2026年04月15日

新ひぼろぎ逍遥1126 松浦党の起源を探る ⓰苧扱川(オコンゴウ)20110701(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1126 松浦党の起源を探る 苧扱川(オコンゴウ)20110701復刻版)

                        無題.png  20250813

太宰府地名研究会 古川清久

                     

苧扱川(オコンゴウ)“久留米の街中を苧扱川が流れる”20080314 (20110701改版)

無題.png

長崎県の南部、島原半島の先端といえば、有明海の出口、早崎ノ瀬戸、瀬詰崎灯台などが頭に浮かぶ旧口之津町(現南島原市)となりますが、その岬の中ほどに苧扱川(おこんご)と呼ばれる奇妙な地名群があります。

 昭文社の『県別マップル』長崎県広域・詳細道路地図などでも直ぐに確認できますので、まずは地図を見て頂きたいと思います。

 かつて口之津といえば、上海向けの石炭の積出港として、また、“カラユキサン”を送り出した外洋船の出港地(寄港地)として、さらには、戦前、戦中、戦後を通じて海国日本を支えた多くの船乗りの養成を行なった海員学校があった町としても有名でしたが、今や、その華やかさは衰え、ただただ、天草下島に向かうフェリーの出船場としての存在だけを主張しています。

 しかし、百年前、この地には国際貿易港として目も眩むばかりの繁栄が確実に存在していたのです。

さて、口之津港に深入りすると先に進みませんので、この話はこれまでとしましょう。興味をお持ちの方は長崎県下でも最も資料の充実した歴史民俗資料館に足を向けられる

事を望んでやみません。

 話を元に戻します。五年ほど前でしたが、いつものように地図を眺めていると、ひらがなで「おこんご」と書かれている地名があることに気付きました。その時は単に変な地名と思っていただけでしたが、その後、資料館を訪問した際に館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の西光知巳氏による「オコンゴ考」という論文があることを知ったのです。


   …口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊郭があった所としても知られている。口之津の字界図を見ると、早崎名(みょう)と町名(みょう)の間の小さな川が流れ「苧扱川」とある。これをオコンゴと呼ぶらしい。

「口之津史談会」創刊号

これについては、最後に全文を掲載しておりますが、実はこの地名が久留米の中心街、それもまん真中にもあった(ある)のです。

西鉄久留米駅付近は南北に国道3号線が、国道209号、322号線が東西に交差する文字通りの中心地ですが、久留米井筒屋から西鉄久留米駅に向かう209号線の少し南を東から西に流れる川があり、池町川と呼ばれています。

現在は筑後川からポンプで汲み上げられた水が流され、いわば、造られた「癒し」の河川空間が演出されているのですが、今や、六つ門町から東町という官庁街、商業地、歓楽街になじみ、趣味ではありませんが、それなりの調和を得ているようです。       

さて、「おこんご」です。この池町川が、かつて、苧扱川(おこんがわ)と呼ばれていたといえば皆さんは驚かれるでしょうか。

もちろん、千数百年前の古文書に書かれていたなどといったものではなく、少なくとも父祖の代程度の話で、私達でも十分に辿れる時代のものなのです。

「おこんご」と「おこんがわ」は多少異なるようですが、あまり使われない「苧」という難しい文字と川の表記が一致する事から、同一起源の地名であることは、まず、間違いないでしょう。

一般的に九州の西岸部(長崎、佐賀、熊本、鹿児島…)では、川を「コウ」「ゴウ」と呼ぶ傾向が認められます。佐賀でも、谷川をというよりは、さらに急峻な滝に近い渓流を「タンゴ」、「タンゴー」、「タンゴウ」などと呼びますが、このことは、川内を「こうち」と呼ぶこととも対応しているようです。


こうち

【川内・川内】

(カハウチの約。後に、「かうち」「かはち」とも)川の中流に沿う小平地。一説にカハフチの約で、川の淵(ふち)。万葉集(1)「山川の清き−と」

(広辞苑)

この池町川(苧扱川)は、本町付近で国道209号線を北に横断し再び西流しますが、この付近にかつて鉄道の駅があり、その駅名が「苧扱川」だったといえば、思い出される方もかなりおられるのではないでしょうか。


市の中心部を貫いて流れる池町川。
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
 この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。
池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。
 城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。


市のHP「ふるさと再発見」


もう少し詳しくお話しましょう。久留米には明治の末から昭和四年ですから満州事変が勃発する頃まで、筑後川沿いの豆津から日田の豆田まで走る軽便鉄道が走っていました。

もちろん軽便鉄道ですから、元々の狭軌である日本の一般的鉄道よりもさらに狭いナロー・ゲージです。

〜荘島〜苧扱川〜日吉〜となれば、地元の方であれば、その場所については直ぐに見当がつくことでしょう。苧扱川の停車場はちょうど現在の みずほ銀行 久留米支店 辺りになるようです。

現在、久留米から日田に向かう久大線はJR久留米から南に回り東に向かいます。

この新線が建設される前の時代を支えた全く別の鉄路があったのですが、その前身は吉井馬車鉄道です。後に筑後馬車鉄道と変わり、筑後軌道株式会社というかなり九州でもかなり大規模な鉄道会社に発展したようです。

筑後軌道株式会社は、明治三十六年に吉井と田主丸間で運行を開始し、久大線の開通に併せ昭和四年に幕を閉じています。

 筑後川左岸の加ヶ鶴トンネルも、現在、国道に転用されていますが、元は、この鉄道の路線だったようです。

この鉄道や苧扱川停車場(ステーション=明治に“ステンショ”と呼んだのもそうでしたが、停車場はやはり懐かしい表現ですね)などについてはこれ自体をテーマとして調べたくなります。それは興味を持たれる方にお任せして、誤りを怖れずオコンゴの意味に踏み込みましょう。まず、「苧」は音読みで「ジョ」「チョ」、訓読みで「お」「からむし」となりますが、最後の「からむし」については、明確な意味があるようです。

まず、繊維を採るため、「お」たる「苧」を扱ぐ川であることから「おこんごう」と呼ばれたことは間違いないでしょう。


から・むし

【苧・枲】

…イラクサ科の多年草。…茎の皮から繊維(青苧(あおそ))を採り、糸を製して越後綿などの布を織る。木綿以前の代表的繊維で、現在でも栽培される。苧麻(まお・ちよま)                         (広辞苑)


久留米はいうまでもなく“くるめ絣”で有名な繊維生産地でした。筑後川の対岸北野町には七夕神社(無論、織姫、彦星は織女と牽牛でしたね)があることも決して関係なしとはしないでしょう。私は、紡績、織布を目的として、この川で“からむし”を水に曝していたのであり、その痕跡地名と考えています。また、西光氏による「オコンゴ考」もそのような趣旨で書かれています。曰く、…


…苧扱川、この川で、苧(からむし)の皮を扱ぎ、晒して作った繊維で(糸で)布を織って衣服とし、綱を作って魚をとり、船をもやう綱も作ったであろう。…


もちろん、これは、「オコンゴ考」を書かれた西光氏という先達があってのことであって、改めて氏の慧眼に驚いています。皆さんも機会があれば、口之津の“おこんご”を訪ねられてはいかがでしょうか?付近には島原の乱の原城址、瀬詰崎灯台、早崎漁港の大アコウ群落…と多くの景勝地があり、島原ソウメン第一の生産地、須川の“にゅうめん”も食べられます。

四国の香川県に「苧扱川」という河川があり、鹿児島にもこの地名があるようです(これについては確認していませんのでなんともいえませんが…)。これら、他の苧扱川地名の周辺調査を進めれば、語源、地名の起源についても、さらに明瞭になってくるでしょう。

また、私の住む佐賀県でも、伊万里市原屋敷の大野神社の参道が「オコンゴ」と呼ばれていることもお知らせしておきます。十年前までは和紙が生産されていたことは確認しています。


ここに久留米地名研究会メンバーが運営するHPがあります。

「山への旅(シリーズ)」です。本人の牛島氏からは了解をとっていますので、「おこんごう」のその他の分布について書かれたものがありましたので、必要な部分だけを使わせて頂きました。

  

7回 苧扱川という地名無題.png


九州地方: 

@苧扱川“おこんご”(島原、口之津)

A苧扱川“おこん川”(久留米市)

B麻扱場橋“おこんば橋”(熊本、南関)

C苧扱川“おこぎがわ”(熊本、合志)

D苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)  2010.1.11up


@  おこんご”(島原、口之津)    

島原、口之津歴史民俗資料館 資料より         旧税関跡を整備した資料館写真:牛島稔大(2009/7/31

口之津、苧扱川“おこんご”遊郭:    

A  おこん川”(久留米市)        

広報くるめ No.1102 2004.2.1 |ふるさと再発見|ふるさとの歴史を伝える池町川 より

市の中心部を貫いて流れる池町川。

西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。

この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。

苧扱(おこん)川公園: 福岡県久留米市梅満町543−1


その他の“おこん川”


山口県下関市王子地区(地元の人たちが「おこん川」と呼んでいる小川):

山口県防府市大字江泊(おこん川は、徳山領(富海村)と三田尻宰判(牟礼村)との藩境):

長崎県五島市岐宿町(福江島岐宿町名物・おこん川かかし祭り):


B  おこんば橋”(熊本、南関)         


麻扱場(おこんば)橋  


おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年にほ場整備にともなう河川改修により、解体撤去のやむなきにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。建造年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残念ながらわかっていません。
橋名は、昔内田川で麻のさらしが行われていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。おこんば橋は、やむをえず移転復元されましたが、これからもずっ無題.pngと町の文化財として大切にしていきましょう。



福岡県八女市黒木町木屋字苧扱場


C“おこぎがわ”(熊本、合志)         

広報こうし 平成197月号(第17号)より。

平成1510月に発見された史跡豊岡宮本横穴群の整備が、今年3月に完了しました。

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横穴とは、がけ面に横から穴を掘ってつくられたお墓です。この豊岡宮本横穴群は、古墳時代後期(約1500年前)の有力者の家族墓で、約9万年前の阿蘇山噴火による火砕流でできた凝灰岩の岩盤につくられています。合志市豊岡の竹迫日吉神社北側にあり、正面にはホタルの住む塩浸川(苧扱おこぎ川)が流れています。

写真は、記事とは別に牛島稔大(2004/9/25撮影)。・・・これは省略しています。古川

 D苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)     

高屋町(たかやちょう)旧高屋郷高屋村。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

七宝山山麓で、苧扱川(うこくがわ)が流れる、田園地帯。稲積山高屋神社では春に高屋祭りが行なわれ、満開の桜とちょうさのコラボレーションが見られる。----> 現地の人の呼び方は、“おこく”のようです。

おこんご関連連地名

長崎県西海市西彼町白似田郷字苧漬川     

佐賀県嬉野市岩屋川内字苧漬川(おつけごう)

大分県国東市国東町岩戸寺字葛原苧着場(おつけば) 

大分県国東市国東町来浦苧畑(おばたけ)大分県国東市安岐町富清苧畑(おうばたけ)  

大分県国東市小畑  大分県大分市賀来小畑

大分県日田市大山町西大山小切畑(おきりはた)大分県日田市大山町東大山字小畑(おばたけ)大分県日田市小畑大分県臼杵市小切畑

大分県豊後大野市小切畑

熊本県山鹿市小畑

宮崎県えびの市苧畑宮崎県延岡市小切畑

宮崎県東臼杵郡門川町小切畑宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町小切畑

兵庫県丹波市春日町棚原 苧漬場(おつけば)の池

京都府宮津市中津(京都府与謝郡栗田村中津)字苧漬場

福島県南会津郡只見町大字田子倉字芋(苧)漬場(オオアザタゴクラアザオツケバ)

山形県酒田市泥沢苧漬場山形県酒田市苧畑

山形県東田川郡庄内町大字廿六木字苧漬沼、字苧漬台

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皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。

遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地

である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです。

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長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。

一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。
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早崎の瀬戸の先端 瀬詰崎灯台、向こうは天草下島


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。


婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。


稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)

http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/wazin.htmを参照されたし。

もう一つ補足の意味でご紹介します。宿敵安本美典系のサイトから…(ほんの洒落ですが)。


其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與擔耳朱崖同

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_gen.htmを参照されたし。

その風俗は、淫(みだら)でない。

男子は、みなみずら(の髪)(冠もなく) ()している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。

婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。

作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)


禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm を参照されたし。

古代史、それも、九州王朝説(論)に地名の話を持ち込みましたが、当然にも奇異な感じをお持ちになった方もおられたことでしょう。   

そろそろ、それに何らかの決着を着けなければなりません。久留米地名研究会を十人足らずで始めた実質的な第二回目の会合において、「久留米市街地にオコンゴが流れる」を取り上げました。非常に間の抜けた話なのですが、その頃になって、このオコンゴ=苧扱川の「苧」(チョマorオ)がいわゆる『魏志倭人伝』に出ていたことに気づいたのです。

もちろん、“倭の水人が好んで潜水し魚貝を採る”など倭人の風俗に触れた部分なのですが、女が貫頭衣を着ているとした後に、種禾稲紵麻…出細紵(稲チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ)と書かれているのです。

当時の研究会でも久留米の池町川と有明海の出口にあたる島原半島の口之津に同じオコンゴという地名があり、久留米がかつて繊維産業(久留米絣)の中心地であったことを考える時、いわゆる倭人伝に書かれた文字がそのまま残る両地が、また、同時に倭人の棲む土地であったことを意識したのです。


私も九州王朝が卑弥呼の国の後継国家であることを疑わない一人なのですが、このオコンゴ地名の分布を考える時、その分布が有明海沿岸に集中し、分布領域の中心部に位置していることに気付くのです。もちろん、地名はその成立時期を特定することが、ほぼ、不可能な上に、サンプルの絶対量が少ないことから、何の根拠にもならないとお考えになるかもしれませんが、神籠石、真珠、絹、鉄の分布に加え、正確に拾い出し作業を行なえば、複数の地名複合の対応などにより何らかの示唆を得られるのではないかとも考えています。

実際、絹の分布を考える時、それほど絶対量が多いわけでもないのですし、考古学の世界では纏向遺跡のようにたった一つの発掘例で卑弥呼の時代のものだなどと決め付ける愚か者の学者や大新聞があるのですから、それで良いとは言わないものの、無視されるほどの物でもないように思います。


口之津の高良山神社について


私は20103月まで口之津史談会に入っていましたが、同会の平 一敏氏が書かれた「口之津の神社総覧」を頂き読ませていただきました。その中に高良山神社が出てきますのでご紹介しておきます。

このような小冊子でも同様ですが、その地域で重要な神社、信仰を集める神社は先頭に掲げられます。ここもその例にもれず、口之津湾の裏山とも言うべき富士山(190m)山頂に鎮座する富士山神社に次ぐ二番目に高良山神社が掲載されています。


唐人町の裏山、高良山に建つ3棟の社殿、御堂によりなる。昔の鎮守の杜の面影をそのまま残す姿の美しい神社である。向かって左は金比羅宮、有翼の像を祀り潜伏キリシタンの信仰をも思わせる。右は大師堂、島原半島版鎮西八十八ケ巡りの第17番札所となっている。 (古川:以下省略)


平氏もその由来などはほとんど知られていないとされながらも、「ただ有家町木場に同名の神社があり、創建の由来もはっきりしている。同社は島原の乱の後の慶安4年(1651)、筑後吉村から移住してきた末吉氏が故郷の高良神を勧請してきたもので、…(中略)…唐人町の高良さんも、その名称からして同様の経緯で創建されたものとみてほぼ間違いない。すなわち、島原の乱後、すっかり荒廃したこの地に筑後周辺から来た移住者が、高良大社から勧請、創建したものであろう。」とされています。

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私は木場の高良神社(有家町堂崎)も、複数回に亘り注意深く見てきました。平氏の説には敬意を払いつつも率直に言わせて頂ければ、木場は全くの開拓集落であり、名称も玉垂宮(旧字ですが)と異なることから、埋立の進んだ口之津港湾奥の一等地とも言うべき地にある同地の一の宮とも言うべき神社が、新参者の外地からの移住者によるものとの説には容易には同意できかねます。まず、金比羅とのセットであることが、九州王朝との関係が揶揄される宮地嶽神社と同じであり、背後に聳える富士山神社(祭神は言うまでもなく木乃花佐久耶媛でこれまた九州王朝との関係が濃厚であり、もしかしたら、「フジ」と言う地名も東海に持ち出されたものかも知れないと考えています。)も天長3年(826)という古い時代に富士山浅間(せんげん)神社から分祀されたものとの伝承を考え併せれば、九州王朝との関係を否定できないと考えています。

なお、有家町堂崎の高良玉垂神社については、「木場の高良さんの祭り」(『有家風土記』)という伊福芳樹氏による詳細なリポートもあります。また、付近の六郎木地区には同町(当時)教育委員会で神籠石ではないかと言われる未調査の遺跡があることもお知らせしておきます。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年04月12日

新ひぼろぎ逍遥1125 松浦党の起源を探る ⓯ 続々 阿 漕(アコギ)20101012(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1125 松浦党の起源を探る  続々 阿 漕(アコギ)20101012復刻版)

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太宰府地名研究会 古川清久

姫 戸

阿漕的仮説  さまよえる倭姫 の掲載について


はじめに


水野代表による「阿漕的仮説」さまよえる倭姫をお読み頂いたものと思います。か

なり分かりにくく、容易には理解し得なかったかと思いますが、話の一端でも理解された方はかなり驚かれたことと思います。

「阿漕的仮説」にも出てきますが、かつて、日量六〇万トンとまでいわれた球磨川の伏流水にしても、山の破壊(針葉樹林化)、側溝から都市の小河川さらには駐車場のコンクリート化などによって、圧力、水量ともに減退し、恐らく半減から、もしかしたら、現在は見る影もないほどまでに減少しているのではないかと危惧するものです。

それはさておき、水野代表による「阿漕的仮説」は非常に魅力的です。私は九州在住の同会会員として僅かなお手伝いをさせて頂いたわけです。上天草市の姫戸町を訪れ、姫浦神社、姫石神社、永目神社、二間戸諏訪神社などの宮司を兼ねておられる大川定良氏からもお話をお聞きしてきました。


「倭姫命世紀」


そもそも、「倭姫命世紀」は鎌倉期に成立した書物であり、水野氏も書かれているとおり、「倭姫命世紀」を信じる人が多くて困るといった話があることも十分承知しています。しかし、この話は倭姫命が御杖代として天照大神の鎮座地を探すというものであり、別名、元伊勢神社と言われる京都府宮津の籠神社があるように、まさしく、さまよい、最終的に伊勢の“五十鈴河上”に辿り着くというものです。このため、このルートを探るマニアもいて、どこそここそがその場所であるといった話が飛び交ってもいるようです。

しかし、まず、日本の神々の最高神にまで高められた天照大神の最終的鎮座地が、なぜ、伊勢でなければならないのかさらには、それは、なぜ、大和王権の膝元の大和などではいけなかったのかという事など、考えれば多くの謎があります。

従って、天照大神のルーツが対馬小船越の阿麻底留神社とすると(「船越」参照)、いつかの時点では、九州に元々伊勢神社とでもいうべきものが存在したのではないかという仮説、また、大宰府と久留米の中間に位置する小郡市水沢(ミツサワ)の伊勢山神社、伊勢浦地名は何なのか(いずれも宝満川の支流の側に位置する)、さらには小郡市大保の御勢大霊石神社(ミセタイレイセキジンジャ)が地元では伊勢(イセ)大霊石神社と呼ばれているのは何故かといった興味深い問題が横たわっています(大分県の耶馬溪町や玖珠町から鹿児島県などにも伊勢神社、伊勢山神社・・・があります)。 

水野氏は「倭姫命世紀」に登場する七つの島を断定まではされていませんが、一応、不知火海の大築島周辺の島に比定されたものと思われます。それを前提にお話しいたしますが、国土地理院の地図によると、大築島周辺には大築島、小築島、黒島、箱島、その箱島の独立礁に根島を併せた六島(いずれも一.五キロ程度の範囲にかたまっている)と、二キロほど離れた場所に船瀬がありますので、七つの島という事は、一応、可能かもしれません。 

対岸の天草上島の姫戸を宮地として神饌の調達先を球磨川河口とするならば、ちょうど中間に位置する大築島が第一候補であるのは当然でしょう。

ただ、私は、水野説に反旗を翻すというわけではありませんが、八代は古代において、干拓地などはなく、球磨川左岸では、奈良木神社がある高田(コウダ)周辺が陸化していた程度ではなかったかと考えています。このため、現在は埋立や干拓が進んで陸地になっている八代の中心街の陸地にも、かつてはかなり小島が存在していたはずなのです。

具体的には球磨川右岸の大鼠蔵(オオソゾウ、標高48m)、小鼠蔵(コソゾウ、同、35.3m)、現在、球磨川の三角州に流れる南川と前川に挟まれた麦島(ムギシマ、中世に麦島城が存在した)、八代市街地の西側の干拓地にかつて存在していたと考えられる白島(同、18.7m)、高島(同、32.8m)大島(松高小大島分校がある)、それに万葉集に歌われた水島(同、5m程度)の七島を比定する事もやろうと思えばできるのではないかと思えます。これらの小島は縮尺の大きな地図であれば現在でも地名として確認できますので、興味のある方は試みて下さい。結局、「倭姫命世紀」の解読、科学的検証といった事が重要になってくるのですが、その間にも大築島周辺の浅海は確実に埋立られ続けているのです。


姫浦神社と姫石神社


天草に釣りに来る度にこの姫戸に足を踏み入れていたために、永目神社、姫浦神社の存在には気づいていました。ただ、姫戸という地名と姫浦神社には関係があるのではないか(姫戸は姫浦の門)といった程度の感想しか持っていませんでした。このため、ここを通ると、かつては、この神社の真下まで海が入っていただろうし、まさしく姫浦の地形をしていたのではないかなどと考えていました。今回、「阿漕的仮説」が発表され、にわかに調べる必要を感じたものです。実際、姫石神社の存在に気づいたのも昨年の事(脱稿は〇五年中)でしたが、その時も、なぜ、姫浦神社の直ぐ傍(二百メートル程度海岸寄り)にこのような神社が存在するのかと奇妙に思ったものでした。もちろん、この謎はいまだに解明できないのですが、上宮、下宮といったものではなく、やはり、別の神が祭られていたのです。

八月から九月にかけて、教育委員会から姫浦神社の宮司を教えていただき、ご連絡したところ、快くお教え頂き大変有難たかったのですが、いかんせん、ほとんど記録が残っておらず、僅かに祭られている神々の名が確認できる程度でした。以下は神主(宮司)から聴き取らせて頂いたことと、五十年ほど前の神社庁への届け出によるものです。

 姫浦神社    : 神武天皇、天照大神、神八(カミヤ)井耳(イミミ)(ノミコト)、阿蘇一二柱

 姫石神社    : 若比(ワカヒ)()*(ノミコト)口羊*は口の右に羊(メと読む)

 永目神社    : 姫浦神社に同じ

 二間戸(フタマド)諏訪(スワ)神社 : (タケ)御名(ミナ)方神(カタノカミ)、八坂刀賣神、外十五柱神


 とりあえず、姫浦神社が伊勢神宮の原初的な形態を留めているとするならば、天照大神が主神とされていることから、水野仮説の一部は裏付けられた事になったわけです。

 さて、水野氏は、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。とされていますが、私は元々三重県津市の阿漕ヶ浦という地名が、現在はアコウの木が生えていないものの、かつてはアコウが存在した場所、百歩譲っても、そこからの移住者によって持ちこまれた地名なのではないかと考えたのです。ところが、驚くことに、氏はこの阿漕ヶ浦の話を伊勢遷宮伝承と関連付け、伊勢もアコウの木の生える地域つまり筑紫島(九州)の領域からの移設(氏は移築とされていますが)されたのではないかと考えられたのです。私も相当に天邪鬼な方ですが、水野さんはさらに上手で、実に柔軟かつ、大胆な発想、思考をされる方と、驚きも感服もしたところです。多分、水野氏のお考えでは、津市の阿漕ヶ浦にはアコウの樹は生えたことはなく、逆に、伊勢神宮の方が動いて来たのだと考えられているのでしょう。こうして、私の「阿漕」(阿漕地名仮説)は水野「阿漕的仮説」の前に脆くも崩れ去ったわけです。

最後に、水野代表は「しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。」と書かれておられますので、この点にふれておきます。

   (2)味島神社 谷所 鳥坂

鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した。」      (塩田町史)

とあります。

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おわりに


倭姫命を祭る神社は全国的にも佐賀県嬉野市の旧塩田町にしかないことから、それだけでも伊勢神宮や淡海が本来は九州にあったのではないかと思うものです。さらに、「淡海」が不知火海であれ、古遠賀湖であれ、琵琶湖とされた『万葉集』の舞台が九州であったという可能性に興味は尽きません。

私は伊勢神宮の前史としてアコウが生茂る九州南半に鎮座ましましていた時代があったのではないかと想いを巡らしています。

さて、伊勢神宮が現在の地に落ち着くまでには、元伊勢をはじめとしてかなりの前史があることが知られていますが、もしかしたら、この神社も九州から持ち出されたのではないかという疑問が付きまといます。そういうわけで、本稿は九州の南半分に分布するアコウという印象的な海岸性樹木、阿漕、赤尾、赤木・・・といった地名に関係があり、伊勢の阿漕ケ浦もその一つではないかという問題に答えようとするものです。

大字

小字

長崎

対馬

上対馬町

大浦

アコウ

長崎

南高木郡

国見町

松尾郷

アコキ山

長崎

南高木郡

国見町

長峰郷

アコギ山

長崎

南高木郡

国見町

長峰郷

アコギノ下

長崎

南松浦郡

奈留町

船廻郷

阿古木

長崎

南松浦郡

奈留町

船廻郷

後阿古木

長崎

西彼杵郡

大瀬戸町

松島内郷

アコノ谷

長崎

南松浦郡

岐宿町

川原郷

阿古木

佐賀

東松浦郡

肥前町

田野

阿漕

現在、九州古代史の会のメンバーで写真集も出されている松尾 紘一郎氏(糸島市)との共同作業により、“明治15年全国小字調べ“から太宰府地名研究会でとりあげた「釜蓋」「永尾」地名の拾い出し作業を行っています(本題から逸れますが想定古博多湾、古遠賀湾から夥しい釜蓋、永尾地名を発見しています)。

実はこの作業の副産物として、これまで把握していない「阿漕」地名も発見しています。


まだ、類例も少なく決定的なことは言えませんが、予想していた通り北部九州には分布していないようです。例外は対馬海流が洗う壱岐、対馬です。このことをもってしてもこの地名がアコウの分布と重なり、南方系の漁撈民によって付された地名であることを示しているように思います。この作業の延長に何らかの発見が出てくるかも知れません。
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2026年04月09日

新ひぼろぎ逍遥1124 松浦党の起源を探る ⓮ 続 阿 漕(アコギ)20101012(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1124 松浦党の起源を探る ⓮  阿 漕(アコギ)20101012復刻版)

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太宰府地名研究会 古川清久


  「アコウ」 クワ科の亜熱帯高木で暖かい海の海浜に生育します。愛媛県西宇和郡三崎町三崎と佐賀県の東松浦半島に位置する東松浦郡肥前町高串の“阿漕”地区が北限とされています。それほど多くはないのですが、九州の南半分の島嶼部を中心にかなりの数のアコウが海岸部に自生しています。

〇〇「義太夫」 室町後期に発生した古浄瑠璃に三味線が加わり江戸期に発展した浄瑠璃には江戸、上方あわせて数十の流派が形成されますが、元禄期の竹本義太夫と近松門左衛門らによって大流行した人形浄瑠璃の義太夫節を特に「義太夫」と呼ぶようになり、さらに関西の浄瑠璃を特に義太夫と呼ぶようになったようです。常磐津、清元、新内節もそうですが、私は義太夫と言えば、上方落語の「どうらん幸助」の影響からか、最近、特に好んで聴くようになりました。「柳の馬場押小路、虎石町の西側に主は帯屋長……(長衛門)」(「特選 米朝落語全集大二十二集」の台詞で有名な浄瑠璃の「お半 長衛門」(オハンチョウ)を思い出してしまいます。

さらなる展開


多少ともアコウと阿漕地名との間の関係について理解して頂けたかと思います。

しかし、話はここから新たな展開を見せるのです。古田史学の会代表である水野孝夫氏は、この小論から「阿漕的仮説」(会報69号)という驚くべき仮説を引き出されたのです。詳しくは同会の会報か私が主催するホーム・ページ「アンビエンテ」のリポート106107号外を読まれるとして(こちらは写真、地図、図表も見ることができます)、『万葉集』に登場する淡海は琵琶湖ではないという議論は、当時、古田武彦氏をはじめとして、万葉集の研究者の間でもかなりの広がりを見せていました。

この議論の中で、古田史学の会の“神様の神様”と言われる西村秀巳氏は『倭姫命世紀』という鎌倉期の文書から“淡海=球磨川河口説”を提案されたのです。そして、ここに注目した水野氏が、伊勢神宮もこの球磨川河口域から移されたのではないかとされたのです。

一方、『古事記』の探求を進められた九州古代史の会の庄司圭次氏は、『「倭国」とは何か』所収の“「淡海」は「古遠賀湖」か”で“淡海=古遠賀湖説”を展開されており、会としても同地が淡海であると考えられているようです。さらに、これがいわゆる新北津論争にも多少の影響を与えているのかも知れません。

ともあれ、まずは、水野代表による「阿漕的仮説」とその解題とも言うべき拙稿「姫戸」を読んで頂きたいと思います。

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長崎県南島原市口之津町早崎漁港のアコウ群落


「阿漕的仮説」さまよえる倭姫 “八代〜大築島〜天草”

(古田史学の会会報 NO69 掲載論文)


 古田史学の会代表 水野 孝夫(奈良市)


この報告は、文献に現われる「阿漕」「淡海」「倭姫」をキーワードとして、「伊勢神宮も九州から移築された」と考えたいという仮説である。

『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』、河合隼雄・中西進・山田慶児・共著@ という本がある。学術書というわけではなく、この表題は、出版社が人目を引くために付けたのだろうが、こんな無茶なことを、これだけの学識経験者に言ってもらっては、困っちゃうのである。しかも、鯨についてなにか論証してあるわけではなくて、「(鯨は)日本の名前だと勇魚(いさな)でしょ?勇ましい魚。「勇魚捕り」なんていう枕言葉にもなって、琵琶湖を修飾するのに使われている。これは「鯨だって捕れるほど立派な琵琶湖」という表現です」。という、座談会での放言だけから採られている。

根拠の歌、万葉集02/153 原文。

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

この歌は別に琵琶湖の立派さを歌っているわけではない。


木村賢司氏は「夕波千鳥」という会報論文Aで、「琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない」とし、博多湾を淡海の候補とされた。

古田武彦氏はこれを受けて、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされたB

梨田鏡氏は「鯨のいない海」Cで考察を加え、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、その候補地を「會見の海」(鳥取県美保湾)とされた。


このころに西村秀己氏は「淡海」という語句を探して『倭姫命世記』という文献(続群書類従巻三所収)に出会われたのである。『倭姫命世記』は、倭姫が天照大神(ご神体の銅鏡)の居所を求めて近畿地区をさまよい、遂に伊勢の度会宮(伊勢神宮)に落ち着かれる経過の話である。ここには「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いから淡海浦という)の語があり、西村氏も「淡海は淡水の琵琶湖ではありえない」と考えられたのであるが、地名の音あてはされていない。


倭姫について簡単に見ておこう。倭姫という人物は垂仁紀では皇后・日葉酢媛命から生まれた第四子である。崇神紀三年「都を磯城に遷す、これを瑞垣宮という」。同六年「是より先に天照大神・倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿のうちに並び祭る。然して其の神の勢いを畏れて共に住みたまふに安からず。故に天照大神を以て豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。(中略)亦、日本大国魂神を以てはヌナキ入姫命に託して祭らしむ」。天照大神は宮中から出され、豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭られたのだが、垂仁二十五年「天照大神を豊鋤入姫命から離し、倭姫命に託す」ことになり、倭姫命は大神の鎮座地を求めて兔田、近江国、美濃をめぐり伊勢国に着き、神の教えによりここに宮を建てて落ち着く。『古事記』にはこの放浪譚はなく、倭姫命はいきなり伊勢神宮の斎宮として紹介される。古田史学の立場で考えるならば倭姫は「チクシの姫」のはずである。


『倭姫命世記』は伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、天地開闢から伊勢神宮の神寶の由来、これが伊勢神宮に収まった経過を追っているので、全文一万字程度の短いものであるが、大部分は倭姫命の放浪譚である。

その内容は『日本書紀』よりは格段に詳しいので、笠縫邑を出発してから、どこそこに何年間おられ、次はどこ・・・と伊勢到着までを追跡できる。この行程表や地図を掲載した本が多く出版されており、これを追跡する古代史ファンもあり、ここが伝承地とする神社等もある。当然ながら「書紀の知識をもとに」読まれていて、近江国を通るのだから琵琶湖畔にも伝承地が多い。しかし理解困難な宮名もある。伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホーム・ページによると「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」と言われている。


続群書類従では、全文漢字なので読みにくいが、籠神社の宮司だった海部穀定(あまべよしさだ)氏の著書D、岩波・日本思想大系19Eには読み下し文がある。これによると、倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」。但し氏はこの仮説を未発表である。


会報六八に「船越」を書かれた古川清久氏のホーム・ページには「阿漕」という論文もある。これが興味深い。氏は釣行のときに出会う、南西諸島・九州西南岸・四国南岸・和歌山県に育つ「アコウまたはアコギ(赤生木)」という亜熱帯性植物に興味をもたれ、「アコウまたはアコギという地名はこの植物が生えるところではないか」と提唱されたのである。   この樹木は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。「あこぎ」とはどういう意味だろうか、小さい辞書には「限りなくむさぼる様子、貪欲、例:あこぎなやりかた」というように記載されている。「阿漕」という謡曲がある。この謡曲は、伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕が浦」で繰り返しむさぼって密漁し、捕えられて処刑され、地獄に堕ちた漁師の幽霊が、仏教による回向を求める話である。ちょっと余談をはさむと、謡曲のなかに「憲清と聞こえしその歌人の忍び妻、阿漕阿漕と言ひけんも責め一人に度重なるぞ悲しき」とある。古川氏によると、俗名を佐藤憲清といい北面の武士だった西行法師が、恋していた絶世の美女・堀川局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」といわれ、「あこぎ」の意味がわからず、それを恥じて出家したという話があって、落語ネタになっているそうだ。「阿漕」の最初の意味は「たびかさなること」であって、堀川局は「繰り返し会っていると、他人に知られてしまいますよ」と言ったのである。広辞苑はこの意味を第一に挙げている。


とにかく、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。「本来の阿漕が浦はアコギが生えていたのではないか、球磨川河口付近ならば、アコギ樹が生えているだろう」。古川氏に御意見を聞くと、「嶋七個」は天草上下島のような大きな島ではないとして、球磨川河口沖約5kmにある大築島などの小島を挙げ、詳細な地図を送ってくださった。

この大築島など六島は現在廃棄物処理用地として埋め立て計画が進んでおり(あと暫くで島の数がわからなくなるところだった)、古川氏は調査のため現地を踏んでおられ、現地には八代史談会に友人も居られる。わたしは最高の案内人を得たのである。ただ大築島地区には島は六個で、うちひとつは岩礁みたいなもので島といえるかどうかの問題がある。もちろん河口と天草上島との間には別の島もあり、現在は陸地でも過去には島であったと思われる土地もあるので、「嶋七個」を確定するには至っていないが、七個以上は確実にある。


さて地図を見ると、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?。倭姫は「朝の御饌、夕の御饌とおっしゃった」と言うから、毎日朝夕に神饌を運べるくらいの近さのところだろう。(津市・阿漕浦から五十鈴河口まで直線距離約30km、近鉄電車で津−五十鈴川、32km/急行40分。八代から姫戸まで直線距離は約15km、天草観光汽船の高速艇はややまわり道だが22ノットで30分。三重県の方が2倍くらい遠いか)とにかくここが神饌供給地としての「阿漕が浦」にふさわしく思われる。もっとも現地に地名「阿漕浦」はない。塩味の甘い「淡海浦」であるが、球磨川は伏流水が有名であって(本流日量千万トン、伏流水六十万トンと言う)、海の中に海底から川水が噴出している場所があるのだ。万葉集にも出てくる水島付近で泳ぐと、塩味をほとんど感じない場所があるという。ここは河口のうちでも南側であって、『倭姫命世記』の記述とよく合致している。古川氏は「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」の現地へも行かれているのだが、現地伝承聴取は困難らしい。ただ姫石神社の伝承や姫石と称する石についての伝承をホーム・ページに見ることができる。「むかし、お姫様が宝を積んで航海して居られたが、海が荒れてきたので良い浦がないかと探されて姫の浦へ着き、景色が良いのを気に入られて滞在された。後の世の人がその跡を見つけたが、お姫様の名はわからなくなっていた。ただ姫とその宝だという石が残っていたので祭った」という。倭姫命はどこかに祭られているだろうか?。伊勢神宮境内には倭姫命を祭る神社がある。しかしこれは御杖代として功労のあった倭姫命を祭る社がないのはおかしいとして、近世になってから祭られた社である。ということは倭姫命を祭る神社は近畿にはないということらしい。しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。『倭姫命世記』が後世の神道書で信用ならない(極言すれば偽書だ)として、「西に嶋七個」とか「塩味の淡い海」などという具体的で、しかも伊勢には適合しない地理をどうして記述できるだろう?。なにか先行資料に基づいたとしか考えられないのである。


さて以上の、阿漕、淡海、倭姫の仮説がすべて正しいとしてみよう。倭姫がさまよわれた地域の最後が九州内部だから、出発から落着までの範囲はすべて九州内部だったはずだ。しかるに現在の伊勢神宮は三重県にある。ならば倭姫伝説全体、阿漕浦などの地名、伊勢神宮の社殿、神饌を奉納する住民たち、これらの全体が「九州から近畿・東海に移植された」ことになるだろう。これまでに九州のある範囲にある地名グループが、奈良県にもグループとして存在する例は多数知られていた。理由は、一部の住民が移動したのだろう程度に考えられてきた。そうではなくて、古事記、日本書紀を信頼あるものにするために、遺跡、遺物、伝承、住民を含めて、史書に合うように移植されたという可能性が見えたのではなかろうか。書き上げるだけなら四ヶ月で済んだ古事記に比べて、日本書紀が企画から完成まで数十年もかかった秘密はここにあるのではないか。


@、潮出版社、1991

A、「古田史学会報38」、2000/06、『古代に真実を求めて第五集』所収

B、2001/01/20講演、於・北市民教養ルーム。但しこの内容は著書等には未採用、インターネットなら読める。

C、『新古代学第七集』、2004/01

D、『原初の最高神と大和朝廷の元始』、桜楓社、昭和59 古田武彦氏御所蔵。

E、『中世神道論』大隈和雄編、1977

※ 会報69号には『倭姫命世紀』原文の一部分が掲載されています。(古川注)

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大築島周辺の地図 マピオン

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