2025年04月15日

1066 新ひぼろぎ逍遥 野尻川上神社トレッキングを前に南阿蘇村下田の西野宮神社を再確認しておきます

1066 新ひぼろぎ逍遥 野尻川上神社トレッキングを前に南阿蘇村下田の西野宮神社を再確認しておきます

20240812

太宰府地名研究会 古川 清久


 記紀で皆さんが最もよくご存じの説話の一つにヤマトオグナ=オウスノミコトによる熊襲 猛退治があります。

今般、この川上 猛の出生地が高森町の外輪山東側外延部の野尻川上神社であろうとの粗方の見当が着いたことから、我々のネット・ワークで呼び掛けたところ、佐賀、福岡、大分、熊本という我々の研究会のホームグ・ランドを越え、山口、宮崎に加え、兵庫からも参加者が出た事から、雨天順延などを含め、818日(日)と25日(日)に930高森町スーパーマーケット「フレイン」に集合し、野尻地区と言う宮崎県高千穂町との国境に接するエリアの56社を探訪するというトレッキングを企画したものです。

 有難いことに50名近い参加申し込みが有り、盆過ぎの標高800メートル(普通の年ならば本来は涼しいのですが今年はどうなのか…)地帯を乗用車で巡るというトレッキングになります。

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西野宮神社(南阿蘇村) カーナビ検索 熊本県阿蘇郡南阿蘇村大字河陽606


祭神は、阿蘇大明神・甲佐大明神・高来大明神など16柱で、「下野の巻狩」を仕切っていた宮である。

325号線沿いにある鳥居から境内へと続く長い参道を登ると「鎮守の森」にふさわしく何本もの大樹が亭亭(ていてい)と聳(そび)え、ひんやりとした空気が漂う。中世の頃、下田城主下田氏が阿蘇神社の権大宮司を勤めながら神主をしていた歴史の古い由緒ある神社である。阿蘇大宮司が臨席した大切な「下野の巻狩」の祭りもこの西野宮が取り仕切った。

阿蘇神社から見て西にある宮という意味で「西野宮」と呼ぶとも伝えられる。720日の夏祭りには御輿が三基繰り出し、無病息災を願って、御輿くぐりをする人々で賑わう。

南阿蘇村HP

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南阿蘇鉄道の下田城駅自体が温泉を持つ駅である上に、巨大な湧水池を持つ白川吉見神社、地震から復興した地獄温泉 青風荘、垂玉温泉 瀧日和…と言った、言わば、南阿蘇南郷谷の中心部の言わば支配的な神社ながらそれほど知られない同社についてブログを書いたのは多少の理由があります。

南阿蘇で、当研究会と十数年前から最も親密な関係を持っていたのが、八坂(祇園)神社であり、何度か田尻宮司をお呼びして、炎のピラミッド研究に関わる講演会を行っていたのでした。

これについて関心をお持ちの方は、別途、パワー・ポイントも作成していますが、とりあえずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から、以下の20本ほどのブログをお読み頂ければと思います。



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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

I 八坂神社+龍王社 祭神編

669

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

I 八坂神社+龍王社 数理編

668

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

H 郡浦神社 祭神編

667

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

H 郡浦神社 数理編

666

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

G 甲佐神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

G 甲佐神社 数理編

664

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

F 健軍神社 祭神編 

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

F 健軍神社 数理編

662

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

E 草部吉見神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

E 草部吉見神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

D 阿蘇神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

D 阿蘇神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

番外 二つの直角三角形

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

C 両神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

C 両神社 数理編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

B 吉松宮 数理編祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

A 阿蘇霜宮数理編祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

@ 阿蘇国造神社 祭神編

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“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

@ 阿蘇国造神社 数理編

651阿蘇山を中心に“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が精密に

配置されている! 



東京大学の某学会でさえ注目し講演会を開いた(もう20年近く前ですか…)、これほどの凄い研究を、熊本県は元より、中央の神社庁から同県神社庁は、一切無視し続け、燦然と光り輝く田尻研究も存在しなかった事になっているのです

 当会は、数年前にも北九州小倉での講演会を企画したのですが、遠方故に辞退され西原村での講演に切り替えた経緯があります宮司の年齢も考えると、条件が許せば、再度、筑紫野市での講演を企画したいと考えているところです

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年間500社もの神社を巡る二十年近い神社探訪でも最も驚いた事がこの田尻宮司による阿蘇を中心とする11社の研究でした。南阿蘇村八坂神社の田尻宮司は1997年の地理情報システム学会(東京大学)ばかりではなく、当時、熊本県観光連盟主催(県観光振興課後援)の「ふるさと寺子屋塾」においても講演されていました。今、明らかになる「火の国の炎のピラミッド」以下要約。


自然の阿蘇五岳と人為の神社群。それらの位置関係を調べると、驚くべき事実が浮かび上がってきます。それらの神社群が黄金比の拡大数列であるフィボナッチ数列と呼ばれるものによってキチンと配置されているのです。具体的に言うと、阿蘇神社とその補完社である霜宮、八坂神社とその補完社である竜王社(久木野神社)、この4点に囲まれた図形は、きれいな平行四辺形になります。そしてその中心に阿蘇五岳があります。ちょうど噴火口と火口湖の中間地点が中心となります。その中心を通る北北東に傾いた二十二度四十二分の線の延長上に国造神社があります。その他の阿蘇郡内の小国両神社、草部吉見神社、吉松宮、群外では健軍神社、甲佐神社、三角の郡浦神社、これらは阿蘇の三摂社といわれ、特別に所縁のある神社ですが、これらの火の国最古の十社と阿蘇五岳の山頂の三角点を厳密に結ぶと、きれいに配置がなされています。そして、神社の境内の造り、石垣、建物までも、すべて類似性と対称性を持って造られていることがわかりました。それらの配置のすべて数学的に計算されており、阿蘇五岳の中で、高岳の炎を噴き上げる姿を核となし、自然の五岳と人為の神社群の組み合わせによって、ピラミッド状に造形されているのです。

 八坂神社 

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一関八坂神社 カーナビ検索 熊本県阿蘇郡南阿蘇村一関660 0967-62-9611


話が八坂神社に振れましたので、再び西野宮神社に戻しますが、まず、阿蘇の北と南とは全く文化圏も恐らく民族さえも異なっており、南郷谷は古い先住民が住んでいると思っています。

これは、蹴破りが行われた阿蘇谷は新しく、南郷谷は地形的にも浸食が進んでおり、古くから人が定着している事が推定できるからでもあるのです。

事実、阿蘇の全域の支配者である阿蘇氏=多氏は北の阿蘇谷に集中しており、実は、南阿蘇には阿蘇神社が数えるほどしかないのです。

高千穂に近い草部吉見神社、高森阿蘇神社、津留年之神社…ぐらいで、南阿蘇は阿蘇ではないと言いたいのですが、そこに阿蘇氏として君臨するのが西野宮神社になるのです。

まず、この事を理解しないと、南郷谷の性格は理解できないと言うべきでしょう。

 祇園神社、しかり、吉見の名は入っているものの、有名な白川(水)吉見神社にしても、罔象女神(ミヅハノメ)が主神であり、大山祗と草野姫(=カミムスビの妹)との間に生まれた、神大市姫の事であり、その弟が大国主命(彼はカミムスビへの入婿であり出雲の人ではないのです…ここに藤原が造ったトリックがあるのです)であり、その妹がコノハナノサクヤヒメになるのです。

 このように、金山彦系、大山祗系、大幡主(カミムスビ)、八咫烏系の領域が南阿蘇なのです。

 その上に君臨するのが西野宮神社であるとお考えいただきたいのです。

 そして、近年脚光を浴びているのが上色見の熊野坐神社(八咫烏=カミムスビの跡継ぎ)であり、その西隣の色見熊野坐神社となるのです。

結局、南阿蘇とは、高千穂の三田井に君臨した高木大神(タカミムスビ)の次女栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命を妃とし事実上の入婿となった草部吉見の戦闘力と阿蘇谷の金山彦系鬼八=喜八を滅ぼした阿蘇谷の健磐龍に制圧された世界が南阿蘇=南郷谷なのです。

そこまで理解した上で、初めて、この支配者としての西野宮神社が浮かび上ってくるのです。

 オールクマモトは、下田西野宮神社 について として祭神を以下の様に書いています。


健磐龍命 速瓶玉命・甲佐大明神・高来大明神など16柱と言われているが、詳細は不明とある。


健磐龍命 速瓶玉命(国造神社の大山咋) 甲佐大明神(これも主神は大山咋)そして大御所 高木大神

12神(草部吉見神社の12神)ならば、分かり易いのですが、それについては情報が不足しています。

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この神社の歴史は古く、中世の頃に下田城主下田氏が阿蘇神社の権大宮司を勤めながら神主をしていたと伝えられています。

一説には、阿蘇神社から見て西に鎮座するため「西の宮」と呼ばれるようになったとも。


阿蘇系の神社を見て回っても、なかなか高木大神が祀られている所はありません。

その意味では、非常に貴重な祭神とは言える訳であり、後は退役自衛官でこの神社に残された所謂「西野宮文書」を古文書として読み解いて居られるI氏の作業に期待したいところです。

 そして、その古文書を読む会に参加されている、当会の女性メンバーのM女史がおられた事から今回同社をブログとして取り上げたのでした。

 彼女が、野尻川上神社を教えてくれたことから、今回のトレッキングが始まったのでした。


百嶋由一郎が西野宮神社について語った事


 恐らく、先代先々代の宮司から聴いた話だと思うのですが、この西野宮には、高木大神が草部吉見について語った話が伝えられている様なのです。古文書研究会(西野宮神社の古文書を読む会)のI氏からは同社資料を頂いたのですが、どうもその中には含まれていなかった様でした。

 我々が聴いたところでは、「草部吉見=ヒコハエミミ」を栲幡千千姫(次女)への入婿とした高木大神がヒコハエミミを「まだまだ若くて経験が足らない…」とほほえましく見ていると言ったという程度の話なのです無題.pngが、高木大神の生の言葉が伝わっていた、若しくは同社に高木大神が立ち寄っていたと言う事まで考えられ、ある種の戦慄とその実在性を感じさせる話だったのです。

 音声データは残っていますが、40時間の中から探し出さなけばならず、今秋の南魚沼郡への神社調査の折に、行きかえりの車中で聴き込み特定したいと考えています。

百嶋由一郎最終神代系譜を含め90シート近い神代系譜のスキャニング・データDVD、手書きデータ

スキャニング・データDVD40時間近い講演録音声CDを必要とされる方は090-6298-3254(古川)へ

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2025年04月12日

1065 トレッキングで巡る5社の祭神を再確認しておきます 6社中で永祖母嶽神社は大人数での参拝は道路の問題から困難と思われ、18日は中止します

1065 トレッキングで巡る5社の祭神を再確認しておきます

6社中で永祖母嶽神社は大人数での参拝は道路の問題から困難と思われ、18日は中止します

20240809


太宰府地名研究会 古川 清久


➊ 矢津田御霊神社  :熊本県阿蘇郡高森町矢津田1979  吉備内親王、佗戸親王の母、光仁皇子、

早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子

➋ 祭場阿蘇神社   :熊本県阿蘇郡高森町中2168    健磐龍外11

 ➌ 野尻川上神社   :熊本県阿蘇郡高森町野尻649    淀姫、川上大神…9

 ➍ 尾下菅原神社   :熊本県阿蘇郡高森町尾下3843   菅原道真、国常立神、天字受女命

 ➎ 永野祖母嶽神社  :熊本県阿蘇郡高森町津留      山幸彦、豊玉毘賣命、鵜葺草葺不合命

玉依毘賣命、神日本磐余彦命=神武天皇、吾平媛命、木花佐久夜毘賣

 ➏ 草部吉見神社   :熊本県阿蘇郡高森町草部2175   彦八重耳外11


「熊本県神社誌」では形通りの事しか書かれていませんのでここでは紹介致しません。


矢津田御霊神社  :熊本県阿蘇郡高森町矢津田1979

祭神  吉備内親王、佗戸親王の母、光仁皇子、早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子


➋ 祭場阿蘇神社   :熊本県阿蘇郡高森町中2168

祭神  健磐龍、阿蘇都姫、              健磐龍外11


野尻川上神社   :熊本県阿蘇郡高森町野尻649    

《合》阿蘇都比当ス,国龍神,比東芬q神,彦御子神,若比盗_,新彦神,新比盗_,若彦神,

《主》淀姫大神,仲哀天皇,応神天皇,神武天皇,武内大神,受持命,祓川大神,風神,霜神


無題.png 主神は金山彦系が多いようです。霜神は金山彦=喜八=鬼八と思われます。

尾下菅原神社   :熊本県阿蘇郡高森町尾下3843

祭神  菅原道真、国之常立神(クニノトコタチ)、天宇受女命(アメノウズメ)

       国之常立神はカミムスビ神=神産巣日神の事で博多の櫛田宮の主神で、目の前の高千穂には宿敵タカミムスビが居るのですが。…


➎ 永野祖母嶽神社  :熊本県阿蘇郡高森町津留  25日の少人数のトレッキングで巡ります

山幸彦、豊玉毘賣命、鵜葺草葺不合、玉依毘賣命、神日本磐余彦命=神武、吾平媛命、木花佐久夜毘賣

豊玉姫と山幸彦が出会い三年添って生まれた子つまり、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)は、豊玉姫の子育て放棄によって、妹とされる玉依姫(我々百嶋神社考古学の者には他の玉依姫、神玉依姫、活玉依姫)と区別するために鴨玉依姫とします)が、その意味では代わりの乳母として育てることになります。その乳母が嫗嶽、姥岳と表現されている可能性もあり、事実、物部氏の力が強かった時代には、もしかしたら山頂には山幸彦=ヒコホホデミと豊玉姫が祀られ、また、鴨玉依姫さえも姥として祀られた時代があったのかも知れないと考えています。ここで誤りがないように先に引用した神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命 という酷い表現ですが、この意味は崇神を神武に見立てる偽装なのです。ただ、本物の神武の母神は神玉依姫であり千葉県の玉前神社に奉られています。勿論、上賀茂の玉依姫とも異なります。

 


豊玉姫より遥かに格上(年嵩)しかも系統も全く異なる製鉄神金山彦の長子健男霜凝日子=神武皇系五瀬命こそが本来祖母山の基層にあったであろうことは、祖母山の南北特に豊後の竹田市にも痕跡を留めており、祖母山周辺の金属精錬、冶金がどれだけ古代にまで遡れるかは別として、多くの金属精錬の徒に修験の民も加わり棲み分けとも、排斥とも言えぬ緊張関係が存在していたものと思案しています。


草部吉見神社   :熊本県阿蘇郡高森町草部2175   彦八重耳外11

       祭神現場で…口頭で。

最後に僻陬の地の小社ばかりを巡りますので、少しは見栄えのする神社をご案内します。

 くれぐれも安全を念頭に、また、地域の皆様の方を尊重し御参拝ください

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2025年04月09日

1064 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

1064 大神惟栄をウィキペディアと併せ考える

20240809

太宰府地名研究会 古川 清久

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以上は「苗字由来net様のデータをご紹介したものです。以前は、姓名分布&ランキングを多用しておりましたが、3月で閉鎖終了となりましたので、今後はこれを活用させて頂きたいと思っています。

今回、豊後大野の大神一族が記紀神話で有名な川上 猛(俗称熊襲 猛)の後裔氏族であろうとの推定から、この姓名分布からもアプローチしたいと考えたものです。


緒方惟栄は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。 『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子孫であるという伝説がある。    ウィキペディア20240809 10:39による


 この大神外緒方などの全国分布を見る時、分かり難いですが幾つかの興味深い点に気付きます。

 まず、大神姓の分布は、最低でも九州起源であると言う事が見て取れ、東にも相当に広がっている事が分かります。絶対量の事を申し上げてはいませんのでその範囲でお考え下さい。

 一方、緒方が最も権威がある中心的一族の様に見えます。古代には、少なくとも阿蘇氏の本拠地は九州の中心部であり、緒と尾とは頭が緒であり、尾は末端の意味があったはずで、本家と分家と言うよりも御屋形様と臣下の上下関係を表すはずで、指揮と臣従を意味している様に見えます。

 つまり尾方と尾形でも肥後に残った(つまり本店)臣下と、前線に出向いた(つまり支店)配下の意味

が感じられます。

また、緒形も尾形も地方、戦場に出た指揮官と配下の違いが反映されている様に見えるのです。

 頭に浮かぶのは、崇神天皇指揮下で実行されたとされている(あくまでもされている)四道将軍です。

 これは九州王朝の高良玉垂命(阿蘇氏=多氏の後の藤原氏も渋々第9代天皇とせざるを得なかった開化天皇+神功皇后コンプレックス複合体)の指揮下で日本海側北上に送り込まれた実は安部一族(開化の腹違いの兄=大彦の一族)であり、そこでも新潟に緒形、尾形がピークを見せているのです。

 無題.pngその安部氏と合流したのが東関東に進出した崇神の息子の一人で、故に「会津」と言うという記紀に良くある語呂合わせとしての地名説話なのです。

 ついでに小形姓を見ると、やはり佐賀、熊本、大分方面から東北地方に進出し、定着した人々に見えますね。これは後の時代ですしょう。多分、安部の貞任、宗任が潰された後の時代であるように思います。起点は京都の舞鶴と言うよりも福井の敦賀辺りからでしょうか。分布からはそう見えます。

 崇神の別名はツヌガノアラシト=都怒我阿羅斯等

 敦賀にやって来ていた(阿羅)伽耶の人=ズーズー弁地帯では人はシトですね。阿蘇国造大山(クイ)咋を祀る甲佐神社の主神は贈る崇神の親なのです。

 まあ、不確かな作業ですが、崇神がやった中国地方、畿内から東日本征服戦争にも阿蘇氏が関係している事が良く分かります。ただ、間違えないで頂きたいのは、これも九州王朝が年嵩でも配下の崇神の息子の世代にやらせたことなのです。 上は小形 

 ただ、この事によって後の藤原が草部吉見の孫の世代の崇神の業績を偉大に見せ彼こそが神武より業績が大きいものとしたのです。津田よ!それが欠史八代などと言う大嘘の原因なのです。神武僭称贈崇神

大神が何故、緒形なのだ!と言われる方も居られるでしょうが、宇佐神宮の辛島一族、大神比義の一族、そもそも、この豊後大野を潤す大野川(上流の大谷川その一部が川上渓谷)が阿蘇草部吉見の支配領域に端を発している事、有名な阿蘇大蛇伝説の一族が元は大神一族と呼ばれていたという事が、ここに来て漸くはっきりしたことから、今回の高森町野尻川上淀姫神社を主眼に高森町辺境最深部の殆ど目立たない小社数社と草部吉見(後の表向き春日大神、鹿島大神=事実上の藤原氏の祖)を巡る8/18,8/2550人規模(7県)の方々(50人規模)をお呼びするトレッキングへの一助となるべくこの小稿も書くに至ったものです。勿論、川上 猛はヤマトオグナ=オウスノミコトによって誅殺されているはずだ…とか、何故それが大神一族と繋がるのか?と言った話は先行ブログでは書いていますのでそちらをお読み頂きたいのですが、佐賀県に川上峡が存在し、そこに、淀姫神社が在る事、京都の伏見の淀姫神社の由緒に、肥前の淀姫神社を元宮とする旨が書かれ、大阪の淀川の地名起源も淀姫神社に端を発している事から、当時はそれ程の権威を淀姫(ウガヤのお后ですから)は持っていたのだと分かる訳です。

現在もこの淀姫は高良大社の麓の高良下宮社=祇園神社に隣接する南の境外地(最後の高良大社大祝一族=鏡山家の屋敷跡の高速道路買収残地に加輪髪媛の墓が残されている事でも分かるのです。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)965をお読みください。

965緊急報告高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶


肥前でも東の佐賀には、ほとんど気付かない程度ですが、川上 猛に関する伝承が残っています。

また、更に東の神埼市には、誅殺した側とされる後の日本武尊に関わる白折角神社もあります。

先を急ぎますが、故)百嶋由一郎はどこでその情報を得たかは分かりませんが、「脊振村(現神埼市)広滝で許され、脊振山を越え福岡市早良区の某神社の周りに今も纏まってお住まいになっています」と講演会で話しております。ただ、「可哀そうでその名前(姓氏)もその神社も分かっているが言えない」と話し鬼籍に入ってしまいました。こうして永久に解らない謎になったと思ったのですが、数年後、百嶋先生の手書きデータの中にその謎を解く記述を発見したのでした。

それは、川上猛兄妹の母奈留多姫が、葦原中津国を奪われた建御名方(他にも証明はしていますが、出雲神話の舞台も朝倉郡であって決して出雲の国で起こった事ではないのです)の妃となり諏訪への道行きとなった…と言うメモだったのです。

阿蘇氏本流の奈留多姫は川上猛など一族と別れ名を八坂刀女と名を改め、建御名方と一緒に諏訪に向かったのでした。つまり、これまで早良の神社を探っても分からなかった神社が早良区原の諏訪神社と分かったのでした(早良区に諏訪神社は一社のみ)。そして、日を改め10人を超えるメンバーを集め同社に参拝すると、その周りには9軒の大神(こちらはオオガミ)さんが住んでおられたのでした。

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百嶋最終神代系譜(部分)


大神惟基 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20240810 05:20 による


出生伝説 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

『平家物語』には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。

すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は無題.png、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える[注釈 1]。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。

件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾の明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。    

ネットでも【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎を聴けます。

−平家物語 巻第八

平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。

大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。

人物 出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。

その祖については、宇佐八幡宮の創建者である大神比義や、畿内の貴族であった大神良臣などが候補として挙げられている[2]

豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もある[要出典]が、年代上問題があるとされる。

神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。子孫  長男:高千穂(高知尾)太郎政次 - 日向国臼杵郡高千穂郷を本貫とし、三田井氏の祖となる。次男:阿南次郎惟秀 - 豊後国大分郡阿南郷を本貫とし、阿南氏の祖となる

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