新ひぼろぎ逍遥@1051 佐賀県神埼市の櫛田宮は博多の櫛田神社とは性格が異なる神社 倉岡神社
202405028
太宰府地名研究会 古川 清久
以下は 、五月のスケジュール表の一部です。その最後のイベントが今回の話のテーマです。
5月26日 神社トレッキング「事代主のブログ」杉山宏治氏が案内する“佐賀県神埼市の櫛田宮を探る”
今回は、神埼市内の櫛田と併せ、市内の摂社数社を巡りました。その中の倉岡神社のリポートをしてみたいと思います。個人的には、同社は4度目の訪問でしたが、何度か行くと見落としていた部分に気付いたのでリポートさせて頂くものです。


2024年7月21日(日)佃 収 講演へ!
※テキストとして使いますので『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』を!
※ご注意ください! 駐車場が少ないためお困りの場合は
090-5477−5110牧野までご連絡下さい。
講 演 者: 佃 収 (埼玉県越谷市在住)
著書「古代史の復元@〜➇」外多数
日 時: 2024年7月21日(日)
13:00講演開始〜(12:30開場)
講演内容: テーマ:動乱の七世紀二人の女性天皇と額田大君
“「豊王権」の推古天皇、「上宮王権」の皇極天皇、「天武王権」額田姫王”
講演会場: 北九州市小倉北区北区大手町11−4 北九州市立男女共同参画センタームーブ093-571-2735
参加費 : 1000円 『早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)』佃 収を使います!

佃 収講演については、引続き丁己歴史塾と提携し実施します(年3回)。皆様のご協力をお願いします。佃収講演が行われる月は筑紫野市での太宰府地名研究会の月例会は休会とします。

今回は、「事代主のブログ」(杉山氏)の企画でしたが、櫛田宮、高志神社、白角折神社に加え倉岡神社、八天神社を巡りました。簡単に言えば、櫛田宮は櫛稲田姫の父方を祀る神社であり、博多の櫛田神社は、埴安姫(金山彦のお后)つまり櫛稲田姫の母神を祀る神社なのです。勿論、倉岡(スサノウ、櫛稲田姫夫婦神)も八天(金山彦=父神)も櫛稲田姫と関係のある神社なのです。これらが近隣に在るのです。
加えて言えば、急遽加えた白角折神社(日本武尊)も櫛稲田姫の娘(ナガスネヒコの妹君)の孫になるのです。今回巡った神社は全てこの一族を祀る神社であり、金山彦が同族として秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系の民族である事を考慮に入れれば、平氏(家)がイスラエル系と言われる事と符合するのです。読者でお近くにお住まいの方は是非参拝してお参りして頂きたいと思います。

倉岡神社は氏子の減少もあり少々草臥れていますが、貴重この上もない本物の神社なのです。

境内に置かれた「本荒神」の祠
意味がお分かりいただけるでしょうか?荒神様は山陰から日本海側に数多く分布していますが、製鉄神とも言われています。本荒神は恐らく長髄彦だろうと思います。
金山彦もコンチョン(工程)師(技術者)ですが、その孫に当たる長髄彦も同様だったと考えられます。しかし、神殿に置かれていないのは、神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)との衝突=確執と考えられそうです。この祠は長髄彦で良いと考えられます。4度目の訪問で気付くのは遅すぎますが、この神社の本質が見えて喜んでいます。
次に、神殿を見せて頂きました。始めは、金山彦と埴安姫様かとも思いましたが、「佐賀県神社誌要」141pを見ると、倉岡神社の主神として素戔嗚尊、櫛稲田姫とありますので、それで良いかと思います。
普通はお妃が左なのでしょうが、櫛稲田姫の方が格上でもあり、神埼は金山彦系であるため左になるのです(左大臣が上位ですよね)。

二段目に天照皇大神、天忍穂耳尊、申し訳程度に久々迺知神とあり、尊は付されていません。金山彦様です。天照皇大神よりも年嵩で、ましてや天忍穂耳尊という仰々しい名の草部吉見などより、遥かに格上なのにです。
天孫族とそれに与した耳付きの草部吉見=通称、春日大神の傲慢さはこの上ないですね。

境内には嵩高い大神宮様が置かれています。これは、金山彦様、素戔嗚尊、長髄彦を監視しているかの様にさえ見受けられるのですが、多分思い過ごしだろうとしておきます。

では、ここで百嶋神社考古学の立場から櫛田宮の祭神を見ておきましょう。
神埼の櫛田宮は櫛稲田姫の父神系統の神社であると言う事は既に申し上げていますが、元々は熊本県山鹿市の大宮神社を中心とする製鉄集団が佐賀県東部の海岸部に移動してきたと考えています。
そもそも素戔嗚尊がアシナヅチ(金山彦)とテナヅチ(博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神=カミムスビの妹神=埴安姫)に護られながら泣く櫛稲田姫と出会ったのは現菊池川(肥の国)の近くだったと考えています。そして、ヤマタノオロチ(大山祗の一族)を退治した場所も同地だったと考えています。
百嶋由一郎氏はこの菊池川の流域の大地主の一族であった事から、この一帯の重要な神社に伝わる社伝を宮司家から全て聴き取り把握され生の情報を得ておられたのでした。
これ以上は申し上げられませんが、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であった吾平都姫(アイラツヒメ)後の蒲池姫も櫛稲田姫も山鹿市の某神社、外で丁重に祀られているのです。決して出雲で起こった事ではないのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
神埼は平家の全盛期に於いて日宋貿易の最大級の貿易拠点でした。「世界史の窓」から日宋貿易を覗いてみましょう。福原遷都から平家は躓きますが、正式な貿易拠点は博多でしたが、神埼も非合法ながらかなり大規模な貿易拠点だったのです。
南宋と日本
12世紀に有力となった女真が金を建国し、華北・東北アジアに帝国を作ると、宋は1127年に江南に逃れて南宋を建国、金の圧力に抗しながら、海上での交易は盛んに行った。高麗も同じく金に圧迫されながら、1170年に武人政権を成立させた。この様な東アジアの変動の中で、日本では保元・平治の内乱を経て平氏政権が成立し、平清盛は1167年に太政大臣となった。
平清盛の日宋貿易
(引用)平氏の権力の基盤は西国に拡大し、瀬戸内海周辺の大半の諸国が知行国となり、摂津国福原(神戸市兵庫区)を拠点にして海港大輪田泊を修築、安芸国厳島神社を氏神として海上路を完全に抑えた。既に平氏は日宋貿易の基地、有明海に面する院領の肥前国神埼荘を知行していたほか、清盛は太宰府長官になって九州統治のかなめを押さえた。・・・清盛は、政情の不安な高麗は避けたものの、宋との貿易には熱心であった。1170年には、後白河法皇を福原の別荘に招いて宋人との面会を実現したほどであり、唐船や宋商人が福原や博多にさかんに渡来するようになった。<大江一道『地域からの世界史18・日本』朝日新聞社 p.88,94>
宋からの輸入品:宋銭、香料、薬品、陶磁器、織物、絵画、書籍など。
日本からの輸出品:金、銀、硫黄、水銀、真珠、工芸品(刀剣・漆器など)。
金は奥州に産出する砂金が平泉と京都を結ぶルートで運ばれ、さらに宋に運ばれた。次の元の時代に、この話がマルコ=ポーロに伝えられ、『東方見聞録』の記事となった。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
300 | 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦” |
299 | 大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも 山幸と豊玉姫が…” |
298 | 大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も 天宇受賣命を祀る古社” |
297 | 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は 猿田の意味を知っていた” |
296 | 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?” |
295 | 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と 安心院の佐田神社 再掲” |
294 | 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の 経津主も猿田彦大神なのです” |
293 | 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“ |
292 | 大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“ |
291 | 大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“ |
290 | 大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて” |
289 | 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから” |
288 | 大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて” |
287 | 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の 櫛田神社の主神の大幡主の子であった” |
286 | 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と 菊鹿町「吾平」のウガヤフキアエズ陵” |
285 | 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と 猿田彦大神” |
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
281 | 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か? |

この二つのパワー・ポイントは共にこの神埼一帯と濃厚な関係がありあります。
両方とも300〜500シート近くあるのですが、この倉岡神社のある広滝地区は、熊襲 猛=河上 猛を誅殺したとされるヤマトオグナ(後の日本武尊)に実際はこの広滝の地で許され、川上 猛は背振山を越え福岡市早良区某所に入り、現在もその一族は纏まって住んでおられます…と言ったのは故)百嶋由一郎氏でした。この場所もその名も分かっていますが、この方々に申し訳なく思うのでと私達にも伝えずに亡くなられてしまいました。ただ、何とかしたいと考え、かなり調べ、この事は概略分かっているのです。
特に、川上‐3では、その後の猛の一族は、大分県の豊後大野の一族となり、「平家物語」にも登場する祖母山の豊玉姫の使いの大蛇の子の大神惟基となり、その後裔の大神惟栄は、源平合戦に絡み、宇佐神宮焼き打ちを行い、義経を受け入れ頼朝と一戦を構えるために岡城(荒城の月)実は大神城を造ったと言われているのです。
そのような大きな政治的変動期に関係する地がこの佐賀から背振、神埼の地だったのです。
最低でも、川上 猛の墓が佐賀市の川上峡に注ぐ嘉瀬川の付近に存在したと言う話が佐賀市に吸収合併された旧大和町の町史や健福寺と言う寺の寺の記録にも残っているのです。
パワー・ポイントを必要とされる方は090-6298−3254までご連絡ください。