥1131(後) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❹ 続新田=二田

新ひぼろぎ逍遥1131(後) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902

太宰府地名研究会 古川 清久


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

無題.png

石清水八幡宮 カーナビ検索京都府八幡市八幡高坊30


関東武士団が日本海側を北上し新潟辺りで上陸し群馬に入った物部氏であろうという仮説を出していたのですが、群馬と言う米作ができない決して豊かとは言えない土地に踏み入り、関東平野と言う浅間山、富士山、榛名山などの火山灰土壌の畑作地帯の開墾を行ったのですが、大河川はあるものの、川底が深いために水が引けない以上、稲作の沃土は限られており、粉食地帯であったことは、おやき、ホウトウ、フライ、蕎麦、蒟蒻を持ち出すまでもなく、関東武士団の強靭な精神性を造り上げた事だけは間違いがなかったのでした。創作ですが木枯し紋次郎も上州新田郡三日月村でした。

近畿大和朝廷の成立は高々8世紀初頭でしかありません。そこで最終的な勝利者となったのは阿蘇氏の一派、南阿蘇高森から東に向かった草部吉見の末裔の一族でした。そうです藤原氏です。

しかし、その権力も二〜三百年程度で終わり、直ぐに関東武士団の脅威を受け続けたのでした。

さて、ここからは秘密の政治工作であることから所詮推測の域を越えません。県犬養三千代

冬でも青々と葉を付けるときじくの実にちなんで橘宿祢の氏姓を貰います(和銅元年708年)。

 実際には、逆にこの頃から皇室に妃を出せる外戚(女系橘)の地位を失って行くのです。

 橘諸兄(敏達天皇の後裔が亡くなると奈良麻呂の変藤原仲麻呂打倒未遂事件天平勝宝9 757)の敗北により宮中の半数近くが犠牲になります。クーデターに関係しなかったことから残った橘一族も中級以下の者と零落し多くは地方で生き延びる事となります。逆に藤原天皇制の報復への機運も高まって行くのでした。

無題.png

この地方に下野した橘一族(八咫烏後裔=白族)が拠点としていた、石清水八幡宮を軸に、蘇我物部戦争の犠牲となり関東に生息地を得た物部氏が束ねられ、関東武士団として頭角を持ち上げ、公家化した藤原追討に立ち上がり武家政権を打ち立てたのが鎌倉幕府の成立だったのではないかと考えるのです。

 九州王朝の無念さ、物部氏の恨み、橘一族の復活これらが束となって実現したのが武士による

千年王国の幕開けだったのです。表向きは応神を祀るも本当は高良と若宮を祀っているのです。

 そう考えるのは、橘一族=八咫烏の石清水八幡宮が高良を護持しているからです。

徒然草(上)第52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ

仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ*、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良どを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり*。さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず*」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*              無題.pngによる


大分県の国東半島一帯も瀬戸内海挟んで周防の国と一衣帯水の領域ですが、この地の伊美の別宮社(別宮とは石清水八幡宮別宮という意味です)を始めとして多くの神社が高良と若宮を共に祀っています。それは仁徳天皇=オオササギが開化天皇神功皇后長子であることを知っているからなのです。

無題.png

高良神社 カーナビ検索 京都府八幡市八幡高坊30


先に、武田信玄の晩年の居城あった躑躅ケ崎に近い武田八幡宮に九州王朝の若宮=仁徳が祀られていると書いたかも知れませんが(長いので覚えてない)、関心を持たれたら以下をお読みください。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

武田信玄が高良玉垂命の腹違いの兄大彦末裔であることがお分かり頂けるでしょう。

無題.png
無題.png
無題.png

蘇我物部戦争

丁未の乱は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変、衣摺の戦いともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。これ以後、物部氏は衰退した。発生日:西暦552年 

ウィキペディア20250221 09:31による


こんなものは九州王朝の時代に北部九州で起こっているのであって、近畿にあるのは近畿大和朝廷の歴史として置き換えられたテーマ・パークでしかないのです。

結果、敗残した物部25部族の大半が日本海ルートで安全な越前、越中辺りで上陸し(柏崎刈羽辺りでしょうね)数世代を掛けて関東へと入ったのが物部=改め武士(関東武士団)となったのです。


天物部二十五部   無題.png様による


 [二田物部](ふた)        鞍手郡小竹町新多二田ケ浦

 [当麻物部](たぎま)       未詳

 [芹田物部](せりた)       宮若市芹田

 [鳥見物部](とみ)        直方市頓野

 [横田物部](よこた)       飯塚市横田

 [嶋戸物部](しまと)       遠賀郡遠賀町島門

 [浮田物部](うきた)       未詳

 [巷宜物部](そが)        早良郡曽我?

 [足田物部](あしだ)       未詳、鞍手郡疋田説あり

 [須尺物部](すさか)       糟屋郡粕屋町酒殿

 [田尻物部](たじり)       未詳、みやま市田尻?

 [赤間物部](あかま)       宗像市赤間

 [久米物部](くめ)        未詳、糸島市久米?

 [狭竹物部](さたけ)       鞍手郡小竹町

 [大豆物部](おおまめ)      嘉穂郡桂川町豆田

 [肩野物部](かたの)       北州市小倉北区片野

 [羽束物部](はつかし)      遠賀郡岡垣町波津

 [尋津物部](ひろつ)       鞍手郡鞍手町八尋?遠賀町広渡?

 [布都留物部](ふつる)      鞍手郡鞍手町古門?

 [住跡物部](すみと)       未詳

 [讃岐三野物部](さぬきのみつの) 未詳、福岡市博多区美野島?

 [相槻物部](あいつき)      朝倉市秋月?

 [筑紫聞物部](ちくしのきく)   北九州市小倉南区企救

 [播麻物部](はりま)       未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた

 [筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北


二田物部は「新」をニイ、ニュウと発音するヨーロッパ系言語を持ってきた人々の様で、一応、半島外北部 中国東北部遼寧省辺りから入っていると考えるべきなのでしょうが、そもそも大山祇系も半島の金海(キメ)の金海金氏で、西都原から筑豊に入っているのかも知れません。

そのルートは、熊本市の南、御船町→益城町(マシキではなく元はウマシキでしょう)→甘木(現朝倉市)→飯塚市(馬敷)→鞍手郡小竹町新多二田ケ浦なのではないかと考えています。

それが良く知られる狗奴国と考えています。

直ちに大山祇系と断定はしませんが、彼らが宮崎の西都市の北に位置する新田原(ニュータバル)辺りから北上し筑豊に入り、新潟と名付けたのだと思うのです。だからこそ、新(ニイ)潟と呼んだのです。

無題.png

百嶋神社考古学では大山祇系は金官伽耶の金海金氏(王昭君系南匈奴)と考えており、だからこそ、物部25部族の筆頭に就いたでしょう。

田尻物部、秋月物部は、後漢の霊帝時代に半島経由で入ってきた阿智王の後裔の一族でしょう。

鳥見物部はトミノナガスネヒコを思わせます。金山彦系(若しくはカミムスビ系)のはずです。

物部氏とはこの様な雑多な集団であり、当時は旧遠賀湖でも言うべき遠賀川と玄海灘の潮が入る低湿地帯のはずで、半島から入ってきた人々は他の先住民と衝突しない場所を選んで徐々に自らの国を開拓し始めていたのです。今回、これまで別個に調べてきた多くの要素を繋ぎ合わせ、甲信越のフィールド・ワークの結果、分かってきたことを繋ぎ合わせていくと、九州から移動した=逃亡した物部氏の多くが、新潟から関東一帯に展開し関東武士団として復活した姿が浮かび上がってきたのでした。

昨年、埼玉の百嶋神社考古学メンバーと南魚沼郡への調査を行いましたが、悪天候によって途中で中断しました。現在、再度の調査を企画しています。それ以降、もっと詳しい事が解ってくると思います。

今回、関東武士団の成立のアウト・ラインが漸く見えてきましたが、更に詳しい事が解ってくると思います。


百嶋由一郎が残した90枚近い神代系譜のスキャニングDVD,40時間の講演録音声CDMP3方式)カーステレオ、パソコン対応、手書きデータスキャニンクDVDなどを必要とされる方は090-62983254まで゙

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

新ひぼろぎ逍遥1131(前) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❹ 続新田=二田

新ひぼろぎ逍遥1131(前) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える  続新田=二田

20250902

太宰府地名研究会 古川 清久


1092 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❸ 新田=二田からの続き


日光東照宮はともかくも、世良田東照宮とか仙台東照宮と言ってもご存じない方が多いと思います。

その前に、東照神君家康公を祀る日光東照宮は神社と言えるのか…との反論が飛んできそうです。

しかし、そう言われれば、乃木希典や東郷平八郎を祀る神社は神社ではないのか…と不毛な議論をせざるを得なくなるのです。

この問題を強調し過ぎると、結局、列島の神々とは西洋の一神教の絶対神ではなく、天照だろうが神武だろうが所詮は普通の生きる人間であり、本来は自らの生まれた土地の先祖神としての産土神こそが自らの先祖、祖先神でしかなくそれを崇めているのだと再認識するのです。

つまり、列島の神々とは、所詮、各々の民族、氏族の先祖神でしかないのです。

問題は、神社が生き延びるために世情や政情に併せ、何時しか祭神の入れ替えが行われている事があまりに多いため(これは年から年中神社を廻る者にとっては半ば常識なのですが)、結局、多くの民族が逃げ込んできた列島には驚くほどの多くの民族が入っているにも関わらず、間の抜けた単一民族国家などと本気で思い込んでおられる方が多いため、この観点がなければ、神社探訪とはただの風景を見るだけの観光旅行に成り下がってしまう事になってしまうのです。

そこでご紹介したいのが、より徳川の一族の先祖神を改めて考えさせる神社です。

無題.png

以下、同社の由緒書きをお読みください。徳川家のルーツが見えてきます。

実はウィキペディア以降の当方のブログでそれが分かって頂けるかも知れません。

以前から申し上げている筑豊の物部氏の後裔の可能性があるのです。

無題.png

以下世良田東照宮で検索した ウィキペディア(Wikipedia)』20250210  20:35による

世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市世良田町にある神社。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮1つである。1617元和3年)に駿河国久能山久能山東照宮)より下野国日光日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている。

歴史[編集]

この地は新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ[要出典]、隣接する長楽寺は義重の供養塔もあり、歴代新田氏本宗家惣領が厚く庇護を与え、大いに栄えていた。関東に入った徳川氏は、新田氏から分立したこの地を発祥地とする世良田の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされた。

世良田東照宮は寛永16年(1639)ごろ、長楽寺の再興に取り組んでいた天海に、3将軍徳川家光が命じて創建させたものであるという。当時家光は日光東照宮の造替を行っており、徳川秀忠が造営した日光東照宮奥社の社殿を世良田に移築したとされている。寛永19年(1642)ごろから工事を開始し、本殿の新築、神廟(本地塔)・拝殿・唐門の移築を完了し寛永21年(1644年)1011日に遷宮が行われた[1]。遷宮時には後水尾上皇の勅額の下賜を受けた[2]

江戸時代には神領200石を与えられ、歴代将軍によってしばしば修繕が行われた[3]。修復にあたり参拝する幕府役人は、御目身以上は拝殿廊下、御目身以下は拝殿階下で拝礼した[4]

1875明治8年)[要出典]神仏分離によって長楽寺から分離し、1877(明治10年)に村社、1879(明治12年)に郷社に列格した[5]


この問題については以前から関心をもっていました。

 それは、蘇我氏と物部氏の闘いの主戦場は九州であり、その結果、筑豊に展開していた物部25部族の多くが飯塚市から響灘に流れ出す遠賀川の河口から対馬海流に乗り日本海を北上し北陸から越国に移動したのではないかという仮説を立てていました。

 山陰から但馬への調査から更に北の日本海沿岸に目が向いたのは、そのフィールド・ワークが終わり、もっと奥の東日本の日本海沿岸から調査を始めようと青森〜岩手への調査に踏み込んだのが十年程前でした。

 柏崎、刈羽から新潟の彌彦神社に移動中、カーナビに物部神社の存在を見出し、急遽、ハンドルを切ったのが、西山町(田中角栄の出身地ですね)の二田物部神社との出会いでした。現在、アメブロでこのブログが検索に引っ掛からないのは(正確には順位を下げ検索上位に上がらないようにしているのでしょう)、アメブロの体質で、結果、離脱したのもそういった背景があったのですが、北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した”と入力すれば、完全には消されていませんので興味を持たれたら試してみてください。以下も関連するブログを幾つか挙げておきます。


ひぼろぎ逍遥スポット097(前) 全国の物部研究者の皆さんに

ひぼろぎ逍遥

584

高知県の物部川流域にひそりと息づく仁位田神社

295

北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

459

二田物部のルーツは対馬の仁田だったのではないか?


神代から中世まで


何故、今回、不慣れな源家とか北条氏とか関東武士団というものに拘わっているかと言うと、関東一円に展開している神社群の多くの中に、筑豊から放逐された物部25部族筆頭としての天神ニギハヤヒ(山幸彦)と結びついた八咫烏、橘一族、石清水八幡宮の強い影響力を感じたからでした。

まずは、鎌倉政権の象徴とも言うべき鶴岡八幡宮の由緒書きをお読みください。


無題.png始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請(神様の御分霊を他の地に還し祀ること)したことです。頼義は石清水八幡宮を篤く信仰しており、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀りました。 その後、源頼朝公が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造りました。

東国社会の中心的存在へ             鳥文字八幡宮

無題.png

源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く崇敬しておりました。
治承4年(1180年)、源頼朝公が初の武家政権である鎌倉幕府の拠点を鎌倉の地に構え、同年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷し祀ります。

幕府、鎌倉、ひいては東国社会の守護神として篤い崇敬の誠を寄せたのです。さらに、幕府の重要祭事として、放生会や流鏑馬、相撲、舞楽など今日に継承される祭事を境内でとり行いました。

無題.png鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです。

無題.png

その証拠とまで言えそうな八幡宮が物部氏の本拠地筑豊最深部田川郡香春町に存在します。由緒によるとこちらが古いのです。物部25部族と鎌倉政権、石清水八幡宮=橘一族との関係は明らかです。

無題.png

鶴岡八幡神社 カーナビ検索福岡県田川郡香春町中津原404

仁平2(1152)10月、 鎮西八郎為朝公が豊後国臼杵から勾金庄南大原の館に移り、源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を御勧請して奉斎するため、家臣尾張権守家任を新造の八幡宮造営の奉行と定め・・・ 


鶴岡八幡宮の歴史は、源頼朝公の祖先・源頼義(みなもとのよりよし)が、由比ガ浜に源氏の氏神として八幡神を祀ったことからはじまります。 その後、1180年に源頼朝公が現在の場所に遷して、現在の鶴岡八幡宮の基礎が造られました。鶴岡八幡宮は神社としてだけでなく、鎌倉の町づくりや文化発信の拠点としての面も。2024/10/31 無題.png による


石清水八幡宮も伊勢神宮も九州王朝を支えた橘一族(その本体は雲南省の昆明、大理から亡命してきた白族)が祀ったもので、現在は京都の下賀茂神社に象徴される有力な人々の象徴と考えれば大方間違いはないだろうと思います。対して大陸でも漢族との闘いで協力した多氏(阿蘇氏、黎族)は天草の苓北町から白川を遡上し阿蘇でも阿蘇谷と呼ばれる外輪山北半に入っています。

この白族が最初に拠点としたところは熊本市の現千葉城町(後に千葉氏が入っているからです)熊本の表記は加藤清正が隈を熊に変えたもので、この隈地名(雑餉隈…)が九州の南にも広がります。主要には扇方に北部九州の佐賀、福岡、大分一帯に広がっている事でお判り頂だけるでしょう。

 この雲南省から亡命してきた二派が日本の開拓の主力となり日本人の骨格となったのですが、その後も千年近くは数十派の多くの渡来系氏族が入り列島にあまねく広がっていったのです。

 その中でも特に白族は先行して博多に亡命していた呉の太伯王の末裔から政権運営に協力して欲しいとして呼ばれ、熊本から福岡に移動しているのです(百嶋由一郎の言)。

 呉が滅ぶのが大雑把にBC500年ほどとすると、雲南省から海南島南西域を経由して亡命した二つの民族が列島に移動するのがBC300年辺りだったと思われます。

この話は別のテーマですので、先行ブログやパワー・ポイントをお読み頂くとして、先に進みます。



posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年04月29日

新ひぼろぎ逍遥1130 松浦党の起源を探る ⓴ “イエズス会は火薬と奴隷貿易の先兵”

新ひぼろぎ逍遥1130 松浦党の起源を探る ⓴ “イエズス会は火薬と奴隷貿易の先兵”

                       20250815

太宰府地名研究会 古川清久


ひぼろぎ逍遥 634 キリシタン史跡世界文化遺産登録に狂奔する列島文化の堕落を撃て(予防的復刻版)

20180630


長崎〜天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 長崎の教会群とキリスト教関連遺産 ア津など潜伏キリシタン世界遺産へ ユネスコ機関が勧告…と行政から村興し町興しの見苦しくもさもしい運動が目に余るばかりの惨状を呈しています。

こういった運動をやっているのは上級官庁に尾を振る行政の長から議員は当然としても、教育委員会から郷土史家といった振れ込みの人々なのでしょうが、こういった手合いは大体において大東亜戦では国威発揚の御先棒を担いだ人々でしょうし幕府のキリシタン弾圧では時流に乗って真っ先に密告しお上に忠誠をたような種類の人々でありキリシタン弾圧に手を貸した人々であろうことは簡単に想像できるでしょう。 

まあ、事実上は、米国民主党や連動する在日両朝鮮人勢力、チュウ共の戦後利得者似非左翼ですね。

逆に、信念を曲げず信仰に死ぬキリシタンの精神性など一片もない連中に決まっているのでしょうが、ここでは純粋なキリシタンと弾圧の側に回った権力などといった安っぽい話をしようとするものではありません。世の中とは決してそのような単純な構造ではないのです。

 まず、ポルトガル宣教師たちが跋扈した戦国期から、豊臣政権下で徐々に強まる伴天連追放令、そして天草島原の乱以降、江戸期に何故キリシタンが禁制となり、金儲けだけを優先したオランダが慎重に貿易相手とされたのかが知らされていない中での愚行が、長崎〜熊本のキリシタン遺構のユネスコ認定となっている事を考えなければならないのです。

 多少、持って回った話をしましたが、個人的には豊臣政権から徳川政権に引き継がれたキリシタン禁教は実は全く正しかったと考えています。

 実は、私自身も明治期にアメリカから持ち込まれたプロテスタント系の某教団が経営する幼稚園に通い、クリスマス・キャロルで聖歌を歌いその教会で結婚式を挙げた者ではあるのですが、この事=江戸期の禁教については実に正しい対外政策を採ったものだと今も確信のような思いを持っています。

 この事によって日本は事実上の統一国家を打ち立て、独立性を保ち強力な武装(戦国時代とは期最大の鉄砲、大筒の保有国)の元、明治に至るまで世界最高の教育水準と豊かさを保持する事になったのでした。 

では、キリシタンを擁護するかしないかを決め付ける前に、何故、そう言えるかを簡単に説明しておこうと思います。

無題.png

日本の婦女子をバダビアに売り飛ばしていたイエズス会系ポルトガル宣教師と貿易商人


 ほとんど知られてはないのですが(最近はネットが普及し知られ始めましたが)、肥前、肥後にとどまらず豊後も含め大量の日本人婦女子がポルトガル船の船倉に入れられバダビア(インドネシア)などに売り飛ばされていたという隠された事実があるのです。この問題は以前も取り上げましたが、再度、取上げたいと思います。多くの情報が出ていますので、ヤフーでもグーグルでも 「ポルトガル宣教師」「人身売買」などでダブル検索を試みて見て下さい。後は、ご本人の判断にお任せいたします。

 こんなものはデマだとお考えになるのは結構ですが、そうだとしても自らが植えつけられているキリシタンへのイメージも所詮はマッカーサーの占領政府以来の事実上の検閲の結果与えられた餌のようなものでしかないはずなのです。


ポルトガルの奴隷貿易 アジア人の奴隷

ポルトガル人が日本人に1543年に初めて接触したのち、1617世紀を通じ、ポルトガル人が日本で日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけるという大規模な奴隷交易が発展した。多くの文献において、日本人を奴隷にすることへの抗議とともに、大規模な奴隷交易の存在が述べられている。日本人の奴隷たちはヨーロッパに流れ着いた最初の日本人であると考えられており、1555年の教会の記録によれば、ポルトガル人は多数の日本人の奴隷の少女を買い取り性的な目的でポルトガルに連れ帰っていた。国王セバスティアン1世は日本人の奴隷交易が大規模なものへと成長してきたため、カトリック教会への改宗に悪影響が出ることを懸念して1571年に日本人の奴隷交易の中止を命令した。

ウィキペディア(20180630 19:16による


宣教師は奴隷商人と結託し、日本人を海外に輸出していた。これが豊臣秀吉を激怒させ、伴天連追放令にまで発展した。宣教師は決して布教に従事する平和的な存在ではない。

彼らは日本人の売買に関与し、秀吉はそれを止めさせるための交渉を行っていた。

戦国時代、合戦の後には捕虜の売買が日常的に行われており、人買いという商売も成立していた。豊臣秀吉は国内での人身売買を許さず、仲介人や船主を磔刑とした。秀吉の伴天連追放令は、人身売買の禁令を外国人にも発布したのと言えよう。秀吉の通訳であったロドリゲスは、死の間際まで秀吉は布教の話題を取り上げることはなかったと記している。

天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が宣教師によって海外に売られた。弘治元年十月(西暦1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記した。やがて、宣教師らは人身売買が日本への布教を妨げると判断。それを受けたポルトガル国王は元亀元年三月六日(西暦1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止した。合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まった。

このように一部の宣教師は人身売買に反対したが、イエズス会自体は人身売買を許可していた。国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いた。天正十五年、秀吉はコエリョに対し『五ヶ条の詰問』を叩きつけ、南蛮人が日本人を奴隷として売り買いし、他国へ『輸出』していることに激怒している。コエリョは日本人が奴隷を売るから買ったのだ、と反論。秀吉は南蛮人の奴隷売買を日本人が真似てしまったのだと言い返した。

この討論の直後、天正十五年六月十八日に伴天連追放令が発布された。同時に秀吉は、宣教師に海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じた。慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じた。このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出したが、従うポルトガル人は少なかった。…なぜこういった歴史を教えないのですか?

YAHOO知恵袋による


【黒歴史】イェズス会は奴隷貿易の先鋒だった説【人身売買】

日本の場合16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。

海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、(中略)日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。

鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。

その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成した

無題.pngエズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(3)

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。

有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。

1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。

日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めており、1571年には当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。

豊臣秀吉の伴天連追放令

1587年(天正15年)724日、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼んで人身売買と宣教師の関わりについて詰問、即日奴隷の売買を含む南蛮貿易の禁止とキリスト教の布教を禁じるバテレン追放令を発布した。

無題.png

実はカトリックの司祭ではなく新教系の牧師様も証言されているのです。以下一部ですが紹介します。


日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?                                 2006127日 金曜日

◆日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし

わたしは先に第4回「天主教の渡来」の中で、日本におけるキリシタンの目覚ましい発展と衰退の概略を述べました。しかし、ここではキリシタンがたどった土着化の過程について考察してみたいと思います。後で詳しく述ぺますが、わたしの先祖はキリシタンでありました。わたしは伊達政宗の領地であった岩手県藤沢町大籠(おおかご)地区での大迫害で生き残ったかくれキリシタンの末裔です。

今はプロテスタントの牧師ですが、わたしの中にはキリシタンの血が流れていると思います。三年前の夏、父の郷里藤沢町を初めて訪問してこの事実を知ってから、キリシタンについてのわたしの関心は以前より深くなりました。そしてキリシタンについての知識も少し増えました。四百年前のキリシタンを知ることが現代のわたしたちと深く関わってくると思いますので、先ず追害の理由から始めたいと思います。

1.キリシタン遣害の理由

宣教師ルイス・フロイスが暴君と呼ぶ豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発したのは、1587724日(天正15619)でした。これは天正(てんしょう)の禁令として知られる第1回のキリシタン禁止令です。それ以後徳川時代にかけて、次々に発せられた禁止令の理由をまとめると、次の五つになるでしょう。…中略…

(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。…以下も重要な話が書きつづられています。


 長々と引用させて頂きましたが、この牧師が書かれた話は10年前にも読んだ記憶があります。

 当時も今も最も良く整理されているものと考えますので、検索の末、以下も是非お読み頂きたいと思います。

 まず、戦国時代、日本は直ぐに鉄砲を自給自足できるような高い技術を持つ国ではあったのですが(当時世界最大の鉄砲所有国)、黒色火薬の材料である硝石だけが自給できませんでした。

緑の火山列島の日本は硫黄と木炭は潤沢にありましたが、硝石(硝酸カリウム)は僅かしか手に入らず、火薬一樽に対して婦女子が50人といった比率でポルトガル船に押し込められて奴隷貿易が行われていたのです。

その背景にカトリックが入った長崎、熊本、大分などでは、貧しい上に間引きをさせず、神からの授かりものとして許容力以上に子供が増え、大量に余った婦女子が輸出される構造がつくり出されたのでした。

 要は、アフリカからの黒人奴隷売買にスペイン、ポルトガル人宣教師が関与し、嵐で沈没しそうになった時には鎖に繋がれた奴隷がそのまま時化の海に放り込まれたり、伝染病に犯された奴隷がそのまま海に捨てられたりといった人非人であった事は良く知られていますが、アジアに於いてもポルトガル宣教師が関与し、小規模なと言っても大西洋の三角貿易の十分の一の一説35万人とか50万人といった話らしいのですが、これが神の遣いとするルイス・アルメイダとかヴァリニヤーノとかコエリヨのやったことであり、そもそもイエズス会とかカトリックの神父などといった連中はミッションを帯びた修道僧などと美化されてはいるものの、ただの奴隷商人の手先に近いものでしかなく、植民地支配の一翼を担った悪魔のような連中だったのです。

こうして今も日本の血をひいた人々が東南アジアからスペイン、ポルトガルに生きているのです。

 こういった歴史を知ってか知らずか(村興し町興しの調子者どもはどうせ知識を持ってなどいませんが)この奴隷商人どもの手先でしかなかったキリシタン伴天連の尻尾に成り下がっているのです。

 そもそも、欧州の不良貴族の成れの果て共が勝手に作ったユネスコなどと言うイカサマ団体には何らの正統性も権威も清廉さも中立性も存在しない非公共機関なのであって、こんな連中に拝跪し“世界遺産登録を宜しくお願いします“など、もろ手を挙げて大騒ぎする等恥知らずも良いところなのであり、ましてや、”キリスト教関連遺産ならユニスコに採用されやすいだろう”とロビイストなみに工作に狂奔する等(まさか賄賂などは贈っていないでしょうが?)、日本人としての知性も誇りなど欠片さえ持っていないのです。

 こいつらにはキリスト教への信仰心よりも地域振興への税金散布や公共事業費に興味があるのであって、キリシタン大名が次々と名乗りを挙げたように、文化遺産の保護さえも真面目には考えてはいないのです。

 このポルトガル宣教師がやった人非人にも劣る行為とイエズス会=カトリックのアジア人を畜生としか考えていない残虐性は現在も尚継続しているのですが、日本は文明開化の過程でロスチャイルドなどユダヤ金融資本が動かす大英帝国や米国に気兼ねして、決してキリシタン伴天連どもが行った残虐な事実を公表しようとも教育しようとも正そうともしていないのです。

 それが、現在もなお国際金融資本に日本の富が強奪され続けている原因であり、お人好しの日本人は、ただの金蔓としてユニスコと言う公共性も正統性もない団体に操られ続けているのです。

 日本人には一片の誇りも独自性もないのでしょうか?村興し町興しの愚か者どもをこそ軽蔑しなければ

ならないのです。


日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代しばやんの日々も是非…


前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。

中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。

…中略…

…「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…

 以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。

 …ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。

我が主御降誕の145418日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)

文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5(在位:14381481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。

…中略…

ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。

キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。


この日本人婦女子の奴隷貿易にポルトガル宣教師が大きく関わり、所謂、キリシタンに帰依した大名もが、その事を知った上で関わっていた事がほとんど知らされていないのは、明治維新によってキリシタン禁教を続けて来た幕藩体制を悪く言いたいと言う要請と、維新を支援してくれたキリスト教圏を批判しないと言う配慮が存在した上に(明治維新もユダヤ金融資本の誘導が背後にある)、大東亜戦争の敗北による九年間のマッカーサーの占領政策によって敷かれた言論界と政権そのものがキリスト教圏を批判できないし批判しない(今でも天草島原の乱は幕府が非人道的な虐殺を行なったというのが定説化されている)という事に気付くはずなのです。

そして、かつてならキリスト教弾圧に率先して手を染めたような、さもしくも時流に乗ろうとする人々によって、今またキリスト教史跡の世界遺産登録に狂奔しているという恥ずべき事実に戦慄をさえ感じるのです。


今こそ日本の独自の文化と歴史を守るために村興し町興し世界遺産登録運動を排斥すべきなのです!

無題.png

ここは私も良く通った市役所にも近い平戸港の奥です 種子島に鉄砲を伝えた倭寇の頭目・王直もこの一帯から鉄砲の売り込みを指揮していたはずなのです

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記