2025年02月05日

新ひぼろぎ逍遥@1051 佐賀県神埼市の櫛田宮は博多の櫛田神社とは性格が異なる神社 倉岡神社

新ひぼろぎ逍遥@1051 佐賀県神埼市の櫛田宮は博多の櫛田神社とは性格が異なる神社 倉岡神社

202405028

太宰府地名研究会 古川 清久


以下は 、五月のスケジュール表の一部です。その最後のイベントが今回の話のテーマです。

526日 神社トレッキング「事代主のブログ」杉山宏治氏が案内する佐賀県神埼市の櫛田宮を探る

今回は、神埼市内の櫛田と併せ、市内の摂社数社を巡りました。その中の倉岡神社のリポートをしてみたいと思います。個人的には、同社は4度目の訪問でしたが、何度か行くと見落としていた部分に気付いたのでリポートさせて頂くものです。

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無題.png 8月は盆休みとして一部を除き研究会は行いません。

2024721日(日)佃 収 講演へ!

無題.png※テキストとして使いますので『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』を!

※ご注意ください! 駐車場が少ないためお困りの場合は

090-54775110牧野までご連絡下さい。

講 演 者: 佃 収 (埼玉県越谷市在住)

著書「古代史の復元@〜➇」外多数

日  時: 2024721日(日)

1300講演開始〜(1230開場)

講演内容:  テーマ:動乱の七世紀二人の女性天皇と額田大君

“「豊王権」の推古天皇、「上宮王権」の皇極天皇、「天武王権」額田姫王”

講演会場:  北九州市小倉北区北区大手町114 北九州市立男女共同参画センタームーブ093-571-2735

参加費 : 1000『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』佃 収を使います!

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佃 収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し実施します(年3回)。皆様のご協力をお願いします。佃収講演が行われる月は筑紫野市での太宰府地名研究会の月例会は休会とします。

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 今回は、「事代主のブログ」(杉山氏)の企画でしたが、櫛田宮、高志神社、白角折神社に加え倉岡神社、八天神社を巡りました。簡単に言えば、櫛田宮は櫛稲田姫の父方を祀る神社であり、博多の櫛田神社は、埴安姫(金山彦のお后)つまり櫛稲田姫の母神を祀る神社なのです。勿論、倉岡(スサノウ、櫛稲田姫夫婦神)も八天(金山彦=父神)も櫛稲田姫と関係のある神社なのです。これらが近隣に在るのです。

 加えて言えば、急遽加えた白角折神社(日本武尊)も櫛稲田姫の娘(ナガスネヒコの妹君)の孫になるのです。今回巡った神社は全てこの一族を祀る神社であり、金山彦が同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の民族である事を考慮に入れれば、平氏(家)がイスラエル系と言われる事と符合するのです。読者でお近くにお住まいの方は是非参拝してお参りして頂きたいと思います。

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倉岡神社は氏子の減少もあり少々草臥れていますが、貴重この上もない本物の神社なのです。

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境内に置かれた「本荒神」の祠 


意味がお分かりいただけるでしょうか?荒神様は山陰から日本海側に数多く分布していますが、製鉄神とも言われています。本荒神は恐らく長髄彦だろうと思います。

 金山彦もコンチョン(工程)師(技術者)ですが、その孫に当たる長髄彦も同様だったと考えられます。しかし、神殿に置かれていないのは、神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)との衝突=確執と考えられそうです。この祠は長髄彦で良いと考えられます。4度目の訪問で気付くのは遅すぎますが、この神社の本質が見えて喜んでいます。

 次に、神殿を見せて頂きました。始めは、金山彦と埴安姫様かとも思いましたが、「佐賀県神社誌要」141pを見ると、倉岡神社の主神として素戔嗚尊、櫛稲田姫とありますので、それで良いかと思います。

 普通はお妃が左なのでしょうが、櫛稲田姫の方が格上でもあり、神埼は金山彦系であるため左になるのです(左大臣が上位ですよね)。

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二段目に天照皇大神、天忍穂耳尊、申し訳程度に久々迺知神とあり、尊は付されていません。金山彦様です。天照皇大神よりも年嵩で、ましてや天忍穂耳尊という仰々しい名の草部吉見などより、遥かに格上なのにです。

 天孫族とそれに与した耳付きの草部吉見=通称、春日大神の傲慢さはこの上ないですね。

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境内には嵩高い大神宮様が置かれています。これは、金山彦様、素戔嗚尊、長髄彦を監視しているかの様にさえ見受けられるのですが、多分思い過ごしだろうとしておきます。

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では、ここで百嶋神社考古学の立場から櫛田宮の祭神を見ておきましょう。

 神埼の櫛田宮は櫛稲田姫の父神系統の神社であると言う事は既に申し上げていますが、元々は熊本県山鹿市の大宮神社を中心とする製鉄集団が佐賀県東部の海岸部に移動してきたと考えています。

 そもそも素戔嗚尊がアシナヅチ(金山彦)とテナヅチ(博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神=カミムスビの妹神=埴安姫)に護られながら泣く櫛稲田姫と出会ったのは現菊池川(肥の国)の近くだったと考えています。そして、ヤマタノオロチ(大山祗の一族)を退治した場所も同地だったと考えています。

 百嶋由一郎氏はこの菊池川の流域の大地主の一族であった事から、この一帯の重要な神社に伝わる社伝を宮司家から全て聴き取り把握され生の情報を得ておられたのでした。

 これ以上は申し上げられませんが、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であった吾平都姫(アイラツヒメ)後の蒲池姫も櫛稲田姫も山鹿市の某神社、外で丁重に祀られているのです。決して出雲で起こった事ではないのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 神埼は平家の全盛期に於いて日宋貿易の最大級の貿易拠点でした。「世界史の窓」から日宋貿易を覗いてみましょう。福原遷都から平家は躓きますが、正式な貿易拠点は博多でしたが、神埼も非合法ながらかなり大規模な貿易拠点だったのです。


南宋と日本

 12世紀に有力となった女真が金を建国し、華北・東北アジアに帝国を作ると、宋は1127年に江南に逃れて南宋を建国、金の圧力に抗しながら、海上での交易は盛んに行った。高麗も同じく金に圧迫されながら、1170年に武人政権を成立させた。この様な東アジアの変動の中で、日本では保元・平治の内乱を経て平氏政権が成立し、平清盛は1167年に太政大臣となった。

平清盛の日宋貿易

(引用)平氏の権力の基盤は西国に拡大し、瀬戸内海周辺の大半の諸国が知行国となり、摂津国福原(神戸市兵庫区)を拠点にして海港大輪田泊を修築、安芸国厳島神社を氏神として海上路を完全に抑えた。既に平氏は日宋貿易の基地、有明海に面する院領の肥前国神埼荘を知行していたほか、清盛は太宰府長官になって九州統治のかなめを押さえた。・・・清盛は、政情の不安な高麗は避けたものの、宋との貿易には熱心であった。1170年には、後白河法皇を福原の別荘に招いて宋人との面会を実現したほどであり、唐船や宋商人が福原や博多にさかんに渡来するようになった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.88,94

 宋からの輸入品:宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍など。

 無題.png日本からの輸出品:金、銀、硫黄、水銀、真珠、工芸品(刀剣・漆器など)。

 金は奥州に産出する砂金が平泉と京都を結ぶルートで運ばれ、さらに宋に運ばれた。次の元の時代に、この話がマルコ=ポーロに伝えられ、『東方見聞録』の記事となった。


    ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも

山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も

天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は

猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の

経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の

櫛田神社の主神の大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と

菊鹿町「吾平」のウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と

猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


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この二つのパワー・ポイントは共にこの神埼一帯と濃厚な関係がありあります。

 両方とも300500シート近くあるのですが、この倉岡神社のある広滝地区は、熊襲 猛=河上 猛を誅殺したとされるヤマトオグナ(後の日本武尊)に実際はこの広滝の地で許され、川上 猛は背振山を越え福岡市早良区某所に入り、現在もその一族は纏まって住んでおられます…と言ったのは故)百嶋由一郎氏でした。この場所もその名も分かっていますが、この方々に申し訳なく思うのでと私達にも伝えずに亡くなられてしまいました。ただ、何とかしたいと考え、かなり調べ、この事は概略分かっているのです。

 特に、川上‐3では、その後の猛の一族は、大分県の豊後大野の一族となり、「平家物語」にも登場する祖母山の豊玉姫の使いの大蛇の子の大神惟基となり、その後裔の大神惟栄は、源平合戦に絡み、宇佐神宮焼き打ちを行い、義経を受け入れ頼朝と一戦を構えるために岡城(荒城の月)実は大神城を造ったと言われているのです。

 そのような大きな政治的変動期に関係する地がこの佐賀から背振、神埼の地だったのです。

 最低でも、川上 猛の墓が佐賀市の川上峡に注ぐ嘉瀬川の付近に存在したと言う話が佐賀市に吸収合併された旧大和町の町史や健福寺と言う寺の寺の記録にも残っているのです。

 パワー・ポイントを必要とされる方は090-62983254までご連絡ください。

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2024年12月27日

新ひぼろぎ逍遥@ 1050 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (下)

新ひぼろぎ逍遥@ 1050 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (下)

20240526

太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 最近知己を得た八木様があまりにも高学歴かつ頭脳明晰な方だけに、八木姓についてレクチャーするなど烏滸がましい事は十分に承知の上ですが、それに輪を掛けて高千穂は、ひのみこ社の二子石様を介在していただけに中途半端な話で収める訳にも行かず、本稿を書くことになりました。

 (上)では元々が関東でも東京都下の方である事から、一応、星宮、カガセオの話にまで触れたのですが、ここでは、再度、落ち着いた話をしてみたいと思います。

 八木姓の方がイスラエル系の人であるという話に疑いは持ちませんが、この八木姓と金山彦を繋ぐ決定的な証拠の様なものを持ち合わせている訳も無く、実際には、八木姓=カグツチと言った方程式的な考えさえ持ち合わせて無い事に気付き愕然としているのが実情と言えばそのとおりです。

 ここでは、百嶋先生の神代系譜を駆使して最大限、真実に近づきたいと考えています。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


秦の始皇帝、先行する周王朝、殷王朝を含めイスラエル系であった事は(上)編に於いて触れました。それに派生し、周王朝の正当な後継者であった古公亶父の正室の子である長男、次男=太伯・虞仲

が越に入り新国家「呉」の王室に担がれたことから、呉越同舟の呉も別の意味でイスラエル系の後継国家とまでは言えるでしょう。

 ただ、その春秋戦国の呉も夫差の時代に越に滅ぼされます。既に国家の命脈が尽きたのかも知れませんが、その夫差の子孫が、恐らく熊本から博多の九州東岸部に入っている様なのです。

 従って、熊本県にもこの呉の後裔氏族が九州に入り神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)に象徴されるイスラエル系呉の太白王の末裔が初期の天皇(正当皇統)となっているのです。

こうして、“倭は太白の末”とか裔という良く知られた歴史観が古代史の世界には定着しているのです。

 そして、それを示すかのように、本物の神武のお后であるアイラツヒメは金山彦と大山祗の姉に当たるオチの姫の間に生まれた女性で、後に神武と別れて阿蘇の金凝(カノコリ)彦の妃となったことから蒲池姫と名を変え宇土半島南岸の郡浦神社に祀られているのです。

 対して、金山彦のもう一人の腹違いの娘である櫛稲田姫(ヤマタノオロチ退治で知られるスサノウの妃

)は熊本県山鹿市の某神社で現在も丁重に祀られているのです。決して出雲などの話ではないのです。

 勿論、それは出雲の話ではないかと言う疑問がある事は十分承知していますが、九州で起こった事ではないとして創られた話なのです。言わば、畿内の延長、一部としたい後の畿内王権の意図が見えているのです。

 「古事記」は天武朝(天武とその父が白江戦を闘った張本人)により創られた史書あり、その後、九州から大和に本拠地を移すのです。それは太宰府が郭務悰により占領されたから首都を移したのでした。

 対して「日本書紀」は壬申大乱以降に藤原政権(阿蘇氏でも草部吉見は藤原の直接の始祖)が創った史書なのです。こうして天武系が打倒され畿内王権が成立し最後は阿蘇系の藤原王朝となったのでした。

 同時に博多の櫛田宮の一族の植民国家の一つでしかない出雲が古代出雲王朝などというとんでもない輪を掛けたお伽噺までが生まれたのでした。

 ちなみに出雲大社の巨大な古代神殿の大柱の痕跡と大騒ぎされた木柱の痕跡は、その後の理化学調査の結果、鎌倉期の物と判りましたが、ネットに公表されたまま大騒ぎしたNHKも全く修正をしてはいません。


「天下無双の大廈(二つと同じものが無い壮大な神殿)」と称えられる御本殿は、悠久の歴史の中でその度々の御造営遷宮と御修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いできました。
現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。

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古代御本殿柱

御本殿を支える九本の柱 御本殿の高さは8丈(24メートル)にも及び、大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式を 今に伝えています。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、その正面向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)があります。
従って、御神座は御本殿と同じ南向きではなく、西向きになります。
御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています。


天下無双の大廈 た い か 、出雲大社巨大柱の発見 出雲大社境内遺跡(出雲市大社町)、調査年:2000(平成 12)年 松尾充晶

出雲大社の発掘調査が進められていた当時、地元の大社町教育委員会には文化財の専門 職員がいませんでした。そこで技術支援のため、県埋文センターから私が調査に参加するこ とになり、3 月初頭から発掘現場の最前線で苦闘していました。4 5 日に巨大なスギ材 1 本が見つかり、かつての出雲大社本殿の柱であることがわかると、報道機関の取材合戦が白 熱することになります。その最大の関心事は、「柱材は 1 本だけなのか、それとも幻の束ね 柱なのか」という点にありました。出雲大社の宮司、千家家に伝わる古図「金輪 かなわの 御造営差図 ご ぞ う え い さ し ず 」 には 3 本束ね柱の本殿が描かれていますが、そのような特殊な高層建築は実在自体が疑わ れていたからです。 4 22 日は土曜日のため発掘作業は休みでしたが、調査の行程が遅れており、私は図面 を描くため現場に出勤することにしました。釣りに行く予定を変更して T さん(当時、県 文化財課勤務)が手伝ってくれます。柱穴の土層断面図を朝から描き続け、日が傾き始めた 夕方 5 時前のことでした。巻き尺の目盛りを読む役の T さんが、1 本だけ見つかっていた 柱材となりの土を指差して「か、なんだや?(これは、なんだ?)」と大きい声を出したの です。指差す先には、2 本目の柱材である巨木の肌がわずかに顔を出していました。これが、 束ね柱確定の瞬間でした。ひと目でその意味がわかった T さんと私は、無言でがっちりと 握手したのです。 その後の分析で、見つかった本殿跡は鎌倉時代(宝治 21248)年)の造営であること がわかりました。『古事記』『日本書紀』では国譲りに由来するとされ、平安時代には「天下 無双の大廈」と讃えられた出雲大社の高く大きな本殿ですが、中世には造営が困窮し、規模 が縮小したことが知られています。出土した鎌倉時代の本殿は、古代を通じて繰り返された 大規模建築の更新が難しくなっていた中世への過渡期にあたり、いわば「最後の高層神殿」 ということができます。巨大な用材の確保が難しくなったため、合成材として大きな柱を作 るための工夫が三本束ねの構造ではないか、「金輪御造営差図」はそうした「最後の高層神 殿」の姿を伝えるための記録ではないか、という説も出されるようになりました。 神話に強調される古代出雲の特殊性は実体の無い虚構である、という見方もありますが、 国譲り神話にちなむ出雲大社本殿が特異な大型建築として実在していたことは、この発掘 調査が証明したと言えるでしょう。人類史上、最大の木造建築柱材の発見であり、それが大 勢の参拝客が見守る中で調査されたという点においても、「天下無双の発掘現場」だったと 思います。 (古代文化センター専門研究員)


山鹿市の大宮神社


 熊本県山鹿市に鎮座する大宮神社(1943年昭和18年県社となった)は、現在、景行天皇と阿蘇12神を主神として祀る神社とされています。

ただ、同社では元々祇園祭が現在も行われています。スサノウを祀る祇園神社が伝統的な祭神である同社が、阿蘇氏を祀る様になるのは南北朝期以降の話なのであって、阿蘇系でも何でもない山鹿の人々は古来阿蘇の神々を祀ったはずはないのです。また、天照に逆らったスサノウでは県社には不適なのです。また、客人の様な景行天皇を出迎えた話があり、県社昇格のために天皇を迎えたとすることは都合が良かったはずなのです。しかも、「ヨヘホ、ヨヘホ…」と出迎えたとする伝承もヤファエ、ヤファエの可能性が高く、元来、この地の人々がどのような人々であったかを今に伝えている様なのです。

つまり、景行天皇の伝承を持ち込んだのは、神社そのものであったはずで、やはり県社昇格と関係がありそうです。

一般的に肥後の神社を考える上で最も重要な事は、阿蘇神社の印象が強烈なためか阿蘇神社こそが全ての様な理解がされていることでしょう。

「熊本県神社誌」上米良純臣(監修)S56年発行 27pには県内3237社中、阿蘇系神社は300社程度あって、最も多い神社は全体の三分の一に近づく」1,012社の菅原系神社であると言う事実なのです

これは一般的な印象とは全く異なるものなのです。そこでこの菅原系神社が何かなのですが、仮に菅原道真=菅公を祀るとするとき、父方に造化三神の神産巣日神系(具体的には博多の櫛田神社の本家)と母方に金山彦系の本家の伴の女との間に産まれている事を考えれば、この系統が肥後の神社の最大勢力だった事が分かるのです。

特にこの傾向が、人吉盆地と山鹿市が顕著である事から、ある時代に於いては、山鹿市が如何に重要な地域であった事が分かってくるのです。

そこで、大宮神社を考えるのですが、景行、阿蘇を後付けと考えれば、元々、祇園社を持ち、祇園祭を行っていた山鹿神社とは、金山彦を祀る神社だった事が見えてくるのです。

これについては、大宮神社として、二十本のブログを書いており、400シートのパワー・ポイントも創っているのです。

これをご覧頂くか、ネット上の以下のブログを拾い読みして頂ければ一端は把握できるかと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも

山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇

受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は

猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の

経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の

主神の大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

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ところで、「熊本県神社誌」を書いた上米良純臣氏は人吉市の青井阿蘇神社の宮司や熊本県神社長になっておられます。

 無題.pngしかも、菊池志誠会の会長をされており、百嶋由一郎氏は同会の福岡県支部長と言う間柄であったと聴き及んでいます。

 そのような間柄であった事から、福岡、熊本県下のみならず九州全域の神社情報が手に入れられる環境下にあった事が容易に想像できる上に、室町戦国期の江戸時代以前から、三十年前ぐらいまでは、人吉市の青井阿蘇神社で数百年の単位で、神社の研究会が継続されており、本当の神社情報が継承されていたとお聴きしています。その僅かな一部を私達百嶋神社考古学の者が継承している事に今更ながら戦慄を感じざるを得ず改めて使命を意識するこの頃です。

 百嶋由一郎氏に対し慎んで感謝します。

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2024年12月24日

新ひぼろぎ逍遥@ 1049 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (上)

新ひぼろぎ逍遥@ 1049 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (上)

20240525

太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 次に最近接触を始めた八木(ヤツキ、ヤギ…とも読みますが、今回の方はヤギさんです)様のお話をしたいと思います。表記の違う矢木さんもおられますが、同族で間違いないでしょう。

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鹿児島、山口、愛媛、兵庫、京都、大阪、愛知、静岡、新潟、宮城、岩手への分布が認められます。

 今まで、八木姓の方に遭遇したのはニ度しかありませんでしたが、最初はお医者様で、今回も超高学歴の技術系の博士でした。下は矢木姓の分布です。

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八木姓の方は優秀な方が多いという事は他の例も含め経験的に分かっていましたが(戦時中の八木アンテナは著名です)、具体的には遭遇例が少ない事からイメージが固定できていませんでした。ここで注意を要するのは、上の紋章、丸に木瓜は、イスラエル系の金山彦=軻遇突智のもので、朝倉氏は三つ盛木瓜/九曜 (日下部氏朝倉氏族)を使う一族だと理解しています。

三盛木瓜と木瓜紋は必ずしも同族を意味しないという経験則を持っていますが、実のところ朝倉氏の本願地は福岡県の現朝倉氏であって、彼らの更なるルーツは熊本県玉名市の石貫地区から宮崎県西都市の石貫(石貫神社)に移動したトルコ系匈奴(普通の理解に従えば大山祗系と言えば理解し易いと思います)であって、意外に思われるでしょうが南北朝騒乱期に阿蘇氏と共闘した菊池氏もその一族なのです。

 更に驚くのはこの「石貫」という地名は新疆ウイグルの「タシクルガン」城塞を意味しており、中国表記での「石城山」「石頭城」の日本での置き換えなのです。不思議に思われる方は「タシクルガン」を検索してご覧ください(動画も複数あります)。

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匈奴は漢の武帝との戦いに消耗し、東西分裂の後に東匈奴は南北分裂を起こし、徹底抗戦派は北に移動し、傭兵として曹操に用いられる時期に南下するのです(武帝以前に呼韓邪単于に贈られた王昭君の一族=だから熊本城最下部に昭君の間が置かれたのです)。彼らは魏が滅ぶと王昭君の故地に戻り金官伽耶の金氏となり、後にウマシアシカビヒコチと天御中主命列島に入っているのです。

彼らは、本来、日足紋を使う別族だったのですが偽装の為並び鷹羽紋に換え阿蘇氏の一派の様に装うのでした。その理由は宮方(南朝)としながらも大山祗系=熊襲と理解されると、北朝方から逆賊と非難されるからであり、菊池神社でも本来の神を(大山祗、ウマシアイカビヒコヂ、ミズハノメ)祀らず、通常、祖先神とする菊池武時、武満と言った先祖神しか祀っていないのです。

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「武家家伝」 但馬八木氏 

但馬の戦国武将八木氏は、但馬の古族日下部氏から出た朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされる。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家のひとつと呼ばれた。見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されている。

 日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようだが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大した。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐次郎太郎、土田三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのである。

 現在、朝倉地名はちょっと拾うだけで全国に30ケ所近くあり、これだけでも彼らの移動を追う事ができます。

 以下、再度「武家家伝」から、


八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされている。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約4.7キロメートル離れた朝倉に城を築いた。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼす。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせた。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るった。

武家家伝「八木城址」による

まあ、トルコ系匈奴とイスラエル系金山彦の一族の対立ですね。


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無題.pngこれまではトルコ系匈奴の話でしたが、ここから漸く八木姓の話に戻ります。

 八木姓は恐らくイスラエル系で良いと考えていますが、この流れは時代的に3系統を考えるべきです。一つは岩手の一戸〜九戸までの戸来集落=古々代ヘブライの集、次に始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦系。最後に秦の消滅に伴い半島から豊前に流れ込んだ始皇帝の一族とその臣民(この中には万里の長城の建設に送られる事を嫌った秦の民も…)、そこから京都に移動した太秦の勢力、また、高千穂の三田井に入っていたタカミムスビ系の人々もイスラエル系であり、高句麗からの渡来人 高麗王若光の一族もイスラエル系と言えるでしょうが八木姓とは繋がりそうになく除外します。

恐らく、八木姓に関係があるのは、古々代ヘブライ(事代主系)や秦の始皇帝の亡命氏族ではなく 紀元前247 - 紀元前210年の僅かな期間に列島に進入した(中国は火山国ではないため)製鉄神の一族=金山彦、金山媛(妹)=イザナミの一族であり、神武天皇までの九州王朝成立以前の時代を支えたイスラエル系の人々だと考えています。

この金山彦の一族は秦の始皇帝と姻戚関係を結び、後に始皇帝の一族も敗残し列島に避退している事から、追い越して列島に入った事になります。

秦の始皇帝は政(エイセイ=インチョン)でしたね、この名に近い名を使うのが宗像三女神の市杵島姫です。彼女もを使います。瀛ツ島姫です。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫 を参照ください。

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” 054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び先行して列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

彼らは秦が滅びる前に渡海し列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。

始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は津嶋比売」ですね。これについては以下も書いています。

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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


再掲載

178朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“

2015130 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


推定継体天皇陵長田大塚古墳(朝倉市)説の検証作業を進める中、安倍宗任の後裔一族の墓を発見し、更には死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中、七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

無題.png高木神社参拝殿(朝倉市佐田)


表記 * 紀金山彦神、記金山毘古神 * 紀 … 金山媛神、記金山毘売神、金山姫

概要 イザナギ・イザナミ神による神生みの段で、火の神であるカグツチ神を生み女陰を焼かれ苦しんでいる時の嘔吐物から化生した神。「金山」は「鉱山」のことと解するのが一般的。嘔吐物が鉱石の原石と似ているから、あるいは金属を溶かした状態と似ているからなどとも言われています。したがって鉱山従事者、製鉄従事者たちから信仰された神。これとは別に出生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩流を表しているとの解釈も。その溶岩流にはもちろん鉱物が含まれているということに。金山彦神と金山媛神は兄妹ですが、夫婦神であるとも。また中国地方で多く祀られる金屋子神社と同神とされたり、或いは御子とされることも。 無題.png*神名* 金山彦神・金山媛神 (改定) 以下も…

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