1064 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える
20240809
太宰府地名研究会 古川 清久


以上は「苗字由来net」様のデータをご紹介したものです。以前は、姓名分布&ランキングを多用しておりましたが、3月で閉鎖終了となりましたので、今後はこれを活用させて頂きたいと思っています。
今回、豊後大野の大神一族が記紀神話で有名な川上 猛(俗称熊襲 猛)の後裔氏族であろうとの推定から、この姓名分布からもアプローチしたいと考えたものです。
緒方惟栄は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。 『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子孫であるという伝説がある。 ウィキペディア20240809 10:39による
この大神外緒方などの全国分布を見る時、分かり難いですが幾つかの興味深い点に気付きます。
まず、大神姓の分布は、最低でも九州起源であると言う事が見て取れ、東にも相当に広がっている事が分かります。絶対量の事を申し上げてはいませんのでその範囲でお考え下さい。
一方、緒方が最も権威がある中心的一族の様に見えます。古代には、少なくとも阿蘇氏の本拠地は九州の中心部であり、緒と尾とは頭が緒であり、尾は末端の意味があったはずで、本家と分家と言うよりも御屋形様と臣下の上下関係を表すはずで、指揮と臣従を意味している様に見えます。
つまり尾方と尾形でも肥後に残った(つまり本店)臣下と、前線に出向いた(つまり支店)配下の意味
が感じられます。
また、緒形も尾形も地方、戦場に出た指揮官と配下の違いが反映されている様に見えるのです。
頭に浮かぶのは、崇神天皇指揮下で実行されたとされている(あくまでもされている)四道将軍です。
これは九州王朝の高良玉垂命(阿蘇氏=多氏の後の藤原氏も渋々第9代天皇とせざるを得なかった開化天皇+神功皇后コンプレックス複合体)の指揮下で日本海側北上に送り込まれた実は安部一族(開化の腹違いの兄=大彦の一族)であり、そこでも新潟に緒形、尾形がピークを見せているのです。
その安部氏と合流したのが東関東に進出した崇神の息子の一人で、故に「会津」と言うという記紀に良くある語呂合わせとしての地名説話なのです。
ついでに小形姓を見ると、やはり佐賀、熊本、大分方面から東北地方に進出し、定着した人々に見えますね。これは後の時代ですしょう。多分、安部の貞任、宗任が潰された後の時代であるように思います。起点は京都の舞鶴と言うよりも福井の敦賀辺りからでしょうか。分布からはそう見えます。
崇神の別名はツヌガノアラシト=都怒我阿羅斯等
敦賀にやって来ていた(阿羅)伽耶の人=ズーズー弁地帯では人はシトですね。阿蘇国造大山(クイ)咋を祀る甲佐神社の主神は贈る崇神の親なのです。
まあ、不確かな作業ですが、崇神がやった中国地方、畿内から東日本征服戦争にも阿蘇氏が関係している事が良く分かります。ただ、間違えないで頂きたいのは、これも九州王朝が年嵩でも配下の崇神の息子の世代にやらせたことなのです。 上は小形
ただ、この事によって後の藤原が草部吉見の孫の世代の崇神の業績を偉大に見せ彼こそが神武より業績が大きいものとしたのです。津田よ!それが欠史八代などと言う大嘘の原因なのです。神武僭称贈崇神
大神が何故、緒形なのだ!と言われる方も居られるでしょうが、宇佐神宮の辛島一族、大神比義の一族、そもそも、この豊後大野を潤す大野川(上流の大谷川その一部が川上渓谷)が阿蘇草部吉見の支配領域に端を発している事、有名な阿蘇大蛇伝説の一族が元は大神一族と呼ばれていたという事が、ここに来て漸くはっきりしたことから、今回の高森町野尻川上淀姫神社を主眼に高森町辺境最深部の殆ど目立たない小社数社と草部吉見(後の表向き春日大神、鹿島大神=事実上の藤原氏の祖)を巡る8/18,8/25の50人規模(7県)の方々(50人規模)をお呼びするトレッキングへの一助となるべくこの小稿も書くに至ったものです。勿論、川上 猛はヤマトオグナ=オウスノミコトによって誅殺されているはずだ…とか、何故それが大神一族と繋がるのか?と言った話は先行ブログでは書いていますのでそちらをお読み頂きたいのですが、佐賀県に川上峡が存在し、そこに、淀姫神社が在る事、京都の伏見の淀姫神社の由緒に、肥前の淀姫神社を元宮とする旨が書かれ、大阪の淀川の地名起源も淀姫神社に端を発している事から、当時はそれ程の権威を淀姫(ウガヤのお后ですから)は持っていたのだと分かる訳です。
現在もこの淀姫は高良大社の麓の高良下宮社=祇園神社に隣接する南の境外地(最後の高良大社大祝一族=鏡山家の屋敷跡の高速道路買収残地に加輪髪媛の墓が残されている事でも分かるのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)965をお読みください。
965緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶
肥前でも東の佐賀には、ほとんど気付かない程度ですが、川上 猛に関する伝承が残っています。
また、更に東の神埼市には、誅殺した側とされる後の日本武尊に関わる白折角神社もあります。
先を急ぎますが、故)百嶋由一郎はどこでその情報を得たかは分かりませんが、「脊振村(現神埼市)広滝で許され、脊振山を越え福岡市早良区の某神社の周りに今も纏まってお住まいになっています」と講演会で話しております。ただ、「可哀そうでその名前(姓氏)もその神社も分かっているが言えない」と話し鬼籍に入ってしまいました。こうして永久に解らない謎になったと思ったのですが、数年後、百嶋先生の手書きデータの中にその謎を解く記述を発見したのでした。
それは、川上猛兄妹の母奈留多姫が、葦原中津国を奪われた建御名方(他にも証明はしていますが、出雲神話の舞台も朝倉郡であって決して出雲の国で起こった事ではないのです)の妃となり諏訪への道行きとなった…と言うメモだったのです。
阿蘇氏本流の奈留多姫は川上猛など一族と別れ名を八坂刀女と名を改め、建御名方と一緒に諏訪に向かったのでした。つまり、これまで早良の神社を探っても分からなかった神社が早良区原の諏訪神社と分かったのでした(早良区に諏訪神社は一社のみ)。そして、日を改め10人を超えるメンバーを集め同社に参拝すると、その周りには9軒の大神(こちらはオオガミ)さんが住んでおられたのでした。


百嶋最終神代系譜(部分)
大神惟基 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240810 05:20 による
出生伝説 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。
『平家物語』には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。
すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える[注釈 1]。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。
件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾の明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。
ネットでも【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎を聴けます。
−平家物語 巻第八
平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。
大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。
人物 出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。
その祖については、宇佐八幡宮の創建者である大神比義や、畿内の貴族であった大神良臣などが候補として挙げられている[2]。
豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もある[要出典]が、年代上問題があるとされる。
神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。
また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。子孫 長男:高千穂(高知尾)太郎政次 - 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、三田井氏の祖となる。 ・ 次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる