新ひぼろぎ逍遥1131(後) 群馬県太田市の世良田東照宮から関東武士団を考える ❹ 続新田=二田
20250902
太宰府地名研究会 古川 清久
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石清水八幡宮 カーナビ検索京都府八幡市八幡高坊30
関東武士団が日本海側を北上し新潟辺りで上陸し群馬に入った物部氏であろうという仮説を出していたのですが、群馬と言う米作ができない決して豊かとは言えない土地に踏み入り、関東平野と言う浅間山、富士山、榛名山…などの火山灰土壌の畑作地帯の開墾を行ったのですが、大河川はあるものの、川底が深いために水が引けない以上、稲作の沃土は限られており、粉食地帯であったことは、おやき、ホウトウ、フライ、蕎麦、蒟蒻…を持ち出すまでもなく、関東武士団の強靭な精神性を造り上げた事だけは間違いがなかったのでした。創作ですが木枯し紋次郎も上州新田郡三日月村でした。
近畿大和朝廷の成立は高々8世紀初頭でしかありません。そこで最終的な勝利者となったのは阿蘇氏の一派、南阿蘇高森から東に向かった草部吉見の末裔の一族でした。そうです藤原氏です。
しかし、その権力も二〜三百年程度で終わり、直ぐに関東武士団の脅威を受け続けたのでした。
さて、ここからは秘密の政治工作であることから所詮推測の域を越えません。県犬養橘三千代は
冬でも青々と葉を付けるときじくの実にちなんで橘宿祢の氏姓を貰います(和銅元年708年)。
実際には、逆にこの頃から皇室に妃を出せる外戚(女系橘)の地位を失って行くのです。
橘諸兄(敏達天皇の後裔)が亡くなると奈良麻呂の変(藤原仲麻呂打倒未遂事件天平勝宝9 757年)の敗北により宮中の半数近くが犠牲になります。クーデターに関係しなかったことから残った橘一族も中級以下の者と零落し多くは地方で生き延びる事となります。逆に藤原天皇制の報復への機運も高まって行くのでした。

この地方に下野した橘一族(八咫烏後裔=白族)が拠点としていた、石清水八幡宮を軸に、蘇我物部戦争の犠牲となり関東に生息地を得た物部氏が束ねられ、関東武士団として頭角を持ち上げ、公家化した藤原追討に立ち上がり武家政権を打ち立てたのが鎌倉幕府の成立だったのではないかと考えるのです。
九州王朝の無念さ、物部氏の恨み、橘一族の復活これらが束となって実現したのが武士による
千年王国の幕開けだったのです。表向きは応神を祀るも本当は高良と若宮を祀っているのです。
そう考えるのは、橘一族=八咫烏の石清水八幡宮が高良を護持しているからです。
徒然草(上)第52段 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ
仁和寺にある法師*、年寄るまで石清水を拝まざりければ*、心うく覚えて*、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり*。さて、かたへの人にあひて*、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど*、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず*」とぞ言ひける。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり*。
による
大分県の国東半島一帯も瀬戸内海挟んで周防の国と一衣帯水の領域ですが、この地の伊美の別宮社(別宮とは石清水八幡宮別宮という意味です)を始めとして多くの神社が高良と若宮を共に祀っています。それは仁徳天皇=オオササギが開化天皇神功皇后長子であることを知っているからなのです。

高良神社 カーナビ検索 京都府八幡市八幡高坊30
先に、武田信玄の晩年の居城あった躑躅ケ崎に近い武田八幡宮に九州王朝の若宮=仁徳が祀られていると書いたかも知れませんが(長いので覚えてない)、関心を持たれたら以下をお読みください。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
961 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) |
960 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社 |
武田信玄が高良玉垂命の腹違いの兄大彦末裔であることがお分かり頂けるでしょう。



蘇我物部戦争
丁未の乱は、飛鳥時代に起きた内乱である。丁未の変、丁未の役、物部守屋の変、衣摺の戦いともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、物部氏の守屋宗家が滅ぼされた。これ以後、物部氏は衰退した。発生日:西暦552年
ウィキペディア20250221 09:31による
こんなものは九州王朝の時代に北部九州で起こっているのであって、近畿にあるのは近畿大和朝廷の歴史として置き換えられたテーマ・パークでしかないのです。
結果、敗残した物部25部族の大半が日本海ルートで安全な越前、越中辺りで上陸し(柏崎刈羽辺りでしょうね)数世代を掛けて関東へと入ったのが物部=改め武士(関東武士団)となったのです。
天物部二十五部
様による
[二田物部](ふた) 鞍手郡小竹町新多二田ケ浦
[当麻物部](たぎま) 未詳
[芹田物部](せりた) 宮若市芹田
[鳥見物部](とみ) 直方市頓野
[横田物部](よこた) 飯塚市横田
[嶋戸物部](しまと) 遠賀郡遠賀町島門
[浮田物部](うきた) 未詳
[巷宜物部](そが) 早良郡曽我?
[足田物部](あしだ) 未詳、鞍手郡疋田説あり
[須尺物部](すさか) 糟屋郡粕屋町酒殿
[田尻物部](たじり) 未詳、みやま市田尻?
[赤間物部](あかま) 宗像市赤間
[久米物部](くめ) 未詳、糸島市久米?
[狭竹物部](さたけ) 鞍手郡小竹町
[大豆物部](おおまめ) 嘉穂郡桂川町豆田
[肩野物部](かたの) 北州市小倉北区片野
[羽束物部](はつかし) 遠賀郡岡垣町波津
[尋津物部](ひろつ) 鞍手郡鞍手町八尋?遠賀町広渡?
[布都留物部](ふつる) 鞍手郡鞍手町古門?
[住跡物部](すみと) 未詳
[讃岐三野物部](さぬきのみつの) 未詳、福岡市博多区美野島?
[相槻物部](あいつき) 朝倉市秋月?
[筑紫聞物部](ちくしのきく) 北九州市小倉南区企救
[播麻物部](はりま) 未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた
[筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北
二田物部は「新」をニイ、ニュウと発音するヨーロッパ系言語を持ってきた人々の様で、一応、半島外北部 中国東北部遼寧省辺りから入っていると考えるべきなのでしょうが、そもそも大山祇系も半島の金海(キメ)の金海金氏で、西都原から筑豊に入っているのかも知れません。
そのルートは、熊本市の南、御船町→益城町(マシキではなく元はウマシキでしょう)→甘木(現朝倉市)→飯塚市(馬敷)→鞍手郡小竹町新多二田ケ浦なのではないかと考えています。
それが良く知られる狗奴国と考えています。
直ちに大山祇系と断定はしませんが、彼らが宮崎の西都市の北に位置する新田原(ニュータバル)辺りから北上し筑豊に入り、新潟と名付けたのだと思うのです。だからこそ、新(ニイ)潟と呼んだのです。

百嶋神社考古学では大山祇系は金官伽耶の金海金氏(王昭君系南匈奴)と考えており、だからこそ、物部25部族の筆頭に就いたでしょう。
田尻物部、秋月物部は、後漢の霊帝時代に半島経由で入ってきた阿智王の後裔の一族でしょう。
鳥見物部はトミノナガスネヒコを思わせます。金山彦系(若しくはカミムスビ系)のはずです。
物部氏とはこの様な雑多な集団であり、当時は旧遠賀湖でも言うべき遠賀川と玄海灘の潮が入る低湿地帯のはずで、半島から入ってきた人々は他の先住民と衝突しない場所を選んで徐々に自らの国を開拓し始めていたのです。今回、これまで別個に調べてきた多くの要素を繋ぎ合わせ、甲信越のフィールド・ワークの結果、分かってきたことを繋ぎ合わせていくと、九州から移動した=逃亡した物部氏の多くが、新潟から関東一帯に展開し関東武士団として復活した姿が浮かび上がってきたのでした。
昨年、埼玉の百嶋神社考古学メンバーと南魚沼郡への調査を行いましたが、悪天候によって途中で中断しました。現在、再度の調査を企画しています。それ以降、もっと詳しい事が解ってくると思います。
今回、関東武士団の成立のアウト・ラインが漸く見えてきましたが、更に詳しい事が解ってくると思います。
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にお読み頂き有難いと思っています。


始まりは、鎌倉幕府を築いた源頼朝公の祖先源頼義が、




エズス会宣教師が絶賛した織田信長の所業とは 戦国九州奴隷貿易の真相に迫る(3)

















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