新ひぼろぎ逍遥1129 松浦党の起源を探る ⓳ 志々伎神社をご存じですか?
20250814
太宰府地名研究会 古川清久
平戸島の南端に非常に印象的な岬があります。志々伎崎です。

伊万里湾内から平戸一帯まで進出するように成ってくると、やはり自分なりの秘密の穴場を発見し頻繁に通う事になります。ただ、伊万里からでも片道100`近い行程になりかなり大変でした。
その穴場とは早福港の赤円内の高い防波堤で、一潮で1s(40cm)1匹、500g(30p)2匹のクロ
(関東でメジナ、関西でグレ)を釣り上げた事もありました。ただ、防波堤が高く、タモで掬うの
も大事でした。私達は、撒き餌と付け餌を一緒に網籠にいれて遠投するカゴ釣りを邪道としていました。それは、九州でフカセ釣りと言われる伝統的な釣りを旨としていたため、その後カゴ釣り連が増えてくると徐々に足が遠のいて行ったのでした。
この早福(ハイフク)港へは、当時は短いトンネルだか切通しを通過しなければ行けなくて、500m級の峠を越えなければならず、早朝雲の掛かるような山の横を通過していたのでした。目の前には名礁、上阿値賀島、下阿値賀島が眼前に見える正しく平地から磯釣り級の釣りができたのでした
その南に聳える非常に印象的な山が志々伎岳で、そこに鎮座する神社が志々伎神社だったのです。

懐かしさのためか志々伎神社の話に入らず早福港の話になってしまいましたが、この早福という地名の意味は、恐らく「ハイフク」と呼ばれている事から考えて“岩礁正面の浜”という意味ではないかと思うのです。
それは、「ハイ」「ハエ」と言うのは単に平戸の方言…と言うだけのものではなく、ハウという意味の隠れた沈み瀬(波や大潮に隠れる生える根)で、遠くは千葉県の犬吠埼については、多くの説が在る事は承知していますが、犬吠崎の吠(ボウ)とは遠目に犬に見える多くのアシカの這う岬の可能性さえあるのです。房総半島には黒潮ばかりか北からの親潮も入っているからです。

早福の地名の意味と尖閣列島の様な上下阿値賀島の意味ではなく、その手前にある波を被る低い瀬の意味のはずなのです。
私は堤防で釣っていると、地元の漁師さんからベタ凪で天気が良かったことから運んでやるよと誘われたのですが、急な大波に浚われる事を考えお断りした事もあったのでした。

AI による概要 地名としての「ハイ」
…また、「岩礁」は、海中に隠れている大きな岩や、水面上にわずかに出ている岩を指す言葉です。…平戸市には「ハイ」という地名が存在します。これは、平戸島の北西部に位置する地域で、美しいリアス式海岸と岩礁地帯が特徴です。
根が生える若しくは這うの低い「ハエ」(ハイ)根の意味だと思うのですが、いかがでしょうか。
早福の話はここで納め、志々伎神社の話に入りましょう。実はこの神社はかなりの広がりを見せているのです。熊本県山鹿市にも志々岐神社があります。伎
岐に変わっていますが、同一の神社だと考えています。何度となく参拝している神社ですが、南北朝期以降阿蘇神社が覆い被さっています。


【社名】 志々岐神社 [A00-0595]
【所在地】 糸島郡小富士村大字御床字殿山
【祭神】 十城別命
【由緒】 白鳳元年肥前国松浦郡志々岐神社より鎮座と旧記に載す。明治五年十一月三日村社に被定。社説に曰く、天智天皇の御代太宰観世音創建の時本尊にせんとて唐土より阿弥陀仏を取寄せ博多の津に向ふ所海上風波の為め甚だ危かりしに由り、平戸志々岐神社を船中に勧請し幸に恙なきを得て、唐津東海岸寺山の里に着す。後世仏像は太宰府に移し、敷鉄のみは久しく此所に留まりしに、後可也山南麓に移し御床と称したり、付近の名称概ね之に因むとあり。仏像は木造に改められ清賀上人作とも言ふ、大正三年四月国宝に指定せらる。
長崎県壱岐市の志々岐神社(志自岐神社)もご紹介しましょう。
による。
御祭神:十城別王・武加比古王・日本武尊
祭神
十城別王(ときわけのみこ)、武加比古王(たけかいこのみこ)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)、稲依王(いなよりのみこ)、稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)そうそうたる、メンバーの祭神ですねぇ。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子供たちが、総出演しています。全員が、戦争の神様といわれるくらい、戦い、戦いで、明け暮れた人たちです。古い本に、次のようなお話があります。昔、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。
しかし、十城別王命(ときわけのみこ)は、戦争が怖くなり、途中で引きかえしました。
神功皇后は、その命令に違反している、と言って、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、あやまたず王を射通しました。
これ以後、この地を射通し「イトヲシ」といい、これが訛って、「印通寺」となった、という事です。
また、皇后の箭を投げた地を「ナゲヤ」と言い、今は、名護屋と呼び、呼子村の西に在あります。
名護屋は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際、名護屋城を築いた場所です。式内社24社にいう、邇自神社は、ここではないかと、とも言われています。この神社の境内には、いろいろな動物の彫り物がたくさんあります。拝殿のなかには、みごとな、素晴らしい絵馬もあります。
(神様のお話)
日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初、垂仁天皇(すいにんてんのう)の娘、両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、稲依王(いなよりのみこ)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと、足仲彦(たらしなかつひこ)ともいい、後の仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)という、子供がいました。日本武尊は、又、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武姫(きびのあなとたけるひみ)とも結婚し、武加比古王(たけかいこのみこ、武卵王(たけかひごのみこともいう)と十城別王(とおきわけのみこ)という、子供がいます。
日本武尊は、さらに、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚し、稚武彦王(わかたけひこのみこ)という、子供がいます。

様の有難いリポートをご紹介します。
社殿は拝殿で、その奥に本殿の屋根だけが見えた。主祭神は十城別王(トオキワケノミコ)で、他に武加比古王、日本武尊、帯彦天皇、稲依王、稚武王(ワカタケノミコ)、稚武彦王も祀られ、異常なほど祭神が多い。主祭神の十城別王は平戸の志々岐神社に祀られていて、そこが本社で対馬の厳原など九州にいくつか分社があるという。『日本書紀』によれば、十城別王は日本武尊と吉備穴戸武媛の子で伊予別の祖という。日本武尊は最初、垂仁天皇の娘・両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、帯彦天皇(足仲彦ともいい、後の仲哀天皇)、稲依王、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(ワカタケノミコ)という子があり、また、吉備武彦の娘・吉備宍戸武姫(きびのあなとたけるひめ)とも結婚し、武加比古王と十城別王という子があり、さらに、忍山宿禰の娘・弟橘姫と結婚し、稚武彦王という子がある。十城別王は、神功皇后の新羅遠征(三韓征伐)に軍大将として従軍し、帰還後も外敵防御のため平戸に留まり生涯を終えたという。神社の伝承によると、神功皇后が壱岐に寄った時、従軍の十城別王は戦争が怖くなって途中で引き返した。神功皇后は命令に違反しているといって、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、過たずに王を射通した。その後、この地を「射通し」と言い、訛って「印通寺」となったという。本殿の神紋は、神功皇后の三五の桐の紋である。末社は稲荷神社。
確かに両道入姫命(フタジイリヒノメミコト、)が「記」、「紀」に出てきます。『古事記』では弟苅羽田刀弁)。 『日本書紀』では両道入姫命『古事記』では石衝毘売命(いはつくびめ)と表記されます。
百嶋神社考古学では、通常、十城別王の時代迄は扱いませんので百嶋由一郎最終神代系譜などにはそこまでのものがありません。しかし、ヤマトタケル、仲哀に関係する人物であることは分かっています。

様が、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。と書かれている事も納得が行きます。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
壱岐には何度も入っていますが、20代の頃、ここの印通寺の遠浅の志々岐浜で3時間も泳ぎ、沖でソフトボール級の大サザエを潜って手にした事を思い出しました。
ただ、その当時は神社には関心が無かったため、正面の志々岐神社には目もくれてなかったのでした。
今度、機会が在れば是非参拝したいと思っています。以下も、百嶋由一郎の通称金神系譜です。


平戸学」様に依れば平戸市野子町の志々伎神社は以下の様に書かれています。正にそうですね。
志々伎山(347m)は山頂が断崖になっていて、先端がとがった特徴的な形をしています。この形が古くから航海上で自然の標識の役割を果たし、また、人々の信仰を集めてきました。
この信仰が形になったものが、志々伎山山頂周辺にある上宮、中宮、地の宮、沖の宮の四宮で、これを総称して志々伎神社(志自伎神社)といいます。
ついでに
も引用します。202250816 15:54による
志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社、旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。規模が大きく県下の式内社で最大。ここに古くから伝わる神相撲は、今日の相撲の原形といわれる[1][2]。平戸全島で行われるジャンガラも当社から広まったものである。
創建年代は5世紀頃とも言われるが、正確には不明である。神域は平戸島の南端近くにある志々伎山(標高347.2メートル)を中心としており、古くは山の頂上に上宮、中腹に中宮、麓にある漁村の宮の浦に地の宮(下宮、邊都宮)、そして宮の浦沖の沖ノ島に沖の宮がそれぞれ置かれ、別に別当寺として円満寺が設けられていた。祭神は日本武尊の子、仲哀天皇の異母弟で、神功皇后の三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる十城別王(十城別命)で、地の宮は王が設けた武器庫を転用したもの、沖の宮は王の墓所であると伝えられている。
『延喜式』神名帳において肥前国内では4社ある式内社の一つとしてその名があり、壱岐・対馬地域を除く長崎県内では唯一であり、最も古くから知られた神社である。その後も松浦党諸家や周辺地域漁民の崇敬を広く集めた。
現在の祭祀等の中心は中宮となっている。当初は志々伎山山頂下の祠にあったが、永禄2年(1559年)に中腹に、さらに1961年(昭和36年)に明治初年に神仏分離令により廃された円満寺(当社の別当寺)の跡地である現在地に移った。
旧社殿地は1974年(昭和49年)に「旧式内社志々伎神社跡」として長崎県史跡に指定されている。
もう紙数が少ないのでこれぐらいにします。平戸の野子とか宮之浦というのは、有明海、大村湾から、また、長崎半島を大回りして、平戸の南西端を通過する、つまり対馬海流を利用し半島から大陸を目指す最も効率の良い航路であることから、有明海沿岸から半島を目指す場合でも主要な航路だったと考えています。
ましてや、ウィキペディア様も五世紀と推定されている訳で、間違いなく太宰府、久留米を本拠地とした九州王朝の真っただ中の話なのです。
と、すると、神功皇后、仲哀が下関の忌宮辺りから出てきたとするのは、畿内の勢力が熊襲退治をしたとしたい「記」「紀」の偽装であって、当然、凱旋も有明海側だったはずなのです。
佐賀県嬉野市の嬉野温泉、武雄市の塚崎温泉に神功皇后の帰還、兵員の治療の話が残っているなど主力は有明海側からの移動だったはずなのです。
それは、日本書紀のアリシトの子日羅が熊本の八代〜津奈木一帯から船で百済に行き来していた話とも対応するのです。対馬海流に乗りさえすれば、労せずに楽に移動できていたのです。
当然、三韓征伐の凱旋も有明海側に入っているはずなのです。
神功皇后紀の馬鹿々々しさは、唐津の浜玉町、玉島川辺りで鮎を釣った(これ自体もおかしな話ですが…)その西が一切書かれていないのです。福岡県、長崎県、佐賀県の有明海側にも伝承が在るにも関わらず、です。次回は、この問題を掘り下げたいと思います。
百嶋由一郎が残した90枚の神代系譜(DVDへのスキャニングスキャニングデータ)、40時間に上る講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDなどを必要とされる方は、090-6298−3254まで…


にお読み頂き有難いと思っています。
半坪ビオトープの日記
























![image[2].png](http://chimei.sakura.ne.jp/sblo_files/hiborogi/image/image5B25D.png)