2026年04月24日

新ひぼろぎ逍遥1129 松浦党の起源を探る ⓳ 志々伎神社をご存じですか?

新ひぼろぎ逍遥1129 松浦党の起源を探る ⓳ 志々伎神社をご存じですか?

                       20250814

太宰府地名研究会 古川清久


平戸島の南端に非常に印象的な岬があります。志々伎崎です。

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伊万里湾内から平戸一帯まで進出するように成ってくると、やはり自分なりの秘密の穴場を発見し頻繁に通う事になります。ただ、伊万里からでも片道100`近い行程になりかなり大変でした。

その穴場とは早福港の赤円内の高い防波堤で、一潮で1s(40cm1匹、500g30p)2匹のクロ

(関東でメジナ、関西でグレ)を釣り上げた事もありました。ただ、防波堤が高く、タモで掬うの

も大事でした。私達は、撒き餌と付け餌を一緒に網籠にいれて遠投するカゴ釣りを邪道としていました。それは、九州でフカセ釣りと言われる伝統的な釣りを旨としていたため、その後カゴ釣り連が増えてくると徐々に足が遠のいて行ったのでした。

 この早福(ハイフク)港へは、当時は短いトンネルだか切通しを通過しなければ行けなくて、500m級の峠を越えなければならず、早朝雲の掛かるような山の横を通過していたのでした。目の前には名礁、上阿値賀島、下阿値賀島が眼前に見える正しく平地から磯釣り級の釣りができたのでした

 その南に聳える非常に印象的な山が志々伎岳で、そこに鎮座する神社が志々伎神社だったのです。

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懐かしさのためか志々伎神社の話に入らず早福港の話になってしまいましたが、この早福という地名の意味は、恐らく「ハイフク」と呼ばれている事から考えて“岩礁正面の浜”という意味ではないかと思うのです。

それは、「ハイ」「ハエ」と言うのは単に平戸の方言…と言うだけのものではなく、ハウという意味の隠れた沈み瀬(波や大潮に隠れる生える根)で、遠くは千葉県の犬吠埼については、多くの説が在る事は承知していますが、犬吠崎の吠(ボウ)とは遠目に犬に見える多くのアシカの這う岬の可能性さえあるのです。房総半島には黒潮ばかりか北からの親潮も入っているからです。

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早福の地名の意味と尖閣列島の様な上下阿値賀島の意味ではなく、その手前にある波を被る低い瀬の意味のはずなのです。

 私は堤防で釣っていると、地元の漁師さんからベタ凪で天気が良かったことから運んでやるよと誘われたのですが、急な大波に浚われる事を考えお断りした事もあったのでした。

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AI による概要 地名としての「ハイ」

 …また、「岩礁」は、海中に隠れている大きな岩や、水面上にわずかに出ている岩を指す言葉です。平戸市には「ハイ」という地名が存在します。これは、平戸島の北西部に位置する地域で、美しいリアス式海岸と岩礁地帯が特徴です。


根が生える若しくは這うの低い「ハエ」(ハイ)根の意味だと思うのですが、いかがでしょうか。

早福の話はここで納め、志々伎神社の話に入りましょう。実はこの神社はかなりの広がりを見せているのです。熊本県山鹿市にも志々神社があります。伎右矢印1岐に変わっていますが、同一の神社だと考えています。何度となく参拝している神社ですが、南北朝期以降阿蘇神社が覆い被さっています。

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無題.png【社名】 志々岐神社 [A00-0595]

【所在地】 糸島郡小富士村大字御床字殿山

【祭神】 十城別命

【由緒】 白鳳元年肥前国松浦郡志々岐神社より鎮座と旧記に載す。明治五年十一月三日村社に被定。社説に曰く、天智天皇の御代太宰観世音創建の時本尊にせんとて唐土より阿弥陀仏を取寄せ博多の津に向ふ所海上風波の為め甚だ危かりしに由り、平戸志々岐神社を船中に勧請し幸に恙なきを得て、唐津東海岸寺山の里に着す。後世仏像は太宰府に移し、敷鉄のみは久しく此所に留まりしに、後可也山南麓に移し御床と称したり、付近の名称概ね之に因むとあり。仏像は木造に改められ清賀上人作とも言ふ、大正三年四月国宝に指定せらる。

長崎県壱岐市の志々岐神社(志自岐神社)もご紹介しましょう。 無題.pngによる。

御祭神:十城別王・武加比古王・日本武尊 

祭神
十城別王(ときわけのみこ)武加比古王(たけかいこのみこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと)稲依王(いなよりのみこ)稚武王(わかたけのみこ)、稚武彦王(わかたけひこのみこ)そうそうたる、メンバーの祭神ですねぇ。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子供たちが、総出演しています。全員が、戦争の神様といわれるくらい、戦い、戦いで、明け暮れた人たちです。古い本に、次のようなお話があります。昔、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。
しかし、十城別王命(ときわけのみこ)は、戦争が怖くなり、途中で引きかえしました。
神功皇后は、その命令に違反している、と言って、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、あやまたず王を射通しました。
これ以後、この地を射通し「イトヲシ」といい、これが訛って、「印通寺」となった、という事です。
また、皇后の箭を投げた地を「ナゲヤ」と言い、今は、名護屋と呼び、呼子村の西に在あります。
名護屋は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際、名護屋城を築いた場所です。式内社24社にいう、邇自神社は、ここではないかと、とも言われています。この神社の境内には、いろいろな動物の彫り物がたくさんあります。拝殿のなかには、みごとな、素晴らしい絵馬もあります。

(神様のお話)

日本武尊(やまとたけるのみこと)は最初、垂仁天皇(すいにんてんのう)の娘、両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、稲依王(いなよりのみこ)、帯彦天皇(たらしひこすめらのみこと、足仲彦(たらしなかつひこ)ともいい、後の仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)という、子供がいました。日本武尊は、又、吉備武彦(きびのたけひこ)の娘、吉備穴戸武姫(きびのあなとたけるひみ)とも結婚し、武加比古王(たけかいこのみこ、武卵王(たけかひごのみこともいう)と十城別王(とおきわけのみこ)という、子供がいます。
日本武尊は、さらに、忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘、弟橘姫(おとたちばなひめ)と結婚し、稚武彦王(わかたけひこのみこ)という、子供がいます。

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無題.png半坪ビオトープの日記20220206碧雲荘、志々岐神社

様の有難いリポートをご紹介します。

社殿は拝殿で、その奥に本殿の屋根だけが見えた。主祭神十城別王(トオキワケノミコ)で、他に武加比古王、日本武尊、帯彦天皇、稲依王、稚武王(ワカタケノミコ)、稚武彦王も祀られ、異常なほど祭神が多い。主祭神十城別王は平戸の志々岐神社に祀られていて、そこが本社で対馬の厳原など九州にいくつか分社があるという。日本書紀』によれば、十城別王日本武尊と吉備穴戸武媛の子で伊予別の祖という。日本武尊は最初、垂仁天皇の娘・両道入姫(ふたぢのいりひめ)と結婚し、帯彦天皇(足仲彦ともいい、後の仲哀天皇)、稲依王、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(ワカタケノミコ)という子があり、また、吉備武彦の娘・吉備宍戸武姫(きびのあなとたけるひめ)とも結婚し、武加比古王と十城別王という子があり、さらに、忍山宿禰の娘・弟橘姫と結婚し、稚武彦王という子がある。十城別王は、神功皇后新羅遠征(三韓征伐)に軍大将として従軍し、帰還後も外敵防御のため平戸に留まり生涯を終えたという。神社の伝承によると、神功皇后壱岐に寄った時、従軍の十城別王は戦争が怖くなって途中で引き返した。神功皇后は命令に違反しているといって、責め、怒り、弓箭(ゆみや)を執り、背中をめがけて投げたら、過たずに王を射通した。その後、この地を「射通し」と言い、訛って「印通寺」となったという。本殿の神紋は、神功皇后の三五の桐の紋である。末社は稲荷神社。

確かに両道入姫命(フタジイリヒノメミコト、)が「記」、「紀」に出てきます。『古事記』では弟苅羽田刀弁)。 『日本書紀』では両道入姫命『古事記』では石衝毘売命(いはつくびめ)と表記されます。

百嶋神社考古学では、通常、十城別王の時代迄は扱いませんので百嶋由一郎最終神代系譜などにはそこまでのものがありません。しかし、ヤマトタケル、仲哀に関係する人物であることは分かっています。

無題.png無題.png様が、神功皇后が、三韓征伐のために壱岐に寄ったとき、十城別王命(ときわけのみこ)を伴っていました。と書かれている事も納得が行きます。


百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


壱岐には何度も入っていますが、20代の頃、ここの印通寺の遠浅の志々岐浜で3時間も泳ぎ、沖でソフトボール級の大サザエを潜って手にした事を思い出しました。

ただ、その当時は神社には関心が無かったため、正面の志々岐神社には目もくれてなかったのでした。

今度、機会が在れば是非参拝したいと思っています。以下も、百嶋由一郎の通称金神系譜です。

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平戸学」様に依れば平戸市野子町の志々伎神社は以下の様に書かれています。正にそうですね。


志々伎山(347m)は山頂が断崖になっていて、先端がとがった特徴的な形をしています。この形が古くから航海上で自然の標識の役割を果たし、また、人々の信仰を集めてきました。
この信仰が形になったものが、志々伎山山頂周辺にある上宮、中宮、地の宮、沖の宮の四宮で、これを総称して志々伎神社(志自伎神社)といいます。


ついでに 無題.png も引用します。202250816 15:54による


志々伎神社(しじきじんじゃ)は、長崎県平戸市野子町にある神社。志志伎神社あるいは志自伎神社とも表記する。式内小社旧社格は県社。九州各地に志々岐・志式・志自岐として分社がある。規模が大きく県下の式内社で最大。ここに古くから伝わる神相撲は、今日の相撲の原形といわれる[1][2]。平戸全島で行われるジャンガラも当社から広まったものである。


創建年代は5世紀頃とも言われるが、正確には不明である。神域は平戸島の南端近くにある志々伎山(標高347.2メートル)を中心としており、古くは山の頂上に上宮、中腹に中宮、麓にある漁村の宮の浦に地の宮(下宮、邊都宮)、そして宮の浦沖の沖ノ島に沖の宮がそれぞれ置かれ、別に別当寺として円満寺が設けられていた。祭神は日本武尊の子、仲哀天皇の異母弟で、神功皇后三韓征伐に従い、その後当地に留まり西国警護を命ぜられたと伝えられる十城別王(十城別命)で、地の宮は王が設けた武器庫を転用したもの、沖の宮は王の墓所であると伝えられている。

延喜式』神名帳において肥前国内では4社ある式内社の一つとしてその名があり、壱岐・対馬地域を除く長崎県内では唯一であり、最も古くから知られた神社である。その後も松浦党諸家や周辺地域漁民の崇敬を広く集めた。

現在の祭祀等の中心は中宮となっている。当初は志々伎山山頂下の祠にあったが、永禄2年(1559)に中腹に、さらに1961昭和36年)に明治初年に神仏分離令により廃された円満寺(当社の別当寺)の跡地である現在地に移った。

旧社殿地は1974(昭和49年)に「旧式内社志々伎神社跡」として長崎県史跡に指定されている。


もう紙数が少ないのでこれぐらいにします。平戸の野子とか宮之浦というのは、有明海、大村湾から、また、長崎半島を大回りして、平戸の南西端を通過する、つまり対馬海流を利用し半島から大陸を目指す最も効率の良い航路であることから、有明海沿岸から半島を目指す場合でも主要な航路だったと考えています。

ましてや、ウィキペディア様も五世紀と推定されている訳で、間違いなく太宰府、久留米を本拠地とした九州王朝の真っただ中の話なのです。

と、すると、神功皇后、仲哀が下関の忌宮辺りから出てきたとするのは、畿内の勢力が熊襲退治をしたとしたい「記」「紀」の偽装であって、当然、凱旋も有明海側だったはずなのです。

佐賀県嬉野市の嬉野温泉、武雄市の塚崎温泉に神功皇后の帰還、兵員の治療の話が残っているなど主力は有明海側からの移動だったはずなのです。

それは、日本書紀のアリシトの子日羅が熊本の八代〜津奈木一帯から船で百済に行き来していた話とも対応するのです。対馬海流に乗りさえすれば、労せずに楽に移動できていたのです。

当然、三韓征伐の凱旋も有明海側に入っているはずなのです。

神功皇后紀の馬鹿々々しさは、唐津の浜玉町、玉島川辺りで鮎を釣った(これ自体もおかしな話ですが…)その西が一切書かれていないのです。福岡県、長崎県、佐賀県の有明海側にも伝承が在るにも関わらず、です。次回は、この問題を掘り下げたいと思います。


百嶋由一郎が残した90枚の神代系譜(DVDへのスキャニングスキャニングデータ)、40時間に上る講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDなどを必要とされる方は、090-62983254まで

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2026年04月21日

新ひぼろぎ逍遥1128 松浦党の起源を探る ⓲ 「有明海」はなかった 20110701(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1128 松浦党の起源を探る  「有明海」はなかった 20110701復刻版)

               無題.png        20250813

太宰府地名研究会 古川清久

「有明海」はなかった

                           古川 清久(武雄市20090815   


本文は民俗学の延長にある小さな論稿に過ぎませんが、今日、古のものとして誰もが信じて疑わぬ「有明海」という呼称が、実はほんの百年足らずのものでしかないのではないかという仮想から若干の知的探求を行なうものです。


“「有明海」はなかった”などと書くと驚かれる方も多いと思います。しかし、なお、オカシイと思われる方は地図を広げて見て下さい。ここでも、また、びっくりされるはずです。

地図によっても異なりますが、一般に考えられている有明海の認識と、市販されている地図上の有明海の表記が全く異なるのです。

 恐らく、皆さんが手にする大半の地図では長崎県島原市(島原半島)と熊本市の間の海は有明海ではなく島原湾となっていると思います。

つまり熊本県宇土市から西に伸びる宇土半島や天草諸島の北に広がる海は島原湾でしかなく、天草(三角)へと向かう国道五七号線から右手に見える海は有明海ではないのです。

実際、地図の成立時期によっても、また、官庁によっても記載がまちまちで、混乱が行政によって持ち込まれているという印象は拭えません。実はこの問題についてふれた本があります。『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)東海大学出版会 です。

多分、有明海沿岸の図書館であればどこにでも置いてあると思いますので、ムツゴロウを表紙にしたこの本をご覧になった方も多いと思います。一九八一年初版で、有明海の珍しい生物を取上げたものです。まずはこの事についてどのように書かれているかをご紹介しましょう。

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『有明海』自然・生物・観察ガイド  東海大学出版会


    国土地理院は、こう主張する。

   有明海というのは、この海の北半分で、南半分は島原湾というべきだ。しかし、その境界については、当院は関知しない。

    海上保安庁はこうだ。

    この湾は島原湾と呼ばれるべきだ。有明海などというものは、当庁の採らないところである。

    辞典類の執筆者は、こういう。有明海と島原湾の境界は、長洲と多比良を結ぶ線である。

    そして、生物学者、地質学者も含めた一般国民は、有明海といえば、この大きな湾の入口にある、早崎瀬戸という海峡の内側の水域全部だと思っている。

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国土地理院は、一九七九年に「日本国勢地図帳」というものを出している。・・・中略・・・「有明海」と「島原湾」の境界が、どこにあるのか、一行の説明も見出せないのである。

   いまみてきたように、国土地理院のこの水域に対する態度は、ひどく及び腰にみえる。その点を、電話で問い合わせたが、

   「境界は知らぬ」

   という返事であった。電話のことだから、これを同院の公式見解とはみなせないにしても、妙な話である。

   海図にも当たってみた。海図は、運輸省海上保安庁水路部がだしている。航海用の精密な図である。一九八一年発行の第一六九号「島原湾」を見てみよう。海図の隅に「有明海」の名は記入されているものの、その示す範囲はどうみても、おおよそ福岡県柳川と佐賀県藤津郡多良(たら)を結ぶ線以北としか考えられない。・・・中略・・・

   そこで水路部に電話してたずねたところ、

   「この水域の名としては、島原湾だけを用いている」

   という答えだった。念のために、水路部発行の潮汐表を見て、驚いた。・・・中略・・・ついに有明海のアの字もでてこなかったのである。「海上保安庁に、有明海の字はない」のである。


 お分かりになったと思います。意識的か無意識的かは分かりませんが、有明海は消され

つつあるのです。

菅野 徹氏も「ようやく、有明海を見た−と、このときは信じて疑わなかった」とされ

ているのですが、熊本の南、宇土半島の長浜というところで初めて見たものが有明海ではなかったのです。

この一般の意識とのギャップはどこからくるのでしょうか?

私は、生物、社会、理科といった小学校以来の意識やイメージを支えているのが教科書であり、それの元となっている学者、研究者の認識には「島原湾」はなかったからではないかと考えています。現在の教育現場についてまでは調べていませんが、もしも、この世界にまで国土地理院や海上保安庁水路部といった一行政機関の意志が浸透するようになれば、有明海は遠からず掻き消されていくのではないかと考えています。

有明町は消された


もう一つ、皆の記憶から完全に消えようとしているものがあります。言うまでもなく有明町です。

平成の大合併が進められる中、三つの有明町が消えることになりました。

北から、佐賀県杵島郡有明町(現白石町)、長崎県南高来郡有明町(現島原市)、熊本県天草郡有明町(本渡市などと三月に合併)です。佐賀県の旧有明町はもとより、この島原市と合併した旧有明町と天草上島の有明町の存在は、一般的認識としての有明海が正しい事を示すものです。このことについても菅野 徹 氏は書いておられます。


この有明町という町名が地図から消失し、有明海という名さえも抹殺される時が来るのかも知れません。有明海を破壊した農水省の諫早湾干拓事業という犯罪行為や沿岸の針葉樹林化、旧建設省の不必要なダムの乱発も忘れ去られる事になるのでしょうか?


実に慧眼です。残念ながら、私には菅野徹氏の恐るべき予言が現実のものとなったと考えています。

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『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (3つの有明町)


有明海と帝国陸海軍


ここで、私が考えている仮説をご紹介致しましょう。既に、HP「有明海・諫早湾干拓リポートT」で書い

ている文書を原文のまま二本再掲載することで換えたいと思います。判断は読者にお任せします(これ

についてもネット上に公開しています)。


2

 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部

20040128

7

千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)

20040311


2. 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部


さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。このため環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。

簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。

相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、「この江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなく、良くは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。


野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)


有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(「杉野は何処・・・」)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったという話を考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。

 長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チヂワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。

明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では帝国海軍の水路部でした(陸では陸軍参謀本部陸地測量部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し、艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。

 当然ながら、海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうか?)、海軍の大演習は当然といえば当然の話なのです。

山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。

 さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題でもあったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は最重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。

「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級将官あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ!」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。

 先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は唯物論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定でしたが未だに頂いておりません)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお残っている理由のようなのです。

野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。

興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。


「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p

20040128


7. 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)


 帝国陸軍の軍神とされた橘周太中佐についてインター・ネットで検索していたのですが、出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に辿りつき、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」を見出しました。これによると銅像建立と橘神社「大正82月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。このことによって、2.「有明海という呼称と帝国海軍水路部」の部分的な裏取りができたことになるようです。

なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。

 さて、思考の冒険はさらに広がるのですが、九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。 

しかし、今のところは想像の域を出ません。「不知火海」(しらぬい・かい)も一般的には読めない呼称であることは言うまでもないため、なんでも水路部のしわざと考えるくせがついてしまいました。                 

20040311

   

ただし、2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部において、


「現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手 な想像をしています」


と、していましたが、最近、これは違うと考えるようになってきました。今は、明治政府のなんらかのセクションが始めに「有明海」を採用し、その後、海の呼称ですから、旧海軍水路部が「島原湾」を持ち込み、戦後、海上保安庁水路部が消し去ろうとしている(消し去った)と考えています。恐らく、国土地理院(旧陸軍測地部)は水路部の顔を立てているだけでしょう。

なお、7.千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)で書いた

「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。


については、ほぼ、間違いないのではないかとの思いを深めています。


水路部沿革


・・・明治四年七月二十八日、兵部省に海軍部が置かれ、同年九月八日、同部に水路局が設けられた(兵部省海軍部内条令)。・・・

   ・・・終戦で海軍は解体し、水路部は昭和二十年十一月二十九日、運輸省に移管され、運輸省水路部となった。・・・昭和二十三年五月一日、海上保安庁が創設されて水路部は同庁の水路局となり、二十四年六月一日には同庁機構改正で海上保安庁水路部と現在の名称になった。


『日本海軍史』第六巻 部門小史下(財団法人海軍歴史保存会)より


有明海という呼称の起源


相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです。(…中略…)ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。(再掲)


これは、有明海・諫早湾干拓リポートを書き始めた時の冒頭の論文 1.はじめに(20040126)の一節です。「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」という呼称は「有明海」に付けられていたということについて拙著「有明海異変」でもふれていますが、菅野 徹氏もこのことについて書かれています。


なお、有明海の名は一九一二(明治四十五)年の『帝国地名辞典』(太田為三郎編、三省堂刊)に、筑紫潟の別名としてでているが、・・・ただし、「有明」の名そのものは、天保年間(だいたい一八三〇年代)の地図には、有明の沖としてあらわれている。しかし、わが国最初の百科事典である『和漢三才図絵』(正徳ニ(一七一二)年)にはこの水域に関してなにひとつ記述がない。・・・

東京湾とか有明海とかいう名称は、その概念とともに、かなり新しいものではなかろうか。一八九五(明治二十八)年の地図を見ても、福岡県の地先を筑紫潟、佐賀県・長崎県の地先を有明ノ沖、としていて、まだ、有明海、島原湾、などの名は見えない。


『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)


さて、九州には有明という海がもう一つあります。鹿児島県の志布志湾が別名有明湾と呼ばれているのです(沿岸に有明町があります)。氏は、このことから、


有明海を「ザ・ベイ・オブ・アリアケ」とやれば、前述のように志布志湾と混同されるおそれがある。海上保安庁では、このあたりを勘案して有明海の名を嫌っているのかも知れない。


と、されています。


鉄道唱歌は証言する


 “有明海”という呼称を考えていて気付いた事がありました。鉄道唱歌です。明治に作られましたが、鉄道の普及と沿線の風物が歌い込まれ大変に流行った物でしたから、いまだに耳に残っている方も数多くおられることと思います。

言うまでもなく「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」ですが、この第二集山陽・九州編を聴くと、三角線や鹿児島本線では“有明海”という名は出てこないものの、“不知火海”という名ははっきりと歌い込まれているのです(「・・・国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く・・・」)。少なくとも、唱歌が作られた明治三十三年当時の作詞家や鉄道省、地元の認識は八代湾ではなく“不知火海”であったことがこれからも分かります。

ただ、八代海(湾)ではなく“不知火の海”という名称が流通していた事までは分かるのですが、依然として疑問は残ります。「わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里・・・」を聴くと、ここまではまだ宇土半島の北側であり、現在の有明海(島原湾)側の海しか見えないはずなのです(当時は干拓が進んでいなかったために鉄路からの海は現在よりも間近に見えたはずです)。「国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く」となると、当時まで宇土半島の北側の海も不知火の海と呼ばれていた可能性があるのですが、この問題については、まだ作業中ですので、いずれ別稿として書きたいと思います。ただし、今の段階で考えている事を少しお話しておきます。


有明の不知火、不知火の有明


まず、多くの方が“不知火は不知火海に出るもの”と、考えておられると思います。確かに、現在、有明海に不知火が出るという話は聞きません。一般的にも不知火が見えるのは、熊本県宇土半島の不知火海(八代湾)側にある旧不知火町(現宇城市)付近(から)とされています(永尾神社)。

しかし、最近になってどうもそうではなかったということにようやく気付きました。

元々、“有明海”も“不知火海”と呼ばれていたと言う話をどこかで聞いた事があったためですが、ただ、今はそれがどのような意味だったのかは出典も含めて辿れません。

しかし、有明海沿岸を走り回る日々が続くと、幾つかの地名にその痕跡がある事に気付きます。

一つは福岡県大牟田市のJR大牟田駅に近い不知火町です。ここに熊本県不知火町からの組織的移住があったという話は聞きませんから、少なくとも百年、二百年は遡れる地名ではないかと思われます。

地名としては、熊本県旧不知火町の外にも、旧小川町などに“不知火”という字名が見られます。

もう一つは、“長崎県諌早市からも不知火が見えたという話があるのです。一例をご紹介しましょう。「あとで話していただく木下良先生(元国学院大学教授:古川註)は、諫早の御出身ですが、不知火は諫早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あったと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生まれかえる火だったと思うのです。」

これは熊本地名研究会が一九九五年に行った第10回熊本地名シンポジウムの資料集「火の国の原像」に掲載されている民俗学者谷川健一(日本地名研究所所長、近畿大学教授=当時)氏による基調講演「火の國の原像」の一節です。

これを読むと、諫早湾干拓に流れ込む本名川に掛かる橋が不知火橋と命名されているの

も不思議ではなくなります(諫早の市街地から諫早湾に注ぐ本明川に掛かる県道124号大里森山肥前長田停車場線の大型橋が不知火橋と呼ばれているのです)。

さらに、一つは、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれている事です。

ついでに言えば、旧制福岡高校(現九大教養部)で歌われていたものにも「不知火の筑紫の浜に・・・」とあったようですし、私の地元にある佐賀大学の学生寮が“不知火寮”でもあったのです。このように有明海沿岸にも不知火に関する地名などの痕跡がある事を考えると、有明海も、かつては“不知火の海”と呼ばれたか、少なくとも“不知火の見える海”であったのではないかと思うのです。

そもそも、景光天皇の火邑伝承は現在の不知火海(八代海、湾)としても、考えてみれば、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです。


万葉集の白縫


「万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです」としました。しかし、誤解がないように断っておきますが、「不知火」という漢字表記が記紀や風土記にあるわけではないのです。筑紫にかかる枕言葉の表記は「之良奴日」「剘羅農比」「白縫」などですが、この“ヒ”音はいずれも甲類であり、“ヒ”音でも乙類の「火」「肥」ではないのです。この法則性を絶対化すべきかどうかの問題はあるのですが、単純に“シラヌヒ”“シラヌイ”を不知火とするには無理があるようです。ただ、甲類、乙類の使い分けは後には消え、混用されていったのではないかとする事は許されるはずです。従って、「白日別」とされた筑紫が、宇土半島北側でも見えていた不知火と重なり、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったかのように様々な痕跡を残したのではないかと思うものです。

立石巌氏の「不知火新考」によると、江戸時代の僧侶が「不知火」という表記をしたことが始まりとされています。


55. 熊本〜宇土    大和田建樹(作詞)

わたる白川緑川

川尻ゆけば宇土の里

国の名に負う不知火の

見ゆるはここの海と聞く


さて、長々と脱線しましたが、どう考えても鉄道唱歌に有明海が歌い込まれていないはずはないと考えました。一つは、現在の長崎本線は昭和十年頃新たに建設されたものであり、鉄道唱歌の時代には、佐世保線(肥前山口〜佐世保)と大村線(早岐〜諫早⇒長崎)が長崎本線だったのです。このため、車窓に出てこない有明海が鉄道唱歌に歌われないのは理解できそうなのですが、どうもそうではないようなのです。理由は極めて簡単でした。鉄道唱歌が作られたのは一九〇〇年(明治三十三年)なのです。そうです。前述したように、この時点でも「有明海」は、まだ、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」・・・など呼ばれているのです。実は、それも鉄道唱歌が証明してくれていました。


68.    

あしたは花の嵐山

ゆうべは月の筑紫潟

かしこも楽しここもよし

いざ見てめぐれ汽車の友


速さを誇る旧鉄道省は京都から長崎に半日余りで到着すると唄いたいのですが、ここで分かるように、有明海は“月の筑紫潟”と歌われているのです。つまり、有明海という呼称は、やはり、わずか百年足らずのものなのでした。

話がかなり輻輳しましたが、結局、明治の中頃までは有明海の北部が筑紫潟と呼ばれ、宇土半島の南北、つまり、有明海南部と現在の不知火海が“不知火の海”と呼ばれていた。  

さらに遡れば、現在の有明海と不知火海を併せた“九州内海”とも言うべき内湾全体を“不知火の海”と呼んでいた時代があったのではないかと考えるのです。

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川尻と宇土の位置関係をご覧ください 左は有明海ですね


では、皆さん。このような百年も立たない“有明海”という呼称は“消えてしまっても構わない、仕方がない事だ”とお考えになるでしょうか?

少なくとも私は嫌です。なんとも惜しい事だと思います。

それも含めて、皆さんに考えて頂くことにして、最後にもう一つ、菅野徹氏の文章を引用して本稿を終わりとします。


だが、有明海は、重要な海で、その名をおろそかにすることはできないのである。

同じく『有明海』自然・生物・観察ガイド

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有明海の出口、島原半島早瀬崎灯台


おわりに


『夜豆志呂』一六〇号に掲載された田辺達也氏の「口之津へ」という紀行文を読ませて頂きましたが私の名前が数多く飛び出してきました。さらに口之津の史談会での当方の講演“「有明海」はなかった”についてもふれてありましたので、ご無沙汰していることもあり、今回、この一文を寄稿させて頂きました。

また、「ご無沙汰していることもあり」ともしましたが、実は、二〇〇八年年頭から久留米地名研究会の結成に動きました。一年半余りで月例研究会を20回行い、現在、会員も50名を越え、どうやら60名も視野に入ってきました。特に嬉しいことは、この会が、教育員会や公民館、地元郷土史会といった既存の組織に頼ることなく結成され、ありがたいことに若い世代も取り込み、多くの研究者レベルの参加者を得たことです。現在はさらに太宰府地名研究会を準備中であり、筑前、筑後両領域にささやかな拠点を用意しようとしています。既に会の運営も軌道に乗ったことから、今後とも寄稿させて頂きたく思っております。  

本稿は「有明海」というごくありふれた地名に焦点をあわせたものですが、結論は意外にも大変驚くべきものになってしまいました。

この問題の検証も含め、今後は、八代海と不知火海というテーマにも踏み込みたいのですが、なにぶん遠方からの調査でもあり、地元の皆さんのご協力を頂ければと密かに期待しております。       

誤りや異説、類似地名などの情報をお寄せ下さい。ariakekai@ezweb.ne.jp

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2026年04月18日

新ひぼろぎ逍遥1127 松浦党の起源を探る ⓱ 二里の松原と虹の松原20110921(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1127 松浦党の起源を探る  二里の松原と虹の松原20110921復刻版)

                無題.png       20250813

太宰府地名研究会 古川清久

                     

20110921改版

二里の松原と虹の松原
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唐津市の虹の松原(マピオン)


佐賀県の玄海灘側に位置する唐津市には日本三大松原、延長八〜九キロにもなる松原があります。この松原を「虹の松原」と呼ぶのですが、藩政時代(寺沢氏時代)には「二里の松原」と呼ばれていました。もちろん、二里(約八キロ)はあったから名付けられたものなのでしょうが、これについては「街道をゆく」(肥前の諸街道)で、司馬遼太郎も、“夕日に映える海岸線が湾曲し虹のようにも見える”と言った表現を残しています。しかし、どうもそうではないような気がするのです。


もとは、「二里ノ松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。

   唐津城主は、寺沢氏のあと、徳川期には異姓の氏が頻繁に交替した。江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。


『街道をゆく』11 肥前の諸街道(司馬遼太郎)


「街道をゆく」を読んだ時は全く違和感がなかったのですが、敬愛する司馬氏の言といえども疑って掛かるのが古川定跡です。

根拠は極めて単純なものでした。佐賀県の西半分から長崎県に掛けてはRの発音がDの発音に入れ替わることが良くあるからです。

一例を上げると、リポートUに掲載した 63.“ハゼンダの海に湧く泉”にこのように書いています。

奇妙なタイトルですがそのうち分かってきます。JR長崎本線に沿って国道二〇七号線を諫早、長崎方面に向かって走り、太良町(佐賀県藤津郡)の中心を通り抜けると、右手に鉄橋が入江を渡っている所が見えてきます。波瀬の浦(太良町糸岐)です。

「波瀬の浦」とされていますが、地元では「ハゼンダ」としか呼んでいません。五キロほど先に同じく“カメンダ”(亀ノ浦)がありますので、“浦”を“ダー”呼んでいるのは間違いなく、“ラ”を“ダ““ダー”と発音しているのです。この地は長崎、佐賀の県界に近く、辺境からか、R音を嫌う古代の日本人の発音の一端が色濃く残ったものではないかと密かに考えています。

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“二里”の松原から“虹”の松原への表記の変遷が、もしかしたら、ニリとニジ、NIRINIDINIZI)、つまりR音とD音の入れ替わりから来ているのではないかという事に気付いたのはつい最近のことでした。

そもそも、“ライオン”を“ダイオン”“ラッパ”を“ダッパ”などと発音するのは幼児語のように思われています。尻取り遊びでも分かるようにラ行の単語が少ないことは日本語の特徴ですが、それは、元々、ラ音を語頭に使用しなかった日本語の生理のようなものであり、ここ、唐津でも残ったものと考える事ができるのです。

もしも、私の推測が正しければ、藩政時代(唐津藩は寺沢氏=外様から大久保、松平、土井、水野、小笠原氏と譜代の五氏が入れ替わる)に、延長一〇キロに近い海岸線をもって“二里の松原”と呼ばれたものが、いつしか現地の人々の土着性によってR音を嫌う傾向が力を発揮し、いつしか、ニリがニヂ(ディ)と変わり、表記が“二里”から“虹”に変わったのではないかと考えるのです。もちろん、土地の人々は元から「ニディノマツバラ」と呼んでいただろう事は想像に難くありません。

最後に、私の推定では信用できないという向きには、高名な民俗学者の引用で答えたいと思います。


西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して、月の十五日を祭日にしている所もある。


「龍王と水の神」(『定本柳田国男集』第二十七巻(筑摩書房)柳田国男


ついでに付け加えておきます。まず、博多んもん以外には全く分からないと思いますが、角(カド)のうどん屋のことを現地ではカロのウロン屋などと言います。R音とD音の入れ替わりの話をしましたので、この話をしないと片手落ちになります。ただ、ここでは逆にD音がR音に入れ替わっているのです。

余談ですが、ほんのしばらく前までの話ですが、博多駅の地下街には「カロ」と言う名の和風レストランまであります。確認してはいませんが、恐らくこれも角(カド)の意味だと思います。そして、実際に地下街の角にあるのです。


※ その後、博多駅の地下街の「カロ」は同店を経営されている某酒造メーカーのブランド名「花の露」が「カロ」とも読める事から付けられたものと知りました。何度か利用していますが、私は饅頭党(甘露党)でカラ党では全くないために勝手な思い込みをしていたようです。こういうことが多々あるのが地名の世界なのかもしれません。


 と、ここまで書いた後に、佐賀新聞に松浦史談会の山田 洋氏による「江戸時代には二里の松原とも」という虹ノ松原の呼称に関する記事が掲載されました。 以下全文掲載↓

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2009年(平成21年)211日付け「佐賀新聞」


ここで、注目すべきは巡検使と名護屋の大庄屋松尾兵衛門とのやり取りです。

 巡検視から距離を尋ねられた兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたら、巡検使は不思議そうな顔をして「浜崎では二里と申したぞ」と聞き返してきた。これに対して兵衛門は「虹ノ松原を取り違え二里の松原とも申し候故、ふと二里の松原とも申し上げ候わん」と答えている。つまり「虹の松原のことを取り違えて(聞き間違えて)二里の松原と申す者もいるようなので、浜崎で答えた者も二里と取り違えていったのでしょう」(この部分も山田氏)と答えているというのである。

 おぼろげながらも、ここから分ることは、海人族の拠点とも言うべき名護屋組の大庄屋になったという兵衛門が“虹ノ松原が二里の松原と取り違えられた”という認識を持っていたようだという点です。

司馬氏が“江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。”と書いた根拠を探ることは困難ですが、虹が二里に変わり再び虹に戻ったものなのか、二里が虹に変わったのかは興味が尽きません。

もちろん、司馬は、それ以前もそうだったとしている訳ではないでしょうが、私には、司馬が書いたように、江戸中期までの「二里ノ松原」が「虹の松原」に変わったと考えることにも不安が残ります。

全国には、九十九里浜、七里ケ浜(鎌倉)、千里ケ浜(平戸)と里を含んだ海岸地名が散見されます。従って、江戸期以前から二里ノ松原と呼ばれていたという可能性は十分にあるでしょうが、このような海岸地名は、通常、地元の海洋民によって付されることが多いはずです。

ただし、言い過ぎかもしれませんが、古来、海洋民は学問とは縁が薄かったと思われることから、表記は、支配階級側(寺社、武家)で行なわれたと考えてしまうのです。

もしも、天領としての唐津が外来の支配に晒され続けてきた地と考えることが許されるなら、呼び手側と書き手側の発音と聴き取りの問題とも考えられそうです。

 確かにR音はD音より発音しにくい上に、元々、日本には語頭にR音が来る単語が少ないことは、尻取り遊びで、R音で行き詰ることでもお分かりになるでしょう。

 二里のR音「リ」が現地の人々によって好んで使われていたとは考えにくいことから、古来、「ニディ⇒ニジ」の松原と呼ばれていたのではないかとまでは思ってみたのですが、無論、決め手はありません。

 一方、朝鮮半島には「リ」と発音される里の付された地名が無数に存在することはご存知でしょう。漢音を基調とする官学たる儒学、朱子学が朝鮮半島からもたらされたことを考える時、R音は大陸、半島からもたらされ、それが、書き手に反映された可能性はあるかも知れません。

 しかし、そこまで言えば、半島と絶えず往来してきた倭人、海人族、松浦党の人々にそれが持ち込まれていないのも不思議と言えそうですが、半島の倭人の領域にはR音はなかったのかも知れません。皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか?

 答えを出すつもりで書き始めたものの、返って混乱を深めてしまいました。

結局、「西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して・・・」とする柳田説をそのまま受け入れるならば、江戸期に入り始めて二里ノ松原とお上から命名された「ニリ」ノ松原を苦心惨憺のうえ「ニディ」ノ松原と発音し、いつしか虹の松原と書き呼び慣わすようになった。としておけば、これ以上、不必要に思い悩む必要はないのかも知れません。恐らく、これが正しいのでしょう。


なお、冒頭に書いた「延長八〜九キロにもなる松原」と兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたことに齟齬を感じられる方もおられるかも知れません。これは、山の針葉樹林化による土砂の流出の増大と不必要な埋め立て、堤防の建設の結果、海岸線が海側に出たことによるものと理解しています。

201191

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記