2026年04月27日

ひぼろぎ逍遥 スポット326 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1144 の先行掲載 「鳥海」❸ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? 三奈木神社から

ひぼろぎ逍遥 スポット326 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1144 の先行掲載

「鳥海」 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? 三奈木神社から

        20260212

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


前九年の合戦で敗残した東北の安倍氏は11世紀半ばの豪族でした。一方、今回のブログで取り上げている有明海北西部〜松浦川〜唐津湾の補給線の想定は、神功皇后の三韓征伐時代(当方の推定4世紀)からは78年は後の時代の話であって、そのような想定は意味がないでしょう。

 しかし、非常に便利で効率の良いものに関する知識、記憶と言うものは必ず伝えられているはずなのです。

それが、有明海から玄界灘に駆け下る兵站基地としての武雄市山内町の「鳥海」(トノミ)だったのではないか…そして、その地名が、安倍宗任(岩手県の鳥海柵の主、鳥海三郎)だったとしたら面白いと思うのです。

 通説派が虚偽とする神功皇后伝承にも拘わらず、九州、山口には多くの痕跡が残っており、畿内に居て九州には観光旅行で一二度しか訪れた事も無いような連中が言っている話がまことしやかに流されているこの呆れた現実はどうしようもないのですが、それが現実の日本の神代史、古代史の実情ですのでそれを甘受して考えを進めざるを得ません。

無題.png

私も山上まで登り史跡を確認した事がありますが、記紀に登場しない皇后伝承が残る唐津の神集島(右)


 これは一例で、「記」「紀」も全てを記述する事は出来ない事は分かるのですが、明らかに隠したい部分が有る事も見えて来るのです。

 それが、唐津市の東(現在は同市に編入されましたが)の旧浜玉町で飯粒で鮎を釣った(藻を食む鮎がそれで釣れるかは疑問ですが…)話で後は触れていないのです。

 ところが、実際には有明海側にも凱旋も含め伝承はあるのです。AI様の以下はAI様の例ですが、

これ以外にも有明海側、長崎県西南部域でも数カ所把握しているのです。それらを逐一ご紹介するのは当方の当面の課題とは考えていませんので触れませんが、どうも有明海側に凱旋したと思わせたくない記紀の意図を感じてきました。


AIによる概要                     長崎県 神功皇后伝承 凱旋 で検索

長崎県内には、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐(朝鮮半島遠征)へ向かう際、あるいは凱旋(帰国)する際に立ち寄ったとされる伝承地や、関連する神社が数多く残されています。

特に壱岐・対馬といった島嶼部や、肥前国(現在の佐賀・長崎)の沿岸部に伝承が集中しています。

長崎県における主な神功皇后・凱旋伝承

3. 志々伎神社[地ノ宮](平戸市)

伝承: 三韓出兵に同行し、凱旋を果たした十城別王(とおきわけのみこと)を祀っています。神功皇后の三韓出兵関連の伝説が残る神社です。

4. 茂木地区の伝承(長崎市)

伝承: 神功皇后が凱旋の途中に立ち寄った際、鎧(よろい)や裳(も:衣の下袴)を着けた、あるいは祝宴を開いた所とされる「よそれ(裳着)」の地名が残っています。

5. 皇后島(長崎市小瀬戸町)

伝承: 14代皇后の神功皇后がこの地に上陸したことから「皇后島」と名付けられたと言われています。

6. 爾自神社(にじじんじゃ・島原市)

伝承: 神功皇后の三韓征伐伝説に関連する神社です。

7. 肥前国松浦県玉島里(松浦市周辺の伝承)

伝承: 神功皇后が三韓征伐へ向かう際に、鮎を釣って遠征の吉凶を占った(ウケヒ)という記述が日本書紀(神功紀)にあり、この地が舞台とされています。

伝承の特徴

長崎県の神功皇后伝承は、以下の特徴を持っています。

三韓征伐の往路・復路の経由地: 対馬・壱岐・平戸など、海を渡るための重要な中継地や港に伝承が多い。

無題.png

そこで、ご紹介したいのが、福岡県朝倉市の二つの美奈宜神社です。

大分自動車道を挟んで北の彦山の裾野に在るのが荷原の美奈宜で、南の平地に在るのが林田の美奈宜神社です。

神社研究者中では良く言われている話ですが、同じ名の神社(普通は同系統、同一祭祀、祭神と理解されますが)、殆ど別の祭神なので疑問が拡がっているのです。

 この様な場合、どちらかが改竄したと考えるのが普通で、祭祀に影響を与えるだけの支配層の変更、追放、消失によって起こる事が多く、それが戦国時代ならいざ知らず、それ以外でも源平争乱期、南北朝争乱以外にも多くの政治情勢の変化があった訳で、この二つの美奈宜神社の場合は、見たところ、その時代より前に起こった様に思え決め手が無くこれまで解らなかったことから放置していたのですが、最近になり漸く糸口が掴めましたので、推定とか仮説だろうと言われようが恐れずにお話しして見たいと思います。 

無題.png祭神 天照皇大神、住吉大明神、春日大明神

神功皇后、武内宿祢

神功皇后の熊襲平定を創始の由来とする神社。

当時、熊襲がこの地を本拠としていましたが、神功皇后は栗尾山に陣を敷き、これを討ちます。その後、三奈木川のほとり「池辺」にヒモロギを立て戦勝を奉告したといいます。

無題.pngによる 「福岡県神社誌」によると天照皇大神、住吉大明神、春日大明神の三神だけになっています。

羽白熊鷲退治の話との関係から戦後に神功皇后、武内宿祢を加えているようです。

美奈宜神社(荷原)カーナビ検索 朝倉市荷原2421

対して、林田の美奈宜神社は公式ウェブサイトによれば、


祭神  素戔嗚命(厄除・健康のご利益)大己貴命(縁結びのご利益)事代主命(商売繁盛のご利益)


「福岡県神社誌」でも祭神は同一です。これだけで判断はできませんが、個人的な印象としては林田の由緒が本来の原形を保っている様に思います。事実神社誌でも、中巻の38pに長文で事細かに書かれており、対する稲原のそれは8pだけの短文で、伝承そのものを継承できていない様な印象を持ちます。二社の全文を掲載しても良いのですが、本来のテーマから外れますので簡単なコメントを加え主題に戻ります。

このテーマは書かなければならないテーマですのでいずれ書くことになるでしょう。

本来、この二社の祭神は同じだったと思います(正確に言えば林田のそれが原形…)。この二つの美奈宜神社問題に気付いたのは20年以上前でしたが、その理由が分からなかったため二社に関する判断を放置していましたが、10年程前に漸く分かってきました。

ハッキリわかって来たのは、ここ23年の事で、それは、大分県(豊後)は日田市の大原八幡宮の一族が、朝倉市の東部域に進出している事に気付いたからでした。

そもそも、日田の大原八幡宮の祭神が怪しいと気付いたのは、福岡県苅田町とみやこ町の大原八幡宮の祭神が日田の大原からの祭神を勧請した神社としながら、日田の大原の祭神とは全く異なる物部氏の祭神を奉斎している事に気付いた事でした。誉田別は高木大神系が持ち込んだ王応神ですが。

 


 大原八幡宮から勧請した神社でありながら日田の大原とは全く異なる 以下「福岡県神社誌」下巻

福岡県京都郡小波瀬村=苅田町祭神:大原足尼、誉田別命、足仲津彦、息長足姫(金山彦系)235p

  京都郡久保村=みやこ町祭神:大原足尼命、饒速日命、誉田別命          223p


実は、大蔵、財津、秋月、田尻、原田、笠、龍、伊東(?)、阿智…の一族は、後漢の霊帝の一族で、一字姓の「笠」「龍」に象徴される様に、初代劉邦の劉姓の一族で、秦氏同様の大陸からの亡命者だったのです。元々、中国は神を信じておらず(孔子様もそう言っていますね)いともたやすく本来の祭神を捨て去り、新しく応神などを奉斎するのです。それが後漢の霊帝(AD168189)の一族の特徴なのです。これで二つの美奈宜神社の祭神が全く異なる理由の推定がある程度可能になるのです。


日田大原八幡宮 大蔵氏 朝倉市 荷原 美奈宜神社に…と問うたAI様の回答以下…

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AIによる概要                 大蔵一族 朝倉市で検索したAIデータ(部分)

福岡県朝倉市(旧秋月町)の秋月氏(あきづきし)は、大蔵氏(おおくらし)を遠祖とし、鎌倉時代から約400年もの間、古処山城を本拠に朝倉地方を支配した有力武家です。大蔵春実を家祖とし、戦国時代には北九州の戦国大名として活躍、秋月城を中心に城下町として繁栄させました。

大蔵一族と秋月(朝倉市)の概要

大蔵氏と秋月氏の関係: 大蔵氏は、古くに渡来した東漢氏の一族とされ、筑前・豊後方面で勢力を持った氏族。その中から原田種雄が秋月(現・朝倉市)に土着し、秋月姓を名乗ったのが秋月氏の始まり。

本拠地(朝倉市):

古処山城: 朝倉市秋月にある、秋月氏が根拠地とした山城。

秋月城下町: 筑前秋月藩の拠点。鎌倉時代からの基盤に加え、江戸時代には黒田氏が治め「筑前の小京都」と称された。

歴史的背景:

鎌倉時代〜戦国時代:大蔵氏の庶流である秋月氏が秋月庄を支配。

戦国・天正期:第16代秋月種実(たねざね)の時代には北九州の有力大名として活躍し、筑前・豊後などの広範囲を領有した。

江戸時代:関ヶ原の戦い後に黒田氏の領地となり、秋月藩として続いた。


後漢の霊帝の時代になると宦官と外戚の一族が政権の実権を握り、皇帝の一族は皇位継承の決定権さえも失うに至りその後数代で後漢も終焉を迎え、黄巾賊の乱など混乱期を迎え三国鼎立の時代に入る事に成ります。

こうして、阿智王の一族が多くの臣下、臣民を引き連れ半島から列島に避退しているのです。

 山田洋二監督の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんを叱る笠 智衆もその一族だろうと考えています。

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2026年04月26日

ひぼろぎ逍遥 スポット325 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1142 の先行掲載 「鳥海」❷ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? “大彦の後裔”

ひぼろぎ逍遥 スポット325 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1142 の先行掲載

「鳥海」 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? “大彦の後裔”

        20260204

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


もう少しお話ししましょう。

 まず、熱海、安曇、志賀海、直見、岩見、花見(古賀市)、渥美、尾身、宇美、登美、氷見、氷見と多くの見、美、海というミ語尾が付される地名が散見されます。これらは海人族が住みついた地名と考えることができそうです。その意味でも「鳥海」が海人族によって付された事は一目でした。

 この点からも、配下に多くの海人族(例えば和多津見神社の一族)がいたことも間違いないでしょう。

 とすると、安倍氏の一族が海人族の船で対馬海流に乗り東北まで移動したと考えています。

 では、百嶋由一郎が残した神代系譜(俗称金神系譜)部分から大彦を見て頂きましょう。

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この大彦とはどのような人物かを考える時、分かりやすい例がありますのでご紹介します。

一部しか説明できませんが、武田信玄も大彦の末裔です。関心があれば以下を…。

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百嶋先生のメモをバック・ナンバーからご紹介します。

349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”20170117

甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

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 百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。

そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。

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「日本書紀」(崇神紀)十年条には、大彦命(オオビコ)、武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ)を各地方に派遣したという所謂「四道将軍」についての記述があります。

 ただ、この通称「金神系譜」では、通常、武内宿祢の父とされる屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたとされる武内宿祢が、孝元天皇と山下影姫との間に産れているとされることに気付かれた方がおられると思います。

 この部分が、百嶋神社考古学の真骨頂とも言うべき最深部の最も複雑かつ難解な部分であり、この解説には別稿が必要とされることからここでは触れません。

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再掲 超細密金神系譜(部分)

十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…                以下省略


特に決め手と言えるようなのが960です

上)ひぼろぎ逍遥 下)ひぼろぎ逍遥(跡宮)

462

武田信玄も九州王朝系氏族の後裔だったのではないか?

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社

   

私も 960を書いた時点で、それ以来、武田信玄が大彦つまり東北の安倍一族の末裔だと確信しています!

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普通、高良大社は表門左三つ巴、裏紋木瓜とされていますが、それは臣下の紋であり、通常表には出されません。それは、神輿の一部、宝物庫の中にあり、祭礼時しか公開されません。

それが花菱紋=門光=唐花紋と呼ばれるもので、信玄の旗指物では大量生産と視認性のために簡略化されたものなのです。

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四道将軍としての移動中に甲斐に入ったと考えてはおらず、その時点では甲府市に伝わる「天津司舞」伝承に関係する神武天皇(神武僭称贈る崇神=ハツクニシラススメラミコト)ではなく、本物の神武天皇カムヤマトイワレヒコの神武巡行(神武東征は開化天皇の指揮下で崇神が臣下として実行したこと)時点で残留した人々による拠点ができており休養、補給で寄っている可能性はあるでしょう。

 これについては、以下外をお読みください。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

577

阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “徳島県美馬市美馬町西荒川”

612

続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏に

よる近稿からの転載”

611

徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏に

よる近稿からの転載”


話が進み過ぎますので、追いつかない方も居られると思いますので、ここで少しブレーキを掛け、鳥海三郎 安倍宗任 の岩手県胆沢郡金ケ崎町を確認して頂きましょう。

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鳥海柵とのみのさく(岩手県金ヶ崎町)

わが国の 梅の花とは みたれども 大宮人は いかがいふらむ 安倍宗任

この歌のエピソードはとてもお気に入りである。

出典は「平家物語」の『剣巻』という異本であり、角川や岩波の文庫版には収録されていないので、長年気になっていたが、インターネットのJ-Text(日本文学電子図書館)でテキストが公開されていた。

(前略)・・・頼義これを賜はりて奥州に下向し、九箇年が間戦ひつつ終に軍に打勝ち、貞任をば首を取り、宗任をば虜りて上洛す。貞任が長九尺五寸、宗任は遥かに劣りて六尺四寸ぞありける。頼義の宿所にありけるを、卿相雲客達、「吾妻の夷、さこそはをかしく侍らめ、いざ行きて笑はん」とて梅花を一枝手折りて、「宗任、これは如何に」と問ひければ、宗任取りあへず、

我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん
と申したりければ、皆しらけてぞ帰りける。さて宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁昌して今にあり。松浦党とはこれなり。(後略)

え〜と、簡単にいうと、源頼義は前九年の役で勝利し、敵将の安倍貞任は殺して、その弟の安倍宗任は捕虜として都へ連れて帰った。
都では貴族たちが、奥州の蝦夷を一目見ようと集まってきたが、その中の一人が梅の花の一枝を見せて、「宗任、これは何であるか」と、辺境の人々には都の風流が理解できないだろうと侮蔑を込めて問いかけた。そしたら宗任は歌を詠み、
「我が国では梅の花と言うけれど、都では何と言いますか」
と答えたので、みんなびっくりしたと。
後に宗任は筑紫に流されるが子孫は繁栄して松浦党となった云々。なんとも楽しい逸話である。
ちなみに、安倍晋三総理大臣は、なんと安倍宗任の子孫らしい。
そして、安倍宗任が守っていたのが鳥海柵。「とのみのさく」と読む。
胆沢川の段丘を利用した軍事拠点であったらしい。
前九年の役では、安倍氏は衣川柵の陥落のあと、厨川柵(盛岡市)まで撤退したので、鳥海柵では戦いは行われなかったようだ。


松浦党研究連合会解散に伴う後継組織の講演会に大分市の安倍貞隆氏の講演を設定した事から書き始めた佐賀県武雄市山内町「鳥海」の話を書きましたがその真偽はともかく無関係ではないのです。

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2026年04月25日

ひぼろぎ逍遥 スポット324 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1141 の先行掲載 「鳥海」❶ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…?

ひぼろぎ逍遥 スポット324 ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1141 の先行掲載

「鳥海」❶ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…?

        20260203

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


今回の話の伏線には神功皇后の三韓征伐の話があります。まずは、そこから始めたいのです。

 そもそも神功皇后に関する話は、少なくとも畿内では本気で考えられた事がないはずで、増してや、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」で“高良玉垂命(第9代開化天皇)と神功皇后は夫婦なり…”更には通説で応神の子(笑ってしまいますが)仁徳天皇が、このご夫婦の長子とするなど狂気の沙汰と成るはずなのです。

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右手のコンビニの方向が「鳥海」で、つばめが停車しているのがJR佐世保線永尾駅です。

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この鳥海川は上流の犬走地区から流れ出しており(圃場整備事業で河道が変更されていて判然とはしませんが…)、かなりの流域面積を持ち古くは相当の流量があったものと考えられます。

 無題.pngしかも、少し東まで流れていたら、その水は有明海側の旧武雄町方面に流れていたはずなのです。

 正しく、山上の縁の様な所を廻り込み松浦川本流に注ぎ玄界灘側に流れているのです。

 このかなりの深さを持つ鳥海川はJR永尾駅構内を蛇の様に暗渠で横切り北流しているのです。

 何度か大雨の時にも訪れた事がありますが、かなりの水量と流速があり、言わばウオータースライ

ダーなみに唐津まで流れ下っているのです。

無題.png

この永尾駅周辺は標高80m程度ですが、逆に言えばそこから数百メートル東から一気に標高10mほどの武雄町(平成の大合併で山内町は武雄市に編入されました)に駆け下る事になるのです。                                             

次に、この点から本題に入ろうと思うのですが、その前にお断りしておこうと思うのは、大字鳥海が実際には二つに分断されている事をご紹介しておきます。

 あまりない事ですが、昔に遡る飛び地なのかも知れませんが、経緯については調べていません。今のところ全く不明です。

 ここから、今回のテーマである有明海側から玄界灘側への移動ルートについて考えて見たいと思います。

 想定しているのは47世紀の倭国です。

 まあ、地形も道路もかなり違っているでしょうが、大きな地形の変化はないはずで、現在、武雄市役所の有る一帯まで感潮域で、大潮の満潮時なら、相当奥まで(つまり、河口堰、海岸堤防が無いのですから)現在の武雄市役所正面には有明海が広がっていたはずなのです。そして鳥海の直下には川が入っていたはずなのです。


AIによる概要                「武雄温泉 神功皇后が舟を着けた」で検索

武雄温泉(佐賀県)には、神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる開湯伝説があり、皇后が三韓征伐の帰途にこの地へ兵船を停泊させたという伝承が残っています。

無題.png関連する伝説やスポットは以下の通りです。

御船山(みふねやま)

神功皇后が新羅からの帰りに御船(兵船)を繋いだ(着けた)ことに由来して名付けられた、武雄のシンボル的存在の山です。

開湯伝説(柄崎の湯)

神功皇后がこの地を訪れた際、持っていた矛の柄(つか)で岩を突くと、そこから温泉が湧き出たと伝えられています。

この伝説から、かつては武雄温泉を「柄崎(つかさき)の湯」と呼んでいました。

武雄神社 武雄神社は『武雄神社本紀』によれば、神功皇后が帰途に武雄へ立ち寄った際に船が御船山へ姿を変えた、という伝承と関わりがある神社です。

無題.png

この縮小のグーグル・マップでも杵島山、花島、長島、御船山に高橋、芦原など海を思わせる地名が拾える上に、武雄温泉の東にある高橋駅正面に有る鳴瀬地名が決定的だと思うのは、有明海の潮が引潮となり潮が落ち始めると、杵島山との間で幾つかの河川が集中し奥まで入っていた武雄湾=六角川の潮が流れ出す時の轟音が鳴り響くために鳴瀬と呼ばれたのです。

 花島地名の南に大日如来にちなんだ大日地名がありますが、ここには六角川(旧潮見川)の大日堰が設置されています。ここには国交省所管ですが、生物調査で有明海に棲む草フグが採集されていました。実際にはこの上流にもまだ潮が上がるはずでだからこそ小規模ですが河口堰が置かれていたのです。

 ここまで申し上げれば、神功皇后の三韓征伐の折、嬉野温泉(嬉野市)に傷ついた将兵を湯浴みさ

せた、神功皇后は「肥前の高橋の津に凱旋した」(福岡県朝倉市の林田の三奈木神社の由緒)、神功皇

后も柄崎温泉(武雄温泉)に湯浴みした…といった話が残っている事がお分かり頂けるでしょう。

 ここで、話を少し変えます。実は、武雄市の武雄町下西山には「枯れ木塔」という奇妙な地名があります。            長崎に向かう国道34号線と佐世保向かう35号線の分岐点辺り

無題.png

以前この事が気になり、この一帯の「浦」地名を調べたことがありました。現在でも、JR武雄温泉駅の正面は西浦町ですし、34号、35号分岐点以西の武雄川流にも5つ程の○○浦なる地名が拾えた事を覚えています。

無題.png

東北地方まではともかく、特に九州では大体馬鹿にされるのが落ちですが、以下をご覧ください。

AIによる概要                           アイヌ語 塔地名で検索

無題.pngアイヌ語に由来する「塔」の字を含む地名は、主に北海道や南樺太に見られ、多くは「トー(=沼、湖)」や「トウ・トゥ(tu=山、丘)」という言葉の音に、漢字の「塔」を当てたものです。

主なアイヌ語由来の「塔」地名は以下の通りです。

塔路(とうろ)

無題.png場所:南樺太(現・ロシア連邦サハリン州)

由来:アイヌ語の「トー・オロ(tō-oro=沼・のところ)」、あるいは「トゥ・オロ(tu-oro=山・のところ)」。

塔岩(とういわ)

場所:北海道十勝地方

由来:アイヌ語の「トゥ・イワ(tu-iwa=山・の岩)」などの音当て。

塔下(とうした)

場所:北海道内各地に見られる地名。

由来:「トウ(沼)」の下(川下や麓)にある場所を指すことが多い。


 アイヌ語では湖を意味するのは柳田の「遠野物語」でも良く知られた話です。

 湖の傍の原っぱ程の意味でしょうが、かつては34号、35号の道の合流部は水も集まる場所だった訳で(古代には川がそのまま道だったのです)、枯れ木の塔の地図の正面に園田病院という精神科の大きな病院が在るのですが、以前、お聴きしたところ、病院建設敷地は沼で、病院の関係者からそこを埋め立てて造られました…と言われた事を覚えています。

 もう30年以上前に「九州の先住民アイヌ」根中 治氏の本を読んだ事もありました。関連して波呂地名を紹介しておきましょう。この波呂地名は鹿児島県阿久根市、それに京丹後市にも確認しています。ひぼろぎ逍遥400(アメブロ)…

 さて、山田秀三と言えば押しも押されもせぬ高名なアイヌ語学者でしたが、根中氏は同書で山田秀三氏の『北方の古代文化−アイヌ語族の居住範囲』を引用しながら、西日本におけるアイヌ語地名の存在をかたくなに否定する山田秀三氏その人も含む地名学の重鎮達のアカデミズムに対して疑問を投げかけておられます。

・・・数年前に、福岡県の糸島郡を歩いていたら、浦志とか、波呂とかいった地名があってびっくりしました。浦志は先ほど北方に多くのウラミナイやウラシベツのあることをご説明しました。波呂に似た名は、北海道の北見に芭露ぱろという地名があります。パロ(Paro)は川口や沼の口という意味でよく地名に使われる語です。また、パ行音が和人に引き継がれる時にハ行音になることも先ほど申しましたとおりであります。

だが西のほうに、こういった形の名がところどころにあるというだけでは、そのままこれをアイヌ語系地名であると判断する勇気はまだ出てきません。・・・

『北方の古代文化−アイヌ語族の居住範囲』山田秀三

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話が多少逸れましたが、先に進みましょう。

 武雄川の奥にもかなりの浦地名が存在することは話しましたが、兵員、物資の搬送は、三韓征伐は唐津から更に西に向かい対馬海流に乗るのが効率的である事は明らかです。

 一方、四道将軍による東への進出=侵攻は、九州から瀬戸内海コースと日本海コースで、東、北へ列島を北上する事であり、太宰府、筑紫野地峡を進めば良いため、必ずしも武雄〜唐津ルートに拘る必要は無いのですが、神功皇后の主として新羅、三韓への侵攻と丹波、北国への侵攻には補給路としては極めて安全で有効だったはずです。

 勿論、長崎半島(野母崎)は論外ですが、諫早地峡(この地には三つの船越地名が残されています)〜大村湾〜早岐の瀬戸or西海橋〜九十九島〜平戸島(南、北)を大回りするよりは効率的だったはずです。

 ここで考えるのですが、朝鮮半島の西の場合は長崎県口之津と島原〜大村から、半島or半島以東は、物資、兵員の量にもよりますが、山内(鳥海)地峡を越えさえすれば、筏を編成し松浦川のウォーター・スライダーを利用して流せば、半日〜程度で、安全かつ効率的に送り込めたと考えられるのです。 

 その意味では、大宰府=二日市地峡を搬送するには水量が少なく、コースが短かいとしても松浦川の滑り台には劣るように思えるのです。

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多分、以前から不思議に思っていた三間坂という奇妙な三文字地名はこの巴形の谷(耕作地)なのかも知れません。まあ、それは良いとして、山間地にこれほどの可耕地が在る事も雨量水量が運び出す土砂が造り出した豊かで平坦な土地が有ったからですが(犬走の奥は日当たりが良いものの元はは傾斜が急な棚田です)、ここが兵站(物資集積)基地であったとすれば、有明海全域から左回り(コリオリ)の潮流で山内の鳥海の直下の武雄川最奥部まで送り込み、高低差70mを持ち上げれば、後はのんびり唐津に送り出すだけで完了するのです。

木材はこの一帯で調達し随時流し、兵員、糧秣外は筏で送り出すとして、後は武雄川の限界点から、斜めの釣瓶を何基も設置し送れば良いはずなのです。

杣人とは後の時代の言葉でしょうが、山に入り木を切り出し筏や舟を造るのは往々にして海人族で、安倍の貞任、宗任の一族が高良玉垂命(藤原が第9代としたせざるを得なかった開化天皇)の腹違いの大彦の末裔であることとも対応するのです。

そもそも、神功皇后の三韓征伐にも白江(白村江)戦にも志賀島の海人族の存在無くしては成立していないであり、近畿大和の勢力やったなど大嘘以下のお伽噺であり偽装でしかないのです。

山内町の「鳥海」(トノミ)も海人族が付けた地名あり、以下の岩手県金ケ崎町役場の資料の同町の名も宗像の鐘ケ崎に縁故を持つ人々が移り住んでいるのです。

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 以下は、宗像市の鐘崎、金ケ崎とも呼ばれています。東京都墨田区の金ヶ崎はなく鐘ヶ淵で鐘ヶ淵

は鐘ヶ淵紡績後のカネボウ化粧品のルーツで無関係しておきます。

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