新ひぼろぎ逍遥@1044 南魚沼への神社調査(下調べの作業ノート)⓰八海山尊神社を考えましょう
20240507
太宰府地名研究会 古川 清久
これで事前調査は一応終えますが、最後に八海山尊神社を考える事にします。

八海山尊神社 カーナビ検索 新潟県南魚沼市大崎3746 これから暑くなるので清冽な冬景色に…
かつて大沼山(魚沼山)と呼ばれたものが八海山となったのにはどのような背景や意味があったのでしょうか…付近には藤原神社があることから、近畿大和朝廷の制圧下に入ると、どうしても九州の匂いのする魚沼、魚野…といったものさえ消したかったのではないかとさえ思うのです。
違和感を持たれる方は多いでしょうが、新ひぼろぎ逍遥@1033 南魚沼への神社調査(下調べの作業ノート)❺ 十二神社とは何か? において触れた思いは未だ拭えていません。

ここでは、「古事記」の“会津誕生との関わり 「会津」という地名の由来は、わが国の最古の文字記録である『古事記』にみられる。 崇神天皇の時代、諸国平定のため大毘古命が越の国(新潟県側)から、その子の建沼河別命が東国(茨城県側)から発ち、二人が津(水辺、多くの川が合流するところ。”
といった故事から、日本海、太平洋の両岸を支配する…という達成感を後に与えたと考えてしまいます。元々、ヤマタノオロチ、八ヶ岳、ヤオオロヅ,八大明王…に「多く」のという意味が込められており、七つの海を支配するという思ひに通じるものが反映されていると見るのですが、普通は、山岳修験の地あることから“佛教の世界観による”須弥山を囲む九山、八海=小宇宙“という意味で良いのでしょう。 福島県HP
御祭神 国狭槌尊(くにのさづちのみこと) 金山彦 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと) 高木大神の息子 木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと) 大山祇の次女 大山祇尊(おおやまづみのみこと) 月読命=月弓命 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行は父ではなく腹違いの兄 |
卸由緒
八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。八海山には投行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、続いて弘法大師が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開されてきました。八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、御祭神を元気水徳・国狭槌尊として、霊験あらたかなること、つとに近県にまで及んでいました。しかしながら時代は遥か降り近世の中期に至るまで八海山は鳴りを潜めるように、その霊威を峻険な山嶺の奥深く胎動させていました。
しかして寛政六年、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、かの普寛行者が大神の夢告に導かれて来越し、当村の泰賢(たいけん)行者を随いて八海山登拝道を開くに及び、御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名が知られるようになり、県境を超えて各地の講集団が訪れるようになりました。大崎口登山道は開山の偉業により一躍輿望を担うに至った泰賢行者自ら、地元大崎村の御嶽講を率いて享和三年(一八〇三年)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げました。
こうして八海山尊神社は、八海山信仰の霊場として、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれて、今日に至っております。

では、八海山尊とはどなたに当たるのでしょうか?
迷いましたが、結局、国狭槌尊=金山彦で良いのだと思います。“しかしながら時代は遥か降り近世の中期に至るまで八海山は鳴りを潜めるように、その霊威を峻険な山嶺の奥深く胎動させていました。”というフレーズは、藤原による支配になりをひそめた事を思わせるもので、その意味では復活した金山彦系の修験=九州で言えば求菩提山修験=八天神社(西に避退した求菩提)これも「八」、「八天狗」を示唆しているのです。
金山彦系(ヘブライ系)の修験がその本体の様に見えるのです。
この間、八海山尊神社をどう書くかについて考えあぐねています。
当初、天津彦火瓊々杵尊が祀られていることから、どうせ高木大神(タカミムスビ)阿蘇氏=後の藤原氏のスポンサーによって捻じ曲げられた神社なんだろうと…思っていました。
それは、八海山坂本神社の由緒に大山祇命と栲幡千千姫命とが祀られているという説がある事を知り、藤原氏(藤原神社もありますね…)と連動する阿蘇系の人々の影響が及んでいるのであろうと思うと、この八海山尊神社に於いても人気のない天津彦火瓊々杵尊(高木大神の息子)が祀られていると知ると、この先入観が増幅し勢い八海山尊神社への偏見に走った様に思うのです。
ニニギ、高木大神とくれば、“阿蘇系=彦山系=藤原系に変質を迫られたのが八海山尊神社”の本質ではないかと私に考えさせてしまったのでした。
ただ、落ち着いて八海山尊神社を考えると、国狭槌尊=金山彦(百嶋神社考古学では秦の始皇帝=こちらもイスラエル系とされます…)が直も主神として崇められていることは尋常ではなく(何せ、孫はナガスネヒコなのですから)、八海山尊神社が大山祇を祀る以上、木花咲耶姫尊の夫神を祀っているに過ぎないと徐々に考えが変わってきたのでした。
この問題については、実際に参拝した後に考え直すべきと思い直し、とりあえずギアをニュートラルに切り替えることにしたのです。
ここで我が百嶋神社考古学の立場から、改めて百嶋由一郎氏が亡くなられる直前に残した最終神代系譜から大山祇命と栲幡千千姫命などを中心に考えて見たいと思います。
まず、八海山尊神社に入る前に、八海山坂本神社の由緒に大山祇命と栲幡千千姫命とが祀られているという説がある事について百嶋神代系譜をご覧ください(次葉で部分拡大)。
ご覧の通り、大山祇命とは、東西分裂後の東匈奴の南北分裂によって生じた南匈奴が漢崩壊後に王昭君の故地の朝鮮半島(金海伽耶)に入った金海金氏の後裔としてのウマシアシカビヒコチが大山祇命の父であり、白川伯王系白族の天御中主命=白山姫を母として生じた一族なのです。

その一族が古代日向(鹿児島+宮崎)に入っているのですが、藤原氏はその素性を無視していることからトルコ系匈奴が列島に大量に入っているなど認めようとしないのです。
国つ神…で片づけていますが、大山祇に木花咲耶姫尊は本より、神大市姫=罔象女神(ミヅハノメ)も日向から北上したトルコ系匈奴であり、大国主命も白族(神産巣日、神皇産霊カミムスビ)への入婿となったトルコ系匈奴であり、決して出雲出身の人ではないのです。

対して、栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)命はタカミムスビ=高木大神の次女であり、事実上の藤原の祖である草部吉見=ヒコヤイミミは栲幡千千姫という高木大神の娘を妃として彦山の正勝吾勝としてタカミムスビ系の後継者として後の実質藤原天皇制への水路を切り開いたのです。
正勝吾勝々速日天之忍穂耳命
登場箇所 上・うけい 上・葦原中国の平定 上・天孫降臨 他の文献の登場箇所
紀 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(六段本書、九段本書・一書一・八)/正哉吾勝勝速日天忍骨尊(六段一書一・二)/勝速日天忍穂耳尊(六段一書三、九段一書一)/正哉吾勝勝速日天忍穂根尊(七段一書三)/天忍穂耳尊(九段一書二)/天忍穂根尊(九段一書六)/天忍骨命(九段一書七)/勝速日命(九段一書七)/天大耳尊(九段一書七)山背風 天忍穂長根命(逸文)國學院大學 神名データベース
従って、八海山坂本神社に於いて夫婦神でもあるかの如く勢い大山祇命と栲幡千千姫命が祀られたことに、藤原氏の専横を読んでしまったのでした。では、何故、このようなことが起こったのでしょう。
武甕槌(鹿島大神)という武人を大峡谷の国境を越えるも隣村から婿取りを行ったのでした。

肥国、日向の国境は大峡谷なるも隣村から婿を取ったのです…因みに草部の意味も茅(伽耶)部であり、お分かりの様に草部の意味もウガヤフキアエズの意味ではなく高木大神の配下の吉見ということなのです
再掲載
御祭神 国狭槌尊(くにのさづちのみこと) 金山彦 天津彦火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと) 高木大神の息子 木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと) 大山祇の次女 大山祇尊(おおやまづみのみこと) 月読命=月弓命 日本武尊(やまとたけるのみこと) 景行は父ではなく腹違いの兄 |
卸由緒
八海山のそもそものいわれは、中臣鎌足公が御神託を頂いて御室(おむろ・現六合目)に祠をもうけたのが始まりと伝えられております。八海山には投行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、続いて弘法大師が頂上で密法修行されたという事蹟譚があり、古くから両部の霊場として、山麓周辺の修験宗寺院を中心に八海山信仰が展開されてきました。八海山信仰の歴史上の初見は、南北朝中期に編纂された『神道集』に越後の三の宮・八海大明神とあり、御祭神を元気水徳・国狭槌尊として、霊験あらたかなること、つとに近県にまで及んでいました。しかしながら時代は遥か降り近世の中期に至るまで八海山は鳴りを潜めるように、その霊威を峻険な山嶺の奥深く胎動させていました。
しかして寛政六年、木曽の御嶽山の大滝口を開いた、かの普寛行者が大神の夢告に導かれて来越し、当村の泰賢(たいけん)行者を随いて八海山登拝道を開くに及び、御嶽山の兄弟山として列格し、次第に全国にその名が知られるようになり、県境を超えて各地の講集団が訪れるようになりました。大崎口登山道は開山の偉業により一躍輿望を担うに至った泰賢行者自ら、地元大崎村の御嶽講を率いて享和三年(一八〇三年)に切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。その後、泰賢行者は大崎口里宮を拠点に諸国を行脚し、八海山信仰の布教に身を棒げました。
こうして八海山尊神社は、八海山信仰の霊場として、その信仰は親から子、子から孫へと代々引き継がれて、今日に至っております。

これも最終神代系譜の一部です。大山祇系から大市姫を、大幡主系から埴安姫を后として受け入れ、強固な金山彦(イスラエル系)、大山祇(トルコ系匈奴)、大幡主(白族)連合を形成しています。
筑豊から逃げ出した物部25部族は遠賀川河口から海路、浜田、出雲、境港、豊岡、京丹後、敦賀、福井そして柏崎刈羽から上陸し、西山町の延喜式内物部神社から南魚沼に入っているはずなのです。そして魚沼(ウーヌマ)から物部氏の拠点、上州(上州仁田郡三日月村の紋次郎はお話しですが)に入り、後の新田義貞を産みだし、宿敵足利氏を含む関東武士団が形成されたのではないかと考えているのです。
下調べ段階で危険ではありますが、十二神社を奉斎する人々が、その数の多さ(湯沢、魚沼どころか新潟県全域に分布しているのです)から物部25部族と推定していますが、この神社は群馬は少なく埼玉、神奈川、静岡、物部のほんきょちである愛知までまで大きな広がりを見せています。
一方、坂本社はその名から志賀島の海人族と考えています。当会のエース宮原誠一氏から教えて頂きましたが、志賀島の海人族は、宮司=統領こそ安曇姓ですが、氏子の全てが坂本を名乗っているのです(近年は婚姻により変化が生じていますが…)と言うのです。
当然にも、柏崎刈羽〜直江津に送った人々で南魚沼に定着した海人族の指導部の後裔が坂本神社の氏子と言えそうです。後は、現地での調査を待ちたいと思います。雪が降り始める前までには南魚沼に入ろうと思います。
最期になりますが、日本武尊(ヤマトタケル)が祭神とされています。
百嶋由一郎最終神代系譜にもこの神様が出てきます。
百嶋神社考古学では日本武尊(やまとたけるのみこと)を天皇とされる贈る景行の子とすることの方がハクが付くからそうしているのではないかと思いますが、父ではなく腹違いの兄に近いものとします。
何故、そんなことに拘わるのかと言われそうですが、それは主祭神が金山彦だからです。
金山彦の娘(スサノウの妃)である櫛稲田姫とスサノウの間に生まれたナガスネヒコの妹のオキツヨソタラシ姫を戦利品とした草部吉見の子である天足彦の子がヤマトタケルになるのです。
下調べはこのくらいで止めておきたいと思います。
同行予定者から暑いので、一ケ月遅らしたら…と言われていますが、どうしましょうか?

百嶋神社考古学に基づくイベント、紀行文を対象とする 新ひぼろぎ逍遥 に対し、神社専門サイトである ひぼろぎ逍遥(跡宮) の方もご覧ください。
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